天海 (240)

 

 

 

 「慶長八年十一月三日、江戸城に還御なり。十一月五日、この日長福丸の方を常陸国水戸の城主になされ廿万石に封ぜらる。」(「東照宮御実紀」)

 

 佐竹氏に代わり、常陸国水戸に入った武田信吉であったが、僅か21歳で死去した。信吉には上杉家の養子の話もあったが、生来の病弱ゆえ、家臣らに反対されていた。これによって、甲斐武田家は再び断絶したのである。

 家康は、当時まだ2歳であった十男の頼宣(長福丸)を水戸に20万石で封じたのである。

 この頼宣は、元服後に駿河・遠江・東三河50万石に移封され、さらに紀伊和歌山55万石に封じられている。御三家の一つである紀伊徳川家の祖である。

 紀伊藩第五代藩主・徳川吉宗第八代将軍となっているので、この家は将軍を輩出した家系となったのである。 

 

 「慶長八年十一月、是月丹羽五郎右衛門長重召出されて、常陸国古渡に於いて一万石の地を給ふ。」(「東照宮御実紀」)

 

 丹羽長重丹羽長秀の長子である。信長の重臣であった長秀は、秀吉政権のもとで越前・若狭・加賀123万石を領し、破格の待遇を受けていた。

 ところが、天正13年(1585年)、長秀が死ぬと、秀吉から言いがかりをつけられ、若狭国15万石に大減封となった。実に100万石以上召上げられたのである。さらに重臣・戸田勝成、長束正家、溝口秀勝、村上頼勝、上田重安、太田牛一ら有力家臣を召上げられた。

 天正15年(1587年)には若狭国も取り上げられ、僅か加賀松任4万石に格下げされたのである。

 普通の人間であれば、ここまで蔑まれては、憤懣やるかたなく、自暴自棄になりそうなものであるが、長重は黙々と秀吉に仕えたのであった。すると、小田原征伐で功があり、加賀小松12万石に復帰したのである。

 

 ところが慶長5年(1600年)の関ケ原戦役では浅井畷で前田軍と戦ったため、大坂方とみなされ、改易となった。

 長重は家臣3人と共に江戸品川に移り住み、閑居して異心がないことを示したという。長重は築城術に長けていて、しかも秀忠と昵懇であったという。

 慶長8年(1603年)11月、長重は江戸城に呼び出され、常陸国古渡1万石を与えられた。先の宗茂に続き、長重も大名に復帰したのである。

 長重の人柄は誠実であり、温厚で優しかった。妙に機転を利かせたり、媚び諂うことを嫌ったという。

 

 浅井畷の戦いの後、長重は前田家と講和した。講和の条件として利家の庶子であった前田利常が人質として丹羽家に差し出された。利常の母は側室としての身分が低かったのである。すると人質となり心細い思いをしている利常のために、長重が自ら梨を剝いてくれたというのである。

 やがて利常は嫡子がいなかった利長の養子となり、二代目加賀藩主になった。利常は晩年に至るまで梨を食べる度に、この日の事を思い出したという。

 

 「慶長八年十二月、是月幕府、大久保長安ヲ佐渡奉行ト爲ス。」(「史料綜覧」)

 

 大久保長安猿楽師の子として生まれた。父の大蔵信安は信玄お抱えの猿楽師であったというのだ。ところが長安は信玄によって猿楽師ではなく、家臣として取立てられた。さらに家老・土屋家の与力衆となり、「土屋長安」と名乗ったという。

 

丹羽長重