天海 (269)
天海 (269)【大御所】 家康から秀忠の権力移行はゆっくりと行われた。まず、秀忠は江戸城にいて、東国諸大名を管理し、家康は伏見城で西国の情勢を監視していたのである。因みに、この時はまだ、駿府城はできていない。 天海は伏見城を辞すと、いつもどおり遠山屋敷に立ち寄った。 「お待ちしておりました。」と現れたのは阿寺伝蔵である。伝蔵は関ケ原の戦いの後、利景から強く仕官を求められ、遠山家に仕えることになったのである。 「おお。見違えたな。やはり、お前は武家の方が似合う。遠山姓には戻らないのか。」と尋ねると、 「恥ずかしながら殿からは、遠山姓に戻せとのお話もいただきましたが、どうにもお殿さまと同じ苗字では気が引けます。これからも伝蔵で参りたいと思います。」と言って笑った。 伝蔵が言うには、この先も庄兵衛のもとで働くつもりであったが、遠山家も所領が増え、何としても信頼できる家臣が欲しかったというのだ。そこで伝蔵の家族だけが遠山家に移り、一族はそのまま久尻村に置いてきたそうだ。 「久尻村の生活も捨てがたかったのです。」と苦笑いをする。 遠山家では、100石で代官職についているという。 「勘右衛門は、恐らく岩村城の戦いで滅んだ明照遠山家を復興させたかったのであろう。」と天海は頷いた。 明知遠山家の所領は6,531石6斗である。旗本5200家のうち、6千石を超える家は42家しかなく、最上位の家格であることが分かる。交代寄合と呼ばれる参勤交代を認められた準大名家なのである。このため一般の旗本が若年寄支配であったのに対して、老中支配の家格であった。 慶長8年に家康が征夷大将軍に任じられると、利景にも正式に朱印状が発行された。 「美濃国恵那郡三拾二箇村五千四百石八斗土岐郡六箇村千三百三拾石八斗余 都合六千三拾壱石六斗余(別紙目録在)事令扶助之訖全可知行者也 慶長八年八月五日 遠山民部少輔殿江 」 明知遠山家の家臣団は平時に於いては、50人余りであり、陪臣などを含めれば80~90人いたようである。江戸には20人余、国元には30人余がいて、残り30人余が利景に随行していと思われる。これらはいわゆる士分であり、中間や小者は含まれていない。 戦時には足軽等を一時雇いして、「大坂冬の陣」で300余名、「大坂夏の陣」では360~370名を動員している。 明知遠山家中の最大の所領は江戸家老を勤めた経景の家で500石であった。重臣は概ね500石~100石であるから、伝蔵も重臣の一人といってよかった。 久尻村に入ると、天海は神妙な顔で遺族に哀悼を伝えた。いつもは奥にいる庄兵衛の家族も全員が出迎えたのである。天海は仏間に入ると、読経を始めた。体格が良いだけに発声も見事である。永久の別れを惜しむかのように朗々と続く天海の読経に、仏間の遺族は涙を禁じえなかった。 二代目庄兵衛の為信から帳簿の引継ぎの報告を受けた。坂本城陥落の時に持出した隠し資金も無尽蔵にあるわけではない。 「順調に減っております。」と為信は真顔で言うのだ。 「良いではないか。我らの世代で使い切ればよい。子供たちも自立し、それぞれで一家を構えている。残さず使おうぞ。」と天海は笑った。『明智町誌』,明智町,1960.国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/9537266(参照 2024-08-26)