天海 (225)
【征夷大将軍】
さて、これで家康は全国の諸大名への知行割を完了したのであるが、この領地の再配分は判物や朱印状は一切なかったというのである。もちろん何らかの文書はあったであろうが、所詮は私文書、口約束である。
当時の権力機構としては、公式の朱印状は豊臣秀頼が発行する他なかった。それを豊臣家の家臣である家康が勝手に発給することはできなかったのである。
ただ、当時の豊臣政権にも致命的な欠陥があった。関ケ原戦役で奉行をはじめとする官僚統治機構がほとんど失われたのである。秀頼政権は大坂近郊にしか権力が及ばなくなっていたのであった。
蔵入地の収入は豊臣統治機構の経済的な基盤であったが、統治機構が失われた以上、徳川家の統治に移管せざるを得なかったのである。こうして蔵入地・主要都市・鉱山等の管理は徳川家の中に組み込まれた。
このような状況を改変しようとすると難しい問題が生じる。家康は秀吉から秀頼成人まで伏見城で政務をとるよう命じられた大老でしかないのである。このため諸大名の歳首の挨拶も、まず秀頼であり、続いて家康であった。
関ケ原戦役の直後から諸大名の間では「御位日本将軍に御成可被成由候。」との噂があったという。
家康は関ケ原合戦、直後に新たな統治機構として「老中」を設置した。正確にいうと大久保忠隣は既に老中であったが、新たに本多正信(のちに首座)、大久保長安、成瀬正成、安藤直次、本多正純、榊原康政の6名を指定したのである。
長安は佐渡金山・生野銀山等、多くの鉱山を接収し支配した。正成は堺町奉行となり、幕政に関与した。直次と正純は共に家康の側近として仕え、幕政を取り仕切ったのである。
さて、榊原康政は家康から水戸に加増を打診されたといわれる。しかし、関ケ原戦役では秀忠軍遅延のため戦功がなく、舘林が江戸に近いことからすぐに参勤できることを理由に断った。後に家康は近江に5千石を加増したという。
康政は若手武将が家康の側近として登用されるのを見て、「老臣権を争うは亡国の兆しなり。」といって幕政に関与することを控えた。
「やはり将軍でしょう。」と正信は言うと、
「オレは義昭になるのか。」と家康は不機嫌そうに言う。
(分かっているくせに面倒くさいな。)と正信は思うが、いつもの事である。
「征夷大将軍は源氏の長者であり、武家の棟梁であります。豊臣家の関白とは並立しうるものと思います。」と正信は説明するが、家康はとうに知っているし、既に手も打っているのだ。云わばこの問答は二人の思考ゲームのようなものである。
「豊臣恩顧の大名はどう見るであろう。」と家康は問う。
「それとなく噂を流しましたが、大きな反発はないと存じます。」
「なぜ反発しないのだ。」と家康は小首を傾げる。
「関白の方が、朝廷における位が遥かに高いのです。殿が関白にならぬ限り、権力の簒奪とはみなされないでしょう。」と正信は答えた。
「つまり、足利公方の最期を見てもわかるとおり、意味をなさぬ空洞になり果てたという事であろう。」と家康が言うと、
「御意、されど将軍は幕府を開くことができ、大名と主従関係を築くことができます。足利の世も初めは武力によって、諸大名を従わせました。将軍との主従関係から大名へ所領の安堵状も発行できます。関白家は公家として祭り上げ、実権を徳川家が握ればよいのです。」と正信は言う。
家康は昔から源頼朝が好きである。
「義昭ではなく頼朝になればよいと言う訳だ。」というと、すかさず正信は「御意。」と頷いた。二人それから呵々と笑いあったのである。
源頼朝像