学校という存在を考える1 学校の役割 | 「育児書にない!」~ASD母子の育児&お勉強&歴史の授業~

「育児書にない!」~ASD母子の育児&お勉強&歴史の授業~

ASD(自閉症スペクトラム)当事者で、娘もASDである、元社会科塾講師のセザール=れくす、が描く、「ASDのお子さん向けの受験勉強についてのブログです。
育児についての話や不登校の娘への対応の話、自分自身の生き方についても語ります。

みなさま、本日もありがとうございます。


小学生の娘は、現在、不登校中です。

不登校になって数年が経ちました。



生徒として私自身がが学校や塾に

通っていた時期、


塾講師や家庭教師として

たくさんの生徒さんと接していた時期、


親として娘を幼稚園や小学校に

通っているのを見守ってた時期


娘が不登校になる前の時期…



…のときに、その時期、その時期に

感じていた「不登校」という

ものに対しての考えは


娘が不登校になっても

あまり変わってません。凝視


つまり自分が小学校のころから

考えが変わってません。

そして、学校に行く意義、意味とは?

というのも小5でいじめをうけ、

小6で先生に迫害されてからは

常に考えていて、大学あたりに出した

「学校とは…?」の結論も

今まで変わってません。







ただ、自分自身は不登校になったことは

なかったため、

娘が不登校になったときの


具体的な精神的、身体的疲労や

メカニズムやその過程は

娘を通して知ることはありましたが



それは、少し不明瞭であったことが

鮮明になったということだけです。




私自身の考え方が合っているか?は

不明ですが、

やっと俯瞰して不登校や学校についての

自分なりの考えを述べられるようになったので

備忘録として、何回かに分けて書いておきたいと思います。

(あくまで私の考えで、それが絶対的な意見ではありません。)


宇宙人しっぽ宇宙人からだ宇宙人からだ宇宙人からだ宇宙人からだ宇宙人からだ宇宙人からだ宇宙人からだ宇宙人からだ宇宙人からだ宇宙人からだ宇宙人からだ宇宙人からだ宇宙人あたま




不登校に対して思うこと



不登校そのものを

「良し」とは私は言いません。



でも、その理由は

「万人に対して良しとは公言できない」から

であって、


個人、個人に対しては

この子は学校に行くのを今、渋っているけど、少しでも無理させてても、学校に相談して先生に対応してもらうことで、

学校に行っておいたほうがよい。

なぜなら、この子は

家にこもりっきりになるストレスよりは

他人と交流した方がストレスが少ないから、

今はがんばらせた方が良い。

もしくは休み休み、

行けるときだけ行かせればいい。


この子は不登校を選ぶことのほうが良いかも?この子が大人になったとき、学校に行っていたら失うものが多かったと後悔する

可能性が高い。」

とその子の性格や特性などを

考慮しながら、思っています。


もう不登校になりかけ、不登校になった時点で

不登校になる前の、学校とか同級生や先生に

感じる感情には二度と戻ることはできないので、それまでのすべてを手に入れている(気になってた)状態とはさよならして、

その子にとって何を一番優先するか?が

今後のキーになるかな?と。




なので

全体的には

「学校に行くことを推奨はする」けれど

目の前にいる子が学校に行く方が良いか?は

と思っています。




しかし、


その考え(学校や学校に通っている人を

批判する意図はないこと)を

いくら説明した上で


「自分の子は学校に行かずに

他のやり方で色々と学んで

大人になったときまでに

集団社会に戻れるようにさせたい。」

と言ったら

「学校なんてなくて良いと思っているのか!ムキー

とか

「いやいや、他の子は学校に行くことで

学ぶのだから、あなたのお子さんだって

学校に行くことが幸せの道よ!えー

…などなど



「個別の人への考え=全体の人に向けての考え」という図式ができあがっている人と

話すのが疲れてしまいます。ショボーンショボーン


その人達が悪いという意味でなく

私は疲れてしまうという意味で

裏の意味はないです。


なので、公には

「学校に行かせる努力はしているけれど

なかなか難しくて…」としか言えません。

相手が理解できる範囲で

自分の気持ちを説明するのが

すっごく疲れてしまう…。

ただ、まあ、学校に行けるなら行かせたい、

というのは本音なのは間違いないので…。アセアセ



他人に頼ろうとしないのではなく

他人に頼ろうと何度も努力して

頼ったときもあったけど

その末路は強迫性障害発症だったか。


頼るより、自分でなんとかする、

無理だと思ったときだけ

他人の肩書きとか役職でなく

自分が頼りたい人、ものに頼る!


そうすることでなんとか

強迫性障害が緩和できた経験が

何度もありましたので。



何度も…です。




先生として?親として?



どんなときでも変わらない信念とかは

あるけれど

立場によって優先順位は

違ってきます



先生としての立場だと

生徒さんに

学校や塾に来てもらうことが最優先だけど


としての立場だと

まずは目の前の子供を死なせない(自殺させない、拒食症になって弱って死なせない)が

最優先なので


学校に行くか、行かないは二の次。


学校に行くことで死に繋がるなら

学校に行かないほうを選ぶ


生命的な死だけでなく

能力的(学力や発想力など)の死も

含まれます。



なので、我が家の場合は


学校に行かせることを優先させるなら

学力低下か、能力低下を招く可能性が大、

…というか、不登校直前から

著しく学力低下と能力低下をしていたのが

目に見えて明らかでした。



私だけでなく、

娘が行き渋りをしていたことを

知らなかった音楽教室の先生にも


「あれ?いつもの音が出てない。

どうしたの?」


と言われた状態。


実家のねこちゃん猫

娘が異様に元気がないと感じて

娘の横にずっと寄り添っていたり…。



何もかもが辛くなってた娘。

学力低下や能力低下が行き着く先は

娘にとっては拒食症です。

そして拒食症が行き着く先は

生命としての死。



だから、学力低下をした時点で



勉強だって、将来勉強関係の仕事を

娘はしたいから

勉強をがんばらせるけれど、

勉強でも目の前の点数をとることより

目の前の習った内容を内在化するほうに

心を向けよう、と。

(勉強できることで優越感をもたせたい、

という意味でなく、娘は、

勉強関係の行為をすると

精神的に落ち着き、

癇癪もかなり減ったので。)


なので学歴がどうなっていくんだろう?

という不安はありますが

自力でがんばれるところまで

自力でがんばりたいなぁ、と。




なぜ学校に行かなくてはいけないの?



娘が学校に行けなくなった頃に

夫が

なぜ、学校に行かなくちゃいけないか?

について娘に色々と話してたことが

ありました。



でも、夫が言った

「フツーはみんな行くから。」

という他人との比較、

「学校に行かないと将来困る。」

という未来への脅し、


という内容は娘の心には響きませんでした。


他にも

「小学校ごときで嫌だ、先生といると萎縮する、辛いと言ってたら、これからでも嫌なことがあるたびに逃げる人生になるから、

小学校に嫌でも行くことで強い大人になれる。」

と、「学校は社会の縮図!」みたいな

価値観での責め、


それでもかたくなに娘が学校に

行きたがらないと

「ワガママだ!心が弱い!

そんなやつはダメなやつ!」

という人格否定も

夫は言いました。


ただ、横で聞いていた私が

「それは違うよー。」

と否定し続けてました。


娘自身も

幼稚園時代に

完食強要して、給食の時間が終わっても

帰りの時間まで完食するまで

事務室に拘束し続けられ

毎日人格否定と、将来はろくな人間に

ならない!と先生に言われ続け

同じく義実家やお父さんにも

「完食するのが、子供としての義務」と

いう対応をされつづけ、

それで拒食症になった。


それでも先生やお父さん、義実家は

助けてくれなくて


私とばーちゃん(私の実母)、

おじさん(私の実弟)と自分自身で

拒食症を克服した。


その経験から



将来の脅しと人格否定をして

自分を意のままに動かそうとする人の

言うことを聞くことでメリットはない


と娘は思っている様子。


なので



今回の不登校で夫(お父さん)が言う内容も

ガン無視していました。



ただ、夫の方が私に対して

「なぜ、セザールは、

なんで学校に行かなくちゃ

いけないと思うんだ?」


と怒り出したので


私はスパッとこう答えました。




サムネイル

子供を労働力として搾取しないためでしょー。






夫としては予測だにしなかった回答だった

らしく、黙ってしまいました。びっくりびっくり




私としては


「学校で教える勉強で勉強ができるように

なったわけではないので、

別に学校が勉強、教育という存在を独占できる

ものではない。」


「職種も、

学歴が必要なの職種と学歴が関係ない職種が

ある。

伝統芸能やピアノ、バレエなどの特殊な能力が必要な職種によっては学校に行っている時期から、親や専門的な機関で練習を

始めないとプロになるには厳しいものもある。

なので、職業選択も学校側がすべてを担っているわけではない。」


「教育も、学校でする公教育のように

習った内容を確実にできるようにする教育

だけでなく、

博物館のような社会教育機関もあり

自ら学ぶことを決めたら徹底的に

調べて教養を深める教育もある。

どちらの教育も、その教育で

自分が大人になったときにできるように

なればよいわけで、場所にこだわる必要は

入学資格に必要な資格以外は

個人のがんばり次第。」

と思ってます。


じゃあ、すべての子供に関して

「学校に必ず行くもの」としたほうが

良いことは何か


を考えると


義務教育の学校がなかった時代と

比較する必要があります



なんでも、1つのことの意義を考えるには

それと比較対照するもの、

とくに真逆のものと比較することを

しないと結論は出せません。


全国民に対しての義務教育がない時代、

貴族や公家、武家やお金持ちの家でない限り、

子供は労働力として使われてました。



しかし、義務教育があると、その期間は

絶対に子供を大人の仕事の労働力として

酷使することは不可能。

(子役、子方などの特殊なお仕事は除く。

この場合も、酷使はしずに

学校に行く時間は学校に行くほうが優先だし、深夜の仕事はない。)


そして義務教育では

色々な教科やいろんな経験ができるため


子供が自ら将来つきたい職業を

考えることができる機会も得られるわけです。



私も義務教育期間で社会科に

出会ってなければ、社会科の塾講師に

なりたい!とは思わなかったので。



ただ、義務教育は必要だけど、

その教育機関は必ずしも

「学校」で

なければいけないのか?



…というと難しいところですが



「みんなが同じ機関に行くから」こそ

義務教育というのを可能にしている面は

あるわけで。



なので、

私は学校という存在は

大切だとは思ってます


学校というのは

職業選択の自由の権利を行使できる

機会を提供できる機関とも言えるかも

しれません。


 でも、その学校の存在で苦しんでいる

我が子を学校に行かせさえすれば

解決するか?というと

そうではない、と。




 では、次回は学校に行くこと、行かないこと、

でおこるメリット、デメリットについて

自分なりの考えを述べて、頭をまとめたいと

思います。



ご覧いただき、ありがとうございました。


続きはこちら↓