天海 (222)

 

 

 

 「十五日、尾州ニテ家康方ト上方衆ト合戦度々、尽々上方衆得理ヲ処ニ、至手前羽柴金吾殿ウラカヘリ、ウシロヨリ一万五千余ニテ切テ懸ル間、無了簡廃軍了、大谷刑部少輔、石田治部少輔以下過半謝死了、即時ニ家康入京了、此金吾殿者幼少ヨリ太閤秀吉為御養子出頭之仁也、今度之仕合、武勇ノ上ト云、旧孝ト云、比興之所行世間之嘲嘍也。」(「中臣祐範記」)

 

 中臣祐範は春日神社の社家であるという。彼は関ケ原合戦について下記の如く日記に書いている。恐らく伝聞と思われるが、この場合、伝聞の方が当時の世相を知る上では貴重であろう。

 『15日、尾州(実際は美濃国)で家康上方衆の合戦が何度かあり、羽柴金吾(小早川秀秋)1万5千人の裏切りで大谷、石田以下多くの将兵が死んだ。これにより家康は入京を果たした。金吾は幼少のころから太閤に育てられ、出世頭であった。いかに武家の事とはいえ、(太閤の)旧孝を思えば、(浅ましい)と世間から嘲弄を受けている。』

 

 秀秋の裏切りは通説のように合戦の最中ではなく、以前から定まっていたものである。秀秋は伊勢路を進むかと思えば、突然近江に向かい、高宮で日数を費やすと、守備に就いていた伊藤盛正を追い落として松尾山に陣を敷いた。これは他の部隊と比べても尋常な動きではなかった。だから三成大谷吉継は最初から秀秋を警戒していたのである。

 

 当時19歳であった秀秋には平岡頼勝・稲葉正成という二人の付け家老がいて、徳川方も大坂方もこの二人に対しても調略を掛けている。然しこの二人は早くから徳川方であったので、秀秋の裏切りは既定路線であったといってよいであろう。

 

 戦後の論功行賞で秀秋は備前・美作・備中(半国)等で岡山55万石の所領を得たが、世間の評判は芳しいものではなかった。若い秀秋が「忘恩の徒」「卑怯者」「裏切者」という世間の嘲笑を受けるのは耐え難かったのかもしれない。

 岡山城に入った秀秋は新たに家臣の知行割を行うとともに、若手の側近を重用するようになる。これは付け家老の二人を疎外することでもあり、嘲笑の責任を二人に擦り付ける行為でもあった。

 

 「慶長六年十二月、政事によりてしばしば秀秋を諫め、其言用ひられず、ここにをひて一族を携へ、兵器を備へ、甲冑を帯びして備前国を去、本国美濃国のいたり、谷口に閑居す。」(「寛政重修諸家譜」)

 

 長年家老を勤め、秀秋に直言してきた稲葉正成がこれに憤慨した。正成は一族を引き連れて、美濃国に出奔したのである。備中岡山城を出るとき、武装していたところを見ると秀秋の追撃を受けることも覚悟していたのであろう。

 

 美濃は稲葉家の故地である。美濃に行けば何とかなると正成は考えていたのであろう。ところが、当時は大名の改易が続き、巷には牢人が溢れていたのである。正成の望むような仕官先は見つからなかったのであった。

 

 「内府様のために働けば、決して悪いようにはなされない、とお前は言ったではないか、どうなっているのだ。」と正成お福を責めるのである。

 「勝手に小早川家を飛び出したのはお前様であろう。」とお福も言いたかったが、それを今の正成に言っても詮無いことである。

 

 困り果てたお福は庄兵衛のもとに相談に行ったのであった。

 三沢家は既に二代目となっていたが、お福が頼れるのは隠居の方の庄兵衛である。お福は庄兵衛に相談しながら、自分が情けなくて涙があふれてきた。牢人になったのに、本人はまだ大名気取りで、美濃で側室まで持っているのである。色々な事に堪えてきたお福であったが、今度ばかりは愛想が尽きた

 思い悩むお福を見て、庄兵衛は力になることを約束する他なかったのである。

 「これは弥平治に頼むほかあるまいなぁ。」と庄兵衛はため息をついたのであった。

 

 

岡山城