天海 (250)

 

 

 

 「その用水誌に、徳川氏政権を握るに及び関東郡代伊奈備前守忠次あり、大いに治水墾田の策をたつ、いわゆる関東流と称するものなり。」(「江連用水誌」)

 

 伊奈忠次は家康が関東入府すると、すぐに川の視察を始めた。利根川、鬼怒川、小貝川、荒川、渡良瀬川などである。これにより、大掛かりな治水計画を立てた。特に利根川は、江戸城の近くに流れ込み、氾濫するとあたり一面を覆いつくしたのである。

 これほど豊かな地勢でありながら、武蔵国が67万石に留まるのは、偏に利根川の氾濫による低湿地のせいである。この川道を何とかしなければならない。忠次が作る多くの堤、堰は、そのための布石である。

 

 「現在、利根川に並行して本庄市内を流れる備前堀用水は、慶長9年(1604年)忠次の手による大事業である。児玉郡仁手村(本庄氏)の烏川から取水、小山川に連絡して、大里郡弥藤吾村(妻沼町)で福川に合流させるこの堀の出現で、うるおった村は八十三村、七万八千石相当の収穫がもたらされた。」(「武州物語」)

 

 「武蔵国は江戸城を境に西が山の手台地東が低湿地となっています。そこで上様はまず大久保藤五郎さまに小石川から上水道を引かせました。藤五郎さまは小石川赤坂川を堰き止め、そこから水を引いたのです。さらに上様は、東の低湿地に道三堀を穿ち、平川と繋げ、小名木川を通して、江戸に物資を送りました。しかしその後も江戸の人口は増える一方で、低湿地そのものを何とかせねばならなくなりました。」と忠次は言う。

 「つまりそれがこの度の天下普請と言う訳ですな。」と天海は頷いた。

 「はい、江戸城のまえの日比谷入江を埋め立て、江戸前島と陸続きとします。そのためには日比谷入江に流れ込む平川を堰き止め、江戸城の外堀として江戸湊に至るよう平川の流れを変えます。」と忠次は図面を示した。

 「しかし川を堰き止めるだけでは入江は干上がらないでしょう。」と天海が言うと、「はい、そこで神田山を開削します。」と忠次は事も無げに言う。

 

 天海は唸る。川の付け替えと言い、埋め立てと言い、この人物の頭の中はどのようになっているのであろう。

 「いやいや、これは私一人の話ではなく、多くの者が知恵を出したのでございます。外堀の建設はむしろ、藤堂佐渡守様の縄張りでございます。」と忠次は言った。

 

 やがて、二人が話し込んでいる忠次の役宅に一人の青年が訪れた。

 「客人がお見えになりました。」と忠次の小姓が伝えた。

 「おお、そうか、すぐにお入り願え。」というと、忠次は顔を天海に向けた。

 「やっと、お会いになれますね。」と忠次は笑ったのである。

 

 青年は、見るからに聡明そうで、立派な体躯をしていた。その姿はどう見ても武士である。

 「天海上人様。お初にお目に掛かります。手前は本町で町年寄を勤めております、喜多村弥平兵衛と申します。この度は本多佐渡守様のお導きで、伊奈備前守様の役宅に参りました。以後、よろしくお願いいたします。」と口上を述べた。

 

 天海は静かに頷くと、しげしげと弥平兵衛を眺めた。坂本城脱出の折、伏屋姫に抱かれていた赤子が、今やこのような立派な青年になったかと思うと言葉に詰まったのである。

 「つねづね、上様には、弥平兵衛殿にお目に掛かりたいと、お願いしておりました。このような機会を得て、実にありがたく思います。」と天海はようやく言葉を掛けた。