天海 (223)

 

 

 

 慶長7年(1602年)4月10日、佐竹義重の説得により、義宣がついに上京を決意し、常陸水戸を出立した。途中、相模国秀忠に会い謝罪すると、そのまま伏見城まで来て家康家名の存続を願い、謝罪したのである。さらに義宣はその足で大坂城に行くと秀頼に謁見したのである。

 この時、家康は「義宣ほどの律義者も見たことがないが、律儀すぎるのも困る。」と言ったという。ただ徳川家としても無傷の大兵力を持つ佐竹家をこのままにして置けなかった。

 

 「慶長七年五月八日、徳川家康、佐竹義宣ノ常陸五十万石ヲ収メテ、出羽秋田ノ砥沢二十万石ヲ給シ、秋田実季ノ砥沢湊城ヲ収メテ、常陸宍戸五萬石ヲ与フ、又陸奥岩城ノ岩城貞隆及ビ同国中村ノ相馬義胤ノ封地ヲ収ム。」(「史料綜覧」)

 

 家康は、改易された秋田氏の所領接収していた蔵入地を合わせて、佐竹義宣を秋田砥沢20万石に封じた。ただ当時、石高はまだ確定していなかったようである。

 秋田実季関ケ原戦役では、東軍に付き、小野寺義道の大森城を攻めた。ところが、戦後最上義光は「実季は裏で義道と通じていた。」と讒言をしたのである。義光は会津攻めで出羽軍の指揮権を有していた。しかし実季はあくまでも自分たちは家康の配下であり、会津攻め中止で、義光の出羽国の指揮権は消滅したと考えていたのだ。義光は自分の指揮に従わない実季と軋轢が生じていたのである。このため、実季は改易の憂き目にあった。

 義宣は実季に1万石で仕えるように誘ったが、実季はこれを謝絶した。実季は家康に弁明し、秋田家が東軍に貢献したことを主張したのである。その結果、常陸国宍戸5万石に転封となった。しかし管理を任されていた蔵入地は手放すことになったので、事実上の減封であった。

 

 「慶長七年八月一日、薩摩鹿児島ノ島津忠恒、伊集院忠真等ヲ従ヘ上京セントシ、鹿児島ヲ発ス。」(「史料綜覧」)

 

 さてさて、これで戦後処理もついに島津家を残すのみとなった。頑固おやじ二人を抱えた忠恒はこの危機をどう乗り切るであろうか。

 

 慶長7年2月24日、島津忠長新納旅庵が家康に謁見した。

 「うむ、つまりオレの言うことが信用ならん、という事か。」と家康は二人を睨みつけた。二人は義久上洛には家康の「言葉」だけではなく、「起請文」が欲しいというのだ。周囲の者たちは震え上がった。これはさすがに家康も怒るであろうと思ったのだ。ところが、家康はこれに応じたのである。

 ここで薩摩国・大隅国・日向国諸県郡の所領安堵忠恒が後継者となること、さらに、義弘についても赦免するというのだから驚くべき満額回答である。

 

 結局、これでも義久は上洛を渋った。そこで忠恒は自ら上洛することを決意したのである。

 「もういい、オレが上洛する。じじぃ二人は隠居させて、内外ともオレが当主となる。こうなれば、いまだにオレの家督継承に反対する輩も黙らせることができる。一石二鳥ではないか。」

 

 8月1日、ついに忠恒は薩摩を発った。途中立ち寄った、富隈城養父・義久から猛烈な反対にあうが、忠恒はもう負けない。

 「これはお家存続のためだ。正しいか、正しくないかは、天命に従うまでだ。」と言い放ったのである。

 

 さて、ここまで聞くと老害の両殿を排除し、新当主・忠恒の華麗なデビューを期待するのであるが、一筋縄ではいかないのが島津家である。この忠恒一行には庄内の乱で激しく争った伊集院忠真が同行していたのであった。

 

桜島