酒とホラの日々。 -53ページ目

滅びの美

前回、都市文明の週末遺跡の話をしたが
立派な産業道路や工場・物流基地などにはどういうわけか
立派な植栽が施されて緑の緩衝地帯を周りに備えているものが多い。


建築当初はきれいに植え込まれたものも、人が住むわけでなく
都市近郊の人工空間は熱心に手入れが施されるわけではないので
意味と目的を失って暴走する緑と、機能性に特化した人工空間の衝突の現場だ。


緑に侵され、週初に人が帰ってこなければすぐにもアンコールワットか
ティオティワカンになりそうな週末だけの文明の遺跡。


あるいは毎週、荒廃と回帰を繰り返す呪われた都市。


この週末遺跡の魅力を話すと、怪訝な顔をする人半分、わかる人半分、
行ってみたいという人そのまた半分。なぜかほとんど女。


何考えてんだよ、連れて行きません。たとえ目当てが違っても
女連れでは遺跡探訪も観光ツアーになってしまう。
行きたい人は一人でこっそりと行きなさい、と答えるのが常。。。



廃墟の週末

古い遺跡や廃墟を見るのはある種の感慨を伴う。

崩れかけた古代の神殿跡の石を踏むとき、
摩滅した石碑の文字を指でなぞり読むとき。。。


だが長い時間とは無縁のような日本の現代都市にだって
探せば古代文明の廃墟や密林に放棄された寺院を見るような
心にざわめきをもたらす風景に出会うことはできる。


たとえば東京とその周辺の湾岸につながる工場地帯には
環境の保護と調和の観点からか
無機質な建造物を取り巻くようにたくさんの植栽が施されているが
極限まで機能性に特化した倉庫や工場と、育ちすぎた樹叢とが
鈍いコントラストを放っている。


ご都合主義でとりあえず植えた緑が建造物や路側帯を圧迫し
のたうつように広がってくる様は植物たちの反乱前夜を思わせる。


事実東京湾岸の工業地帯などに見る、人工物を犯す緑の禍々しさは想像以上で
時々私は自転車に乗って、植物に侵食されるコンクリートと鉄骨の空間の
遺跡探訪に出かけることがある。


都会の緑は癒しを与えるやさしい絶対善と見られがちだが
野犬化した放し犬のような凶暴さを見せる、これもまた都会の緑。

このまま行方不明になるのか、変死体で発見されるのかと
恐怖を覚えるほどのヒトケのない週末だけの廃墟の静寂は、
都市文明の作り出した第二の自然景観でもある。

急げ、夏だ!

         高原の葉

実は私も三連休なので、高原散歩と酒の休日です。

七・八月は夏本番とはいえその夏模様において一様ではありませんが、

日本においては七月後半こそ夏のピークといえる時期でもあります。


その後のゆるく長く下降線をたどるような暑さもまた趣はありますが、

この短く尖った夏を大急ぎで味わう時をどうか逸しませんように!




21世紀の成人異常者


会社の定期健康診断の実施要領と検便セットが届いた。
袋には「成人病検診の御案内」とあるが、成人病という文言はすでに
生活習慣病に改められたのではなかったかな。

痴呆症だって認知症に、分裂症だって統合失調に変更されたし、
成人の日新七五三と変更検討中だというではないか。

すでに街中では「成人映画」などという表現はしないし、
『成人向け』に特化された趣のある『成人病検診の御案内』というのも
なにやら怪しい陰がさす。

成人向けだの成人病という表現を堂々と表記するという
病院のデリカシーのなさには憤りを覚える・・・と、思ったら
「成人」ってまだ禁止用語でも差別的表現でもなかったのだな、これが。 

検診で病院に向う電車の中、目的のブツが充填された

検便セットを抱えて立っているのも妙な気分だ。
ただ、態度悪く人を押しのけて歩くオヤジも今日は強気で押し返すことができる。
「何だお前!、人を押しのけてどういうつもりだ!
気安く近寄るんじゃない!、このバッグに何が入っているか知ってるのか? 
いいか、オレはウ○コ持ってるんだぞ!」

もっとも、人にぶつかって押しやることが平気なような人間は、

所詮どこに行ってもつまらない扱いしか受けていない程度の人間なのだろうから、

関わるだけでもそれこそつまらないので、ここは空想だけであるが。

21世紀の精神異常者


とにかく病院にたどり着くと、後は病院ガウン一枚で流れ作業に送られる
情けないオヤジの群れを目撃することになるのだが、これはこの世で一二を争うつまらない
光景かもしれない。
それがなぜか、考察する意欲も萎えるほどあまりにつまらない眺めなので
詳細は略すが、若さの話でもなければ単純な容貌容姿の話では決してない。

・・・人間も成人となるほどにまで生きたら、なあ。

それはちょっと難しいことかもしれないが。


****


  (写真はキング・クリムゾンの「21世紀の精神異常者」、本文とは

  深いつながりはありません。当時のことをリアルタイムでは知りませんが、

  私は後の第二次キング・クリムゾンのエイドリアン・ブリューが好きだった。)

瞑想Ⅲ 

ベランダには木のベンチがあって
時々座ってはボーっとしている。
手すりの向こうに木立が見えて、その向こうに空が見えるが
空気に漂う季節の微粒子を見るかのごとく
目の焦点はあてどなく中空を漂う。

鳥が鳴けば耳をそばだて、
吹かれるままに風の運ぶ木の芽の匂いに遊ぶ。

こうしたときにふと光に当たったように
忘れていた自分に出会うことがあるのだが、

いつも会社や世の中に突き動かされて
右往左往する自分とは別の自分だ。

そうだったのか、自分はこんなところにいたのか。

社会的価値や利得に汲々とする騒々しい情報のノイズを断って
ただ何もしないときにだけ、素の自分が、
戸惑いながら微笑んでいるのが見える。

たったそれだけのちっぽけなつまらない自分でもあるけれど
誰のためかわからない欲得を追いかけることに忙しい世の中もまた、
同じようになんとつまらないことかと思える無為の時間でもある。。。

・・・この前はそのまま寝入って椅子から転げ落ちて目が覚めたが、
転がったのは自分なのか、世の中なの方なのか一瞬わからなかった
自分に思わず笑ってしまった。

今日から僕はタイムトラベラー

あっという間に、もう七月も半ば。今年ももう半年もない。
すぐに年末と正月もやってくる。今年の業務計画もいい加減なうちに
成果主義の成果がチェックされる。

大方の会社での現在の厳しい人事制度では

刈り取る成果がないなんてのは許されない。


七月か、そういえば七夕もやってなかったな。
でもいいんだ、うちは旧暦でやるから、といってごまかしたが、そうか、
旧暦だ、七月をもって、captain-jackの日常運行は太陰暦で
行うことといたします!

そしたら、まだ六月じゃん、水無月じゃん、正月なんてまだまだ、楽勝だー!


そうだ、そうだ、その時々のご都合に合わせて太陽暦と太陰暦を使い分けて
行き来すれば一年も365日でないし、
期限や時節に余裕が生じさせたり、すでに過去のこととして葬るのも
前後の限度はあるが自在であるな。


お気に入りの正月なんかは二度おいしいし、また、陰暦のなかにいて
面倒な時期がやってきたらすでに先に行っている太陽暦にジャンプすれば
そのまま消滅する。


はっはー、時は飛び去るものとのみ解会するべきにあらず。(曲解もいいところ)
なんだー時間は一方向に等しく流れているわけではない。
時計で社会的都合に切り刻まれた時間が個人にとっての時間と同値ではない。
存在あっての時間、今ここにある自分あっての時間があってもいい。

すばらしい、でもま、干されるかもしれないが。

大人と子供と水たまり


私が3,4歳のころ、実家の前によく水たまりができて、
通りかかった自動車がぬかるんだ道路に車輪をとられ

立ち往生するのを見るのが楽しみだった。

よく雨の後などにぬかるみができて車が捕まったのだが、
地下水位も高かったのか一度できたぬかるみはなかなかなくならず、
何度も繰り返し車が捕まってはその都度大人たちがやってきては

エイヤ、エイヤと車を出すのが、面白くて仕方なかったように思う。

実家の前は私道だったためにだいぶ後まで舗装されずに土と砂利のまま取り残されて
しかも先が袋小路になっていたため車の通行も少なく、幼い近所の子供の絶好の
遊び場でもあったのだ。

だから、晴れた日が続いてぬかるみが小さくなってくると
私たちはぬかるみに水を運んで水たまりぬかる”保全”を行うことに
余念がなかった。

ひとたび囚われの車の脱出ショーが始まると、必ず私たちは道路わきから
大人たちの大騒ぎするさまを眺めた。中でも工事用車両などの「大物」が
捕まって大勢の人が行き来する様子などは最高の見せ場だったのだが、
時には子供たちの遊び場を占拠してしまってすまないなあ、というように
お菓子なんかをくれる大人もいたりして、そんなときはもうけたような、
どこかうしろめたいような、ちょっと微妙な気分にもなった。

幼い日に見た水たまりはもう記憶の中にしかないが、もしまだあったなら
ラムサール条約に登録したいくらいの大事な水たまりだった。



今ではもう津々浦々まで舗装が行き届いて、

道路に由緒正しい水たまりを見ることはなくなったが、それでも雨の日には、

子供などは目ざとくアスファルトの上の水たまりを見つけては
水たまりから水たまりをつたって歩いたりする。


ただの水たまりだが、水たまりは地面が見せる表情のひとつであり

身近な地表に生じた”事件”でもある。


**


水たまり
(先日雨上がりに郊外で正しい水たまりを見かけて
車を迂回し降りて写真を撮った。

しかし、水たまりの鑑賞にふける大人って、・・・?。)

もしも私が二百年前の武士だったら

恵比寿のワインバーで
なぜか200年ぐらい前の私を想像する話になる。


・・・たぶん武士で、それも地方の貧乏小藩の下級武士で、
その上財政窮乏の折、少ない禄から二割も藩に貸し上げされている。
それでも地方から江戸屋敷詰めになったのはいいが、
もともと宮仕えの向かない性格に加えて、
仕事も役回りも、上司ともそりが合わず、
毎日うつうつと勤めを終えては付け句やら小唄の
稽古に行ったりしている、・・・かな。


ここから、同席していた女性が後を引き継いだ。

「私がちょっと訳ありの小唄の師匠でね、
お弟子さんの中でも一番下手で何しに通ってるのかわからない
あなたとある日駆け落ちするの。
あなたは追っ手から逃れるために人目を避けなくちゃいけなくて
二人して裏だなの長屋住まいして、
私が茶店の仲居をして暮らすって、ロマンチックだと
思わない?」


「・・・・。 全っ然、お・も・わ・な・い!」 (-""-;)


ろまんちっく~?、そりゃ悲惨って言うんだろう!?


私としては大田南畝(四方赤良)と知り合いになって
天明狂歌の隆盛の一隅を担うってのが良いのだ、と希望を述べたところ、
「ふ~ん、どっちにしても真面目に働く気はないんだー」といなされた。


(おまえなあ、そのワインだって「一杯千五百文」するんだよ。
さっきからあれこれガパガパ飲んでるけど、俺が払うんだよ)、
とは口に出して言わなかったけれど、
ロマンチックとはいったいどういう感覚なのかを問い直す晩だった。
(というか全然ワカラン)

自転車泥棒にご用心!


日ごろデスクワークや会議の多い私は、休日は車に乗るのを避けて、極力自転車で移動することにしている。またせっかちな私は、歩道橋や階段道も迂回せず自転車を担いで上り下りするのが常だが、これには時折奇異なものを見るような視線を感じることがある。

だが、自分のできないことを人がやることを理解できない人間というのは、どこにでもいるものなので気にしない。


ある日いつものように、近隣の住宅地を抜けた長い階段道を愛用のマウンテンバイクを肩に担いで駆け上っていると、なにやら後ろで人の呼ぶ声がした。 ちらと振り返ると、階段の下、少し離れたところで年寄がこちらを指差して何か言っている。 足を止めてさらに見ると、他にも二人三人と人が増えてこちらを見ている。


なんだろう、この先行き止まりなのかな、危ない道だったかな、それとも何かポケットから落としてしまったのだろうか、と思い、階段の途中で向きを変えて降りていくと、年寄たちは驚いたようにわめき声を上げて逃げていくではないか。 私も驚いて振り返って階段道を見上げたがなんだかわからない。 とにかくここは離れたほうが良いような気がしたので、すぐに自転車に跨り年寄たちの行った方に走っていったが、年寄たちはまだなにやらわめいて走っているのだった

いったいあれは何だったのだろう、妙なこともあるものだと思いつつ家に帰ると、町内の自治会の緊急連絡網が回ってきた。

連絡内容は、

「つい先ほど隣の町内で、黒いジャージにサングラスの怪しい男が

自転車を盗んで逃げるところをお年寄に見咎められ、

逆にお年寄を自転車で追い掛け回すという事件がありました。

しかも男はまだ行方がわからないので十分に注意してください」

というものだった。

その日の夕方、急造の自警団よろしく自治会の町内パトロールがあって、

数人ずつでチームを組んで私も出かけた。

道々、今日の事件の話になった。
「怖いですねー、犯人は自転車を担いで逃げるところを見つけられたので逆上して向ってきたというじゃないですか」
すごい形相で、大きな刃物も持っていたそうですよ!」
「お年よりは、こいつ殺してやる!、と言われたそうですね」
「・・・・・」

以来私は自転車に乗るときもいつも通りきちんとした服装で出かけている。
自転車用のジャージなんてとんでもない、ただこのほうが自転車を降りても携帯した上着を羽織れば、人と会うのも、おしゃれなレストランに入るのも全く差しさわりがないので楽だからだ。

この自転車の町乗りスタイルはぜひ他の人にもお勧めしたい。

・・なお、あの凶悪な自転車泥棒はまだ捕まっていない。
変装して逃げているのだろうか。実に物騒な、とんでもない世の中になったものだ。。。




                                  (ホントハーフ)

夏の本を一冊

『蛙の消滅』 作・宮沢賢治  絵・小林 敏也 / パウロ舎
          蛙の  
ぺネタ型に変わっていく夏雲の峰を眺める蛙たちの光景が気に入って衝動買い。

この絵は主にスクラッチ(引っ掻き絵)で書かれているそうで、
絵の技法のことはよくわからないが、
素朴だが非常に繊細な線で夏の場面が描かれている。

動きの止まった午後の空、勢いよく伸びた草むらの匂い、湿った暗い雨の森。

日本の夏のピークは短い。

だからたどり着いた夏には、盛んな勢いとともに、

後は坂を下っていくような一抹の寂寥が同居している。

こうした夏の感傷をなぞるような線でこの絵は構成されている。



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蛙といえば、以前家の近くにササやらツユクサやらカンゾウだのが生い茂る藪の下にもう使われなくなった堰が流れていて、両岸の草にはいつもアマガエルがよくつかまっていた。ところが何年か前にお役所による環境再生とかいう名目の下、税金を投入して藪を切り開き堰を埋め立てて、コンクリート製のちゃちな人工小川もどきがつくられたのだが、藪や堰とともにあの蛙たちもまた消滅してしまった。



             蛙