南光坊天海 (131)
「真田隠岐守信昌は城中の真田幸村が叔父なれば、今度一乱の始、幸村もし志をひるがへし御方へ降参せば、十万石賜るべしと内旨を仰せ遣はさる。
冥加至極忝は候共、幸村久しく高野山に乞食して露命をつなぎ月日を送る所、秀頼公に抜擢せられ、城中一方の将を命ぜらる。此恩び感じ一命は秀頼公に 献じ奉る志なれば、台命に従ひ難しと申切たり。
この頃又本多正純より、信州一国を賜ふべし。天命に応じ帰順すべしと申贈りしが、幸村更に返答もせず、信昌に対面もせざりしといふ。」(「台徳院殿御実紀」)
大坂の陣では様々な策謀が張り巡らされていた。互いに罠を仕掛け、内部対立を煽ったのである。例えば、大坂方の兵士から高虎にあてた秀頼の書状が発見される。その内容は高虎が秀頼と内通し、「両御所」を誘き出す手筈を伝えるものであった。もちろんこれは内部分裂を図る偽書である。
池田利隆の元にも内通を勧める書状が届く。利隆はこれを捕らえると家康の元に連行している。
同様に徳川方も城内に忍び込ませた忍者を通じて、様々な工作をしている。治長が牢人衆を疑ったのもその流言飛語によるところが大きい。
例えば「徳川実紀」には、家康が幸村(信繁)に信濃10万石で帰順を勧めた話が載っている。これを拒絶されたのち、今度は正純が信州一国を提示している。むろん、信繁は相手などしていない。無禄の人間にいきなり「信州一国」を与えるなど現実問題として、出来るはずがないからである。
「十二月十六日岡山より、茶臼山御陣にならせられて御対面あり。義直頼宣両卿も参らる。本多佐渡守正信、同上野介正純、藤堂和泉守高虎伺候す。阿茶局をめして密に議せらるるむねあり。」(「台徳院殿御實紀」)
16日秀忠は、茶臼山に出向いて、家康と対面した。そこには、徳川義直・頼宣、本多正信・正純、藤堂高虎も同席した。これは、徳川家の最高幹部会議である。ここで家康は「和議」の本音について語ったはずである。
「この和議は一時的なもので、大坂方に大幅な譲歩を引き出し、その防御力を完全に削ぐこと。」を目的にしている。この説明に、和議に強硬に反対していた秀忠は、ようやく納得したのであろう。
さて、この重要な席に、阿茶局が呼ばれ、密談に参加していることに注目されたい。この後の阿茶局の働きは、目覚ましいものがあった。
「この日(12月16日)大工中井大和守正次に命ぜられし仏郎機の架成功す。よて松平右衛門大夫正綱を監使とせられ、岡山に供奉せし御家人の中より、井上外記正継、稲富宮内重次、牧野清兵衛正成等の輩妙手を撰ばれ、天王寺口越前、藤堂、井伊の攻口、備前島菅沼織部正定芳が攻口より、大筒小筒一同に城にうちかけ、櫓塀以下打崩さしむ。城中ここに於いて騒動おびただし。」(「同上」)
12月16日、家康は牧野清兵衛、稲富宮内等に命じて三百挺の大筒を一斉に射撃させた。そこには国内で生産された50匁の大筒のほか、1貫目の大筒、フランキ砲、イギリス・オランダから手配したカルバリン砲4門とセーカー砲1門、半カノン砲12門もあったのであろう。
「大坂ハ鉄砲ノ音帯多々敷、朱雀辺へ聞コエ少モ隙無シト。」(「時慶卿記」)
これら大筒は藤堂高虎、松平忠直、井伊直孝、佐竹義宣、菅沼定芳等の陣所から放たれた。その砲撃の激しさは、遙か京都まで聞こえたという。
真田幸村像
