天海 (257)
天海 (257) 「三月一日、江戸城経始、藤堂高虎縄張あり、公高虎に本丸狭ければ廣けられんと仰せければ高虎云、本城は狭きに利多し、廣きに利少しと申上るゆえ、前の廣さ也、二三の丸は縄張替りたるとなり。」(「慶長日記」木下延俊) 江戸城外堀の縄張りは高虎の手による。まず取り組んだのは平川の付け替えである。これを道三掘りに接続して、さらに江戸前島に流した。これが外濠川である。さらに神田山を開削して日比谷入江を埋め立てたのである。 神田山の土砂を運び出し、日比谷入江を埋め立てながら、同時に外濠の石垣を組んでいった。諸大名は主に伊豆国から石を切り出し、舟を使って江戸湊まで運んだのである。 外郭石垣普請を担当したのは前田利常、池田輝政、細川忠興、加藤清正、福島正則、浅野幸長、黒田長政、田中吉政、鍋島勝茂、堀尾吉晴、山内忠義、毛利秀就、有馬豊氏、生駒一正、寺沢広高、蜂須賀至鎮、藤堂高虎、京極高知、中村一忠、加藤嘉明であった。西国の錚々たる大名衆である。 埋め立てられた日比谷入江は、西岸は大名屋敷、東岸は町人の居住区になった。また飲料水の確保として赤坂川、小河川を堰き止め、溜池をつくったのである。 また、町人居住区にはそのシンボルともいうべき「日本橋」が架けられた。この木製の橋は慶長8年(1603年)に完成し、翌慶長9年(1604年)には、五街道の起点となっている。この日本橋地区の本町通りには多くの商人が移住し、物資が集結したのである。 五街道は日本橋から放射状に延びていた。まず、日本橋から南へは東海道と甲州街道が延びていたのである。幕府はこの街道を軍事上重要な直轄地とし、一里ごとに一里塚を築いた。 まず東海道は五三次と言われた。五十三次とは街道上の宿場の数である。距離としては京都の三条大橋まで約500Kmあった。さらに大坂まで行くと全部で五十七次あったという。(完成は寛永元年(1624年)) 甲州街道は東海道から分岐して、八王子、甲府を経て、下諏訪で中山道と繋がる四十三次であった。(完成は明和9年(1772年)) 日本橋の北には奥州街道、日光街道、中山道が延びていた。 北側で最初に完成した日光街道は日光までの二十一次である。(完成は寛永13年(1636年)) 奥州街道は、宇都宮まで日光街道と重複し、陸奥白河まで二十七次であった。なお、街道はそのまま函館まで続いていたという。(完成は正保3年(1646年)) 中山道は高崎を経由して下諏訪で甲州街道と合流し、木曽路を経て草津までの六十九次であった。(完成は元禄7年(1694年)) この中で東海道が最も重要で交通量も多かった。しかし、海沿いにあり、大きな川もあったため、増水や高波に弱かったのである。 この点、中山道は川止めが少なく、計画的に物資を運べたが、道は険しく、遠回りであった。 日光街道や奥州街道は重複部分が多く、東北諸藩には重要な街道であった。幕府にとっても、後年完成する「日光東照宮」に参拝するための重要な街道となった。 甲州街道は交通量も少なく、完成も最も遅かった。当初は江戸が攻められた時の幕府の避難場所と考えられていたそうであるが、だんだん必要性が乏しくなったのであろう。ただし、江戸っ子がニ八蕎麦などの美味しい蕎麦を食えるのは、この街道のお陰であった。岸井良衛 編『五街道細見』,青蛙房,1973.国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/12067225(参照 2024-08-12)