今の小学校の教科書について感じた違和感 1 | 「育児書にない!」~ASD母子の育児&お勉強&歴史の授業~

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ASD(自閉症スペクトラム)当事者で、娘もASDである、元社会科塾講師のセザール=れくす、が描く、「ASDのお子さん向けの受験勉強についてのブログです。
育児についての話や不登校の娘への対応の話、自分自身の生き方についても語ります。

みなさま、本日もありがとうございます。



なかなか更新ができなくて

失礼いたしました。



小学校の娘は現在不登校中です。アセアセ



そして現在は

私が全面的に自宅で娘に

授業をしている

状態です。



基本的には

小学校の教科書主軸

教えています。


ただ、塾講師時代から

教科書の構成に対して

ずっとある違和感を感じていた

構成がありました。


今回はそのお話です。






1:前置き




20年以上前から

なんで、教科書は

このような構成に

なっているんだろう?と

不思議でした。驚き驚き


でも、最近まで

その疑問の自分の納得する答えが

出なかったので


違和感はあったけれど


不登校の娘の授業では


教科書の内容をすべて

私が音読して読んで


それから解説という形で


授業を進めていました。


2 : 教科書主軸の授業をする理由


なぜそういうことをするか?というのを

自分なりの話をしたいと思います。



小学生のうちは

基本的に


先生の役目の人が

教えて、

それに従って

生徒(子供)が勉強する、

ということが大多数です。


でも、中学、高校になると、

そういうわけにはいきません。


中学までは、学習塾に通えば

先生に手取り足取り教えてもらえることも

ありますが、

高得点をとるには

自学習も必要になります。


さらに高校生となると

学校によって進度も教科書も

違ってきます。



中学は公立なら

都道府県ごと、地域によっては市ごと、

つまり教育委員会ごとに

決められていますので


どの塾でも、一斉授業で対策しやすいです。


市販の問題集も

教科書準拠の問題集が

中学まではあります。




しかし高校は違います。


教科書準拠の問題集は

ほぼありません。

教科書ガイドはありますが

問題集はありません。


学校の授業対策の一斉集団指導塾も

ありません。(個別指導塾はあり。)


また基本的に大卒の先生なら

中学レベルの問題なら主要五教科すべて

教えることも可能な人は多いですが

(私立中対策は別です)


高校レベルだと全教科オールマイティに

教えられる先生はかなり少なくなります。


そうなると、一人の家庭教師の先生に全教科

教えてもらうのも、ほぼ不可能になります。

(ただ、まれにすべての教科を教えられる人もいます。)




そのため、高校からは


自分教科書をしっかり読みこなし

学校の定期テストの対策はしていく

必要があります。


塾には受験勉強のために行く形で

学校の定期テストの対策は自分で、

という形。



娘の場合は、このまま

中学も不登校のままの可能性もあるので

高校は行けるか?はわからないですが


今はその不明瞭な部分はあくまでボカして


将来は自分だけで自習して

それで結果が出せるようなスキルも

身につけて欲しい、というのが

私の願いです。



なので

教科書はこう読みこなし、活用する

問題集を使って解くときに、

解けばオッケーでなく

解くことで身につける方法

(着眼点など)」

を、小学生のうちに一緒にすることで

最終的に勉強面の自立をさせたい。



教える方に教えられる方が

依存するような教え方は

私は塾講師時代から嫌いでした。



「この塾に通って成績が上がった!」

というのは、塾の集客、広告としては

必要な事実です。

でも、通っている生徒さんや保護者の方が

「この塾、この先生がいないと

勉強できない」という塾依存になって

しまうのは、危険だと思います。



なので、先生が作ったお手製のプリント

だけやればオッケー!でなく


塾に通っている、通ってない、

家庭内の金銭面も関係なく



学校に在籍している(通っているのではなく、籍があれば、の意味)なら

全員が手に入れられる「教科書」

というのを学習の主軸に置く


というスタイルにしたいのです。



さてさて、前置きが長くなりましたが、


その教科書について


本当は教科書を主軸にしたいけど

どうしても教科書を主軸にできない理由


について書きたいと思います。


3 : ゼミゴト ノ ススメ?



今までは自分なりの見解を

出せなかったので黙ってましたが、

あるとき、突然、


「たぶん、こういうことかもしれないびっくり

と自分なりの答えが出せました。


それで


教科書はあくまで参考程度にして

独自の教え方というか

30年くらい前の教科書の形に戻して

教えるやり方

にしたら


娘も私もかなり楽になりました。


それについて今回お話しします。





私が小学生、中学生のときの

教科書は


中学の英語の教科書以外は

ほぼキャラクターが存在していなく


現在の高校の教科書みたいな作り

でした。



しかし、現在の、

とくに小学校の教科書を

見ると、



キャラクターがいるんですよ。



算数でも理科でも社会でも。

(国語もいるけど、国語は

ガン無視できる程度。)


各教科書に

小学生の登場人物が四人以上いて


自分の考えや気づいたことを

言うのです。



でも、およそ初見で一般小学生が

気がつくことはないことを

気がついたり、

その中には「○○ということは……」と

結論を「…」とぼやかしてたり。




この構成に関しては


おそらく



会話的なもののほうが

頭に入りやすいから、とか、

生徒たちに

集団で調べものをしてほしい願望や

自ら考える思考をつくって欲しい願望


によるものだろうとわかるんです。




またあえて答えを書いてないのは

「授業を聞いてもらうため」

という意図はあるのでしょう。




その意図は


わかるんですが…



ですが…



わかるんですが………


うーむ…

私には、


願望



その願望を叶える方法



一致してない


とずっと感じていました…。



なぜ一致してないのに

そのような方法をしようとしているのか?


行動原理?がわからなくて困ってました。えーん


実は、塾講師時代から困ってました。


(私が大学生のころに今のような教科書形態に

変わりました。)




私としては


最終的には


自ら考え、自ら調べ、

時にはフィールドワークも行い、

集団研究、発表できる


という状態にするのが大切だと思ってます。



なぜなら、仕事って、

どの仕事でも、一人では難しいから。

大学でも、自分で考えて調べて、

集団研究や発表したりできなければ

卒業はできないところが多いです。


例えば

何かの製品の開発でも

研究員それぞれが自ら考え、調べ、

そして集団で話し合ったり共同作業して、

…という過程は

は必要です。



大学のゼミでも同じです。


調べることは一人でも

集団での話し合いは必要ですし


共同作業のものもあります。




しかし、この状態に行き着くまでには


共通知識が必要で


その知識を小学生から高校生の間に

身につけて、


知識がある程度、

個々人に内在化してから

初めて自ら考えることができると。


ただ、その知識を内在化するのに


ただの丸暗記とかじゃ

いつかは詰むので


きちんと情報整理をし、

理解して覚えていく、

覚えたものを活用したり

類推するための材料にする。



知識が増えれば増えるほど

思考する内容の幅も広がると。



「考えてね!」と先生が

子供たちの集団にほおりだすのでなく



先生が

「考えるための材料をまず勉強しましょ」

という授業が私は安心して

「考えること」ができます。

(あくまで私は…の意味)


私はそういう考えで生きてきました。


しかし、今の教科書は違う


それはなぜか?と考えたとき、



もしかしたら



大学のゼミのような形を

子供向けにすれば


子供は大人になったときに

ゼミのような研究発表ができるのでは?


という考えから

作りにしているのかも?と。

びっくりびっくりびっくりびっくりびっくりびっくり

(あくまで私の考えです)



つまり、今の教科書のつくりは

ゼミゴト」みたいなことを

すすめているんだ、と。



ママゴトならぬゼミゴト…。



何かの真似や、

大人版を子供版にすることで

理解できることも多いです。



でも


「大学のゼミみたいなことができるには


思春期が過ぎて


他人と自分の境界線を

きちんと分けられるようになった

大学生だからできるわけ」


であり、


さらに先述したように


「知識がある程度内在化したからこそ

初めて話し合いできる」


と思うので



高校生までは、

先生の授業を聞く座学でも

大学のゼミみたいなことを大学から

始めても間に合うのでは?と。



もちろん小学生のころから

フィールドワークや集団の調べものを

して伸びる子はいますが


たぶん、そういう子はまれです。


国公立小学校に通っている子だと

勉強の下地もできているので

そのようなやり方でも有効ではあるかも

しれません。



でもね、それはあくまで

「学校」が

いくつかの選択肢のある授業形式から

自ら選んですることであり


教科書がすることではない、と

私は思うのです。




「教科書」は子供が

知るべきこと、理解すべきことを

書いてある辞書や報告書のようなもので


集団生活の案内説明書ではないのです。



集団生活ができない子が

学問を学べないような作りに

なっている、と。




学問は

どんな性格の子にも学べる

戸口の広い世界

であるはずと。


学問は学校だけが

独占できる世界ではない、と。





算数や理科は、勉強内容の補助程度の

「ゼミゴト ノ ススメ」形式

なので、教科書を読みつつも


まあ、いいや、程度なんですが



社会

そう、社会が!!!!!えーんえーんえーんえーん

なんですよ。アセアセ



その社会の教科書について、

お話ししたいと思います。


あくまで私の見解なので

合わない人はガン無視してくださると

助かります。


教科書に変わって欲しいとか

そういうわけではなくて


自分がなぜ今の教科書のつくりに

合わないんだろう?という理由を

書いたにすぎません。


長くなったので、次回に続く形に

させていただきたいと思います。。



長文ご覧いただき、ありがとうございました。