天海 (224)

 

 

 

 「慶長七年八月十七日、薩摩鹿児島ノ島津忠恒、伊集院忠真ヲ日向野尻ニ誅シ、其一族ヲ各所ニ斬ル。」(「史料綜覧」)

 

 上洛の途上、忠真日向国野尻忠恒に狩りに誘われる。その狩場にて忠真は、「誤って射殺されたのである。射撃したのは射撃の名手である穆佐衆の淵脇平馬という男であった。

 その時、忠真は同行していた平田平馬と馬を交換していたという。このため射撃手はどちらが忠真か絞り込めず、念のため平馬を槍で刺殺したというのだ。単純な誤射でないことは明らかである。

 

 同行していた忠真の家臣は直ちに刀を抜き反撃を試みたが、忠恒の家臣達に全員殺害された。この日、忠真の母と弟たちも薩摩国内で殺されているので、この事件は島津家によって仕組まれた暗殺であることは間違いない。

 なお、「誤射」した淵脇平馬切腹となったが、その遺族は後年上級家臣に取り立てられている。

 忠真は庄内の乱で島津家と和睦したが、その後も肥後の加藤家との連携を図るなど、島津家が関ケ原に派兵できない原因ともなっていた。島津家中には伊集院家に対する嫌悪感が強く、いずれは解決せねばならない問題になっていたのである。

 おそらく、この事件は義久忠恒によって実行されたものであろう。実は、忠真の妻は義弘の娘なのである。このため、義弘はこの事件に衝撃を受けたに違いない。これを見ても、義久、義弘、忠恒の関係は複雑で、他家から見れば「訳が分からない。」のである。

 何にせよ、忠恒は島津家に重くのしかかっていた伊集院家の問題を力づくで、解決したのである。

 

 「慶長七年十月十四日、福島正則、封地安芸広島ニ帰ラントシテ、薩摩鹿児島ノ島津忠恒ト摂津兵庫ニ合シ、共ニ大坂ニ至ル。」(「史料綜覧」)

 

 さて忠恒が播磨国室津に上陸したのは10月14日であるから、出立から2か月以上かかったことになる。忠恒は、摂津兵庫で広島に帰る途中の福島正則に出会う。正則は義弘の類まれな武勇律義な性格を尊敬していたのであった。忠恒一行を歓迎すると、大坂城に連れて行き、秀頼に謁見させている。さらに伏見城から山口直友を呼び寄せ、家康に忠恒上洛を伝えさせた。

 それというのも家康は10月2日に江戸に帰城するため、伏見を出立していたのである。結局、11月26日に家康は慌ただしく上洛した。

 

 「慶長七年十二月廿八日、薩摩鹿児島ノ島津忠恒、安芸広島ノ福島正則ト共ニ山城伏見ニ至ル、是日、徳川家康ニ謁シテ、本領安堵ノ恩ヲ謝シ、尋デ薩摩国ニ遁レシ前備前岡山城主宇喜多秀家ノ助命ヲ家康ニ請フ。」(「史料綜覧」)

 

 12月28日、ついに忠恒家康と謁見した。なんと正則は伏見城まで同行してくれたのである。こうして長い、長い島津家の和睦交渉は終わった。それにしても島津家はこれでもかと言うほど厚かましいお願いを連発し、最後には秀家の助命まで頼み込んでいるのである。

 この面会は島津家にとって大変重要であった。つまり忠恒に対して領国の安堵状を渡したのであるから、忠恒は島津家の当主として公式に認められたことになったのである。これで義久・義弘の二人は過去の人物となったのであった。

 忠恒は翌慶長8年(1603年)1月末、無事、重責を果たして薩摩に向けて出立した。

 それにしても家康は何故こうも島津家に甘かったのであろう。実は、家康は近々、征夷大将軍の就任を控えていたのである。心置きなく幕府を開くためにも一刻も早く全国支配を確立したかったのである。

 東北の雄であった上杉家や関東に威勢を保っていた佐竹家と違い、島津家は遠征するにはあまりに遠かった。

 そして、家康は琉球工作を島津家に期待していたようである。家康は明との交易を希望していたが、朝鮮役の後遺症は大きく、どこにも手掛かりがなかったのである。島津家を通じて琉球王国に仲介を期待していたようである。

 

 

首里城守礼門