南光坊天海 ⑧

 

 

 駿府城から焼きだされた家康は、正純の邸宅で慶長13年の正月を迎えた。このため諸大名は、正純の邸宅に歳首の挨拶に集まったのである。江戸からは酒井家次、大坂からは織田頼長が祝賀の使者としてあいさつに来た。

 

 このような状況から家康は駿府城の本丸の再建を急いだ。まず青山重成を監督者に指名したのである。

 三河・遠江から多くの人夫を集め、信濃国木曽、紀伊国熊野の山々から良質の木材を切り出した。一方、関東の人夫を集めて、伊豆の山からも木材を切り出したのである。

 

 関東の大名衆は、以前から江戸城駿府城の修築にかかりきりで、ようやく駿府城が完成したのである。ところが、この度の失火で再び修築の賦役が課せられることになった。

 また、三河・遠江の諸侯は、昨年朝鮮使節の饗応を担当したので、今回は駿府城再建に駆り出されたのである。

 さらに家康は、江戸から安藤重信を呼び出し、江戸に備蓄していた木材を拠出させたのであった。こうして早くも3月14日、駿府城の上棟式が行われたのである。

 4月11日、駿府城本城が落成し、家康はようやく本丸御殿に戻ることができた。諸大名は祝いの酒樽を献上したという。

 

 完成した駿府城に祝いの酒をもって高虎がやって来た。

 「大御所様、落成おめでとうございます。」というので、

 「与右衛門、さすがに此度はオレも参った。」というと家康は哄笑した。

 「突然、起こされて、庭に連れ出されたので、何が何だか分らなかった。」と小声で言うのだ。

 「あれだけの火災で奥向きの被害は少なかったと聞きました。」と高虎が言うと、

 「いや、大手門に向かったものは、多くが死んだ。」と顔を曇らせたのである。

 

 「実は近々、私も今治城に移り住もうと思います。」と高虎は言うと、図面を広げた。

 「やはり宇和島より海運が良く、瀬戸内を制するには適しております。三重の堀を回した海城で、どこからも出撃できるよう工夫しております。」

 家康は食い入るように図面を見ると、「大きいな。」と呟いた。

 「はい、城門が9か所櫓の数は20棟あります。この城の特徴は何と言っても天守にございます。」というのだ。

 高虎が言うには、これまでの天守入母屋造の御殿があり、そのうえに物見を兼ねた望楼を乗せた作りだというのである。しかし、それでは御殿望楼の形が違うので建築が難しいというのだ。

 「つまり御殿の屋根の上からニョキニョキと望楼が生えているのです。異なる形のものを組み合わせると無駄が出ます。」と高虎は言う。

 家康は「うむうむ。」と頷く。家康は無駄が何より嫌いなのである。

 「どうせ本丸御殿は、別に作るのであるから、直接地面からニョキニョキと天守を立ち上げれば、複雑な破風など必要ありません。だから、建築が早いのです。」と胸を張ったのである。

 家康はこの天守を見て、「要するに太った五重塔だな。」と思った。

 この御殿の上に望楼を乗せた天守を「望楼型天守」といい、高虎が設計した太った五重塔を「層塔型天守」という。高虎の縄張りした江戸城も「層塔型天守」である。

 慶長9年(1604年)に高虎が今治城で初めて層塔型天守を建立したという。以降、急速に層塔型天守が広まったのである。

 

今治城と高虎