才能と人生を選べるならば
「今夜、すべてのバーで」は、初めて本屋で立ち読みして、読みきった小説でした。あまりにも赤裸々、というよりそのままのアル中の記述だったので、逆に中島らもが病気から立ち直った後書かれたものかと思っていたら、そうではなく、たんなる中休みだったんですね。
思うにこの人にはストーリー、もしくはお笑いの才能があったために、彼の中にあった喪失も大きくなってしまったのではないかなぁ、と思います。
薬や躁鬱など、正面からうけとめて、最後によろけてしまったんでしょう。
才能や自分の中にぽっかりあいた穴への冷淡なまなざし。
こいつらに振り回されて生きていくんだ、というあきらめ。
そう、きっと僕は彼の自分自身への真摯な態度に心惹かれているのだと思います。
また、かれの作品がゆっくりと一人で読みたくなりました。
ニック・ホーンビィのNo.5
「その国のことを知りたかったら、その国の2流小説を読むといい」といったのはグレアム・グリーンだったか、といったのは開高健だったか。とにかく、ホーンビィの小説は今の時代の等身大だ。
サッカー(特にアーセナル)を中心に世界が回る少年・青年の話「僕のプレミア・ライフ」やレコードにこそ人生の意味がある、もしくは気づいたときにはレコードにうずもれていた「ハイ・フィディリティ」や、金持ち御曹司のお気楽な憂鬱を描いた「アバウトアボーイ」にしても、年相応の人間が描かれている。
そこには、人生の鍵となる秘密もないし、人生を変えるような強烈な出来事も起こらない。
ただ、今の生活を自分なりに楽しく過ごしていく、たとえそうはうまくいかなくても、そんなないようだ。
生活に沈溺し、サッカーやレコードやお金に守られたぬるい日常などで、日々を食いつぶしていく。
恐ろしいが、それが日常であり、そんななかを我々は生きていくしかない。
が、日常にも楽しみ方はある。村上春樹流にいえば、音楽を聴き、本を読み、料理を作り、部屋を掃除する。そんなことだ。
「ハイ・フィディリティ」では、なんでもベスト5をつける。
それはそれで面白い。
生活の知恵だ。
旅行記にかかれるもの
旅もすきだし、旅行記もすきです。それこそ古い本から新しい本まで、色々読んでいます。
川口慧海「チベット旅行記」本が高いですね。
金子光晴「西ひがし」これだけろくでなしも、いいもんです。
藤原新也「印度放浪」まさにあてもなく、放浪。
開高健「もっと遠く」「もっと広く」好きな作家の旅行記を読む幸せといったら。旅行記の最高点の1つではないでしょうか。
池澤夏樹「ハワイイ紀行」ハワイに行きたくなります。
とまぁ、色々でてきますが、面白い場所、面白い旅をすれば、いい旅行記になるとは限らないんですね。
どれだけ興味があっても、やっぱり、作者の人間性が出てくるんで、そこがどれだけ合うか、というのも大きいと思います。
そこで、人生が旅の中のような野田知祐を紹介します。
「魚眼漫遊大雑記」では、ヨーロッパを中心に若いころ旅行したものをまとめたもので、鼻っ柱の強さを、軽く力を抜いたユーモアでまとめていて、じつに痛快な本です。
できるだけ若い時期に読んで、すぐ旅に行ってほしい。
「日本の川を旅する」は、当時ほぼはじめての、カヌーエッセイ。まだ官公庁に荒らされる前の日本の川を気持ちよく下っているのがいい。
「北極海へ」ユーコン川シリーズの1冊。ユーコン川くだりは、普通の作家だったら、数枚のページを費やすところを数行で終わらしてしまうような、贅沢な、旅行本。じつにハードボイルドです。
「ともに彷徨いてあり」カヌー犬ガクの最後を看取る本。最後のベッドのシーンが泣かせる。
と、当代の旅行作家でも屈指のレベルと面白さを保っている人です。
60の老境に入り、これからどんな旅を見せてくれるか、楽しみです。
さだまさしのたくらみの深さ
解夏を読みました。これは、短編集で
解夏
秋桜
水底の村
サクラサク
と4作あります。
その中では、やはり、解夏がいいです。
眼をやがて失明する病にかかり、許婚と別れ、長崎の実家に帰る主人公。
主人公を追って、長崎にまでくる許婚。
そして主人公は、じっとその日を待つ。
簡単に言ってしまえばそんな話ですが、すべてが陽炎に包まれているような透明感のある長崎の描かれ方もいいし、主人公のそばでじっとたたずむ許婚もいい。
しかし、寺で会った僧侶に言われる、
「それは、修行ですなぁ」
というシーンがクライマックスでしょう。
不治の眼病も、修行だと思えばいい。
いつか失明するその日がくるまで、恐れ、その日になるとその恐れから解き放たれる。
つまり、それは「死」なのでしょう。
失明は恐ろしいことだが、誰にでも訪れる死を、少しだけ先に受け取ったということ。
そうであれば、生きていく不便はあるが、誰でも経験することを少しだけ先に学んだと思えばいい。
そんなことを、伝えたかったのではないでしょうか。
考えるに、「解夏」という言葉に出会い、さだまさしは、不治の、失明にいたる恐ろしい(しかし死ぬことはない)病と、男性の理想像のような許婚と、あまりの暑さに現実感のなくなる長崎の夏を選んで、我々に死の実感を、恐れて避けるものではなく、身の一部においておくものとして伝えたかったのではないのでしょうか。
しかし、人の機微をおさえている人です。
秋桜など、読むのも恐ろしい短編です。
作詞の腕がありすぎて小説を書き始めたのか、小説でないとかけない世界があったのでしょうか。
曲による情動ではなく、言葉だけでしっかりと世界を描きたくなったのでしょうか。
書くテーマとその表現、その二つが微妙にお互いを先導しあっていく。
そこもスリリングで、「うまい」作家になるのか、「よい」作家になるのか、油断ならないところです。
しかし、本業がある人なので、書き急ぐこともなく、じっくりと待てるのもありがたい。
ちなみに、個人的にはバンプオブチキンが、今、ストーリーものを歌わしたら一番だと思っています。
天体観測はすばらしかった。
薄闇の荒俣宏
「帝都大戦」は読んでいませんが、エッセイでも博覧強記ぶりを発揮しています。
「知識人99人の死に方」などは、彼にとっては企画モノの一つぐらいの位置付けだとおもいますが、面白いのです。
当初は、まさに死ぬ瞬間を淡々と記していく予定だったそうですが、やはり、人となりや死にいたる経緯などが千差万別で、興味深く、そちらのほうに筆が引きづられていました。手塚治虫などは、死というよりその生がすさまじい。
「文明異動説」では、荒俣流の雑学を世界規模でごった煮にして、新しい味を出そうとしています。
しかし、これだけの知識を持ちながら大論をとなえず、悪く言えば重箱の隅をつついたものを集めるような生き方は何なんだろうと思っていました。
そんなことを思っているとき、今は昔のインパクで、糸井重里との対談のなかで、
「なんかだいたいその頃のぼくは、「三歳にして心朽ちたり」という中国の熟語が、とても好きで・・・。どうせ世の中なんて大したことはないのだから、せめてくだらないことに拘泥して生きていこう、という一種のあきらめの境地があったんですね。」という発言を 読み、あーなるほど、それでこの人はこんな雑学に拘泥しているんだ、と謎が解けました。
一概にはいえませんが、そこまで言い切ってしまうのは、なんだかいいですね。
「知識人99人の死に方」などは、彼にとっては企画モノの一つぐらいの位置付けだとおもいますが、面白いのです。
当初は、まさに死ぬ瞬間を淡々と記していく予定だったそうですが、やはり、人となりや死にいたる経緯などが千差万別で、興味深く、そちらのほうに筆が引きづられていました。手塚治虫などは、死というよりその生がすさまじい。
「文明異動説」では、荒俣流の雑学を世界規模でごった煮にして、新しい味を出そうとしています。
しかし、これだけの知識を持ちながら大論をとなえず、悪く言えば重箱の隅をつついたものを集めるような生き方は何なんだろうと思っていました。
そんなことを思っているとき、今は昔のインパクで、糸井重里との対談のなかで、
「なんかだいたいその頃のぼくは、「三歳にして心朽ちたり」という中国の熟語が、とても好きで・・・。どうせ世の中なんて大したことはないのだから、せめてくだらないことに拘泥して生きていこう、という一種のあきらめの境地があったんですね。」という発言を 読み、あーなるほど、それでこの人はこんな雑学に拘泥しているんだ、と謎が解けました。
一概にはいえませんが、そこまで言い切ってしまうのは、なんだかいいですね。
赤瀬川原平の皮膚感覚
「新解さんのなぞ」「日本美術応援団」「悩ましき買い物」
たとえば「新解さんのなぞ」。だれがいったい辞書のおかしな記述、たとえば恋愛について「・・・常にはかなえられないので、ひどく心を苦しめる・(まれにかなえられて歓喜する)状態。」などと書いてあるのに気づくでしょうか。大体、恋愛なんて調べないし。
でもこの人は、自分の目で見ているので、つい、そんなところに気が付いてします。
美術鑑賞も、人それぞれ、といってしまえばそれまでだが、足が地に付いた感覚で絵の見方を教えてもらえると、よく分かってじつに面白い。
美術鑑賞でなくとも「悩ましき買い物」では、買い物に惑う状況を読むと、心の襞までが感じ取れて、丁寧に自分の感じたことを把握している人なんだなと思える。
たまらなく冗長な本もあるが、人が「そうそう」と知ったかぶりで見落とす・感じ落とすことを面白く自分の感覚でとら えること。
人の意見に流されてきた身には、小さなことでも自分の感覚を大事にする姿勢は興味深く、なんだか心が開かれる気持ちです。
それがたとえ鞄を買うのに惑う心理描写であっても。
たとえば「新解さんのなぞ」。だれがいったい辞書のおかしな記述、たとえば恋愛について「・・・常にはかなえられないので、ひどく心を苦しめる・(まれにかなえられて歓喜する)状態。」などと書いてあるのに気づくでしょうか。大体、恋愛なんて調べないし。
でもこの人は、自分の目で見ているので、つい、そんなところに気が付いてします。
美術鑑賞も、人それぞれ、といってしまえばそれまでだが、足が地に付いた感覚で絵の見方を教えてもらえると、よく分かってじつに面白い。
美術鑑賞でなくとも「悩ましき買い物」では、買い物に惑う状況を読むと、心の襞までが感じ取れて、丁寧に自分の感じたことを把握している人なんだなと思える。
たまらなく冗長な本もあるが、人が「そうそう」と知ったかぶりで見落とす・感じ落とすことを面白く自分の感覚でとら えること。
人の意見に流されてきた身には、小さなことでも自分の感覚を大事にする姿勢は興味深く、なんだか心が開かれる気持ちです。
それがたとえ鞄を買うのに惑う心理描写であっても。
田口ランディが救うもの
「コンセント」「アンテナ」「モザイク」を1週間で一気に読みました。幻冬舎の煽情的な表紙に惑わされて、「コンセント」から読み始め、残り2冊も続いて一気に読みました。
この3冊の共通点は優しくないこと。とても自己中心的なこと。
たとえば「コンセント」。主人公のライターは、興味がないこと・興味がない人・興味がない思いを、無視をする。その存在を否定もせずに、無視する。
その傲慢さに、正直な自分勝手さが感じられ、それがどこまで突き進むのか緊張感が感じられます。
しかし、この3冊のテーマは「生きる力をなくした若者の生きる道」探しです。
よしもとばななのオカルト、村上龍の性と暴力、それに心理学を織り込んだような話ですが、そこに弱者である「無気力な若者」を登場させることで、作者の問題意識の深さが感じられます。
それとも自分のどこかにある「無気力」を恐れているのでしょうか。
勝手に、田口ランディはすごく自分にしか興味のない人で、でもそれをつきつめて優しくなっている人なのかな、と思っています。
取り上げている話題が今日的なもので(ケータイ、メール、心理学)、眼を引きやすいもの(オカルト、性、暴力)なのですが底流を流れている、何かに対する「恐れ」のようなもの。それをどう扱っていくか。
古い本なので、これから先に刊行している本を読んでいきたいと思います。
アフターダークのあとからやってくるもの
アフターダークひさしぶりに緊張感を持ってこの本を読んだ。
なんていっても、村上春樹の新刊だ。
どちらかというと今まで、村上春樹が書いてきた話が続いている。
見た目は問題のない、有能な社会人の、性と暴力の底知れぬ闇
周りからの期待にこたえた結果、からっぽになってしまった姉
その優等生と比べられ小さく硬い自我を形成していかなければいけない妹
タフでハードで現実的な女
今までの違いは楽器を弾く青年だろうか。
彼の役割は何だろう。
闇を持ちながらも、闇に飲まれず微妙な距離をとり、夢に敗れても理解し、世界に興味を持ち続ける。
村上春樹は「アンダーグラウンド」で「この本の執筆を通じて僕のある部分は元に戻れないほど変わってしまった」といっている。
何が変わってしまったのだろうか。
それは、今まで気にもしていなかった「他人」ではないだろうか。
「アンダーグラウンド」の中では、あとがきでも書いているように、登場人物をできるだけ魅力的に感じるようにし、事実描かれている人は魅力的だ。
村上春樹にとって自分以外の多種多様な他人に、こんなにも魅力に感じてしまったのは、なぜなのだろうか。
村上春樹にとって、日本のしがらみは、もっとも嫌悪するものの1つだったのだろう。
しかし海外生活が始まると、「社会からの干渉」といったものは、まったく意味がなくなった。
誰もが個人的な欧米社会では、日本人的な「社会からの干渉から逃れる」みたいな部分は無意味で、ゼロから社会との関わりからはじめなければならない。
そこで生活することで、自分で築いていた壁が下がり、「アンダーグラウンド」によって、さまざまな人によりコミットしていくうちに、普通の人というものにひかれていったのではないだろうか。
一般的であること、つまり闇に落ちず光に囚われずバランスをとりながら生きていくこと。
他と交わらないエゴだけでなく、他からの影響を受けすぎず、必要以上の注目を浴びることもなく、人生そのものを生きていく。
それでいて、その人だけのドラマがあるという、静かなダイナミックさ。
そんな「普通」さに惹かれたのではないだろうか。
今回の主人公である青年に、その「普通」が課せられているように思える。
今までの硬い-まるで月の氷のように不寛容な-自我に特殊な力を持った、また、持たざるを得なかった人物、妹が、普通人代表の楽器人と話をする。
それは若くなければありえないし、深夜のファミレスでしかありえない話なのだ。
そこが、今はなくなってしまった若さへの郷愁のように、少しばかり胸を打つ。
「早寝早起きしてマラソンをやって消えてしまう闇は、その程度の闇なのだ」といっていた村上春樹は、絶対的な闇を前にしたときの回答として、「強く誰にも犯されない力を持つこと」から「バランス取ること」にシフトしていっているのではないだろうか。
そんなことを読みながら、読み終わった後も考えていた。
村上春樹のこれまでの小説とくらべると、小説自体の面白さは、少し少ないように思える。
でも、これは次への序章ではないのだろうか。
だとしたらアフターダークというタイトルも、2重性を持ってくるのではないだろうか?
次に期待したい。
takam16さんのも読んでみてください。
この本は、なんだか分析してしまう本なんです。
http://takam16.ameblo.jp/
川上弘美と村上春樹とユアグローの小説の書き方
つい最近、川上弘美の「蛇を踏む」を読みました。芥川賞を受賞したということですが、この小説はいったい何なんでしょう。
解く鍵は村上春樹が自分の短編について
「こんな短編ならいくらでもかける。たとえばスーパーのレジで待っているときに、ずっとしゃべってうるさいおばさんに会ったら、釣り舟で一緒になった口やかましカササギについての短編が書ける」
というような意味のことを言っていることにありました。
村上春樹の初期の短編や川上弘美の小説が何を意味しているかは分かりません。
ただ、なんとなく感じるニュアンスが何かに似ている、その具体的にはかけない何かを別の「お話」として書いている、そういう小説なんだ、と最近やっと分かったのです。
小説とはあったことをそのまま書くのではなくて、一度咀嚼して、そのあとに再構成するものなんだ、と。
それが何か高尚なたとえなのか、スーパーのおばさんについてなのかは分かりませんが。
ユアグローの「一人の男が飛行機から飛び降りる」を読んでみてください。
一人の男が飛行機から飛び降りるが、説明もない。死んだりもしない。正気も失わない。
いったいそんな話が理解できるのか、と思っているが、ここでニュアンスや遠くの方にあるかすかな意味を楽しむ、もてあそぶことができれば、きっとこんな小説もたのしめるのではないでしょうか。
今までは、人をもてあそぶような小説はからかわれているようで読む気がしなかったのですが、そういったたくらみが分かれば、また、読んでみようかと思います。
気づかないことも多いですが「言葉にならない気持ちのかすかな動き」は、そういった表現しかないのかも知れませんね。
ちなみに「一人の男が飛行機から飛び降りる」の表紙の絵を2年ほど携帯の待ち受け画面にしていました。