天海 (238)
天海 (238) お江と秀忠はよほど相性が良かったのであろうか、多くの子供を産んでいるのである。何と11年間で7人である。 第一子 千姫 慶長2年(1597年)4月11日 伏見城 第二子 珠姫 慶長4年(1599年)6月11日 江戸城 第三子 勝姫 慶長6年(1601年)5月12日 江戸城 第四子 初姫 慶長8年(1603年)7月下旬 伏見城 第五子 家光 慶長9年(1604年)7月17日 江戸城 第六子 忠長 慶長11年(1606年)6月1日 江戸城 第七子 和子 慶長12年(1607年)11月23日 江戸城 第一子と第二子の間が26ケ月、第二子から第三子までが27ケ月、第三子から第四子までが26ケ月、第四子から第五子までが12ケ月、第五子から第六子までが23ケ月、第六子から第七子までが17ケ月となる。すると初姫と家光の間が異常に短いことがわかるのだ。 お江は初姫を伏見で生んでいる。そして、産後は暫く伏見で療養していたと思われるのだ。そんなお江が、はたして初姫を産んだ一年後に家光を産めるものであろうか。全く不可能とは言わないが、現実的ではないと思われる。 実は、家光の誕生日は長く秘密とされ、公表されたのはお江が亡くなってからである。さらに初姫の誕生には慶長7年説と慶長8年説があり、さらには「母不詳」とする文献もあるという。初姫はお初の懇願で京極家に嫁いでいるので、お江の実子である可能性が高い。 これら現象は初姫誕生と家光誕生の整合性を取り繕うことに、苦労した結果ではないだろうか。つまり、家光はお江の子ではない可能性が高いのである。 「慶長八年五月十八日、是月大納言殿の北方御長女千姫君をともなひ御上洛あるべしとて。その御首途に先青山常陸介忠成が許ヘわたらせしかば。大納言殿にも同じくならせられ。忠成にも茶入丸壺硯屏など若干もの賜はり。終日御遊ども数をつくされて帰らせ給ふ。北方。姫君は其夜忠成がもとにとまらせたまひ。夜明て帰らせ給ひぬ。やがて江戸をいでたたせ給ひ。」(「東照宮御實紀」) 千姫の輿入れに身重でありながらお江は付いて行くことにした。何といっても、千姫はまだ7歳である。この婚礼が徳川家と豊臣家にとって重要な政治課題であることは、お江はよく理解しているし、嫁ぎ先には実姉の茶々もいる。そうであっても7歳にして他家に嫁ぐのは余りにも可哀そうである。お江は一日でも長くそばにいてあげたかったのだ。 「しかしながら、上方に参れば数か月は江戸を留守にします。その間に殿さまが禁欲生活をするはずがありません。またぞろ、隠れて身分の低い女中に手を出し、密かに子供を作られては堪りません。」とお江は心配するのである。お江には「長丸誕生」という苦い経験があるのだ。 民部卿局は、「御心配は御尤もにございます。しかしながら大納言様に、その間、女人を近づけず禁欲せよとは、誰も申せません。」というのだ。お江はしばし考えると、 「いや、私が最も恐れるのは大姥局の侍女、女中に手を出すことだ。あそこに匿われたら私たちには手が出せない。もし子でも出来たら側妾にされかねない。それだけは嫌だ。」という。大姥局とは秀忠の乳母である。家康直々に召出され、化粧代として武蔵国で2千石を与えられている。お江ですら、なかなか手が出せないほどの権勢があった。 そこで民部卿局の提案でお江の侍女・女中の中から数名を選抜し、夜伽の相手をさせることにしたのである。自分の侍女であれば、子ができても褒美を与えて解雇することもできる。お江も、「なるほど、その方がまだましだ。」と考えたのであった。中村孝也 著『千姫真実伝』,国民文化研究会,1966.7.国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2529730 (参照 2024-07-18)