天海 (256)
「日本人たちは、東南アジアの国々にすみついて、まとまって町をつくるところもありました。ヨーロッパ人も、それを「日本人区」とか「日本村」とかよんでいました。
たとえば、ルソン島のマニラ、交趾国(いまのベトナム中部)のフェフォ・ツーラン、カンボジア国のビニヤール・プノンペン、シャム国(いまのタイ)のアユチャ、そのほかいずれも朱印船が来るところでした。」(「少年少女のための日本の歴史」)
この当時、日本の銀の産出量は世界生産量の4割に相当したと言われる。世界的には銀不足であったため、日本の交易は国際市場にとっても重要な取引だったのである。
日本産の銀は中国商人のみならず、欧米人にも需要が高く、国際通貨として貴重なものであった。このため日本の朱印船が入国すると渡海先の市況は活性化し、国中から日本との交易品が集まってきた。余りの盛況ぶりに、西欧商人の現地の取引に支障が出たという。
このような状況から、現地での買い付けが進むように、渡海先に日本人が移住することも増えたのである。また、関ケ原の戦いで多くの牢人が生まれていたため、一攫千金を夢見て、海外移住し、日本人町で傭兵となるもの多かった。
例えば日本人町の一つにシャム国のアユタヤがあった。当時シャム国はアユタヤ王朝の時代である。最盛期では1000人から1500人の日本人が住んでいて、日本人町を形成していたのである。住民は傭兵、貿易商、キリシタンなどであったという。
「慶長九年彼は備作の間を流れる和気川に遊び、この川を通ふ舼船を詳さに見、「凡そ百川、皆以て舟を通ずべし」と思ったと云うが、この事が彼の活動の直接の動機となった。彼は嵯峨に帰って後に大堰川を泝り、丹波保津に至って踏査するところあり、「湍石多しと雖も、舟を行るべし」と観察した。」(「角倉了以とその子」)
角倉了以は朱印船貿易を長子・与一に任せると、全く違う事業を始めたのである。それは保津川の開削であった。
保津川には保津峡谷と呼ばれる場所があった。当時は、船はおろか、人すら通れぬ難所であったのだ。川は急流で巨石がゴロゴロと転がり、両岸には滝や急流が行く手を阻んだ。
了以はこの神秘的で美しい峡谷を愛していた。そしてここに船を通し、人々が行きかう水路として活用できぬものか、と考えたのである。ついこの間まで、南洋を渡る大型船を差配していた了以が、一転、流れが急で水底の浅い川に思いを巡らせていたのである。
思えば丹波の人々は老ノ坂を超えるか、唐櫃超で京都にやって来た。いくつもの山を越えねばならなかったのである。
「ここを開削して、舟で物資を運ぶことができたなら、人々の暮らしはどれほど楽になることであろう。」と了以は考える。
無論、了以は商人であるから利潤についても計算している。安定した舟賃が入れば、角倉家も潤うであろう。
伊奈忠次は幕府の行政官として治水に取り組んだのに対して、了以は商人として人々の利便と己の利潤を求め治水に及んだのである。
「よし、やろう。」と決意すると、了以はすぐに実地調査を始めたのであった。