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「育児書にない!&しゃかりき!」〜元塾講師&ASD母子&不登校勉強対策用のブログ

ASD当事者で、子供もASDです。元社会科塾講師です。
不登校の娘への授業記録、歴史の勉強で自分たちが勉強しやすいように情報整理した内容、ASDなりに勉強して生き抜いていきたいこと、についても語ります。

2025年春に、塾講師ブログ「しゃかりき!」と合併しました。

みなさま、本日もありがとうございます。


前回に続きまして、音楽理論がわからなくて困ったけれど、自分なりに理解しようとして努めた話です。今回は第二回です。


第一回(前回)はこちら↓ 



音楽理論がわからなくて…第二回












私自身が理解力がないから、
こういう事態に陥るのだとは
わかっているのですが

でも「理解力がない」と「一生、理解できない」はイコールではないと思うんです。

最初に理解できない理由は

何かの理解するためのパーツが欠けているか、
理解するためのパーツだと思ってたら
そうでなかったか?
のどちらです。

なので、欠けているパーツ、または、
ニセモノパーツを探し出さなければ
いけない旅が始まります。

みなさま、本日もありがとうございます。



今回から3回に分けて

久しぶりの実録エッセイマンガを

アップします。

(Twitterでアップしたまんがです。)



音楽理論がわからないまま、

ピアノ演奏等をしていた私。


ただ、理論がわからなくても

楽譜を見たら初見でだいたい弾けるし

なんとなく、このメロディは、この和音、

というのは直感でわかるので

それで昇級試験を乗り越えてきた感が

ありました。


しかし、やはり、「モヤモヤ感」と「劣等感」「不安感」が残ってました。


昔はそれでも

「自分なんて、音楽理論をわかるはずない」と

自分で決めつけて、諦めてました。


でも、今は

「他の人は、楽々に、とか、他人に教えてもらえればできるものも、私には無理だけど、

自分に合った勉強方法でやれば、

それが学術的、専門的に合っているか?は

別として、自分なりに納得できる答えが

出る!!」

という自信が出てきました。


これは娘が、今の学校教育が合わなくて不登校になり、

二人で必死で勉強し続けた結果、

「合う勉強すれば、癇癪もパニックにも

ならない」

と、実感したからです。



漫画で4回に分けてアップしたいと思います。


今回は第一回です。チュー


音楽理論でつまづいた理由と対策1






続きます♪


続きはこちら↓ 


みなさま、本日もありがとうございます。


なかなか更新できず、失礼いたしました。




かなり間が空いてしまいましたが

不登校について思うこととの

備忘録です。


あくまで私個人の考えです。アセアセ


前回はこちら↓ 



今回は第四回で、学校の先生に対して

思うことです。


「学校の先生なんだから」?


自分が生徒時代、教育実習のとき、は

学校の先生からいじめを受けました。

塾のことをバカにする学校の先生もいました。


塾講師や家庭教師をしてたときは

塾講師に対して敵視する先生が

つくる定期テストや内申点の付け方に対して

悩むこともたくさんありました。



娘が幼稚園のときの先生には

娘は今だと虐待では?と感じるレベルの

いきすぎた教育、とくに完食強要による

指導で娘は拒食症に。


小学校も先生のクラス運営の問題で

娘は不登校になりました。


私がPTAの委員をしてたときに

先生たちの子供への態度を見たら

生徒さんたちに恫喝に近い怒りかたを

している先生が多く

かなりヤバイ状態では?と

感じました。



ただ、

ここで、学校の先生を批判するだけだと

解決はしないな、と感じています。アセアセ



「先生なんだから!」と

疑問に思う気持ちは0ではないですが

それも違うな、と。



だって、もし私が

「母親なんだから!」と

自分が誰かに責められたら

その責めた相手に対しては不信感を持つ。


娘が他の子と違うからと言って

娘や私を責める相手には

「娘に一般的な子供の像を押し付けないで!」と反抗にするのに、


先生に対しては

「先生なんだから!」で怒るのは

フェアじゃない、と思います。


フェアじゃない闘いを

するのは

結局、不公平な結果に

なって、闘っても

闘っても、解決できないな、と。




そして、人って

「睡眠」「食事」を

十分にとれない日々が続けば、

判断力は鈍りまよね?


さらに、イライラしたり、被害妄想がひどくなったり、そういうこともおきます。


どんなに元々はおだやかな人でも

睡眠不足、栄養不足が続けば

怒りやすくなったり

異様にオドオドしたりします。



毎日、誰かに人格否定され続け、

「理想の型」に当てはまらないから

「がんばってない」「能力がない」と

言われ続けたら、


自分を否定しまくって拒食症や強迫性障害や、

うつ病になってしまうか


自分を守るために他人を攻撃して

優位にたとうとします。




育児って理想通りにいかない。


言うことを子供はきかない、

周りの人は子供が何か問題あると

親のせいにする。


睡眠も自分のペースでとれない。


そんな状態だと

子供にイライラしたりします。



 でも「親なんだから!」と

周りに責められて、がんばる気力は

わかない。



これが、各家庭内の状況。


この家庭単位を学校という単位で当てはめると…


先生の言うことを聞く子ばかりじゃない。


先生になりたくてなった先生になった人だって、子供たち(生徒たち)が言うことを

聞く子ばかりでない。

どれだけ努力したからといって

すべての生徒さんが

大人の理想通りの態度になるわけでは

ないのです。


教員免許だって

別に、

すべてのパワーや知識が手に入る

魔法の免許ではないんです。


教員採用試験が受験できる資格

程度だと。


大学受験するときに高卒認定が必要。

でも別に高校で習ったことを

すべての人がすべて覚えているわけでもない

ですよね?


一定数以上のラインをクリアしてたら

高卒認定が出ます。


それと同じで

教員免許というのは

大学卒業と教員免許用の単位を取得し、

一定数以上のラインをクリアさえ

できれば取得できます。


なので

「教員免許を持っていたら、

何でも知ってて、なんでもできる人」には

ならない。


だから「先生のクセに!」

と責めても、


「いやいや、先生だって

すべてのことに万能ではないだろうに…」

とは思います。



それと同時に


別に教員免許を持ってない人でも

教育の能力がある人はいるし


あくまで教員免許を持っているか?の有無は

目安に過ぎないです。




そのため、不登校に娘がなってからは

小学校の先生に対して

親としては別に何も望んでません。

「あれだけ過酷な労働条件なので

うちの娘のようなタイプへの対処まで

したら、先生たちは身体は壊しちゃう。


なので、業務連絡だけで十分。


こだわりが強い娘への勉強は

私がするよー。」

と。


だって、無理なんです。

娘のように、どれだけがんばっても

グループ学習が苦痛に感じる、

こだわりが強くて一人で勉強したい子にまで

先生が個別対応してたら

たぶん、今でも少ない先生たちの睡眠時間が

ほぼなくなってしまう。






教育実習で感じたこと


私は、一応、大学4年までは

中学校の社会の先生になりたくて

中学▪高校の国語と社会の

教員免許も取得しました。

(高校は地歴のみ。学科としては

国語が専門で、

社会は教員免許に必要な単位を取得。

小学校の教員免許は、教育学部では

ないので取得してません。

教育学部外でも取れますが

自分の通っていた大学では

取れない。)




教育実習も受けました。



この教員免許取得を通して

感じたことを書きたいと思います。


大学で教員免許を取得するための

授業(講義)は

基本的に「教育とは?」の話がメインです。


それ自体は、とても楽しく、

その講義は必要だとは思います。


知識がなければ、何も始まらないから。


ただ、実践に結び付くものか?と

言われると、微妙。


なので、教育実習という実践も

必要なんだな、と。



しかし、教育実習で私が感じたのは

ナニカチガウ」感でした。ガーンガーン



1つ目は

「指導案の予定通りに進められたか?」で

評価されることでした。

指導案の書き直しが大切でした。



確かに指導案は大切。

計画を立てられない人が

授業をできる確率は低いから。


ただ、問題だったのは

「時間配分」とか

「伝えたい内容が生徒に伝わったか?」が大切でした。



「伝えたい内容」と言っても

「教えた内容できちんと覚えるようにする、問題を解けるようにする」ではなく

うーん、なんというか

「この授業内容で自ら考える思考力をとらせる」とかの、なんかホンワカしたもの。



そして、生徒さんの態度次第で

臨機応変に授業進行を変えないといけないと

私は思うんですが

「生徒さんがこう答えるだろう、をすべて想定して、時間配分どおりに終わらせることが

教師として大切」というのが

学校の先生の考えでした。(当時?)


今は違うかもしれないし

たまたま私の行った教育実習先の

学校がそうだっただけかもしれませんが…。



確かに、決められた時間内に

終わらせることは必要。


きちんと指導要領で教えるべき内容を

伝えきることで卒業単位というのが

授与されるのが教育の側面のひとつだから。




だから、別に教育実習における

評価方法が間違っているとは思わない

のですが、

なんというか、



ショボーン私は、できなかったことをできるように

させる、その過程が好きで、

それを生徒さんと一緒に力を合わせて

がんばりたい。

なので、学校の、できなかったことを

できるように泥臭い練習みたいな努力を

馬鹿にし、

授業を受けることで精錬された心の持ち主に育てるようなカリスマ的授業のみが

教育者!みたいな世界に私は

入りたいわけではない。」


「私は、勉強より集団に合う人格を育てる

ことを優先する学校の先生でなく


勉強のみでその子の能力をあげる

塾の先生になりたいなぁ。


大好きな勉強を

教えていると思っていた学校の先生が

勉強を否定する、勉強をがんばる生徒を

馬鹿にするのが悲しい。

と感じたことが、

教員採用試験を受ける気が

失せてしまった第一歩だったりします。



そして、

我々は選ばし者で、頭が良いのだ。

という自負を持つ学校の先生たち。


すべての生徒さんや保護者の方よりも

自分達のほうが頭が良いと思って

見下す先生。

とくに母親に対しては馬鹿にしている先生。

自分自身も母親である先生も

生徒さんの母親を馬鹿にしている先生。


「教育とは、こうあるべき!」という

理想論だけを説いて、

現実的に勉強だけをさせてテストで

点数をとらせようとする塾講師を

見下す態度の先生が多かったです。


さらに、毎年来る、教育実習生を

いじめることで

日々のストレスを発散している

先生もいました。

私自身も先生にいじめられたのですが

私だからいじめる、というより

教育実習生だからいじめる、という

感触でした。


私自身は、小5でいじめられて以来、

いじめをしてしまった人に対しては

「怖いし、2度と近寄らない」けれど

誰だって、追い詰められたら自分を

守るための過剰防衛反応はして、

それが相手にとっては、いじめと

感じられることはあるので

そのいじめた人の人格否定は

したくありません。


 でも、それは、同級生だったり

パワー的には同等の関係の場合です。


問題なのは、パワー関係に上下が

ある場合。

つまり、先生なら

先生-生徒、先生-教育実習生

という関係。


つまり、生徒さんや教育実習生を

いじめる先生は自分に逆らえない相手を

攻撃をする人ということになります。



…ということは、教育実習生をいじめる人は、

生徒さんをいじめる可能性もある。


私にとっては、生徒さんをいじめる先生

だけは絶対に許せないんです。


ただ、全員ではないのは確かで

憧れる先生もいました。



しかし、集団となると60%以上の人が

自分にとって精神的にキツイ人となると

ちょっと一緒に働くのが無理だな、と

感じました。


それを弱い、ワガママと思う人は

いるのは承知です。



ただ、小学校、中学校で

精神的居場所がなく、

高校でもかなり周りに気を使って

やっと安心できる友達ができた私、

大学では、それまでとは格段に楽になり

居場所もできたけど、

「ココジャナイ感」はずっとあった私。


当時は自分が発達障害であったことを

知らなかったこともあったので

いつも「コレジャナイ感」はあったのは

確かでした。



なので、大学ぐらいの「コレジャナイ感」程度ならストレスに感じることはないので

良いのですが、

「コレハオカシイ感」は私にとって

ストレスです。



幼稚園時代や小学生時代に

「コレハオカシイ感」はありました。


それが当時はわかりませんでした。


でも、教育実習でわかったことがあります。





小学校の先生に思うこと

要は、

幼稚園や小学校の先生は



「勉強内容そのものより教育することが好き」


なんです。えーんえーんえーん



「生徒に勉強をさせる」ことは好き。


でも、別に、その勉強内容そのものを

教えることが、好きなわけじゃない。


いや、好きではあるかもしれません。



 でも、それは「解けるから好き」なのかな?

と感じます。

だから

「解けるようにさせないと、楽しくないだろう」という思考になるのかな?と。



勉強内容に触れているだけで

精神的に落ち着く、

解ける、解けないうんぬん関係なく好き!楽しい!ラブラブラブラブラブ

解けるようになると、さらに難問に挑戦できる幸せ。ラブラブラブラブラブラブ

しかも、誰かが作った、必ず存在する正解のある問題だけでなく、まだ未知の世界の難問に挑戦できるようになる充実感、


そういうのが教育実習で感じませんでした。


彼らが勉強に求めることは

勉強ができること」で

仕事ができる」とか

「(集団生活に都合の良い)人間性を高める?

などです。


つまり、

彼らにとって「勉強」は

手段にすぎない。

「勉強」そのものが

愛する対象にはならない。えーんえーん


なので、勉強ができない子に対して

「できないのはかわいそう!」という

思考になって、その子がテストで点数を

とらせないと、何回も書き取りさせたり、

「できないのは、やる気がたりないせいだ!」

と、やる気を出させるために

本人には叱咤激励のつもりの指導、

生徒さんからしたらパワハラに見える指導

になるんだろう、と。



ただ、あらゆることに対して越えては

一線はあります。



生徒さんが「勉強できなきゃかわいそう」と

思うあまりの行きすぎた指導も

どういう指導か?の方法によります。


例えば、九九ができるようになるまで、

都道府県名が覚えられるようになるまで、

何回もテストを行う、とか、

生徒さんがあまりに宿題をやってこないので

個別に面談を開くとか、

そういうのは、生徒さんからしたら

大きなお世話だと感じても


まあ、「うっとおしい」程度で終わります。


でも、九九や都道府県を覚えられない生徒に

「やる気が足りないせいだ!」

「お前の人格が歪んでるせいだ!」

「お前のせいで、みんなが迷惑している。(全員、満点とれないと何度もテストを行うタイプの指導の場合)

「覚えられるまではトイレに行くことも、帰ることも許さない。」

…と、「できないこと」に対する人格否定や罰を与えることは、私は虐待に当たると思います。


宿題をやってこない生徒を

他の生徒さんの前で

毎日執拗に説教し

その子が泣くまで追い込み

泣いたら、みんなの迷惑だ!

という態度をとるのも虐待に当たると思います。


先生としては

「その子が勉強できるように!」

「宿題をやれるようにして

勉強できるように!」

という気持ちでやってたとしても虐待です。


そして、それって、

「勉強そのもの」を愛してたら

絶対にやらない教育指導です。


だって、そんな教育指導をしてたら

勉強をその生徒さんに好きになって

もらえるはずないから」。


自分が好きなものを誰かに

好きになってもらいたい、

という気持ちは誰でもなります。



じゃあ、虐待に近い指導をする人は

何を好きになってもらいたいか?


…というと、


「先生である自分自身」なのだと

私は思います。




「勉強ができる(テストで点数がとれる)自分が好き!」つまり

「勉強ができること」が

自分を肯定される手段になります。


それが、その先生の生徒時代では良かったのです。

 誰かに勝ちたい!と思う気持ちで

色々とできるから。


でも、先生になると

「自分が」でなく

「他人が、つまり、自分の授業を受けた

生徒さんが」

「勉強できること」が

自分を肯定できる手段になるのでは?と。



だから、自分の生徒さんが

「勉強できない」

「宿題をやってこない」

となると、自分を否定された気分になり、


多くの先生は「おせっかい」程度の指導ですが、中には「虐待」に発展してしまう先生もいるのでは?と。



そういう「虐待指導」の先生は

自分の意のままに動けない生徒さんを

自分に屈服させようとします。

それで執拗な説教や

自分の言うことを聞かない子は将来困るぞ!という恫喝に近い脅しをします。


学校の先生だけでなく

塾講師の先生でも

そういう先生はいます。


ただ、本当に

生まれながらに、本人もそれをしたくて

生徒さんたちを虐待、恫喝しているか?


…というと、たぶん、

そういう人もいることはいますが

大半は違うと思います。



すごく長くなってしまいましたが、

今回はそれが今回、話したかったことです。



発達障害の娘への指導について

親だって、親になりたくてなったけれど、

子育てが、こんなに大変なんて!

…ということばかり。

定型発達、発達障害の子の、どちらの育児も大変です。


ただ、個人的には、発達障害の育児は

誰かに助けを求めても

その助けがかえって子供の癇癪や

成長の妨げになることもあるので

発達障害の育児のほうが

個人的には大変だとは思いますが


でも、誰かより大変なら

自分は大変だと思っていることは

たいしたことない、

…ということではないとではないんです。


大変なのは確かなので。



育児だって思うようにはならない、

母親だから!父親だから!

親になりたかったならなったんだから!


…と責められても


それで親として

レベルアップできるわけじゃない。

むしろ、精神的においつめられて、

自分の言うことを聞かない子供に

手をあげてしまったり

脅しをしてしまったり

遊びを禁止してしまったり…


そういうことを、本当はしたいわけでないのに

してしまうことはあると思います。


ただ、多くの親は

途中で「これではいけない!」と

支援機関や医療機関などに相談したりして

それ以上の一線は超えません。



学校の先生だって

先生になりたくてなったけれど

思っていた以上に大変、

言うことを聞かない生徒もいますし

勉強も教えればできると思ったら

思った以上にできない生徒さんも多い。


そういうときに

「先生なんだから!」

「先生なんだから、なんでも知ってるでしょ!」と責められても、

それで、先生のレベルアップはしません。


しかも、一応、肩書きは

養護施設や特別支援学校での実習経験あり、

とされているので、

「先生なのだから、さまざまな家庭が存在することや、障害のある子供のことを知ってて当然でしょ!」と言われても


「いや、合計で1週間程度の実習だけなので…。

しかも、その施設、学校に行って、

最後にレポートさえかけば

実習単位はもらえるレベル」です。




もちろん、先生になっても

授業準備、

勉強内容について詳しく知ること、

定型発達や発達障害についての知識、

医療的知識

を知るのも大切です。



でも、体力的に無理だな、と感じました。


ほぼ休みなしなんですよね、

先生の業務。


しかも、何かあれば「先生なんだから」と

責められる。


保護者の方が先生に要求することは

大切だと思います。


ただ、責めるだけだと

結局、解決しないんですよね…。


ただ、こういうときこそ、

教務主任の先生、教頭先生、校長先生が

担任の先生を守る(隠蔽するとか、

その場しのぎの守りとかでなく、

生徒さんのためを考えつつ、先生の成長も

繋げる守り、の意味)べきとは思いますが

その先生たちも自分を守るだけで

精一杯だと思います。


そういうことが続くと、

人って、

被害者だったのに

加害者になることが

あるんですよね。




本来は、とてつもないクレームをする保護者の方や、管理職の先生や教育委員会の人々に

対しての不満や怒りを



自分が勝てると思う保護者の方や

自分の思いどおりに動いてくれない

生徒さんを攻撃してしまう。


それで「自分が悪いわけでも、劣っている

わけではない。」と思いたいのです。


でも、ちょっと要望を言っただけの

保護者の方をモンペ扱いしたり、

あいまいな指示だと先生の気持ちを察して

動けないASDの子を責め立てたり

自分のコンプレックスを逆撫でするような

生徒さん(たとえば、過去に自分にマウントをとってきた元同級生の子と顔が似ている生徒さんや、自分よりもはるかに速い処理速度で問題が解けるけれど周りと協調性を持てない生徒さんなど)に対してだけ


モラハラ、パワハラ的な態度をし


でもそれを「教育的指導」と

周りに言い張る先生もいたり。



でも、それを自ら率先してやる先生って

多いのか?というと、

多くないと思います。


自分が弱いものいじめの加害者に

なっていることを冷静に判断できない

くらい、精神的に追い詰められている

のでしょう。


ただ、じゃあ、保護者が先生に

要望を言って追い詰めちゃいけないのか?

ということになると、

いや、別に要望は良いかな?と。


ただ、先生を追い詰めすぎても

自分の思いどおりに先生は動いてくれることは絶対ないと。

しかし、だからといって

ほめたりすればいいのか?というと

そうでもない。





たぶん、…ですが、

せめて睡眠時間を確保する、

実質的な睡眠時間だけでなく

睡眠時間が必ずあるという安心感が

先生にあればいいな、と。


実質的&精神的な睡眠時間が

確保できたら

冷静な判断ができるので


生徒さんやおとなしい保護者の方を

「教育のため」の名のもとの

「虐待に近い指導」をする先生は

減るのかな?と。


さらに「先生だから!」「研修をうけたんだから!」でなく

「先生としてふさわしい知識や判断ができるような、やっただけでなくきちんとした研修をできるような余裕のある時間の確保。」

もあるといいなぁ、とは思います。



どう考えても

娘を不登校にさせた、きっかけの先生、

そして、その他の先生方のほとんどは

「発達障害」の知識があるとは

思えなかったので


発達障害のことも

「習いました」「実習を受けました」

でなく

「理解できました」

の状態になると

クラス運営も先生として楽になるし

不登校になる子も減るのでは?と。


思うこと


不登校そのものが悪いわけじゃないし

不登校=不幸、ではないです。

でも、不登校になったきっかけは

必ず良いものではありません。

ただ、どんなことでも、0にはならない。

でも、努力することで

辛い人生を送る子と私は思います。




めちゃくちゃ長くなりましたが

ご覧頂き、ありがとうございました。




まだまだ不登校に関して、

発達障害児の勉強についてなどで

感じることがあるので

自分の頭をまとめるために

このシリーズは不定期に

書いていきたいなぁ、と

思ってます。


なので、私は「先生なんだから!」とは

責めようと思いません。

ただ、「先生だから、そちらの意見に従う」はしたくないなぁ、と思います。


誰が言ったか?でなく

「正しいなぁ」と心の底から

思えることに従って


娘が少しでも

生きやすくなる世界を

作っていきたい、

見つけていきたいと思います。

みなさま、本日もありがとうございます。





不登校のASDの娘に自宅で授業をする生活が

数年続いてます。

やっと落ち着いてきたので

自分の考えをまとめるために

学校とは?学校教育とは?

を何回か?に分けて書いてます。


今回は第三回です。


猫しっぽ猫からだ猫からだ猫からだ猫からだ猫からだ猫からだ猫からだ猫あたま


不登校のきっかけ


娘が小学校に行けなくなったきっかけは

こちらのブログで以前も書いたように

「担任の先生が勉強苦手で指示が不明瞭だと先生の思いどおりに動いてくれない、

そして、性格はおとなしい子に対して、

執拗に毎日説教し、その子が泣き出すまで、延々とその子の人格否定をして授業が終わる」という日々が

辛くなったからです。



娘自身は、先生のお気に入り生徒のほうで、

とくに先生に何か

言われたわけではありません。



だけど、娘は我慢できなかったんです。



娘は小学校に入学してからは

先生にいじめられることもなく、

むしろ高評価を頂けることも多かった

けれど、

幼稚園では先生に毎日、完食強要で、皆の前で説教され、人格否定される日々でした。

完食強要で皆が遊ぶ時間、

埃がまう教室の片隅で

完食するまでずっと食べ物とにらめっこ

する日々。


小学校は完食強要はなく

給食の時間が終わったら、

残してあってもおしまい。


しかし、

小学校で先生が一人の生徒さんを

ターゲットにして執拗に説教するのを

見るだけで、あのときの、

がんばっているのにできなくい自分が

ダブって

見えてしまった。


でも、だからといって、その子をかばうことが

できる勇気もなかった。


ただ、もし、先生が執拗にその子を説教しても、周りの同級生たちが


「あの先生、うるさいよねー。」

みたいな態度だったら

まだよかったんです。


しかし違ってました。


周りの同級生も、

その子が先生に説教され、泣くのを

毎日楽しみにするようになったのです。


ニヤニヤ、クスクス、

そういうことをし始めたのです。


前学年では、そういうことをしたことも

なかった子も、

クスクス、ニヤニヤ。



娘は、もう何もかもが怖くなった。


もう、あのときの優しかった、

あの子たちではないのかもしれない。



自分は今はテストで点数はとれるけど

別に習ったことをすべて理解している

わけじゃない。

わからないまま、とにかく、解き方は

覚えているから解いているだけの

ときがある。


だから、いつか、

私も点数がとれなくなったら、

先生に説教のターゲットにされるのは自分。

そして、周りの子はクスクス、ニヤニヤ。

でも誰も助けてくれない。


私が怒られるのを楽しみに待ってるんだ。


全員が私が怒られるのを楽しみにしている

わけではないけれど、

私も、自己保身で、あの子を助けることができないんだから、私だって誰にも助けてもらえない。


…というのが、我慢の限界で

不登校のきっかけでした。



でも、じゃあ、それ以前に

学校に対して、不登校の要因になったことは

ないのか?と言われると

あるんです。



グループ学習がキツかった

その一つが

「なぜ、ことあるごとに

いつもグループ学習なの?」

という疑問でした。





グループ学習が悪いとは言いません。

良いところもたくさんあります。


ただですね、


グループ学習なら

そのグループ学習の魅力を最大限に

引き出す授業だといいなぁ、と

思うんですが

果たして、今の小学校で行うグループ授業って

グループ授業だからこそ学べることを

確実に感じられる授業なのだろうか?と

感じてしまいました。(あくまで私の場合は…の意味です。)



グループ学習の魅力って


「一人では、成し遂げられなかったこと、

思い付かなかったことが、グループで

力を合わせることで、初めてできるようになる。ラブ


ことだと思うんです。


でも、それって、

そのグループメンバーが

同じ共有知識を持ち、

思考力、発想力もあり、

同じ目標を持っているから

成し遂げられるのでは?と。


そのメンバーは

片方が一方的にもう片方を

助け合うような関係でなく


一人でも色々とできるし、

時には好敵手(ライバル)の関係になる

人達で構成されるメンバーなんだと

思います。


そして意見が対立することもあるけれど

お互い意見をぶつけ合いながらも

双方が納得する一つの答えに達する


そういう、立場も能力も同等なメンバー

で行うグループ活動というのが

グループ活動をする意義なのでは?と。



要は大学のゼミとか

大学院以降の共同研究とか

仕事で1つのプロジェクトを成し遂げるとか


そういうのがグループ活動では

必要です。



でも、小学校ではどうか?…というと


能力もマチマチ、

同じ目標を持っているわけではないです。



調べものをしろ、という課題でも


ウインク「調べものをすればいい。」


えーん「とにかく授業が終わればいい。」


口笛「調べものを通して、メンバーの

あの子と仲良くなりたい♪」


えー「先生がしろと言われたからするだけ」


ラブ「調べものをするとき、あれも調べて、

これも調べて…!うまくまとめたい!」


爆笑「この調べものを通して、また一歩、

謎を解明していきたい!」


…と、皆、同じようにみえて、

目的がバラバラなんです。



誰が悪いとか、良いとか?ではなくて、

バラバラなのが問題。



「とりあえず終わらせればいい!」という

メンバーだらけなら、

とにかく調べやすいものを調べて

一冊だけでまとめればいい。


「あらゆる調べをしたくて、一つの作品にしあげたい!」

というメンバーだらけなら、

調べる内容を役割分担にして

各自の調べものは個人個人でして

そのあとでお互いの調べものを見せあって

一つのものにまとめあげていく形が

できます。



でも

「とにかく終わらせればいい!」

という人と

「調べまくりたい!」

という人がいると、


その人数比率やクラスの力関係で

片方が一方的に我慢を強いられたり

罵られます。



「とにかく終わらせればいい」

というメンバーの子がクラス内の権力が

あって、そういうメンバーの人数比率が

多ければ


がんばって調べたい子は

「真面目すぎる、うっとおしい子」と

扱われ、

その子が将来伸ばせるかもしれない

「真面目で調べる能力」が

悪いものと本人が認識して

能力を伸ばせないかもしれません。



でも、だからといって

「真面目で調べたい子」がクラスで権力を握り、そのメンバー比率が大きいなら

「とりあえず終わらせればいい」と

思っている子達を

「愚鈍、足手まとい」扱いします。



でも、じゃあ、同じ気持ちを持つものだけで

グループを組んで、

調べものをするとするとなると、

クラス運営上、また別の問題が生じます。




「とにかく調べものをすればいい」メンバーのみのチームだと、本を写しただけのもので終わり。

「とにかく授業が終わればいい」メンバーのみのチームだと、調べものができないまま終わり。授業中に遊んでおしまい。


「調べまくりたい」メンバーだけだと

細かすぎて終わらない。



こういうことがおきるので


どうしても

「真面目に調べものをする子」

「とりあえず調べればいい子」

「とりあえず授業をすごせればいい子」の

いろんな子がいるチームにしないと


チーム内の「調べものができた」という

書類上の事実ができないんですよね。



つまり、何が言いたいか?もいうと

先生側の都合も大きいんだ、と。


すべてのグループで調べものができて

発表できたとか、

調べもののプリントが完成したとか


そういうことが大切なんだ、と。




しかし先生は、こう言います。


ニヤリグループ学習は

みんなで助け合うことで

一つのことを成し遂げる。


それで集団生活を学べる!

と。



おお…そうだよ。


グループ学習ってそうだよ。


でも、じゃあ、それは

社会科とか国語の時間の学習で

やるのはなんで?



それなら、総合的な学習の時間とか

道徳の時間にすることで

成し遂げられるんじゃない?


…と思ってしまう。



ただ、道徳や総合的な学習の時間にすると

しても、やはり、

皆の目的が同じでないと


片方が我慢を強いられるので

小学生のうちは

グループ学習は、答えが決まっているもの、

とか、修学旅行のように集団で動かないと危険なもの、というように


目的がハッキリしているものにだけ

してほしい、


というのが個人的感想です。




ガチで調べものをして

まとめるなら、

個人、個人でしたい。




グループ学習が辛かった理由


そして、一番気になるのは

「学校がなぜ、

グループ学習をプッシュするのか?」

真意わからないため、

自分がどう動けばいいの?が

ハッキリわからないまま動く


…というのが、私はキツかったんですよね。



娘自身は、グループ活動で

みんなとがんばりたいけど

どうがんばればいいのか?が

わからなくてキャパオーバーに

なっていました。



私自身も

「座学よりもグループ学習を

教育の最高峰」と態度の学校態度に

対して、

なぜそのように自信満々に

学校側が言うのか?が

大学時代からわからなかったです。


だから、娘に

「グループ学習は意義のあることだよ!」

と心のそこから言えなかった。



心の底から大切だ、と思ってないことに

対して、どれだけ言葉で「大切だ」と

言っても、相手の心には響かない。



座学で一方的に先生の授業を聞く

授業形態が大好きな私。

その理由は、自分一人の世界に入り込めるし

先生の話を理解するのに専念できるから



ASDゆえんなのか?はわからないけれど

勉強するときは勉強に専念、

しゃべるときはしゃべるのに専念しないと

頭がぽわぽわしちゃうんですよね。


グループ学習だと

他人に気を使いつつ

しかもしゃべりながら

何かを作業するって

かなり同時並行作業が多すぎる。

でも、グループ学習でのミスが

いじめに繋がる恐れもあるので


バカにされないように

かといって

妬まれないように


毎回、相手の能力や思考、価値観を探って

その人達に同化してばれないように…


というのに専念するしかなくて


グループ学習は

かなりストレスだった

中学、高校時代。


大学でやっとグループ活動は

ストレスはなかったけど

それは、自分をいじめるおそれがないと

いう安心ができたから。



しかし、教員免許取得の授業だと

「先生が一方的に話す座学はダメ!

自ら考える力を育てない!」

「グループ学習をするのが、教師として

正しい!グループ学習を通して、思考力は

育つから!」

という講義がほとんどでした。

(今は違うかもしれないけれど。)


塾講師をしていても

学校の先生のなかに、

塾をバカにする、敵視する人は

一定数いて、

わざと学校のテストで

塾では教えないこと(先生のプライベートな

話)などを出して

「丸暗記しか教えない塾で学ぼうとする

子達が悪い!」

と平気で生徒さんに言う先生もいました。



学校の先生になった人は

塾に行った経験が一度もないのか、


塾に行っても「自分が自ら」丸暗記だと思って勉強していたのか、


行っていたのが「丸暗記推奨塾」だったのかも

しれません。



いずれにしても、塾をひとくくりに考え


自分の経験が、すべての事象に当てはまる

という拡大解釈に近いかな?

と思います。


それに同じ学校内で先生によっても

考えは違うので

塾内でも先生によって考えが違う、

という拡大解釈にはならないんだな、

とも。




話は戻ります。



私自身が学校の教育はグループ学習を

正義のようにするか?

と言うと

自ら考える」ことを

察する」ことだと思っているから、


私が学校の推すグループ学習教育を

嫌がるのは

自ら考える」ことを

新しい発見をするための必須の過程」と

思っているから、

だと思います。


さらに学校側は

「察する」能力を使うことで

「他人との交流を増やすことで

できるようになることを増やせる」という

体験を持つ人が多いからで


私は

「察する」ことをがんばると

それだけでエネルギーを消費して

何もできなくなるので

「できないものが増える」

という真逆の体験ばかりだったからです。




大学や仕事でグループ活動ができたのは

察しなくてもよかったからです。

自分の考えが他人の考えとほぼ同じ、

自分の考えと対立しても、お互いに同等の

関係でいられたから、

片方に我慢を強いるのはパワハラ、モラハラ、

セクハラとできたから、

です。


さて、ここからが娘の話。



娘がグループ活動が大好きで

それで能力が伸びた実感があるなら

私だって、学校に無理矢理でも行かせます。


さすがに自宅でグループ学習は無理だから。



でも、娘も同じだったんですよね、私と。


私は何も言ってないのに

私と同じような考えで

「グループ学習はキツかった」と

最近言うようになりました。

(ただ、まだ小学生なので

「他の子にどう合わせればいいか、で

頭がいっぱいになり、調べものをしたくても

何も考えられなくなる」と。)



不登校になってから二年。

やっと、それを言っても

バカにされない、他の人より劣っていると

思わなくなったから、やっと私に言えたのでしょう。



ASDだから集団生活を学ばなくても良いとは思いません。


でも、集団生活を学ぶことと、

勉強内容を学ぶことは

別に一緒じゃなくても良いのでは?と。


勉強は個人でできるなら

それでやればいい。


集団生活をするときは

それに専念すればいい。


ASDの子は同時並行作業は苦手です。


でも同時並行作業が必要ならば

同時並行作業をすることのみに専念する

必要があります。


同時並行しながら別の分野を学ぶ、は無理です。



だから、中学からは

集団生活を学ぶこととだけに

専念させたいので

小学生の不登校のうちに

「勉強」に専念させてあげたい

と思います。



結局、娘も

「勉強するために学校に行く、は

私はできない。

できないって認めることも大切だと

最近わかったよー。」

とあっけらかんとしてます。



世間的、学校的、には

そういう考えは許されない、

人生の落伍者、将来は真っ暗、

に見えるのでしょうが


この明るくあっけらかんな精神状態に

するまでに二年かかりました。

その二年の闘い、と、今の明るい状態、

はたとえ、未来は暗いかもしれないけど

一時的でも明るい状態になったのは

私や娘の人生で宝物です。




次回は、

「学校の先生も、実は被害者なのかも

しれない」

と感じる話です。













みなさま、本日もありがとうございます。






前回の続きで

学校の存在を考えることで

不登校の娘とこれからどう人生を

歩んでいこうか、考える話です。



前回のお話はこちら↓ 



前回は、

なぜ子どもは学校に行かないといけないか?

義務教育とは何か?


などを自分なりの考えで述べましたが


今回は

学校に行くメリット、デメリット



学校に行かないで自宅学習する

メリット、デメリット


…を考えてみたいと思います。



宇宙人しっぽ宇宙人からだ宇宙人からだ宇宙人からだ宇宙人からだ宇宙人からだ宇宙人からだ宇宙人からだ宇宙人からだ宇宙人からだ宇宙人からだ宇宙人からだ宇宙人からだ宇宙人あたま




学校での学習と自宅学習の違い



「月日は百代の過客にして、

行き交う人もまた旅人なり」

という言葉があります。


中学の国語で習う「奥の細道」の

冒頭部分の言葉です。ニコニコ


人生というのを

というように捉えた言葉です。



そこから

あらゆる経験を積むという旅

の途中の過程

学校という世界(旅)とどう関係しているのか?

と私は中学でこの『奥の細道』を

習った頃から考えていました。



旅って、今だと


旅行メンバーの構成員



予約や計画を練る人間が

どういう役割の人間なのか?




違い


団体ツアー旅行

個人旅行

分けられます。


個人旅行とは一人で、のときもありますが

数人の友達や家族だけの旅行とかも

挙げられます。



個人旅行というよりは個別旅行のほうが

近いかもしれません。


ここで、

学校での学習と自宅での個別学習の

違いを、

団体ツアー旅行と個別旅行で

語りたいと思います。



団体ツアー旅行に似ている学校教育


学校というのは

旅行の方法の1つである、

団体ツアー旅行の方

似ているんですよね。


プランさえ申し込んだら

旅行代理店の方が

バスや新幹線や飛行機などの交通手段も

予約もしてくれるし

旅館、ホテルも予約してくれるし

プランによってはお昼、夕御飯の予約も

してくれる。


どのようなところに行くか?も

旅行代理店の方が決めてくれる。


自由時間もあるけれど

それも動ける範囲は

決められている。


しかも、お土産などもツアー先で

無料でもらえることもあったり。



団体ツアー旅行のメリット


その旅行先に行けば

必ずおさえておくべき

オススメ場所や食べ物もお土産物も

ほぼ、自動的(受動的)に行けます、

楽しめます。ニコニコ




つまり、

予約などの1つ1つ個別にしなきゃ

いけない細かな作業を他人にしてもらえる上に

団体行動ができ、

押さえるところはすべて押さえたい、

そういうことをするには

団体ツアー旅行はかなり便利です。




(ただ、団体ツアー旅行を申込するときは

自分で行動し、自分でどのツアーに申込

しなきゃいけないので

まったくの他人任せではないですが。)



団体ツアー旅行で

「あ!あそこにいけなかった!」

「楽しみにしてたご当地グルメが

完売で食べられなかった」

という失敗は少ないです。




国内旅行ならまだしも

海外旅行は言葉や文化や安全性の問題

などもあるので

団体ツアー旅行は安全、安心を買う旅行

という面もあります。




でも、遺跡やお城、宮殿、

美術館とか博物館を

もっとじっくり見たい、



乗り物も路線図見ながら決めたい、

宿や食べ物も自分で決めて楽しみたい、


外国なら、その国の言葉も使いこなせるなら



自分で1から計画をたてて

旅の失敗さえ楽しいと思い、



自分一人、もしくは、

同じような趣味や価値観の人と

少数で旅行するのが楽しい人にとっては


団体ツアー旅行は物足りなかったり

ストレスがたまったりします。えーん


聴覚過敏だったりすると

バス内での他人のしゃべり声とか

ツアー用のランチの部屋とかが

かなりストレスになったりしますし。


好きな内容とかも違うと

キツかったり。


例えば、お得な買い物メインのツアーで

遺跡をたっぷり楽しみたい人は

かなりキツいです。




なので、

団体ツアー旅行が良いのか?

個人旅行が良いのか?


…という論争は無意味で


それはその都度、その都度、

違います。


でも、団体でなく個人でじっくりしたいなら

団体ツアー旅行は苦痛だし、

本人が望んだ結果は手に入らない。


知らない人達ともみんなでワイワイと

色々と有名どころに行って

楽しみたい人にとって

個人ですべて決めてやる旅行は

予約する時点から疲れてしまいます。

旅行地では迷子になって

行きたかったところにどこにも

行けないかもしれません。


でも、どちらでも

「旅行すること」

「旅行先でA、Bは必ず押さえる」

ということが目的なら


別に団体ツアー旅行で行こうか、

個人旅行で行こうか、

どちらもら良いわけです。




ただ、仮に旅行をするなら

団体旅行を義務化したとします

そうすれば

必ず訪れるべきスポットを

押さえる形にしておくことは可能に

なります。


それが学校の義務教育では?と。


つまり、教育を義務化して

それをするのが学校なんだ、と。



実際に娘が不登校になってからは


自分達で歯医者や内科を予約し

検診をしてもらう必要があります。


そして、

勉強カリキュラムも自分達で

決めなきゃいけない、

勉強のオンオフも自分で、

勉強もどこまでがんばる、

がんばらせるのか?

諦めるタイミングは?

も決めなきゃいけません。


学校に行けば、テストなり内申点なりが

あるので、自分がどれぐらい勉強できているのか?の可視化もしやすいですが

自宅学習だけだと

問題集が全部解けようが

解けない問題があろうが

判断がつきづらい。



勉強の補助プリントも自主作成になります。



音楽や体育の団体競技は諦め

個人競技系のみしかやれない、

団体競技をやりたいなら

自費でお金を出して

親が送り迎えをし、という

状況になる、


図工や音楽、技術も

すべてやり方も評価も

親がしなきゃいけなくなる。


もちろん食事も親が用意。


勉強も一から教える、全教科。



でも、学校なら

それを全部やってもらえる、

しかも義務教育の時期の公立学校なら

ほぼ無料なんですよ。


部活だってほぼ無料。


つまり、学校というのに通っていたら

ほぼ無料で、有料でも比較的安価で

中学生までに知るべき、体験すべきことが

全体的に網羅できるわけです





そして、体験を強制的にすることにより

中学卒業以降に、どう自分の人生を

していけばいいか?が選べるわけです。



話を団体ツアー旅行で例えるなら

一回、団体ツアーで行ったところなら

個別で旅行も行きやすくなるように、


最初から一人で国語の漢字とか

社会の歴史を体験するのは難しいけれど

学校で習ったあとで、

自分で本を読むなりして

詳しく知ることは、自習のハードルも

かなり下げられます。

つまり、一回団体ツアー旅行で行く体験をしたら、あとは個人旅行も可能になります。

団体ツアー旅行で出会った人で

個人旅行を計画することだって

あるでしょう。


なので、可能なかぎり

学校に行ったほうが良いとは

私だって思います。





個人旅行つまり自宅学習を選ぶ理由


…ただ、

そこ(学校教育という名の団体ツアー旅行)に

つきまとう

団体行動」と

いうのが非常にやっかい。ガーン



前提条件として

「団体行動」という名の

「多数派に合わせる少数派ありき」

の前提での行動。



団体行動ができないと

「勉強」という目的地に

たどり着けないのか?

…という問題。



勉強はできる(得意という意味でなく、授業を座学で受けたり、宿題や個人に課される勉学的課題はできる、という意味)、けれど、

団体行動だけがキツイ


…となると、やはり、学校は難しい。


団体行動ができる人だけが

「学ぶ権利(機会)」を得られるのでしょうか?





いや、学ぶ権利に、

団体行動ができることは

必須事項ではないはずです。


じゃあ、そのとき、別に学校以外

学ぶ権利を行使しても良いよね?と。

つまり、すべてを自分(親)が手配しなきゃ

いけない。

手配というのは、自分ですべてやっても

外部委託する先を自分で探す、

のどちらの意味もあります。


そして、親としては

自分で我が子の勉強の授業まで

すべてやるなら仕事はできない、

フリースクール等に

勉強を頼むなら仕事はできるけど、

学校に行っていたら

払わなくて良かったお金を

払うことにはなります。




なので、学校に行かない状態で

勉強を子供にさせることは

かなりの大変さ、リスクがあります。


私が娘の不登校を選んだ理由


 でも、それでも、学校に行かせる努力より

自宅学習で私が授業をすることで

娘に勉強をさせる方を選んだ理由は



あらゆるリスクや大変さを背負ってまでも

それでも

「集団指導でおきる娘への弊害」が

我慢できなかったからです。


どのような弊害か?というと


集団生活をするとなると

娘が集団に合わせるしかなくて、

でも、それには、凄まじいエネルギーが

必要で、他のことは何もできなくなる。



定型発達の人たちが

集団生活に使うエネルギー、

他人の方に合わせるエネルギー

よりも、かなりエネルギーを使います。



エネルギーを大量消費すれば

小学校に行くことは可能だし

たぶん先生たちからは

おとなしく真面目な子としか

見られません。


不登校になったときにも

学校側は娘が突然不登校になったので

理由がわからなくて困ってたので。


しかし、大半のエネルギーを

学校に行くことだけで消費してしまうので

学校での授業を受けることになると

勉強ができなくなる、

という、

学校に行かないと勉強できないよ」の

真逆の現象が生じてしまう、

ということなのです。



それでも、可能なかぎりは

学校に行かせましたし、

行きしぶりをしてから

半年はがんばりました。


だって、それまでは楽しく学校に

行ってたから。


でも、不登校の原因をつくった先生の

「先生の不明瞭な指示でも察して動ける生徒が良い生徒」「連帯責任大好き」と「勉強の苦手なおとなしい生徒さんにだけ執拗な説教をする虐待を常に黙って聞いていないといけない理不尽さ」の集団生活に耐えることは娘には無理でした。



多数の子ができる、

学校に行くことも勉強もどちらもがんばる!

という同時並行作業を

可能な限りがんばりましたが、

あるときキャパオーバーになり




学校に行っている」という安心感をとるか?




学校に行けない不安感を持ちつつ

学力は確実に身に付いているという安心感

とるか?


と、どちらの安心感をとるか?の

二択になり

娘は後者をとりました。



団体ツアーのほうが

いろんな体験もできるし

みんなやってる安心感を

得られるけれど


その団体というのが

娘にはとんでもなく負担だったのだと。




でも、じゃあ、集団生活ができないままだと

大人になったときも困るのでは?

と。


これはまだ結果を出せてはいないので

希望的観測ではあるのですが


自分の生徒だったとき、学生だったとき、

教育実習をうけたときに感じた違和感、

そして塾講師、家庭教師の経験、


昭和、平成と教育関係に携わってきた先輩や

心療内科の先生からのお話も聞いたうえで


たぶん学校、とくに小学校という特殊な教育機関と

いうのも娘の不登校に関係してくるのかも?と。


次回はそのお話をしたいと思います。












 

みなさま、本日もありがとうございます。


小学生の娘は、現在、不登校中です。

不登校になって数年が経ちました。



生徒として私自身がが学校や塾に

通っていた時期、


塾講師や家庭教師として

たくさんの生徒さんと接していた時期、


親として娘を幼稚園や小学校に

通っているのを見守ってた時期


娘が不登校になる前の時期…



…のときに、その時期、その時期に

感じていた「不登校」という

ものに対しての考えは


娘が不登校になっても

あまり変わってません。凝視


つまり自分が小学校のころから

考えが変わってません。

そして、学校に行く意義、意味とは?

というのも小5でいじめをうけ、

小6で先生に迫害されてからは

常に考えていて、大学あたりに出した

「学校とは…?」の結論も

今まで変わってません。







ただ、自分自身は不登校になったことは

なかったため、

娘が不登校になったときの


具体的な精神的、身体的疲労や

メカニズムやその過程は

娘を通して知ることはありましたが



それは、少し不明瞭であったことが

鮮明になったということだけです。




私自身の考え方が合っているか?は

不明ですが、

やっと俯瞰して不登校や学校についての

自分なりの考えを述べられるようになったので

備忘録として、何回かに分けて書いておきたいと思います。

(あくまで私の考えで、それが絶対的な意見ではありません。)


宇宙人しっぽ宇宙人からだ宇宙人からだ宇宙人からだ宇宙人からだ宇宙人からだ宇宙人からだ宇宙人からだ宇宙人からだ宇宙人からだ宇宙人からだ宇宙人からだ宇宙人からだ宇宙人あたま




不登校に対して思うこと



不登校そのものを

「良し」とは私は言いません。



でも、その理由は

「万人に対して良しとは公言できない」から

であって、


個人、個人に対しては

この子は学校に行くのを今、渋っているけど、少しでも無理させてても、学校に相談して先生に対応してもらうことで、

学校に行っておいたほうがよい。

なぜなら、この子は

家にこもりっきりになるストレスよりは

他人と交流した方がストレスが少ないから、

今はがんばらせた方が良い。

もしくは休み休み、

行けるときだけ行かせればいい。


この子は不登校を選ぶことのほうが良いかも?この子が大人になったとき、学校に行っていたら失うものが多かったと後悔する

可能性が高い。」

とその子の性格や特性などを

考慮しながら、思っています。


もう不登校になりかけ、不登校になった時点で

不登校になる前の、学校とか同級生や先生に

感じる感情には二度と戻ることはできないので、それまでのすべてを手に入れている(気になってた)状態とはさよならして、

その子にとって何を一番優先するか?が

今後のキーになるかな?と。




なので

全体的には

「学校に行くことを推奨はする」けれど

目の前にいる子が学校に行く方が良いか?は

と思っています。




しかし、


その考え(学校や学校に通っている人を

批判する意図はないこと)を

いくら説明した上で


「自分の子は学校に行かずに

他のやり方で色々と学んで

大人になったときまでに

集団社会に戻れるようにさせたい。」

と言ったら

「学校なんてなくて良いと思っているのか!ムキー

とか

「いやいや、他の子は学校に行くことで

学ぶのだから、あなたのお子さんだって

学校に行くことが幸せの道よ!えー

…などなど



「個別の人への考え=全体の人に向けての考え」という図式ができあがっている人と

話すのが疲れてしまいます。ショボーンショボーン


その人達が悪いという意味でなく

私は疲れてしまうという意味で

裏の意味はないです。


なので、公には

「学校に行かせる努力はしているけれど

なかなか難しくて…」としか言えません。

相手が理解できる範囲で

自分の気持ちを説明するのが

すっごく疲れてしまう…。

ただ、まあ、学校に行けるなら行かせたい、

というのは本音なのは間違いないので…。アセアセ



他人に頼ろうとしないのではなく

他人に頼ろうと何度も努力して

頼ったときもあったけど

その末路は強迫性障害発症だったか。


頼るより、自分でなんとかする、

無理だと思ったときだけ

他人の肩書きとか役職でなく

自分が頼りたい人、ものに頼る!


そうすることでなんとか

強迫性障害が緩和できた経験が

何度もありましたので。



何度も…です。




先生として?親として?



どんなときでも変わらない信念とかは

あるけれど

立場によって優先順位は

違ってきます



先生としての立場だと

生徒さんに

学校や塾に来てもらうことが最優先だけど


としての立場だと

まずは目の前の子供を死なせない(自殺させない、拒食症になって弱って死なせない)が

最優先なので


学校に行くか、行かないは二の次。


学校に行くことで死に繋がるなら

学校に行かないほうを選ぶ


生命的な死だけでなく

能力的(学力や発想力など)の死も

含まれます。



なので、我が家の場合は


学校に行かせることを優先させるなら

学力低下か、能力低下を招く可能性が大、

…というか、不登校直前から

著しく学力低下と能力低下をしていたのが

目に見えて明らかでした。



私だけでなく、

娘が行き渋りをしていたことを

知らなかった音楽教室の先生にも


「あれ?いつもの音が出てない。

どうしたの?」


と言われた状態。


実家のねこちゃん猫

娘が異様に元気がないと感じて

娘の横にずっと寄り添っていたり…。



何もかもが辛くなってた娘。

学力低下や能力低下が行き着く先は

娘にとっては拒食症です。

そして拒食症が行き着く先は

生命としての死。



だから、学力低下をした時点で



勉強だって、将来勉強関係の仕事を

娘はしたいから

勉強をがんばらせるけれど、

勉強でも目の前の点数をとることより

目の前の習った内容を内在化するほうに

心を向けよう、と。

(勉強できることで優越感をもたせたい、

という意味でなく、娘は、

勉強関係の行為をすると

精神的に落ち着き、

癇癪もかなり減ったので。)


なので学歴がどうなっていくんだろう?

という不安はありますが

自力でがんばれるところまで

自力でがんばりたいなぁ、と。




なぜ学校に行かなくてはいけないの?



娘が学校に行けなくなった頃に

夫が

なぜ、学校に行かなくちゃいけないか?

について娘に色々と話してたことが

ありました。



でも、夫が言った

「フツーはみんな行くから。」

という他人との比較、

「学校に行かないと将来困る。」

という未来への脅し、


という内容は娘の心には響きませんでした。


他にも

「小学校ごときで嫌だ、先生といると萎縮する、辛いと言ってたら、これからでも嫌なことがあるたびに逃げる人生になるから、

小学校に嫌でも行くことで強い大人になれる。」

と、「学校は社会の縮図!」みたいな

価値観での責め、


それでもかたくなに娘が学校に

行きたがらないと

「ワガママだ!心が弱い!

そんなやつはダメなやつ!」

という人格否定も

夫は言いました。


ただ、横で聞いていた私が

「それは違うよー。」

と否定し続けてました。


娘自身も

幼稚園時代に

完食強要して、給食の時間が終わっても

帰りの時間まで完食するまで

事務室に拘束し続けられ

毎日人格否定と、将来はろくな人間に

ならない!と先生に言われ続け

同じく義実家やお父さんにも

「完食するのが、子供としての義務」と

いう対応をされつづけ、

それで拒食症になった。


それでも先生やお父さん、義実家は

助けてくれなくて


私とばーちゃん(私の実母)、

おじさん(私の実弟)と自分自身で

拒食症を克服した。


その経験から



将来の脅しと人格否定をして

自分を意のままに動かそうとする人の

言うことを聞くことでメリットはない


と娘は思っている様子。


なので



今回の不登校で夫(お父さん)が言う内容も

ガン無視していました。



ただ、夫の方が私に対して

「なぜ、セザールは、

なんで学校に行かなくちゃ

いけないと思うんだ?」


と怒り出したので


私はスパッとこう答えました。




サムネイル

子供を労働力として搾取しないためでしょー。






夫としては予測だにしなかった回答だった

らしく、黙ってしまいました。びっくりびっくり




私としては


「学校で教える勉強で勉強ができるように

なったわけではないので、

別に学校が勉強、教育という存在を独占できる

ものではない。」


「職種も、

学歴が必要なの職種と学歴が関係ない職種が

ある。

伝統芸能やピアノ、バレエなどの特殊な能力が必要な職種によっては学校に行っている時期から、親や専門的な機関で練習を

始めないとプロになるには厳しいものもある。

なので、職業選択も学校側がすべてを担っているわけではない。」


「教育も、学校でする公教育のように

習った内容を確実にできるようにする教育

だけでなく、

博物館のような社会教育機関もあり

自ら学ぶことを決めたら徹底的に

調べて教養を深める教育もある。

どちらの教育も、その教育で

自分が大人になったときにできるように

なればよいわけで、場所にこだわる必要は

入学資格に必要な資格以外は

個人のがんばり次第。」

と思ってます。


じゃあ、すべての子供に関して

「学校に必ず行くもの」としたほうが

良いことは何か


を考えると


義務教育の学校がなかった時代と

比較する必要があります



なんでも、1つのことの意義を考えるには

それと比較対照するもの、

とくに真逆のものと比較することを

しないと結論は出せません。


全国民に対しての義務教育がない時代、

貴族や公家、武家やお金持ちの家でない限り、

子供は労働力として使われてました。



しかし、義務教育があると、その期間は

絶対に子供を大人の仕事の労働力として

酷使することは不可能。

(子役、子方などの特殊なお仕事は除く。

この場合も、酷使はしずに

学校に行く時間は学校に行くほうが優先だし、深夜の仕事はない。)


そして義務教育では

色々な教科やいろんな経験ができるため


子供が自ら将来つきたい職業を

考えることができる機会も得られるわけです。



私も義務教育期間で社会科に

出会ってなければ、社会科の塾講師に

なりたい!とは思わなかったので。



ただ、義務教育は必要だけど、

その教育機関は必ずしも

「学校」で

なければいけないのか?



…というと難しいところですが



「みんなが同じ機関に行くから」こそ

義務教育というのを可能にしている面は

あるわけで。



なので、

私は学校という存在は

大切だとは思ってます


学校というのは

職業選択の自由の権利を行使できる

機会を提供できる機関とも言えるかも

しれません。


 でも、その学校の存在で苦しんでいる

我が子を学校に行かせさえすれば

解決するか?というと

そうではない、と。




 では、次回は学校に行くこと、行かないこと、

でおこるメリット、デメリットについて

自分なりの考えを述べて、頭をまとめたいと

思います。



ご覧いただき、ありがとうございました。


続きはこちら↓ 



みなさま、本日もありがとうございます。

更新が滞ってしまい、
失礼いたしました。えーん


GWまでは、色々と人間関係で大変で
頭が回らなくて、
これは私の精神状態が不安定だと
娘が癇癪おこしやすくなる、強迫観念が
出やすくなることが予想できたので
ブログが書けずしまいでした。アセアセ


詳しいことは書けませんが

ある人々たちと、どうしても定期的に
会わなきゃいけない状態になりまして、

そのとき、
発達障害の娘のことを
明らかに馬鹿にし、娘に対して「迷惑な奴だ!」とあからさまな嫌悪感を示す人々と
会うのは、こちらも疲れてしまいます。
発達障害のことを知ろうとしないのに
「発達障害の人は迷惑だ!」という
態度の人達と、自分がどう話そうか?と
悩むところです。まあ、ほぼ会話ナシで
終わりましたが…。

そのようや考え方の人が大多数の集団の中で、
こちらがイライラしたり、
悲しんだり、ちょっとしたことで心を許したり
そういうことがないよう

普段から、母子で感情調整をするのを
優先してました。


私や娘の場合、
癇癪を起こす理由が

「相手は理不尽だ」と感じても
その場は相手に従わなきゃいけない、
可能なら従ってトラブルをおこしたくない。
でも、相手は矛盾だらけで
言ってることが毎回違うので
どう従えばいいかわからない
という「わからない」が不安感になり
それでうまく合わせられなくて
何か失敗したときに
癇癪をおこしてしまいます。

止めたくても止まらない癇癪。

私たちだって、癇癪おこしたくて
おこしているわけじゃなくて、
とめられなかった…。
でも、悪いのは癇癪おこしてしまった
自分達というのもわかっていて
でも、わかってても止められない自分達が
いるので、生きるのが虚しくなる。

相手からしたら
その失敗した内容が
普通は失敗しない内容なら
「おまえの努力不足」と馬鹿にするし、
失敗してもしょうがない内容なら
「おまえは完璧主義でダメなやつ」と
馬鹿にする。


こちらとしては
失敗したことで癇癪おこしたわけでなく
失敗はただのきっかけで
癇癪おこした原因は不安感なんですよね。

でも相手には、それは理解できない。


…ということは長年の経験から
わかってはいるので

こちらとしては
可能な限り相手と距離はおいてましたが
そうはいかないときもあるから
さあ、困った、困った…と。

癇癪の場合、
周りで抑えられる人がいなく、
娘の癇癪は癇癪おこしたときに
私やばーちゃん(実母)抑えることは
できるけれど、今回はばーちゃんはいない、
そして、私を抑えることができるのは
私自身しか
いなくて、

でも、娘が外で癇癪をおこすと
私自身も癇癪おこしがち。

とにかく二人とも

あの集団の方々と会うと
癇癪おこしやすくなるので
普段から癇癪おこさないように下準備を
しておく必要があります。


そのとき、心療内科の薬は飲むので
癇癪おこす確率は減りますが、
でも、その場で癇癪おこさなくても
確実に帰宅後や次の日に癇癪がおきやすく
なります。
なので、心療内科の薬に頼らず
癇癪をおこしずらくなる方法は

 私たちの場合、

「勉強しまくる」ことしかないんですよね。

ただ、問題集やテストで点数をとるのを
目的とする勉強ではなく


「何かについて、学び、それで自分なりの
答えを出す、出す過程を心の底から楽しむこと
という意味の勉強です。口笛

(点数をとる勉強も、私も娘も好きなので
それもしますが。)


なぜか、勉強に頭を使うと
冷静になれるので
癇癪をおこさなくなる。

たぶん、勉強モードになると
あらゆるものが研究対象としか
見えなくなるので
自分達を理解しないで差別的な対応を
してくる人も
なぜそのような心理や行動になるのか?
の研究対象と見て、気にならなくなる
可能性が大です。ニコニコ


とりあえず、GWの、
その人達と会う日まで
ひたすら勉強しました。


最近は、ポケモンにハマっている娘は
「生き物はどのように生まれ、滅び、進化するのか?」を調べて、自分なりの答えを探すのが楽しいみたいです。

地球館の図鑑やいろんな本を読んだりして
色々と考えてました。

アミノ酸や真核生物など、
色々と面白いです。


そして実在の動物を
調べれば調べるほど
また架空の動物のポケモンも
楽しくなったり。


伝説のポケモン系は

世界の成り立ちを
一つの生き物として具現化しているので
そこらへんのロマン的なものがたまらなかったり♪




伝説のポケモンのレックウザ♪のプラモ。

(娘はプラモ作成も好きなので
同じくプラモ好きなお父さんに
質問しながら、一人でレックウザの
ポケモンを作っていました。)


ポケモンだけでなく、
他のことでも言えることですが


何かを理解するときに
実はあらゆる事象を一つの架空の生き物として
具現化して理解することは大切なんですよね
ラブラブラブラブ


理解とは、既製の他人が導いた真実のみを
知るというよりは、
「あらゆる知識や経験や現象を
頭で情報整理をする」という行為だと
と私は思います。

ただ、そのときに、
学会的(学術的)に真実とされているものなのか?
可能性としては真実としてありえるものなのか?
実際には違うけど、一つの言葉として存在させたほうがあらゆる具象を説明しやすいもの、
というものがあります。


社会科で習う用語とか
説明しやすくするために用語を設定させているにすぎないんですよね。

だから、用語を覚えるのが
こどもの自由な発想力を奪うはず
本来はないんです。

用語を覚えることだけを目的として
暗号みたいに覚えることしかしず
覚えられないと努力不足と罵ったり
人格否定をしたりする
指導者を前にすると

子供は萎縮して
自ら考えることをやめちゃう子も
多くなるのでは?と。



話を元に戻しますが、
ポケモンに限らず
空想生物や神様という存在は

私たちが、当時は見つけられなかった法則などを、具現化させたものだと思うので

空想生物や神とは何か?
を考えるのは私は好きです。
娘も好きみたいで
色々と考えたりしてます。



個人的に、こちらのイラストは
気に入っていますので、こちらにアップしてみました♪あらゆる空想動物たちが、ゴッホのひまわりに集まって…なイラスト♪



話があっちこっち、いってしまいましたが、
またブログ再開していくので
よろしくお願いいたします。

みなさま、本日もありがとうございます。


しばらく更新できなくて失礼いたしました。


Twitterの方にはアップしましたが

ブログにはアップできていませんでした。



実録エッセイまんが「図工と美術の授業で自分を台無しにしてしまったASDの私の話」の

第2部第4話です。ニコニコ











自分の思考がどんどんおかしくなり
強迫性障害でかなり自分を追い詰めました。

一番ひどいときは
もう、どこで○ぬ、か?ばかり考えてました。

漫画ではテーマから外れるので
強迫性障害のことは
詳しく描いてませんが
子の時期はホントに地獄でした。

















後から冷静に考えれば

「女性だからといって
全員がファッションや料理が好きなわけじゃない」ということなんですよね。
そのことは、小さいころから
わかっていましたが、
なんというか、この頃は
差別的な考えやラベリングされた価値観に
自分も染まらないと、
子供ができない、子供に愛されないと
思い込んでたんですよね。


私にとって
「妊娠」というのは
この世の地獄の入口でした。

流産と、その後の女性らしさとしての
立場からの
育児は私を狂わせました。



しかし、同人活動を始めたことで
やっとカテゴリーによるラベリング役割に
執着する差別意識から解放されました。


別に、子供に愛されるためには
世間が求める女性らしさ、とか、
母親らしさ、は必要ないんですよね。


そのように気づけたのは

本当に自分がしたかったことをしたこと、
で、精神的に落ち着き、
自分がしたいこと、好きなことで
他人が喜んでくれたことでした。
他人が求める人間になったり
他人が求めるスキルを獲得することでしか
世の中に認められなかった体験しか
なかった私にとって、
このような体験は
私には生きるのに必要な体験だったのだと
思います。

ただ、勉強関係は
他人うんぬん関係なく
勉強できれば幸せだったので
勉強があったからこそ
狂わなくて、(年齢的な意味の)
大人になれたのかな?
とは思います。


小学校の冤罪盗作事件と共同追い出し事件は
私の中で、いくら時間が経っても
狂う体験だったのだと。


また完成しだい、ブログにも漫画をアップしますね。爆笑

みなさま、本日もありがとうございました。



今回は、実録エッセイシリーズ

「図工と美術の授業で自分を台無しにしてしまったASDの私の話」第2部第3話です。



前回はこちら↓ 


最初からは、こちら↓ 




母乳拒否に
一歳半を過ぎても、
一向に歩こうとしなかった娘。


誰よりも娘と一緒にいたのは
母親の私。

しかし…の話です。













続きます。

そして、オマケ漫画です。↓



私のなかで、盗作冤罪事件と、
そのあとの共同製作追い出し事件は


かなりのトラウマだったのだ、と
今だと思います。








共同製作追い出し事件とBちゃんの話はこちら↓ 




忘れているんですよ、ふだんは、
小学生のころの思い出は。

でも、体調不良だったり、
自信喪失したときに、

あの事件が思い出され、
そこから頭が離れなくなります。えーん



娘が
母乳拒否なのは
まあ食の細い子だったから、
なんですよね。

今でも、精神的にパニックになっているときは
食べられなくなり、泣き続けるので、

人間世界という初めてのことで
パニックになって、
飲むことに専念できなかったのでしょう。

母乳よりはミルクのほうが飲みましたが
それは単純に、哺乳瓶のほうが飲みやすかった
からで、母乳をしぼって哺乳瓶に入れてたら
いつもよりは飲んでたので。


ただ、今でも、牛乳は嫌い、
ミルク系のお菓子も嫌いな子なので、

単純にミルクの味が
好きじゃなかったのでしょう。


猫ちゃんで、なかなか卒乳できない子が
いたのですが、
卒乳した後もミルクが好きで
猫用ミルクを飲んでいたので
娘は逆タイプなのかな?と。




娘が私に懐かなかったのは
今から思えば

娘が発達障害で
初めてのことに異様に警戒し
怖がる傾向にあったこと、
一回何かすると、そのパターンを
繰り返してしまう(こだわり)状態に
なってしまったため、

私が歩かせようとして、
泣いたら、お父さんに抱っこされる、

というパターン化が
娘のなかでしてしまって

そうすると


本人がそれが心地よいか否かは
二の次で、
それをしないといけない、こだわりに
なってしまうんですよね。


今でも、一回でも何かすると、
それがルーティンになってしまう
傾向があるので、

勉強関係では
そのルーティン作業が良い結果を
もたらすこともありますが、

小さい頃は
ルーティンこだわりは
かなりきつかったですね。

今は、ルーティンが本人にとって
負担になっているとわかったら、
娘自身がルーティンから抜け出すことを
努力しています。




私は強迫性障害になりやすい傾向があります。

自分に自信がなくなると
「私は正しいと思うけど、
他人は違うと思っているかもしれない」
とか
「一つでも、こちらに落ち度があれば、
相手も悪いのに、世間的には100%、
私のほうが悪いと見なすから、
私は完璧にならないと、
常に悪者になってしまう」という思考が

小6の盗作冤罪事件と共同製作追い出し事件で
思ってしまったんでしょうね。



別に今さら、
学校の先生や同級生を責めたりはしません。

あちらがしてきたことを許すことは
できませんが


強迫性障害に陥ったのは
私の思考の問題なので


私が私自身で解決するしか
ないんです。

まあ、仮に、「あのとき冤罪かけてごめんね」と言われても、強迫性障害が治るどころか、
悪化しそうですが…。


だって、謝られて、もし私が許さなかったら

世間は、「許さない私のほうが悪い」と
言うことが目に浮かぶから。


漫画はカメカメ更新ですが
まだまだ続きます。

みなさま、本日もありがとうございます。


ちょっと間が空いてしまいましたが
図工の美術の授業で
自分で台無しにしてしまった話です。


今回は第2部第2話です。




流産というのは
身体的な辛さだけでなく
精神的な辛さも大きいです。

今回はそのお話です。








スピリチュアルな考えで
救われる人もいれば
そうでない人もいる、

と感じたできごとです。


私自身の自己肯定感が低いせいもあり
どうしても負の思考に陥りやすいです。

でも、自己肯定感を
小5のいじめ、と、盗作冤罪事件で
バリバリ削られてしまいました。


ただ、自己肯定感が削られても
それでも、必死にがんばればよかったので
自己肯定感を低くさせた事件に
とらわれすぎだったのだろう、
と今だと思います。



流産というのは
「現在だけでなく未来への喪失」
でもあります。


流産によって
自分が描いていた未来が
一瞬でなくなるのだから。


努力した結果、全力を打ち込んだ結果、
自分が描いていた未来の理想を手に入れられないことだってあります。

でも、未来の喪失はあっても
その未来のためにがんばったことで
手に入れられた知識とか技術とかが
残ります。
失敗しても、パワーアップはできてるんです。


でも、流産って、
そういうわけじゃない。
流産を経験したことで
パワーアップはしてない。
喪失と苦しみだけが残る。

そして、努力したことが
必ずしも結果に結び付くわけでないのが
妊娠、出産関係で辛いところです。


また検定試験などは、
一人で人生の終わりの時期まで
何度も挑戦できます。


でも妊娠というなは
一人では無理だし
期間も限られます。

さらに流産すると身体的負担が
すさまじく、
その身体の回復も時間がかかります。


流産の痛みもすさまじいです。

流産したときの
あのとき見た光景は
今でもトラウマです。



流産した原因は
2回とも染色体異常でした。

誰も私を責めませんでしたが
世界のあらゆるものが
 私を責めているように感じました。

そのときに
スピリチュアルの考え方は
キツかったなー、と。


続きます。