できれば本に埋もれて眠りたい -42ページ目

毒蛇

作者 小林照幸

第一回開高健奨励賞受賞作。

ハブの血清を研究する学者が、実際に現地を訪れた際にハブの毒のすさまじさに驚き、また自分の血清が限定的な力しか持っていないことを知り、現地での経験を活かし、さらなる研究に励む。

世界一ともいわれるハブの毒の被害は圧巻。

奄美以南では、ハブが結構日常なので、非常に違和感がありました。

色々ノンフィクションを書いているようなので、もっと読んでみます。

上京するときに持っていく本

上京するときに、「新しい生活を始めるんだ」と思い実家からはなるべく荷物を持ち出しませんでした。
でも本は3冊だけ持ち出しました。

藤原新也の「印度放浪
コリン・ウィルソンの「アウトサイダー
ジョージ・オーウェルの「パリ・ロンドン放浪記

この中で、たんに好き、というだけで持ち出したのは
ジョージ・オーウェルの「パリ・ロンドン放浪記
でした。

何が書かれているかというと、パリ・ロンドンでお金がないとどうなるか、という話です。
パリでは、まだお金も少し有ったり、皿洗いなんかをしますが、ロンドンでは完全に、お金がなくなります。

特に示唆することもなく、実感としての貧窮、たとえば水ばかり飲んで数日過ごすとどうなるかとか、教養がないとひまをつぶすのにも苦労するとか、ロンドンの最低辺の宿のシーツにについてとか、ホームレス用の宿めぐりとか、とにかくその辺りのこまごましたことが書かれています。
「お金が少しあると、1週間先はどうなるんだろう、と心配になるが全然ないと、次の食事のことしか考えられず、心配は少なくなる」とか実感のディテールが自分の手のひらを見つめるような感覚でなかなかリアル。

しかし、一番いいのは、パリで何も食えずにずっとアパートでいると、皿洗いの職が見つかって、毎日働いて、今までならありえないような人間らしいものをたらふく飯を食って週末は騒ぐだけ騒いで、休日は仕事の疲れと二日酔い飲を直すため機を失ったように寝る。この飯も満足に食べられないところから、急に勤め人のような生活になって、やっと一息つけた感じが、開放感に溢れていて実にいい大好きな場面です。

その場面だけが好きで、その本が好きになってしまうことってありませんか。

動物農場」や「1984年」が有名なジョージ・オーウェルですが、この人の書く庶民に対する、実感溢れる、他人ではないながらも客観的な視点は、生活に関わってくると生き生きしてきます。
カタロニア戦記」でも、面白いのは市民の描写です。

政治的に語られることが多い人ですが、きっと普段の普通の生活を愛していた人なのではなかったのでしょうか。

僕はこの本を持って家をできとき、「楽しむ本はこれだけでいい」と思っていました。

若いころの話です。

ショーシャンクの空にリタ・ヘワースは消えたか

スティーヴン・キング恐怖の四季とサブタイトルが打たれている中篇4編は
春 刑務所のリタ・ヘイワース
夏 ゴールデンボーイ
秋 スタンド・バイ・ミー
冬 マンハッタンの奇譚クラブ
です。

日本では、「恐怖の四季」となっていますが、原題は「Different Seasons」、それぞれの季節、というものがもともとの4本まとまった原書のタイトルです(あとがきに書いてあった)。

この4つを眺めて思うのは、まったく不ぞろいなことです。
スティーヴン・キングがいうように、中篇を書いても引き取り手がなく、なんとか4つ集めて単行本にしたせいでしょうか。

まぁ、こう期待されてない、って感じですよね。

しかし、名作スタンド・バイ・ミーがあります。
スタンド・バイ・ミーについては、本も映画も素晴らしく、青春と名のつく酸いも甘いも塗りこめたような作品ですが、これについてはまた。

今日は、刑務所のリタ・ヘイワースについてです。
これは、日本ではゴールデンボーイと同じ冊子になっているので、「リタ」は小品扱いでした。

たしかにゴールデンボーイは、そのゆっくりとある感情に侵食されていくさまは、恐ろしくもあるし、ある事件との相違も気になるところです。

しかしです。
リタ」のような痛快な作品がなぜ、小品扱いだったのでしょうか。
初めて読んだとき、あぁ、こんなに面白い本をなぜ誰も注目しないのだろうかと思ったものです。

しかしです。
映画化されると「ショーシャンクの空に」になってしまいましたね。
いや、いい映画でしたよ。
でも、「リタ」がよかったのは、エリートが感情と運命の罠にはまって刑務所に入ることになり、それでも自分のスタイルは変えずに、でもそれなりにすすけていって、しかし恐ろしいほど時間をかけて、最後の賭けに出る。
その、すすけっぷりと、ぽっかりと空いて理解しがたい思考と行動が、いいんです。
ティム・ロビンスみたいにずっと悟ったように笑っていたら、その理解しがたい人間像が「何でも知っている人」みたいで台無しなんです。

あ、もちろん「リタ」としては、ということです。

思うに、最後に雨の中あんな風に手を広げただろうかと。
きっと、そのまま歩いていき、通帳を拾い、南に行き、安宿を買って、それで海岸で海を見ながら、やっと笑うんじゃないかと思うんですよ。

どうしても「リタ」に思い入れがあるので、映画批判みたいになっているんですが、ようは単に、本の方が好き、という単純な話です。
ショーシャンクの空に」が悪いということは1つもありません。

今思うに、出版社的にも期待されず、作者にも中篇で中途半端にされ、大して話題にもならない、でも面白いという状況と、「リタ」のさえない刑務所での痛快な話、というのがぴったりとシンクロして、「リタ」の周辺にすすけた色づけをしてしまったのかもしれません。
そのすすけた色のなかで繰り広げられるほぼ一生を通じた誰にも理解されない生き方、そこに惹かれたのだと思います。

しかし「刑務所のリタ・ヘイワース」、なんともB級の、期待をはずすいいタイトルですね。

ただマイヨ・ジョーヌのためでなく

自転車ロードレースで現在最強の王者といわれているランス・アームストロングの自伝。

まず、タイトルがいい。英文タイトル(It's Not About the Bike)もいいが和文もいい。
このタイトルと「僕は癌になることとツール・ド・フランスに優勝することを選ぶのなら癌になることを選ぶ」との筆者の言葉がこの本を端的に著しています。

鼻っ柱の強いテキサスの自転車小僧が、がむしゃらに自転車に乗り、レースに勝ち始め、自分の黄金期を迎えようとしているのを感じたときに自分が末期癌であることに気づきます。
化学治療を始めますが、体と精神に深いダメージを負うことになります。
それは、自転車しかない自分なのに、その自転車をあきらめるほどのダメージでした。
しかし、徐々に快復していきやがて自転車レースの最高峰「ツール・ド・フランス」を目指すようになります。

レースに向けての練習中、ただ毎日練習し、自分の力を感じていく日々、そのシンプルな生活様式に、彼は今までに感じたことのない充足感を得ます。

私はその雑念のない、一事に専念するシンプルなライフスタイルが実に魅力的に思えます。
人生は厄介な雑事の連続です。
それを、シンプルなライフスタイルに集約すること。
1つの目標ですね。

その後のランス・アームストロングは鬼のように強くなります。
本には競技中の駆け引き(スタジオジブリの「アンダルシアの夏」の原作者黒田硫黄はロードレースのことを「意地悪な大人のレース」といっています)やトップになる条件についてもかかれていて、単にロードレースの入門書としても十分面白く書かれています。

この本は、王者ランス・アームストロングへの興味ではなく、癌への興味ではなく、シンプルな生活の素晴らしさを言いたくなって、書評を書き始めた本でもあります。

シンプルな生活は、才能ではなく、成功への手段ではなく、生活していく上での方法であり目的なのかな、と思うこのごろです。

侠と現代日本と宮崎学

私は学生運動を体験していませんし、興味もありませんでした。
村上春樹の小説で初めて、学生運動についての意見として「あんなに騒いでも何も変わらなかったじゃないか」というのを読んだのが最初です。
そんなものかと思っていましたが、宮崎学は、肩までずっぽりと学生運動にひたり、その後ヤクザになった人物です。

著作を読んでいて思うのは、案外律儀な人です。
たとえば、「叛乱者グラフティ」では、今回想して、あの学生運動はなんだったのかを、多くの当事者のインタビューから、掘り起こしています。
突破者」であれだけ人気を勝ち得た作家が、今ごろそんなことしますか?
誰もが失敗と認めているあの日のことをまじめに受け止めますか?
やっぱりけじめを何とかつけたいのと、まだその周辺にいて埋もれている人々を紹介したかったのでしょうか。

宮崎学自身は、共産主義に感銘を受けた、というより、共産主義を信じている人の熱意を受け、さらに学生運動というものが面白かったので始めた、といった感じがします。

ヤクザになったのも、もちろん生まれもあるんでしょうが、そういった熱さを受け入れてくれる手身近な場所だったのでしょう。

突破者」関連の痛快さやダークな怜悧さは刺激的でしたが、その後の政治活動や「神に祈らず-大杉栄はなぜ殺されたのか」にみる共産主義と「男」への興味、「血族」のような身内意識など、頭もよく、裏社会も知っているので視点がぶれますが、やっぱり、この人の本筋は、中国で言う、三国志などででてくる「侠」なのでしょう。

侠と現代日本と宮崎学。

もう、結構年なのが残念ですが、これからの活躍が楽しみな作家です。
できれば、宮崎学の集大成のよう本を読みたい。

あの時代に生まれていれば、「もしかしたら世界は変わるかも」というのを実感できて学生運動にも興味を持てたのかもしれませんが、今となっては、戦中の大政翼賛的なものとあまり変わらないように感じます。
が、その程度まで分かっただけでも、少しはあの世代の著作を読む手がかりになり、よかったと思っています。

動機ではなく背景 新田次郎

中高年の方の山ブーム、土日となればかならず電車のなかでデイバックを背負ったかたをみますよね。なんであんなに多くの人が山にいくのでしょうか。
山がいいのはよく分かります。では、なんで若い人に山に行く人が少ないんでしょうか。
「それしか楽しみがない世代だから」と説明されますが、それよりも、なぜ若い人が行かないか、のほうが気になります。
「なんで苦しい思いをして」とはよく言われますが、まぁ苦労もしないで楽しめるものってそんなにありますか?

で、山の作家といえば新田次郎です。

孤高の人」昭和初期に単独行を先駆となった加藤文太郎をモデルにした小説です。
あまり社交的でない主人公が、山にのめりこみながら、社会的な位置を築いていく。
いまなら引きこもりになったりするタイプの人なんでしょうか。
そんな人だからこそ、当時では珍しい「単独行」というかたちになったのでしょうか。
しかし、結果として自分だけを頼り山に登っていく姿は、やはりひんやりと気持ちいいものがあります。
こういうのと、集団で山に登るおじさんおばさんの接点は、わかりません。

また、「アラスカ物語」という変わった本も書いています。

明治初期、日本人でアメリカに渡り船乗りになった人物がいた。
アラスカ周辺の監視船の仕事に就くが、座礁。
食料も減り、なぜか人種が違う、ということだけでリンチになりそうなところを、船員のために冬のアラスカを歩き助けを求める役に志願する。
そこでで助けを求めたエスキモーの人々と、しばらく暮らしていく内に(アメリカには戻らない・船は使いをやった)、エスキモーの中でも指導者的役割を担っていく。
ある年から猟で獲物をまったく捕れなくなり、全員の移住地を求め、内陸へ向かう。

アメリカの暗い伝統であるリンチの雰囲気やエスキモーとの猟中心の生活。
また部族の命運をかけ内陸へ旅立ち、ゴールドラッシュで沸く内陸での奇妙な運命。
この時代でしか生まれなかった数奇な運命が感慨深い。

と、山の本だけではなく色々事件や電気などを書いている人で、なにかこうその人、その事件の静かな衝動・バックミュージックを掘り起こすのが得意な作家だと思います。
「あれをなすために」、「こうなりたいんだ」という派手さよりも、たどってきた運命を理解しようとするその控えめな態度は、今流行のスタイルではありませんが、体に染み込んでいくような読後感があり、読む価値はあります。
新田次郎は、人は動機ではなく、背景で構成されている、と感じていたのかもしれません。

しかし、山しかない世代と山を必要としない世代。
世代交代が終わると、なぜ、という問い自体もなくなってしまうのでしょうか。

本を読む果てのない楽しみ

現在、新刊というのは日に200-300冊ぐらい出版されています。
このうち、まぁ読む価値があるもの、読む必要があるものがどれだけあるかを考えると、気が遠くなります。
しかしです。そんなに新刊が多く出ているのに、面白い本って見つからないですよね。
けっこう、気に入った作家周辺の本を大事に読んで、積極的に他の本を読もうとしないことはないですか。
時間は限られていますし、くだらない本を読んで悔しい思いをするのもいやですし。

あるときトルストイの「アンナ・カレーニナ」を読む機会があったんです
村上春樹の短編「眠り」のなかで「アンナ・カレーニナ」がでてきて気になっているときに、図書館の廃棄本のなかに「アンナ・カレーニナ(上)」があるのを見て手にとったのがきっかけ)。

それで、大して期待もせずに読み始めると、なかなか面白い。
時代がかった背景のイデオロギーみたいな部分は別にいいとして、さすが大作家、人物描写が微に入り細を穿ち、時代が違ってもスムーズに物語りに入っていけます。
「時代を斬る」みたいなものは当然ないにしろ、貴族から農民まで、主人公の若い時から老いていくまでを、興味深く、それなりの感動を持って、上中下の大長編をさして苦労もなく読み終えることができました(「眠り」のいう細かい仕掛けまではわかりませんでしたが)。

そこで、ふと思ったのです。なら、超大長編「戦争と平和」も自分の今の読解力程度で、結構楽しく読めるのかなと。
なら、世に言う「名作長編」も読めたりするのかなと。
だとしたら、今まで林の中の小さな田んぼを守って稲刈りしていたのが、実はその先の広大な土地もさらに耕作でき、豊潤な収穫が期待できるのでは、ということを思うようになったのです。

眼と頭がしっかりしている限り、何かがどうかなってしまっても、何とかやっていける最低限の楽しみのようなものが、確保できた気分です。

今はとりあえず、ちょっと違うかもしれませんが塩野七生の「ローマ人の物語」とかを自分のなかでとりおきしています。

日本一周バイク旅4万キロ

さしてコネもなく、何か副業があるわけでもない、
でも、バイクで旅ができたらいい、
そんな思いでもう何作も旅行記をかいている賀曽利隆の日本一周記。

日本の一宮、岬、峠、温泉、ダートにこだわり日本をばんばん走っていく。
朝5時に起き12時まで走って野宿。
そんなかれを支えるのは、バイクのっているだけでたのしー、という想いと
この道30年以上の経験が支える旅の楽しみ方だ。
日本の旧国の中心、一宮を回っていく発想は読んでいても面白い。
景色一つ見ても想像が広がるバックボーンは楽しいし、
まだ走るのか、今日は休めよといいたくなる健脚には唖然。

後半出発前のネパールでの大事故のけがが残っているまま出発するあたりは、旅にたいする誇りが感じられる。

ハムを焼いても C.W.ニコル

僕のワイルド・ライフ
冒険家の食卓
この2冊の本から、C.W.ニコルの本を読み初めました。
僕のワイルド・ライフ」のほうは、比較的若い時期に様々な国で、自然監察官や調査員・科学者の助手なんかをやっていたときの話です。
冒険家の食卓」は、そういった数ある生活で、特に食事について語ったものです。

ホッキョクグマとの対峙とその後処理、エチオピアでの霧の中の蝉のうつつ、雪原を縦断中に飲む濃厚スープ、料理人に逆らってはいけない恐ろしい理由。

この2冊には、C.W.ニコルの一番おいしいところが、贅沢な語り口でかかれています。

この人ほど、自由に自然を楽しめるのなら、自然観察官もいいな、と幼いころ真剣に悩んだものです。
彼ほどのレベルで自然に関わって、いい本にした人は、そんなに知りません。
貴重な人です。
正直、その生涯がうらやましい。
まだ生きていますが。

結構テレビで見る人ですが、この2冊を読んでから、ご判断ください。

そういえば開高健の最高傑作「夏の闇」でいい解説を書いていました。

個人的には「ハムなんか食って・・・」と思っていましたが、野田知祐もチキンラーメン食っていたし、椎名誠もジーンズはいていたから、まぁいいかと思うけど、けっこうCMで誤解される人も多いんじゃないかな。

東京アンダーワールド

菊とバット」で有名なロバート・ホワイティングが、東京マフィアボスと呼ばれた人物の、戦中からその死までを描いた作品。

ゴッドファーザーのような大作を期待してしまうが、そうではなく、訪れたタイミングを法を犯すことをまったく厭わずものにした、そんな話。

その人物に学ぶというよりは、外人、と言う美味しい位置があればほんの少しの才覚でマフィアボスと呼ばれるまでの大金持ちになれるのだ、と言う驚きのほうが大きい。

驚いたのは、どうやら経営していたレストランで若いころ椎名誠がアルバイトしていたことだ。
さらば国分寺のオババ」か何かに、店名が載っていたような気がする。