冒険航路舎 -5ページ目

キャンバスからはみ出す

(とぉせん)


祝日を知らなかった人もいるようですが(笑)、皆さんはいかがお過ごしだったでしょうか?


私は労働組合の定例会議のため、出社しておりました。

今日の会議は、合計で5時間ほど色々な議題について議論してきました。


こんなに長い時間議論したと言っても、議事録に残る言葉というのはほんの一部です。

ましてや一般の組合員にフィードバックされる言葉といったら・・・良くて3%くらいではないでしょうか?


じゃあ、97%というのは無駄なの?という議論も出てくるかも知れませんが、そうは思いません。

逆に3%を生み出すためには、使われなかった97%が必要なのでは、とそう思います。





武術の型やダンスなのでは、よく

「大きくやりなさい」

との指示、注意がされることがあります。


私も頭で理解していたつもり、注意していたつもりになっていました。

「ああ、できるだけ大きくやればいいんでしょ」

というように。



先日、ある武術の型を稽古していた時、自分の身体の外に、ある感覚が生じました。

それを基準に動いた時、自分の手はこれまでにないくらい大きく、そして速く動かせることを発見しました。



かの岡本太郎がジミー大西に、


「もっとキャンバスからはみ出しなさい」


とのアドバイスを与えたことがあるそうです。


その時は別に自分の感覚と結びつくものはなかったのですが、何故か忘れることができない言葉として私の記憶にとどまり続けていました。




キャンバスの中に画を収めようとした場合、自然な反応として、キャンバスの端の少し手前で動きを制限しようとする働きが生じるのだと思います。

これは画に限らず、ハガキに字を書く場合でも同じでも同じで、紙の端に近くなるほど、自然と字が細くなったりつぶれたりしてしまった経験のある方がほとんどではないでしょうか?


紙の大きさが100だとすると、90~95くらいに収めようとする、自然の働き(脳の働きということで”人為的”と言えるかも知れませんが)が生じてしまいます。



今回の稽古の気付きの後、改めて岡本太郎の言葉が思い出されました。



ということは、


キャンバスや紙と同じく、


身体も身体自身を基準としてしまっては、


身体を100%使うことはできない?




今日の会議で生きることのなかった97%。

それが表に出る3%のクオリティを決めるのと同じように、

身体の動きも

「表に出ることのなかった何か」

というものが、その質を左右している気がします。



「大きくやったつもり」は、身体の中だけの問題だとすれば、


「大きくやる」ことは、身体の中と外を含めた全体的な問題。




キャンバスは、人が設定したもの。



ついつい、キャンバス自体の大きさで、画の大きさはもちろん、


「自分の大きさ」まで決めてしまっていたかも知れません。

体認之大事

(やまもと)



こんばんは、やまもとです。

昨日の夜まで、今日が祝日だと知りませんでした(苦笑)

仕事する気でしたので、なんだかラッキーな気分です。

(うちは、一応日祝は休みにしてるので)



今日、うちの近所のフレンチレストランのシェフに、

「お客さんが帰ったから、遊びにおいでよ」

と電話があり、行ってきました。


お酒を出してもらい、シェフの片付けを眺めながら、ダラダラ話をしていました。

とても発見の多い時間でした。


目指す場所が同じになると、ジャンルは違えど同じような事を言うんやなぁ。

と、改めて思いました。

今日学んだことを、ザッとまとめると・・・

「姿勢が料理と料理人の人生を変えてくれる。料理は頭ではなく身体で覚えろ。」

と言うことでした。


この「姿勢」と言うのは、心構えのことだけではなく、実際の身体的な姿勢のことでした。

だから「あぁ、やっぱり同じやな~」と思ったんです。




自転車に乗れるようになりたければ、「乗ってみる」しかありません。

どれだけ本を読もうが、理屈を述べようが乗れるようにはなりません。


これは「百聞は一見に如かず」と言うことです。


今は情報が溢れている社会です。

でも、そのほとんどが「表面的」です。

だから「流行り廃り」があります。


そんな情報が増え続け、人はその海に飲み込まれて溺れてしまいます。

「百聞」ばかりで「一見」がありません。

それでは、本質を見失うことになりかねません。



自転車に乗ることに、流行もへったくれもありません。

これは、自分自身の身体で学習するからです。

そこに、誰かが作為的に作った流行はありません。


「自転車に乗った気分」では、実際に乗れることは有り得ません。

そんなことはどうでもいいことです。

「出来るか出来ないか」で悩む前に「やんのかやらんのか」であればいいと僕は考えています。

やりもしないで、「出来ない」と言っても進歩しませんからね。

まず、そこが決まらなければ次は無いのです。


「馬を水飲み場まで連れてくることは出来ても、飲むか飲まないかは馬次第」

と、言うことです。

やはり本人次第です。



一旦乗れるようになると、後は自分の中で色々と工夫が生まれます。


隣にいる友達が「立ちこぎ」をしているのを見ます。

それを、見よう見まねでやってみます。


別の友達が「片手離し運転」をしていました。

次はそれを見よう見まねでやってみます。


ここに「「見て盗む」と言うことの真意があるように感じます。

「自転車に乗る」と言う基本さえ出来れば、後は単なる応用です。


「基本十年 応用半年」

と言う言葉があります。

基本が出来れば、応用は早いし、無限大に増えていきます。



こうやって身体で学ぶことを「体認」と言う流派があります。

よく出来た言葉だと思います。


体認した者同士なら、一つのことを言うだけで色々応用を利かせる事も可能です。

これは「一を聞いて十を知る」ことではないでしょうか。

ジャンルは違えど、共通言語を有していると考えています。



顔の前にハエが飛んできたとします。

どうしますか?

手で払いますか?

パッと避けますか?


その感覚と、誰かが突いてくる拳を払ったり避けるのは同じ感覚です(あくまでも僕の感覚ですが)。

身体においては、実は大した違いはありません。



僕はマラソンはしません。

だから、フルマラソンを達成した人の感覚はわかりません。

やったこと無いものは、やったことないんです。


ただ、僕自身、意識を失いそうな状態でも気合で乗り切って達成したことはあります。

突然身体から疲れがぶっ飛び、身体が軽くなったり、周りの景色がより鮮明に見えたり、高速のものがスローに見えたりした経験はあります。


それと同じだとは言いません。

でも、僕の身体感覚として、「多分こういう感じ」と言うのは取れます。




今一度、知識ではなく、身体感覚に目を向けてください。

立つ、歩く、座る。

この中にも、膨大な情報が潜んでいます。


姿勢、呼吸もそうです。

これを読みながら、あなたは呼吸をしています。

そこに目を向けてください。


こういう事が、自分の感じている世界を変えていくことになるのでは・・・なんて思います。




まだまだ、世の中は知らないことだらけです。

知らない国、知らない食べ物、知らない言語、知らない風習、知らない武術・・・

一生かかっても、全てを知ることは不可能です。



だから、少しでもチャンスがあれば、実際に行ってその場の空気を感じてみたいなぁと思っています。

いずれ、旅の話もしようと思います。




まぁそれより、一番身近な「自分」が一番不可解で、何もわからないですねぇ(苦笑)

投資家をとりまく環境

(くんくん)

個人投資家を取り巻く環境は苛酷です。

日本の証券取引所である東京証券取引所(東証)では、外国人投資家の売買比率が6割を超えています。

日本なのに・・・。

しかし、金融においては、日本、アメリカ、中国など国家単位で物事を考えると、それは間違います。
金融は超国家的な概念だからです。

我々、個人投資家の存在など、ランバタを踊る巨象の足元に迷い込んだネズミのようなものです。

まともにやっていてもすぐ踏み殺されます。

相場の世界では資金力が多いほど有利です。
資本主義の世界だから、そういうゲームなのでそこは仕方がありません。

100年に一度の金融危機に見舞われています。
15年ぶりの円高に見舞われています。
経済ニュースが、そんなふうに聞こえてきますが、僕はいつも疑問に思うことがあります。
それは次々と訪れるそういう類の現象が、天気や季節の移り変わりみたいに、まるで自然現象みたいに語られることです。
それは違うでしょう。
全部人工的なもので計画的にそうしているのです。
だってそれはそういうゲームなのです。

株式市場は企業が資金を調達する場であり、投資家が証券を取引する場です。
これが表面です。
多くのプレイヤーがそう思っているので「株は大人のたしなみです」、なんていうププッと吹いちゃうような特集記事が週刊誌で組まれたりするんですね。

株式市場は個人投資家にとって金融資本収奪の場である。
個人投資家のほとんどが負ける、これが実際です。

今は誰でも株を簡単に買えるようになりました。
ネット証券では格安の手数料で売買を行うことができ、携帯からでも売買できたりします。

この環境は我々が獲得したのかどうか?
我々はそこへの参加が許されたが、実際はほとんどが損失を抱える場所だったわけです。

さて、そういうゲームであることを承知して、なお収奪の場へ参加するのなら、この過酷な環境に耐えうるための方法を教えることができます。

やってみますか?

つづく。

お前の握手には「愛」がない!!

(やまもと)



こんばんは、船長やまもとです。

昨日は、コンビニでワンピースを立ち読みして燃え、夜にエクスペンダブルズを見て燃えました。

最高に熱い、いい一日でした。



そんな僕のアクション人生は、スーツアクターから始まりました。

遊園地などでヒーローショーをするのが主な仕事です。

大阪の○○ーとか、京都の○○○とかが主な現場。


こういうチームは全国はもちろん、大阪にも結構ありまして、その中でも付き合いのあるチームってのが幾つかあります。




ある年のこと。

幾つかのチームと合同で、広島のホテルでヒーローショーをしました。

かなり大きなイベントでしたよ。

うれしいことに、僕も声をかけて貰えた訳です。


こういうショーは、終わるとサイン会や握手会、写真撮影会ってのがあります。

サインを書くのは、レッドの役目で、それ以外のヒーローは握手なんかをします。

当然僕も握手をしていたわけです。


ショーは、大体30分~40分です。

短いですが、結構体力を使います。


握手会も終わり、ホッと一息つこうかと思ったら、

「おい山本!ちょっと裏に来い!!」

と、一人の先輩に舞台裏に呼ばれました。


この先輩は、他のチームのメンバーで大先輩なんですが、何かと交流があって仲良くしてもらっていました。

その先輩に呼ばれ、裏に行ったわけです。



「お前!今の握手はなんや!!今のお前の握手には愛が無い愛が!!」

と、パッと言われました。

立ち回りがどうとか、芝居がどうとか言われるもんだと思ってたから、これには参りました。

「ガァァビ~~~~~ン!!!」

と衝撃を受けました。



そうなんです・・・そうなんですよ。

ショーで疲れた僕は、握手をする際に気を抜いていました。

もちろん、ヒーローとして立ってますし、握手もちゃんとするし、カメラを向けられるとポーズもきります。


しかし!!

「あぁ、しんどいな~。早く終わらんかな~」

と思っていたんです。

それを、その先輩は見抜きました。



ヒーローってのは表情はありません。

しかし、そういう事ではなく、内面の感覚、心、思いってのは外に現われ、表情の無い顔に「喜怒哀楽」を示すようになります。

その内面を、先輩が見抜くという事は、そこにいた子供たちにも伝わっていたはずです。



僕が疲れただのどうだのは、子供たちには一切関係がありません。

子供たちにとっては、憧れのヒーローなんです。


「俺は、なんて事をしてしまったんだ・・・」

と、その瞬間後悔しました。

先輩はそれ以外何も言わず、僕の背中をバシッと叩いて去っていきました。



その次のショーの後、やはりサイン会があります。

汗だくで疲れていましたが、僕は子供たちに向き合いました。


「愛のある握手」ってのがどんなものか、僕にはサッパリわかりません。

だから、ヒーローとして、子供たちの憧れとして、心をこめてガッチリ握手をしました。

面白いもので、疲れなんて吹っ飛んでました。



やがて握手会も終わり、楽屋に戻ろうとした頃。

さっきの先輩が僕の顔を見て、何も言わずに「ニヤリ」と笑いながら、肩をポンポン叩いてくれました。

何も言わずにそれだけでしたが、危うく僕は泣きそうになりました。



そんな体験も、今の僕の肥やしになっています。


ちなみに、それ以来僕はショーよりも、その後のサイン会の方が好きになりました。

理由は簡単です。

直接コミュニケーションが取れるからです。


どんな仕事をしようと、誰と会おうと、どこで何をしてようと、心の声、心の状態と言うものは、表に出て現われます。

一つの情報として、外に向けて発信されています。

そうして、他のものに影響を及ぼす可能性があるのです。

逆に、誰かの発する情報を、我々は知らず知らずに受け取っているのです。

電話やメール、このブログだって同じことです。




ニコニコ善人面していても、中身が違えば人は違和感を感じます。

どうやら、そういうもののようです。

それだけで済めばよいのですが、中にはそれを利用する輩もおります。

そういうものを、自分の感覚で取っていってもらいたい。

そう思うからこそ、こういう記事を書いているのかも知れません。


自分を偽らず、体験から気づいたこと、割り出せた事だけを書いていきたいと思っています。



今の僕の握手は愛があるのか?

今の僕の鍼には愛があるのか?


この僕の記事には・・・


病之事

(やまもと)



数年前。

とある武術家と手合わせをしました。

オープンフィンガーグローブを着けての殴り合いですね。


やる中で、僕はこんな事を考えました。


「この技を使ってみよう」

「この型で動いてみよう」


そうして、実行してみました。

殴られて、鼻と口から流血です(笑)


僕はアホなので、たびたびこういう実験を繰り返してきました。

おかげで、余計アホになれました。



もちろん、動ける時もあるし、技がかかる時もあります。

しかし相手も生き物です。

当たり前ですが、僕の思うように相手が動くとは限りません。


そうすると、人は戸惑います。

でも「俺はこうしたいんだ」と言う思いが働き、その「思い」「思惑」「思考」から離れられなくなります。


技が使えなければ、一度離れたり、違うことをすれば良いだけなのですが、それが出来なくなります。

それも、数秒もしくは1秒以下の時間の中で起こります。


やがてそれが積み重なり、長時間その思いに捉われてしまうのです。

それがいわゆる「精神的ストレス」となり、結果として「○○病」と言う名前を医者につけられてしまうのです。

アホ臭い話です。


僕も人間です。

くまと呼ばれても、一応人間です。

だからイライラします。

で、そんな時は「寝る!」に限ります。


僕は小さい頃から、怒っても寝て起きたら許してます。

どうでも良くなってます。

何日も引っ張るって事はまずありません。

本当に、どうでもよくなるんです。

ええ、単純なんです(笑)


今は、寝る以外にもいくつかあります。

「映画館に映画を見に行く」

「坐禅を組む」

特に最近では「練功をする」のが良いと感じています。

頭がクリアーになり、身体が柔らかくなって、色んな閃きや縁が生じてきます。

これは、やった人間にしかわからん話ですが、そういうもんです。



「例外のない法則はない」

と言うことわざがあります。

これを掘り下げると、「例外もあってこその法則」となります。

だから、あって当然なんです。



「こうきたらこうする」

「こういう場合はこうする」

と言う思考パターンは、落とし穴があります。


「こうならない場合もある」という例外の法則の存在です。

これを見失うと、対応が出来なくなります。

出来ても、全て後手に回ります。


「そんなはずじゃないのに!」

と言うパターンですね。


いわゆる「だろう運転」と同じです。

事故の元です。



「こうだ!」

と言う決め付けは、心と身体を固め、視野を狭くし、反応を鈍らせます。

殴り合いなら、血が出たとか骨が折れたで済みますが、車の場合はそうもいかんでしょうしね。


僕の中の「これを使う」「こう動く」と言うのは、一種の「だろう運転」だといえます。

流派がどうだの、何十年修行したのがどうだの、ストリートファイトをやりまくっただの、そういうのは余り関係ありません。

それは過去の話であって、今や未来に適応するとは限らないのです。

そういう過去のデータは「重要な参考」にはなりますが、その程度に留めておくのが一番です。


常に新しいデータに書き換わるのが宇宙ですから、我々もそれに応じておかんとアカンのです。

古いものは良いけれど、それを扱う我々は「今」を生きているだけですからね。



人は、自分なりの「ルール」「こだわり」を持っています。

もちろん僕もあります。

それが悪いわけではありませんが、そこに固執する傾向があります。

それも無意識にね。


そうすると、心が硬くなって対応力が弱まり「居着く」と言う現象がおきます。

こういう事を「病」と呼ぶ流派があります。


「ああしてやろう」「こうしてやろう」「私はこうだ」「あいつはこうだ」

あります。

そういう事は僕にもあります。

僕はそれで何度も痛い目にあってきました。

これってのは、言うなら「自滅」「自爆」です。


それを「あいつがこんなんしたから、あいつのせいだ!」と、すぐに他人のせいにしたくなります。

それは、ただの逃げ口上です。


例えば、相手に過失がある場合ってのはあります。

でも、よくよく分析すると、結局自分の不注意によって巻き込まれた事に気がつきます。

それは、こっちが「余計なこと」をしたが故に、相手に飲み込まれて巻き込まれるのです。


ここに、居着きという名の「病」が潜んでいます。


離れるチャンスは何度もあったはずなんです。

ただ、「でもね」「俺はね」と言う病によって心が居着き、進退窮まったのです。




「こんな技を使ってやろう」

これが有効な場合があります。

それは、僕自身が落ち着いていて、相手が浮ついている場合です。


相手の「例外」に僕がなればよいのです。

そのためには、こちらは十分に「相手の例外」に対応出来る心と身体の状態が保てている必要があります。



つまり、こっちが主導権を握った場合です。

それでも、必ず例外や不測の事態がが発生します。

逆に、あっちが主導権を握っている場合は、こちらの思惑は通じません。


ある種の駆引きといえるかも知れませんが、こういう状態が常に高速で揺れ動いている感じがします。



こうやって文字で書くと、なんだか大層な感じに見えますが、実際はめちゃ簡単です。

「余計なことを考えず、余計なことをしなければいい」

ただこれだけの話です(笑)





心が定まれば精神が安定します。

精神が安定すれば心が休まります。


この静かの状態になれば、身体は軽く動くようになります。

そうして、相手がパッと来た時に、何も考えずパッと動けば良いのです。

その時に、自分がこだわっていた事が、今そこで表現されている事に気がつきます。


「無いということは、そこに全て在るから心配せんと一旦捨てろ」

です。


肉や魚、野菜を鍋に入れてグツグツ煮込むと、やがて具財は溶けてなくなります。

しかし、心配しなくても、濃厚なダシとしてそこに存在しているのです。



思考に捉われると、「ああしてやろう」「こうしたい」「こうでなきゃ」と言う病に捉われ易くなります。

多分、不安の裏返しです。

もしくは、ただ天狗になって自分を見失っただけか。


「なんだ、こんなもの結局役にたたへんやんか!!あっちの方がいいや!!」

と言う状況になりかねません。


別にそれはそれでもいいけれど、それは結局遠回りではないか!?

自分を省みると、そう思えてなりません。



思考は思考として横に置き、素直な自分の意識、心、身体に目を向けてみると、ふっと世界が変わるかも知れませんよ。



少なくとも僕は、そうやって自分自身の身体で研究しています。

ええ、単なる好奇心旺盛な暇人なんです(笑)


燃えた!!!!

(やまもと)



こんばんは、くまです。



今日は1日。

映画1000円の日。


仕事を終えて「エクスペダブルズ」を観に行きました。



むふ~~~~~!!!!!

燃えた!!!!


予想通り、話の内容はあって無いようなもの。


しか~し!!

アクションは抜群、秀逸でした。


80年代、90年代のアクション俳優大集合ですよ。

スタローンとドルフラングレンですよ!!


そこに、ジェットリーですよ!!!

最近めちゃお気に入りの、ジェイソンステイサムですよ!!!


この2人の、アクションのキレは流石です。

見ていて感激しました。



また、ミッキーロークも渋いし、元UFC王者のランディクートアや、プロレスラーのスティーブオースティン。

地味に、ノゲイラも出てるやん!!!


レスリングスタイルのアクションは、かなり来たな~。

思わず「おぉっしゃ~~!」と叫びたくなるほど見事です。



あ、わたし燃えると「!!」マークがやたら増えます。

すんまへん。


アクション魂にボッと火がつきました。

やはり、まだまだ現役でやりて~~~~~~~。


カーチェイス気分で帰宅しました。




来年公開の「RED」が今からメッサ楽しみです。

あの「グリーンホーネット」も、復活するそうですね。


満を持して、来年を待とうやありませんか!!!



鍼灸や武術の話ばかりやなく、アクション・殺陣の仕事の話なんかも書いていきますね。



今夜はダメだ。

素で燃えてる。


部屋で、投擲(投げナイフ)の練習でもしてから寝ます(笑)

目に見えないもの・・・・その2・・・・

(すぅさん)


こんばんは このブログは冒険航路舎のメンバーが様々な事を書き連ねておりますので登場者が度々違います。(笑)


今回は私すぅが書いております。



またまた内容は目に見えないものです。 とは言ってもオバケとか神様とか天使ではありません。


このブログでも色々と出ているので見ているかもしれない言葉かもしれませんが・・・


ある小説で(私は大好きな小説なんですが・・・)度々見受ける言葉があります。


(その私の好きな小説は夢枕さんの空海の小説です。)


それは・・・ この宇宙で最も大きなものは何ですか? また最も小さなものは何ですか? という空海と妖怪の問答があります。


ミニマムでありマキシマムであるもの!!


何だと思いますか?





その問答の中での答えは「言葉」となります。



何故言葉か? 言葉は認識される世界を表現するために現世界では必要不可欠であると思います。では言葉で表現出来ないものについて貴方はどう表現しますか?と問答が進みます。


そう・・・今、このブログの中でも最大と最小という言葉でくくっております。 だから最大でもあり最小でもあるものなのが言葉となります。


その言葉の中で文字に表されるものはその内容を意味に持つ事が沢山あります。


すでにこの文字はブログで使われていて文字は見る事が出来ますが、言葉やその意味自体を取り出して目にする事は出来ませんよね。


と本当に書こうと思っている事からちょっと離れてしまいました。


さて長い前置きを終わって目に見える字で本題を書きたいと思います。(笑)


私達の日常で普通に使われているもので目に見えないもの・・・・ 心



さて心とは何か? 貴方の心は何処にありますか? 脳ですか?それとも心臓ですか?手、足?お腹?

解剖しても見つからないですよね。


では、精神は?意識は?感情は? 何処にありますか?


普段は考えない事ですが、世間では色々と使われていますよね。心理学とかコーチング?とかって言うものや占いでもそうですよね。 最近、また流行の催眠とか・・・


それぞれ文字で表されているので当然ですが全て機能は別です。 


気功の世界ではこの全てにおける意味をリアルに理解するための方法と理論があります。


これを理解出来たときには・・・・・・


今まで見えていなかった世界を見る事になる・・・・でしょうね。


私もまだまだ見えていないので、修行の最中です。(笑) でも・・・目に見えていない精神や感情や意識というものの意味や働きの違いは少し分かるようになりました。


分かってくると色々と・・・・変わってきますね。



実は目に見えていないモノに少しだけ意識を向けてみると・・・・貴方の世界も少し変わるかもしれません。



(すぅでした)



(またまた怪しい?臭い話かな?(笑))

心のコスト

(とぉせん)


お店で買い物をしたり、レストランで食事したりすると、ポイントカードのようなものをよくもらいます。


「○○円以上お買い物すると、△△円のお買い物券として使えます」

「○回食事すると、1回タダ」

というやつです。

皆さんも財布の中には何枚か入っているのではないでしょうか?


基本的にはそのお店でお金を使えば使うほど、見返りも大きくなるようにできています。

見返りと言うのは要するに、「お金を得する」ということですね。


以前はそういった見返りを「ありがたいことだ」ということで、けっこうな数のポイントカードをお財布に入れていましたが、

ある時ふと、

「これって本当に得してるのか?」

という疑問が頭によぎりました。


たとえば、

「10,000円買い物すると、次回の買い物は500円引きになります」

という特典の場合、金額だけに着目すると5%得したことになります。

超低金利が続く昨今の日本では、5%の利回りという数字は望むべくもありません。


「理屈」で考えると、どう考えても得するように思えます。



しかし、待てよ、と私の心は考えました。



今、この手元にあるポイントカードは、わずかとは言え、私の財布の中のある体積を占有しています。


土地を占有しようと思えば土地を購入し、税金を払いように、

アパートの一室を占有しようと思えば、家賃を払うように、

看板を占有しようと思えば、広告料を払うように、

少なくともこの日本では、「場所を占有する」という行為はコストの対象となります。


じゃあ、私の財布を占有することは、コストと言えないのだろうか?


札束でパンパンになるのであれば万々歳ですが、悲しいかな、私の場合、財布を太らせるのは、小銭、レシート、そして各種のポイントカードです。


メタボになった財布を見て、げんなりとした気分になる。

膨らんだ財布をお尻ポケットに突っ込むと、ズボンがいつもよりパンパンに張ってしまい、気持ちが悪くなる。

カードを時々チェックすると「あ、これ有効期限過ぎてるよ・・・」という事実に気付き、ちぇっと思いながらカードを捨てる。


考えていくと、財布を占有する、ということは、自分の心の一部を占有されることなのではないか?

そう思うようになってきました。


あるものを所持し続けるということは、それが目に触れる機会が多くなる、ということに繋がります。

我々の能は網膜に飛び込んできた光に対し、自分が意識しないうちに、映像処理、認識、判断という仕事をこなしています。

常にその仕事をしていないと、仮に命をおびやかす可能性のあるものが目に飛び込んできても、反応できないという事態になってしまうからです。


ということはつまり、視覚情報が多いほど、脳がこなすべき処理が増えてしまう、ということになります。

例えるなら、パソコンを使っていて、ワードで作業したいのに、裏で別のソフトも立ち上げ、動画のダウンロードを行い、DVDの書き込みを行い・・・なんてことをしている状態になります。

当然、本来使いたいワードの反応速度は遅くなり、「時間」という、これはお金には代えがたいものをロスしてしまった、


要するに

「コストがかかってしまった」

という結果になります。


パソコンの処理は目に見えやすいですが、脳の処理が手間取っているとか、混乱しているとかは今ひとつ分かりにくいかも知れません。


それをどう判断すればいいのか?という明確な方法をまだ私は持っていませんが、

「このカード、使うの?」

と聞かれた時に、

「使う使う!!」

と、即答できるものは良し、


反対に、

「え~、そんなに使わないけど、でも・・・」

というような言葉が出てくるようであれば、

それは

「処理に手間取っている」

と考えてよいのではないでしょうか。

無意識之大事

(やまもと)



「易に太極あり、これ両儀を生じ、両儀は四象を生じ、四象は八卦を生ず」

これは「易学」の哲理です。


混沌から秩序が生まれ、様々に変化をしていく。

簡単に言えばこんな感じでしょうか。


「無」と言うと「何もない」と言うイメージがありますが、「無から有を生む」のが東洋の理です。


心理学で言うなら、顕在意識・表層意識と、潜在意識・深層意識にも通じます。

有意識と無意識ですね。


人は無意識に、様々な動作や行動をします。

例えば、自転車に乗っている時に、一々「バランスはどう」だの「ペダルはこう漕ぐ」だの考えません。

これは、身体が覚えたことなので、無意識下の自動的な運動に任せていると考えられています。




「無」とは何もないことではなく、「全てある状態」と僕は把握しています。

本当に何もないものは、何もないので何も生まれません。


「無いけど在る、在るけど無い」

とても矛盾していますが、そういうもんだと思っています。


こういう事は、心理学的にも大脳生理学的にも生物学的にも、様々に分析が可能ですが今はやめときます。




先日、近くに住む鍼灸仲間が遊びにきました。

かわいらしい女性。
でも人妻です。

ここで「人妻」と言うか「主婦」と言うかで感覚が変わります。
これは大事なポイントです。


僕の無意識層で、人妻と主婦と言う「単語」にそれぞれ別の情報がインプットされている訳です。

でも、それはただ僕の脳内で作りあげた世界です。



さてさてそんなことより・・・



彼女には以前、ここで書いているような身体感覚のデータを少し取らせていました。

なんで、それをもう一段階進めて説明をしました。


まず、先日「下腹之大事」と言うテーマで書きましたが、少し姿勢と意識状態を変えるだけで、僕の寸止めの突きは怖くなくなります。

久々に、それを再現しましたが、良い反応を見せてくれました。


すぐに、その感覚が取れて来たようなので、 次に進みました。



「じゃぁ、手をこういう風にフワッと構えて」

「こう?」

彼女の姿勢をちょっと矯正して、重心の位置を安定させて、胸の前に手をフワッと出すように指示しました。
誰かの肩を、後ろから触るような形でしょうかね。



「そうそう。で、僕が「来た!」と感じたら半歩前に出てみて。後は何も考えなくていいから」


1メートルくらい離れた位置から、僕がパッと踏み込んで彼女に拳を打ちます(もちろん寸止め)。
それにあわせて、彼女は半歩前に出る。

まあ、そういう約束稽古です。
最初は、出る感覚をとらせるために、突きは打たずに前に踏み込むだけです。

僕がパッと踏み込んだら、彼女もパッと前に踏み出す。


それ以外のことをする必要も、考える必要もありません。

パッと来たらパッと出るだけ。



僕が憧れた中国の武術家は、「半歩崩拳 遍く天下を打つ」と称されていました。

崩拳と言うのは、直突き(ストレートパンチ)と、解らない人はイメージしといて下さい。


ここでのポイントは、「一歩」ではなく「半歩」と言うことです。

ここでも、僕の体験談があるのですが、それはまた話す時が来るかも知れません。



「一歩」と考えると、どこかで「大きく出る」と思い込む場合があります。

人の心理ってのは、ちょっと過剰にやりすぎたり、逆に手前で手を抜くことがあります。


飯を腹八分で止めたいなら「六分」で止めると、大体「八分」くらいです。

と、考えておくと良いかと思う。


一歩踏み込むと、怖くて足がすくんだり、もしくは出せてもそこで動きが止まる場合があります。

こういうことを「居着く」と言います。


何事も居着くと終わりです。

だから、半歩くらいの感覚がちょうど良い足運びになるようです。



まぁ、そんな感じで半歩出る感覚を取ってきたので、突きを出すことにしました。

パッと出ながら、彼女の顔面に突きます。

それにあわせて、彼女もパッと前に出ます。


顔への突き(実際には、彼女の反応に合わせて速度と位置をずらせますが)は、見事に手で払われました。
払った本人が驚いていました。


顔の前にハエが飛んできたら、無意識に手で払うでしょ?

そういう身体の反応がちゃんと出るんです。



これをね、数回やります。
すると、彼女の中に自信という名の力が沸いてきます。
顔つきが変わり、パッと明るくなってきます。


で、次は何も言わずに右フックを出しました。




見事に止められたぁぁ!!



もちろん僕が、彼女の反応を引き出すように仕向ける必要もあります。

反応を見極め、調節しながら打ち出す必要はあるんですが、予想以上に良い反応で止められましたね。


本人も、自分が何をしたのかは、後から気がつくわけです。
(ここが重要なポイント)

無意識に身体から出てくるものは、とうぜん予定調和では無いということです。

だから、思考で認識するのに少し時間がかかります。


これを、頭で考えながらやると動けません。

もしくは「こうきたらこうする」と言う、パターンで考えても無理かと思います。


そんな事を考えながら、自転車に乗ったり車の運転はしやへんでしょ?

それと同じです。



後は何度か繰り返し、その「出来る」と言う感覚を実感させます。
その上で、職場や日常の中での応用方法を解説します。

こういう風に、自分の身体の中にある「感覚」。
それを自分で把握して取っていき、その感覚を日常で再現出来れば、その人そのものが変わるんやと思う。


それもなしに、応用ば~~~~っかり伝えても役にたたん。

無駄ではないけれど、応用が全く利かなくなる場合が多いです。



基本の身体感覚が取れれば、応用に関してはちょっと話したり、見せたり、体験させるだけで事足ります。
自転車に乗れるようになれば、鼻歌歌いながらでも、立ちこぎでも、片手でも両手離しでもできるようになります。

応用ってのは、そういう感じだと僕は考えています。





感覚だけで身体がないのはダメ。
身体だけで感覚がないのもダメ。
知識だけで感覚と身体がないのはもっとダメ。



こうして、無から有が生み出され、無限の応用変化を成してくれる。

なんとなくですが、そんな風に感じています。




良い経験と悪い経験

(くんくん)

株の話です(あくまでも)

タイトルに矛盾しますが、経験に良いも悪いもありません。
本人の受け取り方によってどうとでもなるからです。
時間の切り取り方によっても違ってくるのでしょう。
良い、悪いという決めをするのは本人の感情や設定に基づくところが大きいと思います。

ただし、ゲームに向かい。
勝敗のあるゲームで勝利を目指すという限定された状況においては、良い経験と悪い経験があります。
ここでいうゲームとは、株式投資のことです。

株を買いました。
儲かりました→良い経験をしました。
損しました→悪い経験をしました。

・・・と、僕の言いたいのは、こういうことではありません。

株を買いました。
どういう理由で買いましたか?
「上がりそうだと思ったからです。」
どうして上がりそうだと思いましたか?
「それは、これこれこういう理由で上がりそうだと思いました」
なるほど、そして結果はどうでしたか?

この結果が儲かったとしても、損したとしても、この方は良い経験をした可能性があります。

株を買いました。
どういう理由で買いましたか?
「いやなんとなく」
「証券会社のレポートを見て良さそうだと思ったんで」

こういう方は悪い経験をした可能性があります。
ゲームにおける悪い経験とは、無意味な経験ということです。
たとえこの方が一時的に儲けたとしても、相場を続けるなら必ず負けていくでしょう。
無意味な経験を積み重ねても、どこにも行き着きません。
時間が過ぎていくだけです。

良い経験を積み重ねていくと、その方はやがてゲームにおいて実際のルールを把握することができます。
ゲームには誰にも知られていて、ルールブックに記載されている表面上のルールと、勝ちに繋がる実際のルールがあるのです。