”ありがとう”の効用と落とし穴
こんばんは、とぉせんです。
土日は何かしらの稽古をしていることが多いですが、平日は基本的にサラリーマンをやっております。
日常と稽古、学生であれば勉強と部活の両立といったようなテーマ立てがされそうですが、日常こそが稽古の実践であり、また一番の稽古の場である、とも言えましょう。
今日は、そんな日常の中での失敗談を書いてみたいと思います。
反面教師として、何かみなさんのお役にたてれば。
”ありがとう”のような”良い言葉”を使っていると、良い影響がある、というようなことが言われます。
氷の結晶ができる際に”ありがとう”という言葉をかけると綺麗な結晶ができる、という研究結果が発表され、賛否両論が巻き起こったことを御存じの方は多いと思います。
研究の賛否についてはここでは問題にしませんが、言葉が人間に影響を及ぼすか及ぼさないか、という話で言えば、”及ぼします”と言えます。
船長の記事(姿勢の大事)にも少し関係しますが、こんな実験ができます。
まず、正座をします。
(別に正座じゃなくて椅子に座った形でも構いません)
そして心の中で、自分が思いつく限りで最悪な言葉(”くそったれ”でも”ばかやろー”でも、自分が最悪と思えば何でも結構です)をひたすら連呼しましょう。
連呼した状態で、誰か他の人に胸を押してもらい、それに対して抵抗してみてください。
どのくらいの力で抵抗できましたか?
今度は、姿勢はそのままにして、心の中で、”ありがとう”を連呼してみましょう。
誰に対して?とか、何に対して?とか考えず、とにかく心の中を”ありがとう”で一杯にしてください。
そして、その状態で、さっきと同じように他の人に胸を押してもらい、抵抗してください。
抵抗する力はどう変わりましたか?
他にも色々と実験法はありますが、ほぼ確実に、”ありがとう”を連呼した方が強く抵抗できます。
”ありがとう”という言葉によって、それを発する人の抵抗力に影響が出た、ということですね。
つまり、日常を全て”ありがとう”で満たせば、自分に向かってくること全てに対して、強い抵抗力を持った状態でいられる。
強い人間になれる
だから、”ありがとう”を使えば使うほど、あなたは強い人間になれるのです!!!
”ありがとう”の影響力を知った私は、
◎普段の生活で、できる限り”ありがとう”を使うことにする、怒られたら怒ってもらえたことに”ありがとう”、冷たくされても嫌味を言われても試練を与えてくれて”ありがとう”と思う
◎一日の終わりには、その日に起こった出来事に対し、5つの”ありがとう”を手帳に書く
ということを決めて、実践してみました。
その結果、1年後には会社の大きなプロジェクトを任されるようになり、
恋人もでき、
「とぉせんさん、今までとはすっかり変わったね」と言われることが増え・・・・
・・・・となれば、めでたくハッピーエンド、成功本のひとつでも書けるのでしょうが、そうは上手くいかないのが世の中です。
始めた当初こそは、笑顔でいられる時間が増えたようにも感じましたが、半年くらい続けるうちに、苦手な取引先へのメールに”ありがとう”を書くこと(しかも、特に感謝するような場面でもないのに)に対し、非常な違和感を覚えるようになってきて、最終的には普通の対応に戻りました。
手帳への書きつけは、1年以上続けましたが、こちらもいつしか違和感の方が大きくなって止めてしまいました。
普通に考えたら、”ありがとう”を言われて気持ちの悪い人はそういませんし、自分も強くなれるはずなのに、どうして嫌になってしまったのでしょう?
自分の分析は、こうです。
苦手な相手への”ありがとう”。
全くこちらの思う通りに動いてくれず、こちらからお願いしてもまず聞いてくれない相手に対し、敬遠したい気持ちはあるけれども、感謝の気持ちはありません。
そして、そんな相手に対して”ありがとう”を無理やり使う時、脳の中の感情と言語を繋がる働きが非常に混乱します。
「あれ?”ありがとう”は感謝の意味じゃなかったっけ?恨みの意味に感じるんだけど・・・」と。
困った脳は、こう処理します。
「そうか、今は違うけど、未来の見返りに対しての感謝として”ありがとう”を使ってるんだ!
”ありがとう”は”オレの言うことを聞け”なんだな。」
こういう回路が出来上がると、自分の感情と言葉がどんどんとねじ曲がっていきます。
ここでの違和感は、このねじ曲がりだったのでしょう。
手帳の書きつけですが、最初は具体的なエピソードを思い出しながらの”ありがとう”が、毎日繰り返していく中で、ルーチン化してしまったことに後で気付きました。
「Yさんは一緒に同じ仕事を担当しているから、今日も”ありがとう”だ」
「部長は私達のことを気遣って仕事してくれてるから、今日も”ありがとう”だ」
こうなると、Yさんや部長は単なる記号となってしまい、対象を失った”ありがとう”はただの文字になっていくと共に、
「これだけ”ありがとう”を並べたのだから、この先、自分にとって何か良いことが起こるに違いない」
というスケベ心に結びついていたことに、ある時気付いてしまいました。
それに気付いてから、もはや書きつけを続ける気はすっかり失せてしまいました。
”ありがとう”という言葉には、確かに力があります。
ただ、同時に、人はそれを台無しにしてしまうほどの力も持っています。
人にも自分にも嘘をつかずに、言葉を使えるでしょうか?
”ありがとう”の効用を知ることはゴールではなく、
単なるスタートでしかない
今はそう思います。
陰陽の話
(やまもと)
おはようございます、船長やまもとです。
ワンピースが大好きです!
あ、服のワンピースではあらしまへん(それも好きやけど)。
ワタシ!
コンビニで、ワンピースを立ち読みして泣けます!!
でも、泣きそうになったら、読み終わるまで我慢します。
で、イソイソと外に出ます。
上を見上げて歩きながら帰ります。
そんな34歳です。
今日は、僕なりに感じている「陰陽」について書いてみます。
鍼灸は東洋医学です。
東洋医学は「思想医学」とも言われ、基礎となっている思想、哲理があります。
「陰陽」と言うのは、その代表格です。
陰には陰の、陽には陽の働きがありますが、それは書いてもキリが無いので割愛。
まぁ、大体想像つきはると思いますので、今から書く内容を読んで、色んなものに当てはめてみて下さい。
我々鍼灸師は、患者さんを診察する際に「陰陽・虚実・表裏・寒熱」というような見立てをしていきます。
これらは全て、表現方法が違うだけで、結局は「陰陽」の働きそのものです。
ただ、陰と言えばなんとなくイメージが悪く、陽と言えばなんとなくイメージが良いのではないでしょうか。
確かにそうなんですが、そこにちょっと落とし穴があります。
陰は「凝固作用」があります。
例えば、このパソコン。
これは陰気の凝固作用があるから「物体」として存在しています。
こいつを焚き火に放り込みます。
当然溶けます。
もっともっと熱を加えたら、多分跡形もなく消えます。
これが「陽」の働きです。
陰気があるから、我々はこの宇宙で「形」を保っています。
陽気だけでは、単なる「気体」になるので形は保てません。
ザックリとですが、こんな風に把握しといて下さい。
陰気は、集めて冷やして固める作用があるため、ジメジメとして薄暗くて陰気臭い・・・と言うことにもなります。
陽気はその逆ですね。
ただ、これらの「現象面」をとって判断するのではなく、その裏にある「働きそのもの」を理解する必要があります。
そうすれば、外見、外形、地位や名声、そういうものに惑わされなくなります。
「偽者ほど、きらびやかに飾って本物らしく見せたがる」
と言います。
これは、まさに陰陽の働きであって、良し悪しを問うものではありません。
なにより、物事には必ず「例外」が存在します。
それがあるから、この宇宙は成り立っているのです。
これも、まさに陰陽の働きです。
陰陽と言えば「陰と陽」と区別されますが、これもちょっと違います。
例えば・・・今、僕はノートパソコンでこれを書いています。
ずっとノートパソコンが欲しくて、こないだね、近くのパソコン工房で買ったんですよ~!!
いや、そういう話ではなく・・・
今見ている画面。
これは、表?裏?中?外?どっちでしょうね。
画面が見えているから表だと決めちゃいましょう。
で、電源落としてパタンと閉めます。
画面は、表?裏?中?外?・・・ややこしいですね。
つまり「オレが表と認識したから表」なんです。
で、表と認識すると同時に、裏が生まれます。
こういうことを「表裏一体」と言います。
武術では「攻防一体」とか、「懸待表裏」などと呼ぶ流派もあります。
例えば、めっちゃいい人!と思ったとします。
でも、100%いい人は存在しません。
陰陽は表裏一体ですから。
でも、人は表の部分を見たがります。
それを信じたがります。
それはそれで別に構いやせんけど、それで痛い目に合ったとしても、相手の責任ではなく自己責任です。
これは、良し悪し、善悪、などを「AとB」と分けるから起きるんちゃうかな~って僕は考えています。
字面通りの善悪が本当にあったとすれば、この地球上でこれほど宗教が生まれることもないし、対立することも有り得ません。
「ワタシはこれを信仰しているから、それは受け入れられません」
と言うのも妙な話です。
いや、戒律と言うのは、それが生まれる背景が必ずあるのだから、あって当然です。
しかし、それ以外のものを否定する理由にはなりえません。
そこに優劣は一切存在しません。
存在するとすれば、単なる誰かの思惑です。
それに乗せられているだけか、意図的に乗っているのかのどちらかでしょう。
僕は、いくつかの武術流派を学んできました。
しかし、流派が強いのでも優れているのでもなく、強い人が強いだけです。
だから「最強の格闘技はこれだ!!」と言う謳い文句は変です。
まぁ、あれは宣伝だから、それで面白いんですけどね!
そこで次の段階。
陰陽は「働き」であると書きました。
あ、書いてへんかな?
現象としての陰陽のほかに、働きとしての陰陽があります。
「動く」「止まる」と言うのも陰陽で、これが働きです。
これは、季節や時間で把握するのが易いと思います。
四季がありますね。
昔の人は、陽の極みを「夏至」と名づけました。
陰の極みは「冬至」ですね。
その中間にあるものを「春分」「秋分」と名づけました。
この話は、易の話になってくるので、また後日。
夏至と言うのは、陽を極める「点」のことで「陽中の陽」となります。
そこから冬至に向かいます。
つまり、夏の陽気に陰気が混じってくるので、これは「陽中の陰」となります。
冬至に至れば「陰気極まり、陰中の陰」となります。
で、次は夏至に向かって陽気が増してくるから「陰中の陽」となるわけです。
夏と冬では、あまりにも気温が違うため、春と秋で考えてみます。
例えば、春と秋で、ある一日の昼の気温が20度だったとします。
同じ20度です。
数字としてみれば同じですが・・・同じだと思いますか?
東洋的に見れば、両者は異質です。
片や陰気が増加中、片や陽気が増加中です。
これはエネルギーの働きが違います。
だから、同じ温度でも、山の景色が違いますし、風も雲も違います。
人の着るものもやはり違うし、気分的なものも違うかも知れません。
こうして、陽から陰に向かうことを「陰遁」、陰から陽に向かうことを「陽遁」と呼びます。
春は陽遁の季節で、秋は陰遁の季節となります。
これね・・・人も社会もたぶん同じなんです。
僕の経験と実験上から、どうも同じ原理、働きなんです。
例えばですね~、人には表があれば裏があるのは当然。
現象面を表とすれば、その裏が必ずある。
それは「疑う」ことではないですよ。
ただシンプルに「こういう働きがあるのは当然」と把握しとけばよいのです。
疑うってのは、ある意味「陰」の働きで、これが強まると固まって動けなくなる。
これは「居着く」とか「病」と僕は呼んでいます。
当然、この逆も危ない。
陰陽は常に表裏一体です。
そうして、常に動いています。
時間が止まらないように、常に動いています。
だから、人は変わって当たり前なんです。
「あの人変わったわ!」「いう事が前と違うわ!」
と言うのは、ある意味当たり前です。
姿勢が変わるだけでも、人は簡単に変わります。
陰陽というのは、常にこうやって動いています。
それが自然です。
大切なのは、現象という表に見えるものの裏にある働きを見ることです。
武術で言えば、一々現象化された動きを見ていたら、フェイントに簡単に騙され、殴られ、折られ、斬られて終わりです。
治療でも全く同じです。
それらの裏にある働きを、同時に見ておけば良いのです。
陽だけ見てもダメ、陰だけ見てもダメ。
これらは「表裏一体」だから、常に同時に見ておけば、早々不覚を取ることはありません。
姿勢之大事
(やまもと)
武術では「姿勢」というものが重要視されます。
これは、武術に限ったことではありませんが、僕は武術から割り出した事なので、武術として書いてみます。
ちなみに、僕がここで言う武術とは、いわゆる「流派」ではありません。
空手や柔道や剣道、といった具合に区分けされるものにも属しません。
なんせ僕自身、これを何と呼んで人に説明できるのか解っていません・・・(苦笑)
千葉に住む、東洋医術の師匠から「禅」を基盤とする様々なことを学んでおり、そこから導き出されたものです。
「山本流」と言えばそうなりますが、そういうものではありません。
流派になると、それ(つまり形)を教える義務が生じます。
師とやってきた事は、そういう形式を伝えるものではないのです。
個人個人がそもそも持っている能力があります。
個性とも言えますね。
簡単に言えば、その能力に自ら気づき、自らの工夫でそれを磨いていくものと言えます。
だから自由なのです。
自由なため、流派として教えることは不可能です。
言うなれば、各々が一流派となるわけです。
そのために、まず眠った能力を引き出す必要があります。
自分の能力がわかってくれば、「武術」という範疇には収まらなくなります。
僕はこの感覚で、武術を行い、東洋医術を行い、経営やコミュニケーションや殺陣などを行います。
僕が何をやろうが、僕自身がやる事に違いは無いので、ただ単純に「守るべき要訣だけを守る」事に徹するだけです。
「こういう場合にはこう」「ああいう時にはどう」
と言ったものは、別にありません。
それらは、状況に応じて応用変化させれば良いだけの話で、やはり僕が守ることは変わらないのです。
つまり「一即多 多即一」であり続けるだけなのです。
能力と言うのは目に見えません。
だから、一番身近な能力である「身体」からアプローチをします。
その際に、手っ取り早いのが「姿勢」です。
百科事典などによると、身体の状態(静止or運動)のいかんを問わず、身体の状態を保つことと書いてあります。
それを「構え」とも言います。
この「構え」については、次に話したいと思います。
運動科学的に「正しい姿勢」と言う定義があります。
しかし、人は「こう」と決まった構造をしていません。
大体同じですが、「大体」であって「確実」ではありません。
これも立派な個性です。
だから、型枠通りの「正しい姿勢」を強いることは僕はしません。
片足の無い人には、それなりに。
背骨が曲がった人には、やはりそれなりに。
ただし、守るべき「要訣」があります。
それは、体型や身体状態は関係ありません。
まずは、重力の線に従って、体が安定することを考えます。
僕は、両足で立つ、片足で立つ、椅子に座る、坐を組む、歩く、走る、何かをする・・・
こういうあらゆる状況でも、余計な力を抜き、心を安定させ、肉体を安定させる鍛錬をしています。
これによって、自分がどんな状態になっても変わらない心身を身につけるのです。
「安定」は硬いものでも、動かないものでもありません。
安定しながら、自由に柔らかく動くことも止まることも自在になることを第一目標に置きます。
この辺の部分は、文字で書いても伝わらないので、直接学びに来て下さい。
ちなみに、うちの師は「外形」「相」と言う言葉をよく使います。
相と言うのは、手相などと同じ相。
つまり外側に現れ認識された姿という事です。
坐禅では、まず「坐相」を作ってから禅定に入ります。
体の相が出来てくると、内側の相、つまり心の形を作る鍛錬を行います。
内と外はほぼ同時進行で鍛錬しますが、内側はとても難しい。
僕にはとにかく難しいので、まずは確実に外形の相を作ることにしています。
こういう事をしていると、段々と「内は外、外は内」と言う感覚が湧いてきて、そういう区分けが難しくなってきます。
これも、書いても話しても、この感覚を共有していない人には、全く通じません。
やはり、一から段階を追う必要があるのでしょうね。
一つ実験をしましょう。
椅子に腰掛けます。
腰を丸めて、猫背になって、ちょっとうつむいてみましょうか。
そこで、何でもいいから「ネガティブ」なことを考えてください。
「嫌だな」「しんどいな」「腹立つな」「あいつ嫌いや」「アホ」
何でもいいです。
どんどん考えてみてください。
そうして、その時の感覚を覚えておいて下さい。
次に、骨盤を起こして立てます。
背筋を伸ばします。
胸骨を引き上げます(深呼吸すれば引きあがります)。
背中にある肩甲骨を引き寄せて狭めます(逆に胸は開いてきます)
これだけやと肩があがるため、引き寄せたまま肩をグッと落とします。
最後に、あごを少し引きます(耳たぶと肩の先が、横から見て真っ直ぐ縦に並ぶ感じ)
これは、運動学的に見る「正しい姿勢」に限りなく近づきます。
この姿勢のまま、さっきの様に「ネガティブ」なことを考えて下さい。
どうですか??
この感覚も、しっかり自分の中に取っておいて下さい。
ほな、もう一度姿勢を崩しましょう。
そうですね、次は「ハッピーなこと」をイメージしましょうか。
どこまでもハッピーなこと。
ほんで、再び背筋を伸ばして「ハッピー」を考えてみて下さい。
こうして、両方から得られる感覚情報の比較検証をしてください。
違いがありましたか?
どっちが好きですか?
実際、自分が嫌な気分の時は、どんな姿勢だと思いますか?
楽しい気持ちの時は、どんな姿勢だと思いますか?
ストレス一杯の時や、嫌な会議の時、上司に呼ばれた時、なんとなくむしゃくしゃしている時。
ありますよね。
僕にもあります。
そんな心の状態の時の自分の姿勢を、一度見てください。
で、どうすれば変わると思いますか?
高価な道具や、怪しげなお守り、よくわからない新興宗教。
別に何に頼っても構いませんが、もっと身近で強いものがあると思いませんか?
姿勢と言う漢字を分解すると「姿」「勢」ですね。
僕は「勢いのある姿を姿勢と言う」と患者さんや、うちのセミナーに来る人に言います。
勢いがあるというのは、力があります。
前に出る、上に伸びる、なんとなくそんなイメージが湧きます。
もう一度、さっきの実験の感覚を思い出してください。
違いが無くても一切問題ありません。
僕が「こうでしょ」と言うこともありません。
これを言ってしまうと、僕の形を押し付けることになりかねないからです。
自分の感覚は、自分で取る以外に道はありませんからね。
これは、武術でも何でもないですが、これが武術でえらい効果を発揮するんですよ。
そんな話もいずれまた。
負ける心理
こんにちわ。
今日は株で多くの方が陥る話について書きます。
自分が株をやっている気分で読んでください。
あなたはある理由である株を10万円で買いました。
もちろん上がると思ったから買ったんです。
ところが一日でちょっと下がって9万円になってしまいました。
あなたはこう思います。
「明日になれば戻るかもしれないな」
実際に買ってから少し下がっても、そこからどんどん上がっていった株をあなたは何回か市場で目にしたことがあります。
翌日、株価はまた下がって8万円になってしまいました。
あなたはこう思います。
「まずいな、でも今売ったら2万円も損してしまう、様子をみよう、明日になれば少し戻るかもしれないからな」
翌日、株価は少し反発して9万円になりました。
あなたはこう思います。
「少し戻ったな、もしかしたら買った値段までもどるかもしれないぞ」
翌日、株価は大きく下がって7万円になってしまいました。
あなたはこう思います。
「あれ、困ったな。今売ったら3万円も損してしまう。しばらく持っていよう、戻るかもしれないからな」
そしてずるずると株を持ち続け、売るに売れず、身動きがとれなくなってしまうのです。
日本人にとくに多いこれが「塩漬け」という現象です。
もどるかもしれない。
もどったら。
もどれば・・・。
勝負の世界で「かもしれ」「たられば」は禁物です。
そこには何の主体性も一貫性も、理論も技術も存在しないからです。
つづきます。
東洋医術者は鍋奉行
(やまもと)
こんばんは、やまちゃんです(←くどい)
さっき患者さんを治療しながら、つい口にしてしまった言葉。
「人を寄せ鍋とするなら、東洋医者は鍋奉行。西洋医者は各素材に対するスペシャリスト」
我ながら、何とも微妙な例えを、こりずに毎回毎回してしまうもんやな・・・(苦笑)
西洋的な手法ってのは、とにかく物事を細分化して、とても緻密に分析していきます。
対して東洋的な手法ってのは、起きた現象から大元を広く捉えようとする傾向にあります。
これはあくまでも「傾向」です。
「顕微鏡を覗くと宇宙が見える」
と言う言葉があるそうですね。
これは、なんとなくそうだろうなって思います。
物質をとことん細分化して、素粒子の世界に入ったとたん、一気に宇宙そのものを見る世界に入るようです。
西洋医学では「○○科」と言うのが、とにかく細かく別れています。
まさに、その分野のスペシャリストです。
統合医療が言われつつありますが、やはりその中では細分化されています。
会社でもそうですね。
経理、総務、営業、企画、アメニティ、受付、役員・・・細分化されています。
それぞれがスペシャリストとして腕を振るいます。
今の社会構造もそうなっています。
だから、効率よくまわるのでしょう。
では東洋医学はどうか?
鍼灸師にせよ、湯液家にせよ、気功師にせよ、人体というものを丸々見ます。
今日の患者さんは、鍼が苦手です。
だから、手技と小道具を使いました。
今日は膝を中心に見ました。
でも、膝は膝だけの問題に収まりません。
冷え、むくみ、高血圧、腰痛、頭痛、何らかの持病・・・一つの体に、色んな症状が出ます。
僕は面倒くさがりなので、何とかそれらもまとめて改善させたい訳です。
部分から全体を何とかしたいのです。
全体から部分へ行けば、部分から全体に行くのが理です。
どっちも無きゃだめなんですが、要は初めの入り口がどこか??ってだけの違いです。
やがて、部分=全体、全体=部分って感じになってきます。
さて、今日は膝をゆるめる手技をしました。
難しいことはやりません。
関節部分を中心に、ゆさゆさ揺すったり、筋肉をつまんだりして緩めるだけです。
ある程度やってから「どないですか?」と聞きます。
「なんだか、足先まで暖かくなりました」
「でしょ。あとなんか感じます?」
「足が軽いです。」
「足だけ?」
「あ、体全部が軽い感じがします」
「あとは?」
「なんだか眠たい感じと、お腹がすいてきました」
「でしょ」
「膝だけ触ってもらったのに、なんで?」
ここからの説明が難しいわけです。
「経筋が緩み、気が通ったから血と津液が動き出したんですよ」
なんて言って通じるなら楽ですが、それは不可能です。
「え~とですね・・・鍋みたいなもんですよ」
「鍋?」
「そう、ちゃんこ鍋とか寄せ鍋。○○さんと言う一つの鍋があるわけです。そこには、心臓とか胃とか、肩とか膝とか、神経とか髄液とか、色んな素材があるんですわ。」
「はぁ」
「ほいで、○○さんそのものは、その素材から出た複雑で濃厚なダシなんですよ」
「はぁ」
「膝を触るっちゅう事は、結果として鍋そのもんのダシに影響を与えるって事なんですよ」
「はぁ」
「僕らは、その鍋の状態を見ている鍋奉行。安もんのシイタケを入れても旨いけど、丹波篠山産のシイタケならもっとええダシでしょ?」
「はぁ」
「そういうものが必要な時には、スペシャリストのお医者さんに行ったらええんですよ」
「はぁ」
「僕らは、ダシが薄けりゃ味を足し、濃ければ薄め、具が足りんかったら足し、煮えたら配るんです。だから鍋奉行」
「はぁ」
「例えばね、ブルーベリーが目にええって言われたでしょ?」
「はいはい」
「仮にね、胃腸が弱くて、消化吸収力がなかったとする」
「はぁ」
「ほんで、目にええから言うてブルーベリー食ったらどうなります?」
「あぁ、消化もされんでそのまま出るわね」
「でしょ!?ほんなら、ブルーベリー食うたら目がようなんのか!?っちゅうことなんですわ」
「なるほど」
「僕らの仕事は、そういうええもんが、きちっと消化吸収される体を作る手伝いをするんですよ。そうなれば、ブルーベリーの薬効成分が目に効くかもしらん」
「なるほど」
「まぁ極端なたとえ話をしましたけど、足先に鍼打って肩こりが消える原理とか、膝ゆすっただけでこういう感じになるのは、理解できるでしょ?」
「はい、なんとなく」
・・・・なんとなくかよっ!!
と、膝をさわりながら話をすること40分。
元気に帰っていかはりました。
江戸時代の漢方医に、後藤艮山と言う人がいました。
この先生は「一気留滞説」を唱えました。
これは「百病は、一気の留滞によって生ずる」と言う理論です。
東洋には気の思想があります。
荘子は「人の生は気のあつまりなり。あつまれば生となり、散ずれば死となる」と述べています。
また、僕が中国武術を学んでいた際に聞いていたのは「意至れば気至る。気至れば物動く」というものです。
膝の痛みは、そこに気が留滞したものです。
それを動かして流せばよいのです。
流れ出すと、全体に影響を及ぼすようになるのです。
「アマゾンを舞う1匹の蝶の羽ばたきが、遠く離れたシカゴに大雨を降らせる」
そういう言葉があります。
膝に留まった気を、ちょっと揺り動かせば、やがて体に変化が起きてくる。
そうして気が至れば、血液や筋肉、内臓なども動き出す。
こういう理に従って、鍼灸師は鍼を打つのです。
身体感覚という言語
(やまもと)
おはようございます、やまちゃんです。
仲間がみんなあだ名を使うのが、ちょっと羨ましいと思った今朝。
これを書き始めたのは朝。
でも、さっきまで患者さんが続いてしまったので・・・
改めて・・・・こんにちは!
まぁ、なんでもそうなんですが、鍼灸と言うものも「感覚」がとても重要になります。
この「感覚」っちゅうもんはどこにあんのか?
はい、自分の身体にあります。
身体には、様々な情報をキャッチする機械があります。
「感覚受容器」とも呼ばれます。
例えば最近急に寒うなりましたね。
一体「何が寒いと認識しているのか?」と言うことです。
生理学的に見れば、気温の変化、大気の情報を皮膚直下にある「温度受容器」がキャッチします。
それを電気信号化させ、シナプス(神経繊維)を通って脳に伝えます。
ほんで、脳がその情報を処理して、身体の各器官に指令を送ります。
「非常事態発生!生体を維持するため、各部署に指示を言い渡す!」
こういう自発的な反応を、恒常性とかホメオスタシスと言ったりします。
東洋哲理的に見れば、そこには「意」とか「気」の働きが大きく関与してきます。
先日、往診の帰り道。
iPodで、ワンピーステーマ曲を聴きながら、夜の道を歩いていました。
ふと、足の裏に違和感を感じました。
「ん?」
足元を見ると、たくさんの落ち葉がありました。
秋ですね~・・・・と言う話やないです。
素足でなくても、ちゃんと路面情報をキャッチしとるって事です。
これは当たり前すぎて見落としがちですが、実はすげ~ことです。
路面の情報をキャッチするのは「靴の底」です。
ええ、僕の身体じゃないですね。
しかし、靴の底からの情報は、靴の中に浸透し、靴下に到達。
靴下は、靴底からの情報を足の裏に伝達。
そうして、足の裏の皮膚表面から、その中にある受容器に情報を送り・・・・あとはさっき言ったとおりの行動をします。
僕の感覚からすれば、意と言うもんは外に飛んでいきます。
もちろん中にも飛んできます。
で、そこにある情報を拾ってきます。
今回の場合、僕の意は、靴の底まで広がっていました。
だから、アスファルトとは違う情報をキャッチしたと仮定できます。
情報を知る。
これを「意識」と言うんとちゃうかな~と、古い本などを読んでいて理解しています。
脳の科学で言うと「マッピング」とか「ペリ・パーソナルスペース」ってのが似てくるかな。
大脳における空間把握能力のことです。
意識は、感覚器にアクセスすることで「実感」を得ます。
これは、ひたすら訓練して精度をあげると、もっと細やかな情報分析が可能になると思っています。
僕の味覚受容器レベルでは、一流ソムリエのような鋭い分析は無理です。
なんでかっちゅうと、そういう鍛錬をしていないからです。
同じ原理とわかっていても、無理なもんは無理です。
本腰入れて取り組めば、多少は磨かれるでしょうが・・・
それこそ「個性」っちゅうやつですね。
僕には、百種類の水を嗅ぎ分ける能力はいらんくて、毒か毒じゃないかの判断がまず出来ればOKです。
まぁつまり、我々は頭で認識はしていないけれど、意識が何らかの情報を拾っては身体に送り込んでいるのです。
「あの人なんかいや!」「あの人好み!」
「あの場所いや!」「あの音楽好き!」
まぁこういうのも全て同じ原理原則といえるでしょうね。
我々は、この空間を把握して生きています。
認識するかどうかだけの違いです。
こういう事を認識したら、世界観が変わります。
それが、開運にも通じるんちゃうかな?
と思っています。
何も、黄色い財布を持ったからっちゅうて金持ちにゃならんのです。
そんな安易になるなら、世界はもっと激しく変わります。
そうならんっちゅうことは、そうならん理由がちゃんとあるってもんです。
黄色い財布は、ただの黄色い財布です。
派手です。
使い方を知った人間だけが、その効果を知るのだと思います。
どうやって知るか?
多分ですが、感覚で取ってしまう事です。
その感覚ってのは、やっぱり自分の中にあるんです。
そうやって感覚で取った人が、黄色い財布の効果に気がついたのでしょう。
でも、それが取れない人間には、単なる黄色い財布です。
それは「実感」がなくてはダメです。
実感の取れないものは、脳で作った妄想の場合があります。
でも、実感と妄想の境界ってのは、とてもわかりにくいものがあります。
だから、身体の感覚として取れているかどうか?が重要になるんですわ。
変な話・・・・歩いてて犬のウンコ踏んだことある人!!
独特の感覚が足から伝わってきますね?
はい!
それを、今思い出してください。
足の裏に、その感触を取れますか?
いや~な気分になれますね。
その感覚が取れれば、それは「無いけれど在る」と言うことになります。
黒板に爪を立てて「キ~~~~~ッ」てやっている自分を想像してください。
身体に「いや~~~ん」て感じが出たらOKです。
無ければ妄想、あれば実感。
映画マトリックスや無いけれど、今手にしているものは、本当に手にしているのか?ってこと。
それは、皮膚の感覚器が電気信号に変えて脳に送り、脳が作り出したものを「ある」と思い込んでいるだけ。
逆に、「無い」というものが、本当に無いのか?
っちゅうことですわ。
目の前に梅干は無いのに、食べることを想像した瞬間に、顔がすっぱい顔になって唾が出ませんか?
無いけど・・・本当にないの?
あると信じているけど・・・本当にあんの?
その辺を自分の感覚で、厳しく見なきゃいけない。
すぅさんも書いてたけど、気があるとか無いとか言う前に、空気はあんのかよ!ってことです。
「気功ってなんか胡散臭いよね」
と言う前に、エンジェルとか神とかパワーストーンとか守護霊とか。
それはあんのかよ!!ってことです。
ないとは言わんし、なんかそういうもんがおるとは思います。
が!
自分の胃袋を感じますか?腸は?腎臓は?血管は?神経は?DNAは?
あるといわれているからあると思っているけど、ほんまにあんのか!?ってこと。
東洋医学と言っても、西洋医学の勉強が多いです。
解剖や生理学なんて、「は??」ってなもんでした。
大嫌いでした。
赤点、追試しまくりでした。
頭に詰め込むだけの知識ってのは、どうも苦手なんですよね。
それを克服させるために、教科書の内容を、全て自分の身体と、身体感覚に当てはめました。
おかげで、仕組みは随分把握できました。
ほんで、何とか一発で国家試験も通りました。
そんな学生時代。
解剖実習ってのがあって、神戸大学医学部の解剖実習の見学をしました。
めちゃめちゃ貴重な体験です。
大量の献体を触らせて頂き、臓器や神経やら色々手にとってみました。
これ幸いと、とにかく色々触ってきました。
しかし、それは他人のものやし、僕の脳の中で感覚情報として処理しただけのもの。
守護霊だ、神だ仏だエンジェルだの言う前に、それらにすがる前に、一番身近で、一番大切な「自分の身体と身体感覚」に目を向けて欲しいと思うわけです。
それらが洗練されてくると、自ずと神も仏もエンジェルも実感として感じとれるでしょうし、そういう人は安易にそんな事はいわんようになるでしょう。
鍼灸では、パッと人の雰囲気を見て、実際の皮膚や動作を見て、話を聞き、脈を取って、お腹に触れます。
これは、目に見えない情報を、自分の感覚で取っているのです。
そうすると、目には見えない内臓の状態や、精神状態を意識が拾って、僕に教えてくれるようになります。
後は、その情報分析能力の正確さ、緻密さ、速度をあげるだけです。
やはりそれは、鍛錬して身につくもんだと思うわけです。
鍼灸ってのは、ただ筋肉のこった部分に、てきとうに鍼を打って、電気を流せばええってもんちゃうわけです。
靴の底からの路面状態を把握するように、触れたその奥に隠れて見えない情報を、意識して捉える。
これが東洋医学の極意!
僕はそう考えています。
自己紹介
はじめまして、冒険航路舎のメンバー、”とぉせん”です。
ひょんな縁から、やま船長と知り合い、すぅさんを始めとするオモロイ仲間と知り合い、今に至ります。
頭でっかちな学生生活を送ってきましたが、就職を機に一念発起し、生きていくのに必要な力を身につけたい、裸にされてもなお身体に残るものを身につけたい!と志し、武の道に入りました。
その後、
「日本人とはどういう存在なのか、を自分の身体を使って表現したい」
というテーマで、学びの対象を茶や謡曲に広げました。
身体を通して色々なものを学ぶ中で、
「身体が変われば、世界そのものが変わる」
ということを体感できたことが、この先の自分を励まし続けてくれるであろう財産になりました。
ともすれば再び頭でっかちに戻りそうになる自分に気をつけながら、
様々な稽古や、船長達から教えを受けた練功法、そして日常の中で、
「身体との対話」
を大切にしたいと考えています。
他のメンバーに比べたら、深さも広さもお恥ずかしいレベルですが、稽古で得た感覚、日常で気付いたこと等を書いていきたいと思います。
どうぞよろしくお願いします。
波
こんにちわ。
株の話をします。
波はトップとボトムで形成されています。
トップ-ボトム-トップで一波。
ボトム-トップ-ボトムで一波ということになります。
この波はこちらが観測する時間軸の中に存在します。
日中、日、週、月、大雑把にわけるとこんな感じでしょうか。
この波を把握して、行動することによって利益や損失が生まれます。
行動にはまず動く、動かないの二択があり、動くの中に買う、売るの二択があります。
動かないというのはいわゆる見です。
前回のトップを越えて波を形成するのが上昇相場で、前回のボトムを割り込んで波を形成するのが下落相場です。
この波をとらえて利益に繋げるのが、投資家の取るべき行動だと思います。
波をとらえる方法はシンプルです。
波は質、価格、方向の3点から把握するのが良いように思います。
なんでも必ず3つ以上の要素から分析すると倒れにくい投資ができると思います。
この世界は3次元なので、投資において3という数字はとても重要です。
これはまた後で書けることがあるかもしれません(とっておきます)
さて波の質とは何かというと、それはエネルギー(出来高)です。
価格は現在値であり、方向は価格が上昇している途中なのか下降している途中なのかということです。
上昇にしても下落にしても、それがどのような質のもとで行われたのかということが重要で、それは常に過去へ過去へと去っていく情報の点ですが、それが繋がっていて流れというものになり、そこには未来に対する情報も含まれていると考えます。
つづきます。
目には見えないもの・・・・・
ええ~こんばんは (すぅさんです。)
突然ですが・・・ちょっと変なタイトルで書いております。
目にみえないもの・・・・ とタイトルにはなっておりますが、ここで書きたいのは一時期有名?になった霊とかを見る話とか神様とか天使とかの話ではありません。
日常生活の中にある目に見えないものについてちょっと私なりの物の見方考え方を書こうかと思います。
私達は普段何気なく生活をしている中で目に見えないものと密接に関わって生きています。でも普段は気にしていない事がほとんどで、仮に誰かに言われても「ふ~ん・・・だから?」って感じる事かもしれません。
私達は生きて行くために食べ物を食べて寝て・・・と過ごしています。 空気を吸ってもいますよね?
食べ物は1日食べなくても生きている事は出来ますが、空気を1日吸わなかったら?1時間では?30分では?
貴方は何日息を止める事が出来ますか?
私は2分くらいでしょうかね。呼吸を止めることが出来る時間は非常に短いです。 空気は目に見えませんが科学の世界では存在を証明されていますので在るという前提で私達は生きれています。
では、気は? 怪しいと思う人が沢山居る事でしょう。 私もその存在を確認したくて色々と試しました。
その前に気という言葉、これは日本では世界でもTOPクラスの数の言葉を使っています。 気がきく、気のせい、気持ち等・・・ 挙げればキリがありません。
では気を失った事がありますか? 気を失うとどうなりますか? じゃぁ~気絶と気を失うの違いは?
内容的には気を失うと、身体全部に意識が無く何も出来ない考えられない状態ですね。 実は私は3回経験をしております。
まぁ~詳しい話はまた今度ですが、目に見えないモノの方が私達の生活に、いや命に・・・・ すでにここにも目には見えないモノがありますね。 凄く密接に深々と関わりがある事を知る事になるのです。
私は整体や気功を通じて非常にこういった事と深く関わり考えなければならない事となりました。
「まぁ~別に気にならないし知らなくても良いよ」 と思う人は沢山いるかもしれませんし、気にしすぎても生きられませんからね。(笑)
でも・・・こういった中には(目に見えない世界の真実)実は世の中に浸透している「ポジティブシンキングの落とし穴」が沢山入っているのです。
読み解き方によっては「あなたにとっての幸せ」を最も近道で手にする事が出来るようになるかも・・・・・しれません。
ちょっと臭い話かな?(笑)
ちょっと似たような話を今流行の脳機能科学のT先生もよく本で書かれていますし成功者の一人となっておられますね。(ちょっと危険な気がする人だけど・・・(苦笑))
私なりの物事の考え方、見方でした。
失礼しました。
下腹之大事
(やまもと)
瀕死の人が、助かるかどうかをみる方法があります。
これは、昔の武術家や医家がやっていたことです。
下腹部を押さえて、全く力がない場合。
肛門に指を突っ込んで、全く締りがない場合。
これらは「死ぬ」と判断されます。
まぁ想像つきますわな。
「ハラをきめろ」
「ハラから声を出せ!」
「腰を入れろ」
こういう言葉がありますね。
「力は腰から出る」
と武術では言われます。
「臍下丹田」
と言う言葉もありますよね。
これらに象徴されるように、下腹部や腰と言うものはとても大事なんです。
でも、イマイチ掴みどころがありませんよね。
単語としては知っていたり、言葉として使っていても、
「ほな実際どないすんねん!」
と言うとわからん人がほとんどでしょう。
前にも書いたように、言葉や文字は道具です。
それが生まれたからには、生まれる要因が必ずあります。
無いものは無いので、生まれることはありません。
だから、これらは空想や妄想の類ではなく、ちゃんと「実」なるものなんです。
僕は、そういうセミナーを地味に開催しています。
例えば、武術経験もない女性を立たせます。
僕は拳を握り、女性の顔の前に突きつけます。
「今から本気で突きます。でも、絶対に当てませんから」
と言う約束を交わします。
そうして、言葉の通り寸止めで突きます。
ほとんどの女性は怖がります。
まぁ、そりゃ当たり前ですよね・・・くまのパンチなんですから。
ほんで、女性の姿勢をちょっと直し、意識を下腹に置かせます。
意識と言う「実感」を取れない人も多いので、へその前で手を組ませます。
手のぬくもりは「実感」として取れますよね。
その状態のまま、再び顔面を突きます。
瞬きもしないで、僕の拳を見て立っている女性がそこにいます。
本人も目が点です。
また姿勢を戻して、意識を変えさせます。
そうして突くと、やっぱり怖くて逃げるんですよね。
これは、「突きが怖いか怖くないか」っつう次元の話ではないって事だけは理解しといてください。
「ハラをきめろ!」
「腰を引くな!!」
と言われたところで、余りにも抽象的で理解は出来ません。
なんとなく理解は出来ても、それがどういったものかは解らないため、ただの「概念」「イメージ」と思っている人も多いかと思います。
違います。
ちゃんとした理があります。
それに至るための具体的な鍛錬法があります。
「意識」と言うのは「実感」であって「イメージ」ではありません。
イメージは脳の中だけで作られる妄想です。
意識は、全身の感覚器で捉える実感です。
厳密な区別は難しいですが、ザックリとこう把握しておいてください。
こういう文章では伝えきれないのですが、確かに「具体的」に存在しています。
体験して、本気で身につけたい人は、東京のすーさんとこか、西宮のうちに来て下さい。
いずれ、冒険航路舎でワークショップなんかもやろうと企画しています。
決まればここで報告します。
これを、東洋医術でみてみます。
「元気」と言う言葉がありますね。
これは「原気」とも書きます。
我々は両親から情報(遺伝子)を受け継いで生まれます
これを東洋医学では「先天の精」と言います。
対して、飲食物から得られるものを「後天の精」と呼びます。
先天の精が変化し、生命活動の原動力となります。
食欲や性欲などの「生きる」ための欲求ですね。
それを「元気」と呼びます。
人体における「気の元」っちゅうことです。
細かいことは置いといて、この元気は臍下丹田に集まると古典にあります。
この元気が旺盛であれば、下腹部に張りがあり、臓腑や諸器官が強く働きます。
だから、活気にあふれ、粘り強く、病気になりにくい状態になります。
逆に元気がなくなると、下腹部が軟弱になって、内臓も弱り、疲れやすく、やる気も衰え、冷えて病気になりやすくなるのです。
やがてこの元気が衰え、腎気(先天の精気)が無くなると「死」となるわけです。
だから、冒頭に書いたようなことを、昔の人はやっとったのでしょう。
僕は治療をする前に、この下腹部に力があるかどうかを先ずみます。
その上で、色んな理論や技術を駆使するわけです。
最終的には、下腹部に張りが戻り、柔らかく暖かくふっくら張りのある下腹部を目指すのです。
そのために、家で下腹部を鍛える鍛錬法を教えるのですが・・・みんなやってくんないんですよね~・・・
簡単やから面倒臭いようです(苦笑)