酒とホラの日々。 -55ページ目

ダ・ヴィンチDNAコード

中世のスペインに突然キリストが現れる。ところが町を徘徊するキリストを、教会の大幹部、大審問官が捕らえて牢獄に放り込んでしまう。 牢獄のキリストに対し大審問官は、「お前が民衆にいらぬ自由などを与えたから、世の中は混迷し悲惨で今もってこの有様だ」 とこっぴどく非難する。
ご存知、ドストエフスキーの大作「カラマーゾフの兄弟」の一場面だ。

ここから現代にキリストが現れたら、という仮定の話になった。
P君が言うには、
「当然、大審問官同様、すぐにとっ捕まえてDNA鑑定だよな」
こいつは倫理学を扱う大学教員という、人類の中でも最も宗教的感化を受け難い人種であるので、言うことに歯止めがない。

「DNAを採取してキリストの末裔探しか?」と聞くと、

「甘い、甘いよな。キリストはユダヤ人だったから、割礼を受けているわけ。だからこれは有名な話だが、切り取ったあそこの皮がフランスの教会に今でも残ってるわけ。すでにバチカンがキリストのあそこの皮からDNAの採取には成功しているのさ。
だから双方のDNAを比較して真贋判定をするのさ。」


さらに極秘にこの皮のDNAからバチカンがクローンの研究に取り掛かっている、という話もあったのだが、そもそもクローン研究自体を教会が反対している上に、キリストのクローンなんて称する得体の知れないヤツがいたところで教会の利益になるとは思えないので、これなどはキリスト空飛ぶ円盤飛来説並みのトンデモ怪説ではある。

(もっとも、過去自称キリストはたくさんいたが。)

 ただキリストの皮は本当の話らしく、一方で教会が秘匿する情報が多いことなどから 教会の秘密主義がゆえにダ・ヴィンチ・コードのような小説が出てくるネタの宝庫を 教会自ら作っているのだなと思われた会話ではあった。

確かカラマーゾフの兄弟では、とらわれのキリストを前に大審問官は、「われわれは民衆から自由を取り上げ教会が管理する幸福な社会を構築するのだ」とぶち上げていたが、「人間の自由」と「社会管理側の論理」の関係をあぶりだして、教会だの宗教などにとどまらず今日の社会と我々にとっても色あせないテーマではある。

人間の自由欲求管理欲求の起源をDNAのプログラムに求める説もあるらしいが、万一キリストのDNAが解析されたら聞いてみたいのは、この一点だろうな。

ブログをやってて良かった事

十日ほど前のことだ。出先から会社に戻る道すがら、きれいな夕焼け空に出会った。
雲に描かれた夕映えの光と忍び寄る闇の絶妙のタッチに「これはイイ、ブログのネタになる」、と思った私は空をなるべく広く取り入れた写真を撮ろうと、すぐに目の前の商業テナントビルの屋上に上った。


屋上から眺める夕映えは一段と素晴らしく、私は屋上をあちこち歩き回ってベストアングルを探し当てると記事のイメージも出来上がる

「きょうのタイトルは、”あの空の向こうに”ってとこかな」いいネタを見つけた満足感に心も躍る。


だが写真を撮るにはどうにも目の前の金網フェンスと支柱や清掃用のゴンドラが邪魔だった。

そこでフェンスの上から写真を撮ろうと背広も靴も脱いで金網に足指を引っ掛けてフェンスをよじ登り始めたのだが、無人と思っていた屋上にいつの間に近寄ってきていたのか、背後から忍び寄ってきた男二人に怒号を浴びせられるとともに猛烈にタックルされてたちまち引き摺り下ろされた。私ははずみでデジカメを取り落としてしまい、なんとか二人を振りほどこうと抵抗したのだが、不意を突かれた上に多勢に無勢、たちまち羽交い絞めにされて、事務所らしきところに引きずり込まれてしまったのだった。


なにかオレまずいことしたか?不法侵入かな、とおどおどしていると、
年配のネクタイした男が、「まだ若いのに、早まったまねをするんじゃないよ! な、な、話を聞こうじゃないか。あんなまねだけはやめてくれ、な!」とほとんど泣かんばかりに懇願調である。
「へ? 」これは何かとんでもない誤解を受けたらしい、私はしどろもどろに弁明した。
「いや、あのですね、今日の記事がほら、私はただ、だから、あの空の向こうに、って・・・」
男の目がさらに吊り上がった。
「わかった、わかった!、わかったから、今は何も言わなくていいから。」
どうにも話にならない。口を挟む隙もない。


そうこうしているうちに、私のかばんの身分証明でも見て連絡したのだろう、会社の上司が現れた。やれやれ、これで助かったか、と思ったら、そこへビルの警備員らしい男が私の上着と靴を持って入ってきた。
「これが屋上のフェンスの下にそろえて置いてありましたっ。」  

部屋の空気がずんっと重くなった


上司いわく、「こんなになるまで、気付かなくて、俺が悪かった、俺が悪かったから、な、とにかく戻ってゆっくり休め、な、話はあとでゆっくりすればいいから。」 こいつも、てんで人の話を聞こうとしない。


私がふてくされていると今度は、なんと家族や親まで現れて、事務室はハチャメチャなことになってきた。親なんか遠いのによくやってきたものだが、嫁も親も来るなりすぐに泣き出して、みんなに慰められている始末だ。とても私が話をするどころではない。


事態をなんとかしようとしたのかまたあのネクタイの年配の男(このビルのオーナーなのだという)が言った。
「そんな若くて、思いつめることは無いんだよ、まだ若いんだからなんとでもなる!」


さっきから聞いていれば若い若いって、実際そんな自慢になるほど若くはないし、むしろ若く見られがちなのを気にしてるのに、このおっさんはもう、、、私もいい加減腹を立てて言い返した。
そんな若くはありませんよ、だいたい、モーツアルトなんか私の歳にはもう死んでるし・・」
また部屋の空気が凍りついた。 


しまった、たとえが悪かったか・・。結局この日は満足に話を聞いてもらえず、収拾のつかないよくわからない状態で帰されることになってしまったのだった。


・・・あの日以来、ちょっと周りの様子が変わった。相変わらず屋上事件の話は避けられているが、みんなとても優しい。気の向かない仕事が舞い込んでも、「疲れた..。」と言えば、別の人間がやることになるし、今日なんか窓の外を見てため息をついたら、上司がうな重をご馳走してくれた。家でだって町内の一斉清掃の日程など見せられても、庭の草が伸びても、「遠くへ行きたい・・。」とつぶやいて目を泳がせればみんな家族がやってくれる。


なんだか誤解されっぱなしなのはなんとなく納得できないのだが、ま、ともかく、

いやー、ブログやってて、良かったなー!


(いつまでこの極楽が続くのかわからないが)




****6月19日23:00 皆さんのコメントを拝見していて、なんだか不安になったのでテーマカテゴリを修正いたしました。ブログ→ホラ  当ブログではあまり意味のないカテゴリ分けではありますけれど****

休日の朝の皇帝


まだほのかに乳白を残した空気の中、
眠気の残る目にキッチンに差し込む光がまぶしい。
普段の気ぜわしさから解き放たれて、時間に追われることがなく
朝食のバリエーションに凝ることができるのも休日の朝の特権だ。

私はここ何年もお粥がお気に入りだ。
土鍋に一杯の玄米粥に、様々な付け合せをそろえて
さあ食うぞ、と取り掛かるときのワクワク感は
晩のおしゃれなディナーにもまったく劣らない。

土鍋一杯は大変な量だが、ほとんどが水分の多お粥であるので
実際はたいしたカロリーではない。
炊き上げたご飯では食べにくい玄米もお粥ではまったく問題がない。
たっぷりの熱いお粥とたっぷりの時間をとることの充実感。

休日だから、取り掛かる時間が遅くなっても、
ゆっくり食べ過ぎてブランチになってしまっても、何も問題はない。
にぎやかであったかくて、テーブルの上の時間もメニューも自由に差配する
私は休日の朝の皇帝だ。

人生には小さな幸福に出会う無数の小道があるとしたら、
その一つは休日の朝食に凝ってみることだ。


***


付け合せの例
 桜海老とタマゴの炒り味噌
 発酵豆腐(各種・中国製)
 山椒の実のしょうゆ漬け
 定番の梅干
 揚げ麩
 塩鮭
 上海卵(殻付きのゆで卵を醤油とみりん八角を加えて煮込んだもの)
 おかひじきのマリネ

等々・・・

ブログ始めたいんですけれど・・・

会社での昼飯時、S君が隣にやってきて言った。
みんなやってるブログ始めたいが、ネタがない、
どうしたらネタは仕入れられるのか、
普通の人間がブログ続けられるなんておかしい、、、
というような愚痴を聞かせられた。

なぜ、オレにはネタがないか、というわけだが
これは微妙な問題だ。

人は誰しも同じように一日24時間で生活を送っているので、
毎日「出会う」ネタの元の量の多寡なんて誰しも変わりはない。

とすると外形的な条件が同じであるならば、
ネタの有る無しとはつまり個人の内面の問題ということになる。
つまりなんでもない事象に出合っても
それに反応する柔軟な心があるかということが問題ということになる。

だが、ここを見に来るような人はそもそもブログをやっている人だろうから
こんな話もしても問題ないが、

ブログが書けないという人にはこんな当たり前のことでも
なかなか言いにくい。

そこで独自のネタにこだわらず、他人の記事や書評の引用を
徹底するという手だって、やりようによっては立派なオリジナルにになる、
とアドバイスしたが、
そもそも「書きたい」という以前に「ブログやりたい」という衝動が起きる
こと自体が、私には衝撃的だった。

S君、どうせブログ始めたら、アクセス数が上がらんとかまた愚痴るのだろうから
以前書いたアクセス数アップの三原則もちゃんと教えておいた。

(以前書いた絶対アクセス数アップの法則はここをクリック)
S君は怪訝な顔をしていたが、

ネタがないというその上に中身まで求められても、ねえ。。。

熱狂と冷静のホッピングシャワー

「ああぅ、この一体感、盛り上がりがたまんねえんだよなあ、ううっ」

ブルーのレプリカユニフォームのサポーターのお兄ちゃんが身をよじる。

・・・日ごろとかく群れたがるオジサン連中に冷ややかな青少年も、
はぐれモノを自認するクールな輩も、ことサッカーワールドカップなると話は別のようだ。


しかし大衆的熱狂、もしくは一見固い社会的連帯に見える盛り上がりが
ひどく空疎なものだということくらい、熱狂している本人がよくわかっているはずだ。
ゲド戦記の作者であるル=グウィンの言葉を借りれば、
  真の意味での交わりや体験の共有を欠いた空虚な形式だけの

  コミュニケーションと一体感に共通する集団思考。

  こうした中身のない形式を受け入れることによって

  われわれは「寂しい大衆」のひとりとなる。
ということだ。


また、ローマ時代の哲学者セネカに至っては
  うっかり見世物(興行スポーツもそう)に行くことくらい害のあることはない。

  娯楽という通路をつたってやすやすと悪徳が入り込む。
つまり群集的熱狂は理性を麻痺させひとつの衝動が人間たちを動かすということまで言っているのだ。


だから、いずれも群集を避けよと言っているのだが、いずれもまったくもって然り、こうした先賢の言葉を踏まえて生きる私たちはワールド・カップごときの集団熱狂に牛馬のように駆り立てられるほど単純でもないし、ワールド・カップに熱く思い入れる興奮の不毛さ安っぽさをよく心得ている。
試合結果に一喜一憂することの愚かしさよ。。。


なんだオイ、これじゃいつもの「酒とホラの日々。」じゃないではないかって?
きっとカンガルーの国からの予期せぬ敗戦に動揺して、
クロアチア戦・ブラジル戦を前に平静を保つには、
こういう思考が必要なんだろうかアワワわわ。。


冷静と熱狂どっちが本来のcaptain-jackかって? そりゃどっちもだわな。




 頑張れ日本!!!                  サッカー日本代表

雨中の庭

 クローバー

雨にぬれた朝、

庭の小道の煉瓦に覆いかぶさってきた草花をかがみこんでよけながら、
小さな下草のにぎやかな充実ぶりが目がついた。

 

この時期、威勢のよい大きな植物が旺盛な活力を放っているが、
私は人目を引く繁茂の顕著な植物にではなく、

庭の隅小さな草にこそ庭の生気の芯となるものを感じる。

 

地味で小さな草ではあるけれど、
大きな木や草の都合に翻弄される彼らではあるけれど、
自分の自由になる世界の中で精一杯葉をを広げる彼らは、
決して受身ではなく、追いやられた敗者の論理によってではなく、
確かに自らの力によってのみ充実した輝きを放つ。

 

自分の自由になることと他者の手にあるものを見定め
自分の自由になる世界に十全の力を注いでいるゆえの輝きだ。

 

梅雨時の妖精が隠れているのはこんなところだ。


真夜中の侵入者

夜中のどが渇いて目が覚めた。飲みすぎだ。

仕方なく階下の台所に降りて行くと、驚いたことに
明らかに家族でない誰かが床に座って何か食っていた。

立ちすくんだ私をちらと見上げた顔を見ると、
なんとこれがあの有名な村上さん(45歳・男性・仮名)である。

夜中に突然人のうちに現れた相手に私はなんと挨拶していいのかわからない。
だがとにかく落ち着きを装って声をかけた。
「なんだ村上さん、ひ、久しぶりじゃないですか。
しばらく見ない間に随分恰幅よくなって、肌も色つやよくてお元気そうですね」


だが、村上さんは全く動じない。
「こんな夜中に、またなにかお探しですか?」

私はゆっくりと村上さんの死角に回り込みながら
液体洗剤のボトルに手を伸ばした。
その瞬間、突然村上さんが走り出した。
「あっ、待て!」
不十分な体勢だったが、私は村上さん(仮名)目がけて液体洗剤を浴びせかけた。
だが洗剤を浴びながらも村上さん(仮名)はキッチンマットの下にもぐり込む。
おのれ、そのマットは安物だけどこないだイケアで(外資系家具販売店、人気らしい)
買ってきたばかりなのに!
悪態をつきつつも私が退路を与えないように注意深くマットをめくると
うずくまる村上さん(仮名)はすでに虫の息なのだった(元からか)。

・・・薬剤を使いたくない場所でのゴキブリの始末には、液体洗剤が良い。
なにせ、捕獲ついでにふき取り掃除もできて一石二鳥である。ふむ。


  

**********
断っておくが私はいつもこんな乱暴なわけではない。
虫も殺さぬホトケのcaptain-jackと言われているのだ(誰も言ってない)。
嘘だと思うなら、前回の山本さん(仮名)の記事を読んでもらいたい。

(山本さんとの邂逅に関する記事はここをクリックしてくだされ)
・・・今回は出あった場所が悪かったのだ。

雨の日の出勤


シティー・グレーの背景に浮かぶプラタナスの明るい
アスファルトの上をクルクルと行き交う色とりどりの傘。
ビルをぬって雨筋を掻くように走る電車は
まるで水の底を泳ぐカラフルな水棲虫だ。

朝の電車から眺める見慣れた都内の風景も
6月の明るい雨の中ではどこか生き生きとして見える。


やはりこの国は、雨の国なのだ。

  

 

***


   今日は晴れていますが、昨日関東も梅雨入り宣言がありました。
   疎まれがちな雨の季節ではあるけれど、
   長靴をはいた子供が水たまりを見ると目を輝かすように、
   雨を見てもわくわくする気分だけは
   忘れずに過ごしたいものです。

    ・・・それは単に私が子供っぽいということか?

漆黒の目に映るもの

地球の滅亡まであと365日・・・
無策なまま天然資源をほとんど食いつぶした人類はいよいよ滅びの淵に立たされていた。市場経済を越える行動原理を見出せず、目先の発展と経済成長を追いかけてきたつけがいよいよ取り立てられようとしているのだ。やむことのない資源の争奪は各地で戦争を頻発させ、乱立した原発がどうにも始末のつかない厄介者だとわかったときには、すでに地球は人類を養う余力を全く失うほど荒廃してしまっていた。

人類の最後の望みを託した宇宙戦艦カマタが、幸福を呼ぶ伝説の機械「コスモクリーナー」を求めて旅立ったが、船長のジョー・フックは乗組員の若い男女500人と、積荷の食料とともにいずこへか姿をくらまし帰ってはこなかった。

絶望的な状況の中、残された人々は、人類の存続をかけて最後の手段を講じることとなった。 そもそもこれまでの人類のあくことのない破滅への行進は、その活動を埋蔵された石油を初めとする有限な枯渇型の資源に頼ってきたことにある。戦争も、貧困も、地域の絶望的な格差もすべては枯渇型資源の争奪に根ざしていたといってもいい。社会をリサイクル可能なエネルギーや資源へ転換する試みもは幾たびかあったのだが、ことごとく無残に失敗していた。

結局人間が目先の利得や安楽にすがりつく行動パターンは滅亡の淵に至るまでけっして変わることはなかったのだ。

そこで最後の人類たちは、遺伝子操作を行い、根本的に人間そのものを枯渇型資源に頼らない構造に作り変えることで、存続を試みたのだ。
そしてあるものは珪藻や菌類に、あるものは原始的な爬虫類や両生類に、またあるものは魚類や甲殻類に姿を変えていった。

やがて生物にとっては永遠とも思えるほどの時が過ぎて地球は豊かさを取り戻し再び資源を蓄えるに至ったが姿を変えた人類たちの一部の種もどうやら気の遠くなるような時をなんとか生き延びた。

だが今また、下等生物から急速に進化し爆発的に増えてきた一つの種がかつての人類の行動と危機の同じ軌道をひた走っている。そしてどうやら自前で軌道は変えられず、行き着く先は見えないのだ。


進化に取り残されたカエルやヤモリのような下等な生物が私たちに向ける黒い目の底に、悲しげな影が差すような気がすることがある。
これは先人類の記憶が現人類にむける憐憫の眼差しなのかも知れない。

たまたま座れた満員電車、美人に見とれて乗り過ごし

近頃は都心の電車の混雑も一頃ほどではなくなったような気がする。


かつての混雑のひどい時期・ひどい路線では、
カーブで遠心力がかかった外側のドアのガラスが人圧で割れた、とか
隙間なく人が乗ったところにさらに乗客がなだれ込むので
片足を人垣にはさまれたまま体が押し流されて叉裂きになった、とか
エアコンを搭載するために車両の機密性を高めたら、
酸欠で倒れる客が続出した、等々、痛勤地獄の例を見聞きすることが
珍しくなかった。
(あ、最後の例はまあナンだが)

もっとも、通勤地獄は東京に限ったわけでないので
東京以外の今がどうなっているのかは知らない。

以前出かけた大阪でこんな場面があった。

当時、何と呼ぶのか知らないが、
乗客を人力で車両に押し込む部隊が各駅にいた。
(今でもいるのかな?)

学生のバイトがほとんどだったように見受けられたが、
いつも以上に混雑がひどかったのか、なだれ込む乗客に
押し込みのお兄ちゃんも一緒に巻き込まれてしまって、
車内に詰め込まれたまま身動きがとれず、
「ちょっと、ちょっと!」ともがくのだが
乗客は誰一人降りようとしないからどうにもならないのだった。

そしてホームに、お兄ちゃんの脱げた帽子と「マ~ジ~か~よ~!」という
叫びを残してドアは閉まり、列車は去っていったのであった。

大阪の今は知らないが、私の動き回るところでは
最近は事故でもない限り、度を越した混雑はお目にかからないようだから
きっと鉄道各社の様々な対策・努力が効を奏しているのだろう。
関係者の努力に敬意を表したい。


(でもまだ、快適、というレベルには程遠いのでもっとなんとかして欲しい)