天海 (221)

 

 

 

 「直政は、天下に両兵部と言はれし其一人なり。小早川隆景。嘗て曰く、直政は少身なれども、天下の政道相成るべき器量ありと。」(「名将言行録」)

 

 関ケ原に参陣した時、直政は40歳であった。文字通り武将として絶頂期にあったといって良い。

 美少年で小姓上がりの直政は、出世するたびに周囲から妬まれた。外様でありながら眉目秀麗で、若くして家康から抜擢されたため、周囲の目は厳しかったのである。

 このため、直政の家康に対する奉公は峻烈を究めた。それは奉公人にも及び、不手際をした家臣を手討ちにすることも多かったという。このような気性の激しさから、周囲からは「人斬り兵部」と揶揄された。

 

 「此役、直政手負て右の腕を靭の車の所へ掛けて本陣に至る。家康見て殊の外の気色にて兵部手負いたるやと言われ、掛硯の薬を手づから下し賜はり。」(「名将言行録」)

 

 直政は家康本陣に向かう島津義弘軍に立ちはだかった。義弘軍はその後、突然南下したため、直政は追撃したのである。副将・島津豊久を討ち取ると義弘本隊の目前まで迫った。その時、島津軍から銃撃を受け、跳弾が右腕に当たり、落馬したのである。

 

 関ケ原で負傷した直政であったが、その戦後処理でも活躍した。真田家、島津家、毛利家、長曾我部家等も仲立ちをしたという。家康は直政に三成旧領・近江佐和山城18万石を与え、上方の備えとしたのであった。

 

 しかし、直政の銃創は容易なものではなかった。ひどく損傷した深い傷にはウエルシュ菌が繁殖しやすくなり、感染症となって、筋肉組織を破壊するのである。これを「ガス壊疽」というようだ。治療しなければ数日で死亡するし、仮に治療をしてもこの当時の医術では、なかなか助からなかったようである。

 

 「慶長七年二月一日、近江佐和山城ノ井伊直政卒ス、子直勝嗣グ。」(「史料綜覧」)

 

 慶長7年1月中、直政は死期を悟り、二人の息子を枕元に呼んだ。その時、直政は文字が書ける状態ではなかったが、家臣に支えられながら、漸く認めたという。

 

 「成敗利鈍に至りては、明の能く逆め睹る非ざるなり」(「井伊直政遺言」)

 

 これは諸葛亮孔明の「出帥表」の一説である。

 「成功するか失敗するかは誰にも分からない。だから精いっぱい行動することだ。」無念の思いであった直政が二人の息子に伝えたかったこと、それは「まず行動せよ。」という事である。井伊直政、享年42歳であった。

 

 「天下の大戦にしばしば先鋒の将として勝利を得ること、誠に開国の元勲なりとて、上野国高崎をあらためて、三成が居城近江国佐和山城をたまひ、六万石を加恩せられ、同国及び上野国のうちにをいてすべて十八万石を領する。」(「寛政重脩諸家譜」)

 

 直政を「開国の元勲」と称えた家康はその死を深く悼んだ。

 世間では、直政が佐和山城を嫌い、琵琶湖岸の磯山に新たな城を建築しようとしていたため、その死は三成の祟りであるとの噂が流れていたのだ。

 家康は、三成の居城であった佐和山城を徹底的に破壊し、領国から三成の痕跡を一切消し去ったという。さらに、公儀奉行3人をつけて、7か国12藩を動員して、天下普請として彦根城を建築したのであった。

 

 

彦根城天守閣