天海 (229)
「慶長七年二月二十日前権中納言山科言経ヲ山城伏見ニ遣シ、源氏長者ニ補スルノ内旨ヲ内大臣徳川家康ニ伝ヘ給フ、家康辞シテ拝セズ。」(「史料綜覧」)
正二位で前権中納言・山科言経は「言経卿記」の著者として知られる。秀次切腹事件では連座の対象となったが、三成によって救われ、家康によって赦免された。
その言経を通じて慶長7年(1602年)2月、家康に「源氏長者にならないか。」との打診があったという。源氏長者とは「源氏の最高位のもの」が就任することになっている。この裏の意味は「征夷大将軍」にならないか、と尋ねているのだ。しかし、この時、家康は固辞している。島津家との講和がまだ成立していなかったのである。
慶長7年10月2日、家康は江戸城に戻った。江戸でも政務をとらねばならないのだ。家康は早速、本多成重・正成、松平勝政・定行、大河内正綱、進藤正次、朝比奈泰勝、三浦重成等に知行を与えた。
15日には秀秋の兄・木下俊定が死んだ。彼は西軍に属し、改易されていて、弟の秀秋の世話になっていたのである。すると驚いたことに18日には、その秀秋も死んだのである。
「これはさすがに驚いたな。」と家康が唸った。
「お若いのに不摂生が祟ったのでしょう。」と正信が言うと、
「大谷刑部が祟ったのだと世間は言うであろうな。」と家康は渋い顔をした。
「いずれにしても、家中は荒れていて、放っておいてもお取り潰しだったでしょう。良い機会を得たと思います。」と正信は言うのだ。
「ふむふむ。」と相槌を打つと、「ところで天海はいつ来るのだ。」と尋ねた。
「一度、お伺いがありましたが、殿がお忙しかったので、遠慮しているようです。」と正信が言うと、
「さて、久しぶりに生臭坊主の顔でも見るか。」と家康は破顔した。
家康に呼ばれ、天海は神妙な顔で登城した。
「ふむ、何やら辛気臭い顔をしているな。」と家康は言う。
「坊主があまり陽気なのも考えものでございましょう。」と天海は応じた。
「さて、さて、島津は困ったものだが、何とか天下の仕置きも終わりそうだ。これからの課題は何とする。」と家康は尋ねた。
「これはもう将軍におなりになる他ありません。統治機構を作っても、今のままでは正当性が担保できません。武家の棟梁たる将軍におなりになれば徳川将軍家として諸大名と主従関係を結べます。これは朝廷とは別の独立した組織となり得ます。
かつて頼朝公は平氏政権を打倒したのち、鎌倉政権を打ち立てました。これは朝廷との二重政権でした。この前例に従い、我らも江戸に将軍府を立てれば、朝廷の代表である関白との二重政権が可能です。」と天海は論じた。
「それは秀頼公が関白になることが前提ですかな。」と正信は尋ねる。
「それはその時の政治状況なので、何とも言えません。ただ大坂方はそのつもりでしょう。」と天海は答える。
やがて、小早川家の話題になった。
「岡山城の惨状は、目を覆うばかりでした。累代の家臣まで見切りをつける有様で、家中の崩壊は時間の問題であったでしょう。」と天海が言うと、
「ほう、関東にいたのに耳が早いな。」と家康は感心したのである。
中村孝也 著 ほか『江戸幕府』上,ポプラ社,昭和29.
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/1627781
(参照 2024-07-09)