天海 (278)
相談を受けた阿茶局は、良く心得た人物で、二人のことを様々に擁護した。しかし、秀忠は家康が何も言ってこないので、ますます不安になったのである。思い悩んだ秀忠は密かに正信を呼んだ。
「大御所様は、御所様が孝心深いことをご存じなので天下を御譲りなされたのです。例えいかなる場合でも大御所様の御心に背いてはなりません。本当に大御所様がお怒りならば二人は誅されるべきでしょう。
しかしながら、本当にお怒りなのかどうか、某が様子を窺って参りましょう。」と正信は言ったのである。
正信は狩場まで出向くと、家康に泣きついた。
「大変でございます。御所様は奉行の内藤、青山に大変ご立腹なされ、両人は蟄居の上、切腹と相定まりました。あれほど当家に尽くしたものどもであれば、哀れでなりません。また、正信も既に老齢であれば、一人で奉行職を勤めるのは、困難であり、このままでは私もいずれ誅されます。どうぞ大御所様のお側においてくださいませ。」というのである。
驚いた家康は、まさか秀忠がそこまで怒っているとは思わず、急いで阿茶局を呼んだ。
「これは二人の命を奪うまでのことではない。この事、いそぎ将軍に伝えよ。」
阿茶局は急いで江戸に戻ると、これを秀忠に伝えた。秀忠はほっと胸を撫で下ろし、二人の蟄居を解いたのである。
「慶長十一年三月朔日快晴。江戸城経営を始めらる。藤堂和泉守高虎仰を奉りて、本城二三丸を経営し、佐久間河内守正實其奉行す。これは、当家定鼎の地となるるより、五方の諸侯朝聘するに、城郭狭くしてその禮を行ふ事を得ざれば、こたび廣くなしたまはんとてなり。(中略)高虎に改築の縄張りを仰せ付けらるるとき、本丸最狭くして便よからねば、改めて廣むべしとありしに、高虎答へけるは、本丸廣きに過れば籠城のとき利少なし。二三丸は今より少し廣く然るべしと申して、その申旨にしたがはれしとぞ。慶長見聞録には七日江戸城普請はじめとあり。」(「台徳院殿御實紀」)
家康は高虎に江戸城の縄張りを命じていた。当初、高虎は、石垣、水堀、河川埋立など外郭の担当であったが、ついに本丸、二の丸、三の丸の縄張りも命じられたのである。これには高虎も一旦は遠慮し、辞退したのであるが、家康が「是非にも。」とのことで、承ることになった。
さて家康は、高虎の江戸城の縄張りを見ると、小首を傾げた。
「これはいくら何でも、本丸が狭すぎるだろう。何かあったときに不便ではないのか。」と高虎に尋ねた。
すると高虎も暫く考え、
「しかしながら、いざ籠城となりますれば、広過ぎる本丸はあまり役に立ちません。大御所様がご不便と感じるなら、寧ろ二の丸や三の丸を少し広げてはいかがでしょうか。」と朱筆で修正した。
家康も腕を組んで考え、「なるほど、それが良いかもしれぬ。」と納得すると、高虎の最終案を採用したのである。
では、高虎の縄張りを見てみよう。
家康の言う通り、本丸は所狭しと天守、御殿が立ち並んでいる。「広げた。」という二ノ丸も狭く回廊のようである。三ノ丸も南北に長く、とても広いとは言えない。目を引くのは西ノ丸、紅葉山、北ノ丸で、広大な敷地である。また西ノ丸の東に「西ノ丸下」と呼ばれる廓がある。実に複雑な形であり、よくある悌郭式や輪郭式の縄張りではないことは素人でも分かる。
中川徳治 著『江戸城の歴史地理』,
小峰書店,1968.
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3006757
(参照 2024-09-04)
