酒とホラの日々。 -54ページ目

じわり、夏

七月とはいえまだまだはっきりしない空模様の続く毎日だが、
今日はあちこちで本格的な夏の到来を知らせるサインに出会った。
まるで梅雨のトンネルの先に出口の光が見えたような気分。


 高速道路のフェンスの隙間から飛び出した草の蔓。
 あわ立つような音を立てる打ち水されたコンクリート。
 葉が伸びた街路樹の作る 緑陰と日差しの強いコントラスト。


商店街を通り抜けようとしたとき、突然吹きつけた南風に
並んで吊るされた風鈴が一斉に鳴り出したのだが、
驚いて振り返った私を包んだ草いきれのようなイグサの香りは
もう夏の空気そのものだった。


すっかり夏気分で帰ってくると
かき曇った空から急に雨粒がまた落ちてきたのだが、
たしかに梅雨明け宣言も今はまだ先のこと。
あと少し、 もう少しだけ、日本の雨の季節の名残を惜しみたい。

窓の雨

日曜日のスナフキン


私は時たまインスタント遁世と称してベランダにテントを張り、煩憂に満ちた日常と浮世を離れることがある。
このあたりの事情は以前にも書いたとおりで、(前の記事はここ) 手軽で便利、遭難する心配も飲み食いの心配もなく軟弱な遁世ではあるが、ベランダテントのハイライトはなんといっても雨の日にある。

薄布だけを隔てて全身を包む雨の音はいつも新鮮で、時折聞こえる車の音や行き交う近所の人の声も遠い別の世界のことのように思えてくる。俗世に居ながら世事の煩いから開放されたようなこの気分は、まるで塵界に居ながらにして心だけ仙境にあるようなものだ。
こんな気分には街中のテラスでは出会えないのはもちろん、山中のキャンプでも出会えるものでもない。

雨中のテントに一人、足を投げ出して座っている時、何をするわけでもないのにその充足した気分は自らの心身一つでほかに何もない状態で、天地・全自然とつながっている自分の発見でもある。

やがて雨の終わりは、雨が上がるより少し早く小鳥がさえずりはじめることでこれを知ることができるのだが、明るくなった空の下、高揚した気分はすぐ目の前の枝にいる鳥にも意思の疎通もできるような錯覚を生む。


まさに山中の隠者気分だが、欠点は15秒で塵界の俗人に戻るところである。

ま、お手軽なんだから仕方ないか・・・・。

ドロボー猫という生き様

近所の公園に猫が集う一角がある。

住み着いた捨て猫の面倒を見る人がいるので、いつも猫がごろごろしているのだが、広い公園であり猫もたいした数ではないので、誰も何も言わないままなんとなく猫がいるのが当たり前の場所になってしまっているのだ。

私も出勤や外出の途中に目にすることがあるが、猫は代々変わっていくものの顔馴染みの猫も中にはいて、猫それぞれに個性がある様子を眺めるのがその一角を通るときの習慣になってしまっていたりもする。

いつも石垣の上を行き来しているトラの太った猫はブッチャー、時折見かける俊敏な三毛はミー子だ。全部の猫に名前があるわけではないのだろうが、こういう場合人は名前を付けずにはおれないらしい。

中に近頃、目を引く毛抜けの白猫がいるのだが、こいつが妙ふてぶてしく態度が大きい
人間がエサをくれるのは当たり前と思っているようなフシがあるばかりか、公園の出店ややってくる人間の弁当のおかずまで平気で失敬する。さらに他の猫がもらったエサを横取りして、気に食わないと食いかけでもプイっと放り出してしまう。

品性もよろしくない。腹が減っていないと、近くのメス猫の尻に鼻先を突っ込んでまわったりするのだが、普段は無表情なくせに、このときばかりは目を細めてに鼻の下を伸ばしにやけて見える。
そしてこれがまたしつこい

当然他の猫にも嫌われ、やって来る人間の非難にさらされるが、本人(本猫?)はいたって平気なものだ。

素行の良い猫は引き取り手が見つかったりして猫も代替わりしていくのだが、なんだかこの猫はずっとこのまま居座りそうだ。もしどこへか行ってもこれからもずっと下品な猫で生きていくのだろう。

この白猫、いつの間にか誰からともなく「フクイさん」と呼ばれるようになった。どうしてフクイさんなのか私は知らないが、この名前、風体と態度に妙になじんで違和感がない。一説には「ショッカーの総裁が福井さん」という名前だったから、ということだが、なるほどつまり嫌われ者の親玉ということか。するとあの猫は福井総裁というわけなのか。

今日もノラの福井総裁は何か粗相をしたのか、このドロボー猫!と子供に石を投げつけられていた。あれでなかなか福井総裁の日常も厳しいのだ。

さよなら、また会う日まで

このところずっと体調が思わしくなく、
咳が続いて、妙に長引く風邪だと思っていたのだが、
症状はずっと深刻だったのかもしれない。
実は、会社でうがいをした時に血痰を吐いた。

白い洗面台に広がったどす黒い筋に、初めは何が起きたのか
わからなかったが、それが何であるか認識するまでもなく
すぐに全身から血の気が引いていくのがわかった。


これまで大病の経験もない、入院すらしたことはない。
症状はどこまで進んでいるのだろうか、手遅れならいまさら
病院にいってベッドに縛り付けられて最後を迎えるようなことはしたくない。

家族は、仕事は、やり残したことは?
この先、沖田総司か、宮沢賢治か、いやいや、沖田よりオレのほうが
明らかにいい男だよな、土方はいい勝負かな。・・・

予約に入れた書きかけのブログ記事どうしよう、あんなのUPされたら恥だ。。。
様々な想念が一度に頭の中を駆け巡る。(ドサクサでなんかまぎれていたが)
人はこんなとき一般的にはどんな行動をとるのだろう・・。


幽鬼のように悄然と席に戻ると、
何も知らないみんなはのどかにお菓子の話などをしていた。
私に気づくとT嬢が言った。
「captain-jackさん、机の上のチョコもうみんな食べちゃったでしょう、食べすぎですよ。」

ん?、チョコ? え? そうか何のことはない血痰の正体はチョコレートか!
あは、確か昔映画の血糊にはチョコレートも使われたらしいがそれにしても驚いた。

まあ血を吐いたと騒いだらさらに大恥地獄に堕ちるところだったかも。

最近オフィスの机の上に置くことを想定したボトル入りチョコが多数出回っている。
仕事の合間に手軽にストレスの緩和ができることをうたっていて、私も時々買う。

「フム。 食ってしまったのは仕方ない、また買ってくるよ」
そう言って私は努めてクールに、また仕事に取りかかった。


・・・


「強きにもよらず、若きにもよらず、思いがけぬは死期なり
今日まで逃れ来にけるはありがたき不思議なり。」

兼好法師の言葉をかみしめた一日であった。


というわけでまだブログは続く。(たぶん)


見慣れた風景へ別離を

少し前に、あまり通らない道を歩いていたところ、なにやら眺めが違っていた。
よくみると公園に囲いがしてある。
なんでも、自治体の所有する公園と思っていたあたり一帯は、個人所有の土地で自治体が借り上げて公園として提供していたとのこと。 それがどういういきさつか企業の買い上げるところとなり、マンション建設の工事が始まるのだということだった。


やがてたちまち何百本もの木は切り倒され、傷口のような赤茶けた土地がむき出しになると、いまさらながら、失ったものの大きさがわかってきた。


そのあたりは決して絵葉書や写真集になるような風景ではなかったが、ごく普通の公園の樹林があたりの景観を引き締め、この地域ならではの風景を構成していたのである。 それは日常の中でのごく当然のありきたりの見飽きた風景だったかも知れないが、あたりまえゆえにその地域一帯を代表する眺めだったのだ。


近所の人々も、「いい風景だったのに」、と口々に訴えたが、それはいつもあってあたり前ゆえに誰にも省みられなかった家族が突然いなくなって、初めてその存在にどれほど寄りかかっていたか思い知らされるようなものなのかもしれない。


しばらくすると大量のコンクリートと鉄骨が運び込まれて、無機質の壁が上に伸び始めたが、それはなじみ過ぎた見慣れた風景の墓碑のようだと誰もが思った。



街中の猥雑な風景や、景色まで当世の流行におもねって商業化された新興住宅地やマンション群を見るにつけ、私たち日本人の風景への無関心さというのは世界でも突出しているように思うことがある。

こんな私たちが近所の失われた風景に異質さを感じるのも、きっとほんの束の間のことなのだろう。

ダンゴムシのいる庭

ダンゴムシ  


ダンゴムシの足は16本。エビやカニも歩くのに使わない足も入れると16本で、ダンゴムシは甲殻類というエビやカニの仲間だというのです。知りませんでした。
子供世界ではダンゴムシは人気者で、ダンゴムシの絵本やキャラクターソングもあります。


不快害虫という不快な言葉がありますが(なんて人間の傲慢なこと)、ダンゴムシは枯葉や虫の死骸を食べ土に返す自然の循環に一役買っています。わが庭を見ても確かに、ダンゴムシの耕した土は粒状性に優れていかにも優秀そうです。

エコやリサイクル、自然を大切にと叫ばれる今、もっと人は身近なダンゴムシの生態をよく知るべきなのでしょうね。

ダンゴムシ2 よいしょっ、と ;


「ダンゴムシ」育てて調べる日本の生きものずかん4 /集英社

六月の気圏

梅雨も後半。
毎朝、窓を開けて一日の初めにくすんだ空と出会う。

同時に触れる梅雨の空気は、空気中から飽和してあふれ出した水分のせいか

ざらざらとした粒状感をもって気道を流れるような気がする。

このとき、いつまで続くのかわからない無表情な梅雨空に、

うっかり変化と感動の薄い毎日の勤め暮らしを重ねてしまうと、

梅雨時はいっそう鬱陶しいものとなるのだが、全天は単純に一様な灰色ではなく、

私はかすかなトーンが空を微妙に染め分けている部分を探してみる。

写真に撮ってしまえばのっぺりとした白い面にしかならないわずかな色の起伏だが、

この微妙な濃淡に、巨大な雲が単なる一塊物でなく

微細な粒子の運動であることを思うと

あの空の雲と、呼吸する空気の湿気の粒は確かにつながっている。

雲を見上げて吸い込む空気に、全天の大気と連なる自分を感じる、これは

湿った梅雨の朝の大好きな瞬間だ。



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 けっして雨も高温多湿も嫌いでありませんので 

 私の前世はカエルかイモリかもしれません。

 嫌われがちな梅雨時にもわくわくする瞬間って、あるもんです。

きれいなお姉さんは好きですか


メリーランド州のサッソーの町は、プロテスタントの一宗派である長老統制派の町なので、信仰に基づく素朴な生活原理によって日常が営まれている。 たとえば遺体の埋葬などは今もって棺も使わず布で包んで素朴な土葬によって行われるのだが、それゆえにゾンビの町としても有名だ。
まれにゾンビが土中から這い出して静かな町を徘徊することがあるのだが、迷い出た死者は信仰厚い人々にまた丁寧に葬られ、町も公式にはこれを否定しているので、町以外では一部のオカルトマニアと研究者に知られるだけだ。

このゾンビというものが死亡判定後息を吹き返したものなのか、日本でも昔時折見られたという走屍という血迷った死者なのか、あるいは他の何なのか知らないが、どうも近年町のゾンビの様子も変わってきたらしい。町の人が言うにはとにかく、見かけるゾンビが綺麗になったというのだ。

町で自動車整備工場を営むマシューズさん(56才)の談
  「一杯引っ掛けて帰る途中によ、夜道を女が一人でな、

  とぼとぼ歩いているのが見えだもんだから、声かけだわけよ。

  まあ、ちょっとおれ好みのきれいな大年増にみえたもんだからよ。
  いや、別に変な気を起こしたわけじゃねえよ、

  だって夜道の一人歩きはアブねえべえ。
  ほうしたら、いきなり頭さ噛み付かれてよう、

  こいづがゾンビの姉ちゃんだったんだべ。
  ゾンビの差し歯が折れなかったら、おりゃあ脳ミソ吸い出されるところ

  だったんだべなあ。
  いや~、肌の張り、あの色つや、いい女だっけなー。

  とてもゾンビには見えなかったんべ。」

生者と見まがうほどの鮮度の高いゾンビについて、専門家によれば、原因として考えられることはいくつかあって、一つには現代人の体には抗生物質が蓄積しているため死後腐敗の進行が著しく遅くなったこと。もう一つはエステ技術の進行でエステの効能が死後も継続あるいは死後に効力を発揮するケースがあること、また、あくことなき反老化への盲目的欲望が、実に怨念の域にまで達して死後の人を駆り立てているのだという。確かにサッソーの町には、ゾンビがエステやジム通いをしているという噂もある。

さらにゾンビ騒動の有無は別にしてこれは先進国では共通する傾向なのだそうだ。

なるほど、日本でも私の近所を見渡してみれば、
家の前を毎日走ってる干し柿みたいなじいさんも・・・
近所のジムのエアロビに通う妙な化粧のオバサンも・・・あるいは・・・はて。


もっとも日本では、死にながら生きるような現代の人の群れに健康志向なゾンビがまぎれているとしても、これらを区別するのは難しいことかもしれない。

男には飲まねばならないワケがある。

出かけたベトナム・レストランで、向かいに座っていた女二人組みが気になった。

このレストランは広い店内にエキゾチックな植物も多いが、壁も天井もガラスと鏡を多用しているので、人の配置によっては他のテーブルの客が妙に目に入る角度があるのだ。
ただ、おしゃれなせいか安くもないのに若い客も多い。

そんな若い客の中の二人組が目に入ったのだが、気になったのは彼女らの奇妙に長くて太いまつ毛が、まばたきする度にザワザワと目を引いてまるで虫がうごめいているようだったからだ。
そこで一緒にいたY嬢に「すごいまつ毛だ」と言うと、Y嬢もとりあえず外出のときは塗る付けまつ毛だけつければなんとなく格好がついて他の化粧は省略できるので便利だという。
そういうものなのかな。

 何はおいても
 マスカラ塗って
 粋な姉さん
 ゲジまつ毛
   (都都逸風に)

酔ってゲジゲジまつ毛の思いつきに調子に乗って、軽くにらまれる。

それにしても、過剰なまつ毛と濃過ぎるマスカラなんて・・、と続けて私はクダを巻いて、

化粧塗りこめては、専用のクレンジングでぬぐい取り、 おしゃれな店で食いすぎては、ジムやエステに通ってぜー肉を落とす、やはり女が現代の空疎な消費至上主義社会にエサをやっているのかなと言うと、すかさずY嬢、
「その通りね。それはあなたが飲みすぎて胃薬飲んでまた飲みに出かけていくのと同じね。」
と切り返された。

う、やられた、が、こういう生意気な口をきく女の扱いは得意なので追加のオーダーとデザートを大いに振舞って、身動きできないほど飲ませて食わせて差し上げた。

結局この日は店を出ると本当に具合の悪くなったY嬢をタクシーに乗せて、キオスクで買った胃薬を差し出し、「同士よ・・。」と見送ったのだが、Y嬢の顔には人間の女から異形の生命体アンノウンに転落してしまった苦悶が見て取れた。

男の飲む事情に口出ししてはならない。男には飲まねばならないワケがある(爆<バカ)。

それにしても、私のペースで飲み食いしようなんて、ふ、甘いぜ。

傘がない


雨傘の忙しい季節です。
雨の日の外出に、雨を避ける手段として傘が一般化したのはいつのことなか知りませんが、江戸時代には蛇の目の唐傘だったのが、二百年以上を経た現代に至っても防水加工の化繊の傘に進歩した程度というのは、なんと偉大な科学の進歩なのでしょう!

ジュール・ベルヌは知りませんが、幼少時の私もまさか21世紀になっても人は雨の日には傘さして歩くなんてことは想像しておりませんでしたね、ほんとに。

こんな雨具への愚痴はともかく、傘をよく使う季節は、傘がよくなくなる季節でもあります。
コンビニや本屋の店先に傘立てがありますが、こんなところに置いた日にゃ傘が何本あってもたりません。傘を置いて買い物後まで傘があったら、それはラッキーだっただけというもの。。

先日も会社を出ようとすると、また雨。
ところがあいにく傘がないので仕方なく、傘立ての中から遠慮しつつ見るからにたぶん誰も使っていないであろうと思われる安価なビニール傘の、しかも経年劣化して黄色みを帯びてペタペタするようなのを一本拝借して出かけました。

・・・その晩部長が帰り際、「コンビニで買ったオレの大事な傘がない!」
言い出してひと騒動あったそうですが、もちろん、私の関知することではまったくありません。

しらん、しらん。