南光坊天海 ⑫

 

 

 

 天海にとって順慶とは、武士とは思えぬ優柔不断な男で、明智家滅亡を決定づけた男である。

 「光秀は、順慶にとって、ただの寄親ではなく、織田家中では恩人であり、親代わりともいえる存在であった。無論、筒井家存続のための決断であれば、細川家のように、早々に旗幟を鮮明にすればよかったのだ。結局、その優柔不断な態度が、明智家の戦略を狂わせ、自らの立場も損ねた。

 細川家は秀吉政権下でも生き残り、陰に日向に明智一族に救いの手を差し伸べた。それに比べ、順慶は秀吉から辛く当たられ、針の筵に置かれた。その上、早死にしてしまったのでは、あまりにも惨めである。」

 

 天海とて今更、順慶を恨む気はないが、人は散り際を誤るとこの様なことになるのだと、つくづく思うのである。

 順慶がはやく明智軍に参戦していれば、戦況は大きく変わっていたであろう。武士は全てを賭けて勝負に出なければならぬときがあるのだ。順慶はそれを誤ったのだ。

 

 筒井家は養子の定次が家督を相続した。定次は、順慶の叔父・慈明寺順国(筒井順国)の子である。正室の織田秀子は信長の娘であった。

 この当時の筒井家は家臣に恵まれていて、特に島清興(左近)、松倉重信(右近)は筒井家の右近・左近として有名である。また定次も勇猛で、紀州征伐では大太刀を振るって奮戦したという。

 

 天正13年(1585年)、大和に秀吉の弟である秀長が入ったため、定次は伊賀国上野に国替えとなった。定次の所領は大和国内18万石であったが、伊賀では20万石を宛がわれ、2万石の加増であった。これは秀吉が定次の器量を評価していたと言えるのである。ただ。この頃から定次の専横が目立つようになる。

 

 天正16年(1588年)は、日照りが続き、農地は干上がり始めていた。定次のお気に入り家臣であった中坊秀祐は、自領の危機感に駆られて、勝手に用水路を堰き止めてしまったのである。しかしそんなことをされては、下流に領地を持つ者の田畑に水が行かなくなるではないか。

 左近は、猛烈に抗議したが、秀祐は聞き入れなかったのである。怒った左近はさらに上流から水を引いたため、今度は秀祐の田畑に水が行かなくなったのであった。

 

 この件は大問題となり、ついに訴訟に発展した。定次はこの訴訟を「秀祐勝訴」としたのである。これに納得しない左近は、筒井家から出奔し、牢人となった。その後の左近には諸説あり判然としないが、蒲生氏郷豊臣秀長に仕えたともいう。

 

 やがて、石田三成から仕官の要請が来たが、左近は断った。それでも三成はしつこく勧誘し、挙句の果てに「2万石出す。」と言い出したのである。当時三成は4万石しか所領がなく、家臣に付与している分を除けば、主人より、左近の所領のほうが大きかったのである。左近はこの情熱に感激して、三成に仕えることになった。すぐに三成は佐和山19万石に移封になったので、最初からその腹積もりだったのであろう。

 

 それから左近は石田家の筆頭家老として活躍する。文官の色合いが濃い、三成にとって、勇将・島左近はどうしても手に入れたい人材であったのだ。

 左近は「治部少に過ぎたるものが二つある。島の左近と佐和山の城」と称えられた。

 

 関ケ原の戦いで、61歳の老将となっていた左近は、勇猛で徳川方から「誠に身の毛も立ちて汗が出る」ほど、恐ろしがられたという。しかも左近の最期は分かっていない。黒田軍の鉄砲で撃たれたとか、戸川達保に打ち取られたともいう。一方で死体がないことから、京都に逃れたという者もいるのである。

 

島左近