心のコスト | 冒険航路舎

心のコスト

(とぉせん)


お店で買い物をしたり、レストランで食事したりすると、ポイントカードのようなものをよくもらいます。


「○○円以上お買い物すると、△△円のお買い物券として使えます」

「○回食事すると、1回タダ」

というやつです。

皆さんも財布の中には何枚か入っているのではないでしょうか?


基本的にはそのお店でお金を使えば使うほど、見返りも大きくなるようにできています。

見返りと言うのは要するに、「お金を得する」ということですね。


以前はそういった見返りを「ありがたいことだ」ということで、けっこうな数のポイントカードをお財布に入れていましたが、

ある時ふと、

「これって本当に得してるのか?」

という疑問が頭によぎりました。


たとえば、

「10,000円買い物すると、次回の買い物は500円引きになります」

という特典の場合、金額だけに着目すると5%得したことになります。

超低金利が続く昨今の日本では、5%の利回りという数字は望むべくもありません。


「理屈」で考えると、どう考えても得するように思えます。



しかし、待てよ、と私の心は考えました。



今、この手元にあるポイントカードは、わずかとは言え、私の財布の中のある体積を占有しています。


土地を占有しようと思えば土地を購入し、税金を払いように、

アパートの一室を占有しようと思えば、家賃を払うように、

看板を占有しようと思えば、広告料を払うように、

少なくともこの日本では、「場所を占有する」という行為はコストの対象となります。


じゃあ、私の財布を占有することは、コストと言えないのだろうか?


札束でパンパンになるのであれば万々歳ですが、悲しいかな、私の場合、財布を太らせるのは、小銭、レシート、そして各種のポイントカードです。


メタボになった財布を見て、げんなりとした気分になる。

膨らんだ財布をお尻ポケットに突っ込むと、ズボンがいつもよりパンパンに張ってしまい、気持ちが悪くなる。

カードを時々チェックすると「あ、これ有効期限過ぎてるよ・・・」という事実に気付き、ちぇっと思いながらカードを捨てる。


考えていくと、財布を占有する、ということは、自分の心の一部を占有されることなのではないか?

そう思うようになってきました。


あるものを所持し続けるということは、それが目に触れる機会が多くなる、ということに繋がります。

我々の能は網膜に飛び込んできた光に対し、自分が意識しないうちに、映像処理、認識、判断という仕事をこなしています。

常にその仕事をしていないと、仮に命をおびやかす可能性のあるものが目に飛び込んできても、反応できないという事態になってしまうからです。


ということはつまり、視覚情報が多いほど、脳がこなすべき処理が増えてしまう、ということになります。

例えるなら、パソコンを使っていて、ワードで作業したいのに、裏で別のソフトも立ち上げ、動画のダウンロードを行い、DVDの書き込みを行い・・・なんてことをしている状態になります。

当然、本来使いたいワードの反応速度は遅くなり、「時間」という、これはお金には代えがたいものをロスしてしまった、


要するに

「コストがかかってしまった」

という結果になります。


パソコンの処理は目に見えやすいですが、脳の処理が手間取っているとか、混乱しているとかは今ひとつ分かりにくいかも知れません。


それをどう判断すればいいのか?という明確な方法をまだ私は持っていませんが、

「このカード、使うの?」

と聞かれた時に、

「使う使う!!」

と、即答できるものは良し、


反対に、

「え~、そんなに使わないけど、でも・・・」

というような言葉が出てくるようであれば、

それは

「処理に手間取っている」

と考えてよいのではないでしょうか。