南光坊天海 ①
南光坊天海 ① 「僧正教を領して東関の龍象を集め、『三種病人、如何、接物利生』を以て題と爲し、各々詞鋒を交へぬ。問者講師の持論、獅子嚬呻、象王回顧す。僧正の精義は、恰も金翅鳥の宇宙に当るが如く、当下に専修門の秘義を論ずるなりき。家康天質の利機、如何ぞ持論の浅深を辨へざらんや。節を拍って歎じていへり。天海僧正は人中の仏なり。恨むらくは、相識ることの晩かりつるをと。」(「大僧正天海」須藤光暉:著) 「…と言う訳で、オレは法印になったのだ。仮名や通称ではなく正式に権僧正に任官したのだ。」と天海は少し得意げに倫子に言った。 ここは京のはずれ、山深い倫子の寺である。天海は、京から比叡山の帰路、倫子のもとを訪れたのであった。 「あらまぁ、ずいぶんお喜びなのですね。意外に俗人なので、驚きました。これからは私も天海僧正様とお呼びせねばなりませんね。」と倫子はけらけら笑うのである。 「まぁそういうな、こんなバカ話ができるのも女房だけだ。」と天海は少しバツが悪そうに苦笑いをした。 「旦那様の御出世を悦ばぬ妻はおりません。 法印と言えば俗に従三位相当と申します。旦那様もついに殿上人でございますね。勘右衛門様が従五位ですから、兄としても面目躍如ではございませんか。」と倫子も楽しそうに言うのである。 天海は頷くと、「それよ。」と言った。 「どうやら大御所様はオレに朝廷との交渉役をさせたいようだ。それで何としても僧位につけたかったのであろう。」と少し真顔で言った。 いわずもがなではあるが、「権」について一応説明すると、本来は「定員外」という意味である。律令制度では当然それぞれの役職には定員があった。しかし、事情があって、同じ役職に定員以上つける場合があり、超過した人は「権〇〇」と呼ばれたのである。席次においては正規役職者が上位で、「権官」は下位になる。ところが時代が下ると、本来臨時の役であった「権官」が常設となり、沢山の人が「権官」に任じられるようになったのである。さて、こう考えると、「権僧正」は「僧正」であるともいえる。よって「天海僧正」と呼んでもあながち間違いでもない。 「三位法印か。」 天海は稲葉一鉄の癖の強い顔を思い出していた。 「そうか、あいつと同じ位になったのか。」と思った。 明智家は一鉄とは何かと因縁が深い。そもそも明智家と稲葉家は、斎藤道三の時代から不仲であった。龍興の時、一鉄は斎藤家を見限って、織田家に寝返った。安藤守就、氏家直元とともに西美濃三人衆として織田家の重臣となっている。安藤・氏家が没落する中、一鉄はしぶとく生き残った。 一方、明智家も光秀が織田家の重臣となり、再び稲葉家と肩を並べることになった。一鉄は斎藤利三とのいざこざで、光秀に遺恨を抱き、何かと面倒を掛けたのである。 本能寺の変後も、自立を図りながら何とか生き残り、秀吉から本領安堵を受けている。明智家滅亡後は、遺児となった利三の子を引き取った。 天正13年(1585年)には、法印に叙され、「三位法印」と称している。 天正16年(1588年)11月9日、美濃清水城において74歳で死去した。 「何だかんだと言っても、肝の座った男であった。お福を育ててくれたことだけでも感謝せねばなるまい。」と天海は思うのである。栗原信充 [画]『肖像集』9,写,[江戸後期].国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/13701918(参照 2024-09-10)