香椎攻防記

香椎攻防記

轟丸英士、アラフォー。
底辺窓際サラリーマン。
主に通勤時間中の時間潰しの駄文、ならびにダイエット記録です。

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 今となっては、勘違いだったのかもしれないと思うこともあるが、競技としての格闘技をやっていたら頃は日々自分が進歩しているように感じていた。競技的なスキルはもちろんのこと、メンタルコントロールスキルも含め、競技を通じて日々人間として成長している、と。毎年誕生日を迎える度に、歳もとったけど、その分成長したよな、円熟味を増したよなと思っていた。一年を振り返ると試合を中心として、色んなことがあった。刺激的な毎日だった。

 もう少しすると私も41歳になる。ほんのちょっと前に40代に乗っかって驚いたばかりだというのに、もう一年経とうとしている。とてつもなくはやい。もっと言えば三十路に突入したことに信じられなかったのもつい最近のことだ。

 

 40歳の一年を振り返ると…。

 仕事はまぁ楽しくは無いが、食うに困ることもなく、そこそこの報酬はもらえている。たまには家族旅行なんかにも行っちゃってる。日々無邪気な子供の笑顔と成長を眺めるのは楽しい。そして妻との仲も良好だ。近くに住む妻の両親にもよくしてもらっていてありがたい。

 つまり、まぁ幸せだ。客観的に見れば絵に描いたような幸せを享受しているのだろう。

 …しかし一年を振り返ると、あれ何してたっけ?と思い出せない。あれ、オレ1年間どんなふうに過ごしてきたんだろう…と。毎日毎日、それなりに平和な日々を過ごしてきたということは覚えている。しかし、何も無い。何かを成し遂げたり挑戦したりと言ったことは何も無い。一年前の自分からたぶん何も変わってないような気がする。肉体の細胞は正直に劣化していっているのだろうが。


 振り返ると、この一年の数少ない思い出がふたつのライブに参加したことだ。何度も行っている長渕剛のライブと、初めて参加した矢沢永吉のライブ。

 特に驚いたのは初めて参加した矢沢永吉のライブだ。もともと特別、永ちゃんファンというわけでは無かったのだが、自分の親世代のおじいちゃんである永ちゃんがどんなパフォーマンスをしてるんだろう、という興味から妻と共にマリンメッセ福岡に参戦した。…圧巻だった。足が効かなくなって、耳も遠くなりつつある我が両親と同じ世代とは到底思えないキレのある動き。シャウト。そして色気。無茶苦茶かっこいい。

 あれは日々とんでもない鍛錬を心身ともにしてるんだろうな…と思った。ヤンチャな面影を残しながらも、大人になっている矢沢ファン達とは対照的に矢沢永吉は時間が止まったかの用に矢沢永吉だ。いまだに走り続けているのだろう。長渕剛もそうだ。剛と同じだけ歳をとったファンたちの剛コールは小さくなり、座っている観客も増えているなか、本人はいまだにタンクトップを着て筋肉を誇示しながら、首に筋を立てて叫び散らしている。まだまだ闘うことをやめていない。


 そりゃあスーパースターとサラリーマンは違う。が、いまの私は何にも挑戦をしていないつまらない中年の男だ。

 ぬるま湯のような幸せはありがたい。しかし、このままではあっという間に、気がついたらじいちゃんになっちまうのだろう。

 日々、なんらかの課題、自分の中に問題意識をもち、挑戦してゆかねば。これからの生き方次第で、今までの私も報われるのだ。あの頃の成長は勘違いではなかった、と。ふと帰りの電車で思ったことをつらつらと。

 さて、何しよっかな。

 午後から妻とともに、春から息子が通う、妻の職場近くの保育園に見学と説明を受けに行ってくる。

 というわけで、私はいま、妻の職場近くのジョイフル(九州のファミレスチェーン)にて、朝定食を食らい、ドリンクバーのコーヒーを飲みながら昼過ぎまでの、妻の仕事が終わるのを待っている。


 先ほどドリンクバーのコーヒーをとりに行った時に目に入った家族。

 四人ボックス席に3人。五、六十代の夫婦に、その息子と思われる若い男。先に料理が来たのだろう、若い兄ちゃんはスマホ片手に飯を食う。夫婦もまた、黙ってそれぞれにスマホを見ている。それぞれ、が黙々とそれぞれのスマホを眺めている。一切の会話なしで、頭をつき合わせている。なんだか異様な光景だ。

 

 でもまぁ、最近よく見る光景だ。カップルで店に来てるのに二人して黙ってスマホ。友達連れなのにみんなで話もせずにスマホ。…異様な光景だ。でもよく見る光景。


 今後どんどん人間同士の関わり方ってのは変わってゆくのだろうが、私はやはり相手の顔を見て、気持ちをぶつけ合うことがすきだ。出来たら酒でも飲みながら。…スマホ依存者ばかりの日本って何か嫌だな。


 ともすると私自身も暇があるとスマホに手が伸びてしまう。ウンコしてるとき、エレベーター待つ時、電車の中…。有機的な情報はあるか、と言われると表面的に、ピックアップされた見出しのような文言だけを拾っているだけだ。それに一喜一憂したり。まぁ、こうしてこの呟きのような文章もスマホで書いているのだが。

 

 一年の計は元旦にあり、というもののすでに一週間経過してしまったが。今年は脱スマホ、デジタルデトックスに努めよう。


 



 コロナ前は年に3、4回海外に出張行っていた。コロナ騒動以来、久しぶりに、約3年弱ぶりにベトナムに行ってきた。一週間ホーチミン、ハノイと周り、深夜便で昨日の朝、帰国した。今回も仕事でも、仕事外でも色々とあったが。…もはやそんなことはどうでもよく。

 

 日本に到着して、携帯を起動。荷物を下ろして飛行機から出るまで、LINEなどの連絡をチェック。そしてニュースサイトを見ると…。


 アントニオ猪木、79歳で逝去。


 小学生の頃はいつも、土曜日夕刻のプロレスを見たり、深夜のプロレス中継をビデオに録っていた。引退してからもなにかと格闘技や、政治の世界で存在感を示しており、大ファンと言わないまでも何故か気になる存在で、動向は意識せずとも追っていたように思える。

 北朝鮮でのプロレス、イラクからの邦人救出、さまざまな事業の立ち上げ…などなど猪木が行ってきたことは場当たり的で、強運に支えられていたものだったように見えた。しかし、それは、やってみる、挑戦してみる、という猪木の行動力と、周りの人間を巻き込む、とんでもない人間力に裏打ちされたものであったと思う。


 この道を行けばどうなるものか。

 危ぶむなかれ。危ぶめば道は無し。

 踏み出せばその一歩が道となり、その一歩が道となる。

 迷わず行けよ。行けばわかるさ。


 猪木が引退の時に引用した詩である。いつのまにか空で言えるようになってたということは、この言葉を大事にしていて、知らぬ間に覚えてたということだろう。たまたま数ヶ月前にコンビニで手にして、読んでなかった猪木の本を今日は読もう。


 また私の中で、ひとつ昭和が終わった。合掌。




 酸っぱすぎず、程よい酸味に昆布の出汁が染み込んだ優しい味の締め鯖。美味い…カウンターで一人で唸ったのはちょうど四年前の今頃のことだ。

 当時の私は迷走していた。まだ独身だった私は毎日フラフラと何か新しい、刺激的なものはないかと探し求めていた。というより、何かひとつ、毎日新しいことを見つける、もしくは始める。それを自分への課題としていた。

 例えば、新しい本を読み始める。新しい店を開拓する。行ったことのない神社に行ってみる、新しいことにチャレンジしてみる…などなどどんなに小さいことでもいいから毎日新しいものに触れるということを自分に強いていた。約20年弱、自分なりに真剣に向き合っていたボクシングを、突然の怪我で辞めざるを得なくなった時、何もせずに日々を過ごしてゆくことはあまりに辛かった。それまでの自分の日常は「非日常」の中にあったのだなぁと気付いたのはその時だ。毎日少しでも新しいことに触れて刺激を得る。そういう課題を自分に与えることで何とか精神の安定を保とうとしていた。…その時に始めたのが尺八であり、また出会った店がこの店である。

 マスターとママさんは私の両親と同じくらいの世代だ。そして三兄弟の息子さんの三男は私と同い年だという。六人だけのカウンターに、小さな小上がりのある、こぢんまりとした店構えだ。派手さはない、典型的な昭和の雰囲気のお店だが、今となっては逆にそういう店は少なくなっているのかもしれない。兄ちゃん、なんかスポーツやってただろ?そんな一言から始まった、かつて野球をやっていたというマスターとは、いつの間にかなんでも話せる仲になった。客が途切れると、マスターはカウンターに並んで、一緒に酒を飲んだ。酔って呂律が回らなくなって何を言ってるかわからない説教も何度も食らった。泥酔して歩けなくなったマスターをおぶって二階の寝室まで連れて行ったこともある。あの時は、私も酔っていたのでマスターもろとも階段から落ちないか心配だった。寝るまで捕まえていて、というママさんのお願いに応え、起きてこようとするマスターを布団でぐるぐる巻きにして寝かしつけたのだった。


 四十年前の開店時から、時間が止まった様な昭和の空気の流れるこの店で、美味い料理と酒を飲む時間は私にとって、たまらない癒しとなり、寂しさを忘れさせてもらえる大切な時間となった。まるで実の親父やお袋と過ごしているような安らかな時間だった。否、実の両親とは共有できない様な時間、話題を過ごさせてもらっていたのだ。毎週の様に通った店だったが、結婚して少々遠方に引っ越してからは足が遠のいた。しかし、それでも実家に顔を出す様な感覚で、月に一回程度は店に行っていた。


 昨夜、寝ようかという時間にママさんからLINE。連絡先は交換していたものの、LINEが来たのは初めてだ。…いわく、10月末には店を閉める、と。



 いま、私はカウンターに座り、黒霧島を飲みながら、ホルモン鉄板とイワシとサンマの刺身を食っている。たまらなくうまい。いっそう味を噛み締める。きっと私と同時に閉店連絡があったのだろう、小さい店内はお客さんでいっぱいだ。この店の客層では私はまだ最若手の部類に入る。マスターはカウンターの向こう側で忙しそうで、今日はカウンターに飲みにくる暇はなさそうだ。


 とっても寂しい。でも、うちの両親がとっくに定年退職してることを考えれば、そりゃそういうもんか。月一の訪問だったが、閉店までは妻に許してもらって、週一は来たいと思う。出来れば妻や子供も一回連れてきたい。またの機会にマスター、ママさんとはゆっくり話をしよう。

 

 時間というものは否が応にも流れてゆくものだ。それを嘆くのではなく、それまでの思い出に感謝して行きたいものだ。ありがたいことだ。感謝。

 5月、ハエ、形容詞の末尾「い」。五月蝿い、と書いて「うるさい」。

 

 昔からよく、香川照之に似ているといわれる。もちろん、顔が、だ。

 いきなり道行く酔っ払いに、兄ちゃん香川に似てるね!と言われたことも何度かあるし、行きつけの飲み屋でも「香川」とあだ名をつけられて、「香川」で通っていた。ちなみに、トータス松本に似ている、と言われたこともあるが、たまたまWikipediaでトータス松本の記事を見ていたら、

香川照之はトータスと顔が似ていると言われたことがあるようで、ネット上でもそのことが話題となることが多い(ただし、声質はまったく異なる)。2010年には『龍馬伝』で香川と共演している』…との記載もあった。長くなったが、つまりは私は香川照之に似ているのである。太った最近はあまり言われなくなったが、つい数年前まではよくそう言われていた。まあ香川は男前ではないが、演技派俳優として評価されているし、ボクシングも大好きであるし、と好感は以前からもっていた。

 

 …だからというわけではないが、香川照之の昨今のスキャンダルがなんとなく気になる。

 なんとなくスマホを見て、世間に散乱する、それらに関するネットニュースを見てしまう。

 手のひら返したように、香川バッシングするマスコミ。昔から香川は酒癖が悪かった。エラソーで冷徹な野郎だった。かと思えば、香川は周りを盛り上げる体育会系のいいやつだ、だとか。守秘義務の口止め料込の銀座のクラブ料金なのだから、クラブのホステスの女が最も悪い、だとか。喧々諤々、さまざまな情報、意見が散見される。

 

 …なんとなく見てしまう。香川照之は私に似ている。それだけだ。それだけだけど、なんだか散乱する情報を目にしてしまう。私の人生には全く関係ないし、なんの影響もない。そして、各異見になんとなくその時の気分で、心中で意見してみたり、それは違うだろうと、反論してみたり。

 

 …うるせえんだよ!!!

 

 すべてがうるせえと感じた。どうでもいい、己とは関係のないことにピーチクパーチクほざく世間に。それにいちいち反応してしまう自分に。無償に腹が立ってきた。

 

 

 情報遮断することに決めた。テレビはNHKしか見たくない。スマホは日経新聞読むだけで十分だ。

 会いもしない昔の知人の近況なんて知りたくもねえし、関係ない。必要な人間関係ならばネットを通じなくても、直接会ったり、話したりして近況連絡するだろう。なんとなく見ていたSNSも一切やめた。

 

 私には現代の溢れる情報が多すぎる。ネット断ち、テレビ断ちをしたらすっきりした。

 ついには、音楽を聴くのもやめた。大好きな長渕剛や玉置浩二の歌を聴くのもやめた。妄想力豊かな私は、彼らの歌を聴くと、様々に想像、思い出が膨らんでゆき、とめどもなく色々な思考が次から次につながってゆく。その曲の歌詞の内容はもちろんのこと、リリースされた時期の思い出、それぞれの曲を良く聴いていたころの思い出の感傷に浸ってしまったり…。それだけならばいいが、不必要に落ち込んだりと良いことはない。やたらと心がザワつく。

 音楽を聴くときは、最近は聞いたこともないピアノ曲や、民謡が心地よい。特にゆったりとした古い沖縄民謡は三線の音が心地よい。不必要な感情の揺れはない。

 

 というわけで、様々な刺激を遮断した生活をここ数週間している。実に心地よい。余計な思考はなくなり、頭はスッキリとクリアだ。台風の強風の轟音さえも心地よくなってきた。そして、先週金曜日、コロナ騒動を挟んで、福岡サンパレスに約3年ぶりの長渕剛のライブに出かけた。ここのところ、大好きな長渕剛の歌さえも断っていたいたので、新たに新鮮な気持ちで聞くことが出来た。そして、純粋に、この人はすげえな、、、と感動することが出来た。

 

 現代は情報が多すぎる。特に、妄想力、想像力、共感力が人より旺盛な私にとってはなおさらだ。情報過多で、逆に感性が削られてゆくような気もする。これからは自分にとって適切な情報量をコントロールしてゆきたい、と切に思う。それこそが、感受性をキープして、人生を豊かに生きる鍵なのでは、と考えている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 愚痴めいたことや、どこかで目にした言葉、その瞬間の思いだったりとしたことは、職場で使っている手帳や、日記とも雑記帳とも言えないノートにしばしば書き殴っているのだが、久々にウェブ上に書いてみる。

 

 先週の金曜日、ボクシングジムでどっぷりと爽快な汗を流して、電車の中でレモンサワーを飲みながら喉を潤す、という健康に良いのだか悪いのだかわからないことをして帰路についた。家に帰ると、すでに少々赤ら顔の私に半ば呆れた妻に迎えられ、改めて晩飯を食う。ご飯は食わず、おかずをツマミに、引き続きビールを飲む。

相変わらずの、やさぐれた生活である。

 

 ふとテレビをつけると、「となりのトトロ」がはじまった。久しぶりだ。ビールを腹に流し込みながら、なんとなくテレビ画面を眺める。…いつのまにか引き込まれていた。

 子供の頃から何度も見たアニメだからだろうか、それとも日本人の誰もが心に持っているような古き良き日本の原風景、家庭の情景が描かれているだからであろうか。なんだかとてつもなく懐かしい。心温まる、とはこういうことか、というくらい、ほっこりとした気持ちになった。

 そしていつの間にか何故だか涙がこぼれてきた。「となりのトトロ」を見て、泣けてしまうとは思いもしなかった。「トトロ」を見たのは久しぶりだが、いつの間にか、私はこの作品を見る自分の視点が大きく変わっていたのだった。

 子供の頃、「となりのトトロ」を見るときはいつも主人公のサツキやメイに心情移入していた。つまり、あの映画を見ることで、自分自身が田舎道を軽快に走り回り、トトロに抱きついて、猫バスに乗って空を飛びまわっていた。

 しかし、今回は違った。サツキやメイを俯瞰して、客観視して、見ていた。言い換えれば、アニメの中で生きている子供たちを、大人としての視線で見て、その健気さ、無邪気さに心打たれていたのだ。それ故の涙だった。…「となりのトトロ」を見ながら涙ぐむ私を見て、酔っ払いを見る目で、さらに妻は呆れていた。

 この感情は、親になったからであろうか。それにしても、なんだか最近、やたらと涙もろい。

 

 「となりのトトロ」を見た数日後、会社帰りにケータイでSNSを見ていると、トトロに関するインターネット記事のリンクが投稿されていた。

 「となりのトトロ」のサツキと「火垂るの墓」の節子は、同じ昭和16年生まれという設定である、という記事だった。それを見た瞬間、鳥肌が立ち、電車のなかで涙があふれてきた。記事には、笑顔のサツキとメイ、隣にはおぶわれて不安そうな節子の顔が、ならんで対照的に掲載されていた。…もちろんアニメの世界であり、どちらもフィクションである。しかしながら、同じ年に生まれながらこうして全く違った運命となった対照的な二人の子供を思うと、フィクションながら、あの時代の日本は大変だったのだなあ、と今更ながら思った。もしかしたら「となりのトトロ」も、戦禍を潜り抜けた後の、あの物語だったのかな、なんてことも妄想したし、二本立て公開だった「トトロ」と「火垂るの墓」は、対比を見せるために、あえて同じ年生まれという設定にしていたんだろうか、とか。だとしたら、宮崎駿はすげぇな、、、とか考えたりした。...なんにせよ、やたらと最近、涙もろい。

 

 話は変わるが、先週の土曜日には「ロッキー vs ドラゴ/ロッキー4」という映画を映画館で見てきた。これは1985年公開の「ロッキー4」を、監督のスタローン自ら再編集した作品だ。「ロッキー4」はロッキーシリーズの中でも、最もヒットした作品だが、賛否のある作品であった。私はどちらかというと、「否」の立場なのだが、ロッキーシリーズは大好きであるので、早速公開初日に、博多の映画館まで出かけて行った。私は数年前に、ロッキーの舞台である、フィラデルフィアまで一人旅したほどの熱烈ロッキーファンなのだ。

 ロッキーのスピンオフ映画である「クリード2」を数年前に見に行った時は、まさかの劇場に私一人きりだった。今回もきっとそのような状況なのだろうな、と思っていた。しかし、劇場に行ってみると、なんと8割方席が埋まっていた。殆どが男性で、私よりも年長の人ばかりの様だった。私はリアルタイムで見た世代ではないが、きっとこの人たちは、青春時代に「ロッキー4」を劇場で見て、熱くなった人たちなのだろうな、と思った。

 ボコボコにされたロッキーが、まるで水戸黄門の展開のように、最後はドラゴを当たり前にKOして映画は終わった。再編集されていたので、何度も見た映画だというのに、見たことのない新しいシーンもあり、興味深く見ることができた。この映画に熱くなっていた中学時代のように血沸き肉躍るような感覚はなかったが、TV画面でしか見たことないロッキーとドラゴの戦いをスクリーンで見ることができて大満足であった。…この感じも良くも悪くも私が大人になったということだろう。

 

 さて、今晩は、先週の「トトロ」に続いて、ジブリの「耳をすませば」が放映されるようだ。この映画も過去に何度か見たが、中学生の爽やかな恋愛模様を描いたアニメである。中高時代をむさ苦しい男子校の、更にオトコ純度の高い柔道部で過ごした私にとっては、なんとも複雑な思いを感じさせてくれる映画だ。きっとまたビールでも飲みながら、画面にむかって「たわけ!」とか言いながら見ることになるのだろう。そしてまた妻に色々と突っ込まれるのだろう。

 

 明日は休日だが、「サバカン」という映画を見に行ってみようと思う。

なんだかここの所、映画を見る機会が続き、いろいろと感じたので徒然なるままに文章を連ねてみた。おっと、ブログらしからぬ超長文になってしまった。ま、いいか。

 精巣停留、というらしいが、幼児には約1%程度の確率で起こる障害だという。精巣が体内に停留してしまっている、という文字通りの状態だが、要は金玉が、あるべき袋のほうに無いということである。放っておくと精巣癌や不妊のリスクが高くなるため、一歳になる頃には手術をしなければいけないらしい。

 数ヶ月前の検診で、ちょっと心配ですね…と病院で言われて以来、妻はとても心配して事あるごとに息子の金玉の有無を気にしていた。袋の中にある時もあれば、どこに収納してるのか、ない時もある。私と風呂に入っている時は、袋に降りてきていることが多い気がした。まぁいつも無いわけじゃ無いし、大丈夫だろ、と私は軽く考えていた。


 骨掛け、という秘技がある。

 武術の達人は、敵と立ち会う時、精巣を腹部に上げて、急所を打たれても大丈夫な様にするらしい。骨掛けは達人だけができる奥義である。(本当に実在する技なのかどうかはわからないが…)

  こいつは達人なんだよ!緊張してるときはキンタマを隠して戦闘態勢に入ってるんだよ!と私は笑い飛ばしていたが、妻はそんな私を一瞥、つまらん、と一喝した。

 この歳で入院なんて可哀想すぎる。全身麻酔して何かあったらどうするの、とやたらと心配していた。…どうも母親と父親では心配の感度やレベルが違いすぎるようだ…。


 先程、妻から、病院に行ったけど、大丈夫だった!という連絡があった。ようやくホッと出来たと。まぁ、良かった。息子が心配だったというより、妻が安心できて良かった。

 子供って色々あるなぁ。とりあえず、息子は達人である、ということにしておこう。

 五月の連休に実家に帰るなんてのは記憶がないくらい久しぶりだ。そういうことができたのも妻と子供のお陰である。倅の初節句、そして私の実家にはまだご招待したことも無かったので、遠路はるばる九州から妻の両親にも、実家に来ていただいた。

 倅は親父とは似ずに、いつも笑顔でニコニコとしていた。はじめは緊張感があったものの、すぐに正月以来の実家に馴染み、完璧な孫業をこなして実家の両親を喜ばせてくれた。


 うちの親父は某ゼネコンにて約30数年働き続けた典型的団塊世代のサラリーマンだが、私からすると喜怒哀楽特に見せる事なく、平坦に淡々と生きてきた印象がある。しかし、時には心療内科にかかり薬を服用していた時期もあったそうだ。だから、私が辛そうにしている時もある、と妻が言った時は、時には逃げることも必要だと言っていたらしい。親父は定年後何をしているのかは全く知らなかったが、ボランティアで外国人に日本語を教えているらしい。

 私が寝てしまってから、妻が私の両親と夜遅くまで話し込んでいたそうだ。妻を通じて、色々と初めて聞くエピソードがある。


 妻の父はかつて東京で単身赴任で働いていた。退職して10年弱経つが、最近では神経系の難病に犯され、ちょっとずつ足が利かなくなってきている。突然足に力が入らなくなる時があり、外出するのも怖くなってきているという。妻が言うには、人生最後の東京のつもりのようだ、と。義父のリクエストにお応えして、倅を実家に預けて、かつての職場の近くで馴染みがあると言う渋谷に一緒に行った。

 スクランブルスクエアという新しく出来た、東京が一望できるビルの展望スペースに立つと、義父は、かつての馴染みの渋谷から、まるっきり変わった様子に目を丸くしていた。ゆっくりとした足取りで、展望台から東京を見下ろす義父は、どんな感情で、最後の東京かも知れない、この絶景を見ているのだろうか、と感慨を覚えた。

 

 それにしても東京は、特に渋谷は物凄い変化の仕方だ。私の学生時代の十数年前と比べても全く違う街になってしまった。私が良く学生時代に行っては、色んな人生の先輩の話を聞いたり、奢って貰ったりしていた呑兵衛横丁もすっかり様子が変わっていた。かつての馴染みの店はなくなり、外国人観光客向けの英語の看板なんかもかかっていた。渋谷という流行の最先端の狭間に残された、ああいうコテコテの昭和の残骸みたいな場所は、なんとか変わらずに残って欲しいものだよな、とも思うが、時代の流れには抗えないものなのだろう。


 実家を離れてもう20年を越えるが、一応、私の自室は実家に確保されていた。しかし、もういい加減明け渡せ、と言われたので、少々片付けた。久々に古びた段ボールを開けると、黄ばんだ色紙が出てきた。かつてお小遣いを貯めては後楽園ホールに行き、試合後のボクサーを出待ちして貰ったサインである。

 竹原慎二、リック吉村、西島洋介山…。懐かしい。高校生だった私のアイドルたちのサインだ。宝物だった。…埃をかぶったかつての宝物を、一応ケータイで記念に写メを撮り、ゴミ袋に捨てた。…ボクシング少年だった自分はもう居なくなったんだな、となんだか切なくなった。だからといってまたゴミ袋から拾うということはしなかったが。



 人も、街も、自分自身も、時の経過と共に良くも悪くもどんどん変わってゆくなぁと。また妻子を連れて実家に帰るのが楽しみだ。

 実家に帰ることを楽しみにしてる自分も、またかつては考えられなかったことだ。私も変化していっている。

 私がボクシングジムに入門した25年前は今以上にボクシング=喧嘩の延長でアウトローのやるもの、というイメージがあった。私の両親もその一般的なイメージに囚われていたし、入門したいと言った時は随分と心配された。許可をもらうまではだいぶ時間がかかった。

 実際、ジムに行ってみると、現在のボクシングジムのようにフィットネスで女性もエクササイズをしているような爽やかな雰囲気ではなかった。やはり不良上がりの男どもばかりで、当時、進学校に通っていた私としては、ジムに行くたびにビクビクとしていた。今はキッズボクシングなども盛んでジムには子供もたくさんいるが、当時、プロのジムに通う中学生など殆ど居なかった。 

 しかし、すぐに慣れたし、すぐに居心地のいい場所となった。本物のアウトローならば、ルールのもと自分を制御して殴り合うなんてことはできないだろうし、日々の練習は続かない、ということに気づいたからだ。一見コワモテのボクサーたちはみんな優しく、元不良でもみんな規律を持った人たちばかりであった。そして、私自身が身に染みたのは、見た目のイカツさや、表面的なコワソーな態度は、必ずしも実際の強さとはまったく比例しないということだ。真面目そうで気弱そうな顔しててもめちゃくちゃ強かったり、その逆だったり。結局のところ、虚勢を張ってイキッても意味がない、ということだ。

 私のアマチュアの試合のデビュー戦の相手は、金髪オールバックの、ヤンキー丸出し、恐ろしい顔面の持ち主だった。対戦相手が決まる前の計量の時点で、やたらとエラソーな態度で周りを威嚇しており、私もアイツとは当たりたくないなぁと思っていた。対戦相手がそいつだと判明したときは、死ぬほどビビったが、何とか3ラウンド目にレフリーストップで勝つことができた。あの時は怖かったなぁ…。

 

 一昨日のボクシングの試合は久々に感動的な、ボクシングを好きであること、ボクサーであったことを誇りに思えるような、そんな試合だった。 

 ゲンナジー・ゴロフキンvs村田諒太。

 この両者の名前が対戦相手同士として並んでいるだけでボクシングファンにはたまらない思いだった筈だ。ゴロフキンは本場アメリカでも評価されて人気も高い、それこそ一試合で何十億円も稼ぐようなスーパースターである。日本人にはピンときてないようだが、マイク・タイソン以来のビッグネームの来日である。しかも、その相手が日本人。日本人には無理、と言われたミドル級で金メダルを取ったこと自体が奇跡的な偉業だが、それがさらに世界的なスーパースターを引っ張り出したいうのは、試合が成立しただけで驚異的なことであった。


 試合は地上波では放映されず、Amazonプライムでの有料放送だった。アメリカでも今は有料でのペイパービューが主流だというが、日本でもこれからはそういう時代になってゆくのだろうか。まぁそれゆえビッグマネーを生む、というのなら仕方ないが。とはいえ、地上波で放映されないと、普段ボクシングを見ないライト層に届かないので残念だなぁとは思ったが。

 試合は一進一退、村田が勝機を掴んだか、とも思えるような瞬間もあった。しかし、最終的には歴戦の猛者であるゴロフキンが徐々に村田を削ってゆき、最終的には一瞬ぐらりとダウンを拒否した後にゆっくりと村田が倒れて行った。同時に村田コーナーからタオルが投入された。久々に手に汗握る、感情移入してしまうそんな試合だった。


 村田とゴロフキンは終始お互いのことをリスペクトしており、試合前の計量、記者会見、そして試合中、勝負が決したあと、常に和やかな空気が流れていた。二人のボクサーには王者の余裕が漂っており、いらぬ挑発や虚勢はまったく無かった。インテリジェンスすら二人からは漂っていた。試合後、リング上で、民族衣装の刺繍をあしらったガウンをゴロフキンは村田に着せてプレゼントしていた。対戦相手への最上級の敬意だろう。昨今流行りのMMA、総合格闘技やキックボクシングで見られる、試合前の挑発や乱闘、SNSを通じた罵り合いなんてものは一切ない高貴な闘いだった。


 大学時代、私が留年したということもあり、村田とは学生時代が少々被っている。それゆえ、面識は無いが、当時からアマチュアボクサーの中では有名人だった彼の姿は、試合会場でよく見かけることがあった。不良の匂いをまだ残した当時の彼が、ここまで偉大な男になったということが、僭越ながら感慨深いものがある。

 誰もが手に汗を握った激闘、そして二人のボクサーの高貴なる振る舞い。近頃、他のプロ格闘技の人気に後陣を拝しているボクシングであるが、久しぶりにボクサーであったことを誇りに思わせてもらえるような、そんな超一流の闘いであった。

 福岡県のマンボーも開けたということで、遅ればせながら三月イッピで異動した上司の送別会があった。今はその帰り道である。


 …それにしてもカオスな飲み会だった。

 そこにいない部長の悪口から始まり、いつの間にか主賓の上司の存在を忘れた、別のおっさんの仕事の愚痴のオンパレード。それに仕方なしに相槌を打つ周り。

 そして、お前は酔っ払うと面倒臭い、とダメ出しを始めて火種を作り始める元上司に、この部署にオレを呼んだのはアンタだろ、と逆ギレを始めるおっさん。話すことは、悪口と愚痴と自己主張ばかり。


 おっさんという生き物は何とクセの強い生き物なのか…。


 年がとるにつれ、色んな悩みや不満が募ってゆく。その一方、空気を読んだり、自分を制御するという能力は衰えてゆくのかも知れない。おっさんとはそんな哀しい存在なのではないか。そして自分を棚にあげたようなモノの言い方をしているが、この私もおっさんの端くれである。

 おっさんが酒の場に参加する場合、若手の立場からしたら、話を聞いて、その場にいるだけで充分なのかもしれない。そうしなきゃな。…と心底肝に銘じた、若手のおっさんの帰路である。

 

 多少のイザコザもあったものの、やや鬱気味で元気の無かった元上司が、ビールの一口目で見せてくれた、久々の破顔一笑とも言える笑顔は嬉しかった。そして私たち元同僚を、良い仲間だった、と言ってくれたのも嬉しかった。

 

 色々あったにせよ、送別会が出来てよかった。