天海 (219)

 

 

 

 10月28日、景勝米沢に赴いた。米沢は減封前の兼続の居城である。上杉家臣には「所領は1/3」と通知してあった。このため、主だった家臣は米沢に付いていったが、軽輩の者や足軽は上杉家を離れたという。俗に景勝は家臣全員を米沢に連れて行ったといわれるが、当然、脱落者もいたのである。

 米沢入りした家臣は6千人であり、家族・陪臣を加えると、米沢に流入した人数は3万人余いたようである。当時の米沢は、さほど大きな町ではなかったので、これだけの人数を住まわせる家もなかった。そこでやむを得ず、一軒の家に2~3世帯を住まわせたというのだから、悲惨な話である。

 

 これだけ悪条件が重なれば、内紛・お家騒動も起きそうなものだが、景勝の統治はしっかりしていたようである。景勝は、とても生活できそうもない下級武士を集め、農地開拓を行い、開拓村で半士半農の生活をさせた。

 一方、米沢に移っても景勝の兼続に対する信頼は揺るがなかった。ただ兼続自身は大きな恥辱と責任を感じていた様で、実に質素な暮らしをしていた。

 兼続は農地の開墾最上川の治水に努めた。積極的に新田開発を進めたため上杉家は表高30万石に対して、実収入は51万石あったといわれる。

 また特産品にも力を入れ、青苧の織物を奨励したという。こうして多くの大名が法度違反やお家騒動を起こして改易される中、悪条件が重なった上杉家では、家中で揉め事を起こすことはなかったのである。

 このような景勝に対する評価は、人により意見が分かれるかもしれない。でも私は好きな武将である。この無口で不器用な武将には、島津義弘や立花宗茂、本多忠勝らと同じ信念を感じるのだ。

 因みに景勝の活躍はこれで終わりではない。最後にもう一花咲かせる。それは、大坂冬の陣である。

 

 「慶長六年八月廿五日、陸奥会津六十万石ヲ下野宇都宮ノ蒲生秀行ニ与フ。」(「史料綜覧」)

 

 蒲生秀行は家康の娘・振姫を正室に迎えていたので、徳川一門衆と見做されていた。

 一度は父・蒲生氏郷の遺領・会津91万石を相続したが、慶長3年(1598年)に秀吉に下野宇都宮18万石に減封されたのである。関ケ原戦役では秀康と共に宇都宮で景勝に備えた。その後、景勝の処分が長引き、秀行の処遇も決まらなかったのである。

 家康としては五男・信吉に会津に入封させたかったが、病弱である上、重臣たちにも反対が多かった。結局、一門衆であり、もともと会津が旧領であった秀行が、60万石で移封されたのである。

 結果だけ見ると妥当な判断と言える。しかし、その妥当な案が中々定まらなかったという事は、家康が秀行の力量に不安を感じていたからではないだろうか。こののち、秀行は家中騒動を起こし、心労のため大酒を飲み、素行も乱れたという。

 

 「慶長六年十一月一日、徳川家康、江戸ニ帰ル途上猟獲セシ鶴ヲ献ズ。」(「史料綜覧」)

 

 家康は、10月下旬に京都を発ち、11月5日には江戸城に入っている。天海もようやく川越の喜多院に戻ることになった。倫子は大層、不満そうであったが、お役目であれば致し方あるまい。

 思えば昨年の上洛は騎馬による慌ただしいものであった。豪海僧正が亡くなってから、天海は上方にいることが多かったのである。しばらくは関東で喜多院の住職の仕事をしよう。このままでは亡くなった師匠に申し訳が立たない、と思っていた。

 

 

『会津高郷村史』1 (歴史編),高郷村,1981.3.

国立国会図書館デジタルコレクション 

https://dl.ndl.go.jp/pid/9642134 (参照 2024-06-29)