香椎攻防記 -2ページ目

香椎攻防記

轟丸英士、アラフォー。
底辺窓際サラリーマン。
主に通勤時間中の時間潰しの駄文、ならびにダイエット記録です。

 三十年前。十歳の頃。…さすがに覚えてない。まぁ普通に、歳をとること、誕生日プレゼント貰えることに喜んでいたんじゃないだろうか。きっと家族に祝ってもらった筈だ。あの頃はまだ建て替える前の、寒くて古い木造の実家で、祖母も元気だった。具体的な記憶はないが、あの頃の温かい空気感は思い出せる。ユーミンが、小さい頃は神様がいて…と歌っていたけど、最近なんとなく、あの歌の意味がわかる気がする。


 二十年前は大学の春休み中で、便利屋のバイトをしていた。時給千円で、当時としては良いバイトだった。あの日は、確か武蔵小山でネズミ駆除の仕事だった。屋根裏に入って、ネズミが出入りしそうな箇所に板を貼ったり、パテで埋めたりして、最後に薬剤を撒く。お客さんのお婆さんに、お兄さんいくつ?と聞かれた。今日でハタチなんすよ〜、と答えた。アラおめでとう!孫を見てるようだわ〜、なんて言ってくれた。昼飯に天丼の出前を取ってくれた。美味かった。あのお婆さんはどうしてるだろう。さすがにもう亡くなったかな。…二十年前ともなると、さいきん、というほどでは無いが、鮮明に覚えている分、「二十年も前の出来事」ということに違和感があり、そこまで昔のこととは思えない。

 

  十年前はインドネシアにいた。カリマンタン島のバリクパパンにいた。日本人がほとんどいない、オイルマネーで潤う海沿いの田舎の街だ。ジャカルタの本社を離れ、インドネシア人に囲まれて、日本人は一人きりの現場事務所で約3ヶ月働いた。今や笑い話だが、同じ職場のインドネシア人の女がストーカー化して、つきまとってくるのが、ストレスだった。運命の悪戯か、そいつと私の誕生日は一緒ということが判明、やたらとアピールしてきた。私はそのストーカー女から逃れるために、テキトーに仕事を作ってジャカルタの本社に逃亡した。これが30歳の誕生日。あれから10年か…早い。つい最近の出来事だ。

 


 年々、年月の経過が早くなる。光陰矢のごとし、を実感する。これからきっとますます加速してゆくことだろう。きっと五十歳、六十歳もそう遠くない将来で、その歳になった私も、今の私を思い出して、最近のことなんだけどな〜、などとごちるのであろう。

 人生は短い。一瞬一瞬を大事に、今だけを見つめて生きなければ。十代より二十代、二十代よりも三十代と、年々人生は面白くなってきた。さて、どんな四十代になるのだろう。不惑、なんて言うが、まだまだ惑いながら生きていくんだろうなあ。

 

 そして、記憶がある分、私なんかよりもよっぽど、年老いた両親の方が私の誕生日に感慨を覚えてるのではないか。息子が生まれた日に、私がそうだったように。両親にも感謝したい。

 もうすぐこの私も四十歳。

 徒然なるままに、最近の雑感。


 ストレス解消とダイエットに、と気軽にキックボクシングジムに入った。…が、はじめてみると生来の負けじ魂に火がついてしまい、仕事の合間や仕事終わりに足繁くジムに行っている。またYouTubeで動画を見て、ボクシングとの相違点などなどの研究も気付けば始めていた。イキってる若い格闘家を見ると、いまだに心の中にメラメラと燃えるものを感じてしまう。アラフォーのサラリーマン、そして父親としてどこまで没頭してよいのか、どこまで目標を定めていいのか、悩みどころである。


 石原慎太郎が亡くなった。寂しい。私は石原慎太郎が好きだった。勢いで物を言って失言してしまうところもあったかと思うが、その行動力とリーダーシップ、求心力は本当に凄かった。尖閣諸島を東京都で買おうとした時など、弱腰外交に歯痒い思いを感じていた私は、何とも痛快な提案だと思った。昭和の豪傑がまたひとり亡くなって淋しい限りだ。合掌。


 昔付き合っていた彼女から約5年ぶりにLINEが来た。彼女が可愛がっていたペットのインコが死んだという。そのインコの名付け親は私だ。それ故、わざわざ報告してくれたみたいだ。LINEの宛名を見ると、苗字は変わってなかった。…まだ独身なのか。子供のように可愛がっていて、15年も一緒に暮らしたインコも亡くなってしまったか。淋しいだろうな…。懐かしさを感じ、下心なく、近況を語り合いたいな、という気もした。しかし、妻子ある身の私には、妻や子が不快に感じたり、疑念を抱くようなことは出来ない。少々他人行儀に、デスマス調の丁寧な文体で淡々と返信した。…彼女とはもう関わることもないと思うが、やはりいっときは親兄弟以上に関わり、時間を共有した仲である。どこかで幸せに過ごしてくれることを願いたい。


 昨年、タイトルマッチに敗れて、半引退状態になっていたボクサー時代の後輩が練習を再開したらしい。次の試合は、元チャンピオンの強豪と闘うとのこと。このニュースを聞いて、力が湧いてくるような、嬉しい気持ちになった。自分と現役時代が被り、共に汗をかいた仲間は、彼以外みんな引退してしまった。噛ませ犬、としての対戦だろう。ぜひ噛みついてきて欲しい。 


 キックボクシングを初めて、ジムでのトレーニングに加え、軽くジョギングも始めた。やはり体は動かしておかないとダメだな、と身に染みて思う。心もポジティブになる。やはり心技体は一体なのだ。

 ビジネスに取り組むにあたり、努力と結果は必ずしも一致しない。いくら努力しても、運や市況、なんらかの意思によって、良い結果がついてくるとは限らない。ビジネスマンは必ずしも報われるかわからぬ努力を続けなければならないストレスに日々晒されている、そうである。(私も一応ビジネスマンの端くれだが、ストレス感じる前に逃亡するのでよくわからん。)

 しかし、ウェイトトレーニング、筋肉トレはそうではない。やったらやっただけ結果がついてきて、どんどん筋力、筋量が増えてゆく。それ故、普段は努力以外の部分に翻弄されているビジネスマンは、結果が裏切らない筋トレにハマることが多いという。アメリカの一流企業のトップビジネスマンは殆どがムキムキのボディで、ある意味それがスタンダードになっている。…と、いつだったか何かのビジネス雑誌で読んだ。


 だから、というわけではないのだが、ここ一年、私は筋トレをしていた。まぁ引っ越して、行っていたボクシングジムから足が遠ざかり、単に家から近かったから入会しただけなのだが。

 筋トレを本格的にやるのは初めてだ。私が尊敬する柔道家の、昨年亡くなった古賀稔彦氏が、柔道に必要な筋力は柔道でしかつかない、と言っていた。マシンで得られる筋力は、固定されたその角度だけのものだ、と。その影響か、柔道をしていた時も、ボクサー時代も腕立て、腹筋くらいの補強程度しか今までしたことはなかった。


 いまさら競技格闘技をするわけじゃないし、ストレス解消にもなるだろうし、何も運動しないのもなぁ…そして何より家からすぐそこという気軽さから、深い考えもなく入った筋トレジム。


 なるほど、コレはハマるわ。…多くの人が筋トレにハマる意味もわかった。

 確かにやったらやっただけ成果はでる。私も一年のうちにベンチプレスはマックス70キロ程度が、110キロまで挙がるようになった。いつの間にか私も数字の魔力に夢中になった。

 また、重いものを持ち上げる、その瞬間は、それだけに集中することができる。日常が飛んでその瞬間に集中できるという意味ではアドラー心理学の極意に通ずるものもあり、下手な瞑想や坐禅より効果があると感じた。


 確かに筋トレは魅力的で面白い。いつの間にか私もハマった。筋トレにハマる人々の気持ちもよくわかった。


 …しかし、である。


 筋トレをすればするほど、私の体はデカくなった。筋肉は目に見えて増えた。数値もみるみるうちに増えたから、筋力も増したのだろう。充実感も感じていた。

 だが、何かおかしい。

 ストイックに追い込みすぎたということもあるだろうが、日々体の調子悪い。色々と壊れてゆく。肩が痛い、腰がいたい、体が重くてすぐに息がきれる…。靴下を履くときは腰が痛い、高いところのものを取ろうとしたら肩が痛い。そして気晴らしに走ろうにも身体が重くて全然走れない。そして膝が痛い…。


 「健康のためにやってんのに体壊して、意味ないやん。」妻に言われた。 

 体の不調を感じると同時に、私も筋トレに対する飽きも感じ初めた。筋トレマシーンやダンベル運動の正しいフォームを覚える以上に、筋トレには創意工夫がなくて面白味がないな、と感じたのだ。(もっと深いレベルの、例えばボディビルダーなどは、トレーニングや食事のタイミングなどなど高いレベルでの創意工夫はあるのだろう。しかし私レベルの素人トレイニーには、理解の及ばぬところであった。自分にできないことをしているボディビルダーのことはとても尊敬している。)私が格闘技にハマって長く続けてきたのは、さまざまなアプローチで強くなれる多面性に、面白さを感じたからだ。



 …以上、ダラダラと冗長な文章を書いてしまったが、結論として何を言いたいかということを要約すれば、わたしは筋トレジムを退会して、職場から徒歩圏内のキックボクシングジムに入った、ということである。

 (筋トレジムをやめたということに、トレーニングから逃げたんではないか…という、一抹の後ろめたさを感じており、それを誤魔化すための独り言でもある…。)


 あっという間に正月休みが終わった。


 4泊5日を実家で過ごしてきたが、こんなに長く実家にいたのは久々だ。昨年は妻が妊娠中だったので帰省はせず、一昨年はインドの一泊200円の安宿で二十代の若者たちと車座になっているうちにいつの間にか年を越した。

 

 ここのところ、もう十何年も実家を遠ざけてきた。古い慣習や、生き方を押し付けてこようとする両親が疎ましく、実家の存在を思い出さないようにしていた。せいぜい年に一度、一泊か二泊するくらいで、殆ど連絡も取らなかった。


 久々に実家に行くのは正直なところ大分気が重かった。いつも一泊か二泊して逃げるように帰るのに、四泊もして間が保つのか、と。また、初めて私の実家に滞在する妻も、気疲れしないかと心配だった。


 結果として久々の長期?実家滞在をしてよかったと思う。両親は単純に孫と会って喜んでくれたし、妻も、楽しかった、と言ってくれた。妻と両親もだいぶ距離が近づいたようだ。

 私は妻子を実家に置いて地元の先輩、後輩と飲みに行ってしまったが(彼らには、そんなの有り得ねーだろ!と言われた)、日付を変わる頃に家に帰ると、妻と両親はまだ何やら話し込んでいた。…どうやら私がいない間に私のこと、息子のこと、普段どんな生活をしているのか、などなど話していたという。あとで妻に聞いたところでは、親父は私を別室に呼んで、今後家をどうするのか、転職とはけしからん…などなど説教をする心づもりでいたようだが、妻から話を色々と聞いて、我々夫婦がちゃんと話し合っているのを理解し、やめたとのことである。妻が色々と私の思いを代弁してくれたようだ。

 息子は人見知りすることもなく、終始ニコニコと愛想を振りまいており、完璧な孫業をこなしていた。両親や姉にも慣れたので、私は妻を連れて地元周辺を久々に廻ることもできた。また、ずっと行っていなかった墓参りもして、息子を先祖に見せれたのも、胸のつかえが少々とれた感じがした。

 思った以上にあっという間の五日間であった。とはいえ久々に実家で心身共にゆっくりできた気がした。



 さて、早くも今年も二週間弱経過しようとしている。もう3%の進捗だ。今年は文武両道で心身共に鍛え直す年としたいものだ。

 今年の活動が今後の人生に大きな影響を与えるようになる気がする!頑張ろうっと。

 それぞれ家庭をもったりといった事情がある中、細々と職場の同期と続いている行事が、朝忘年会だ。

 毎年、御用納めの翌朝に、職場近くの24時間営業居酒屋に午前9時に集まり、昼過ぎまで酒を飲む。もともとはそれぞれの夜のスケジュールが合わず苦肉の策としての、忘年会の朝開催だった。しかし午後からはそれぞれ家族サービスや帰省に使えるという便利さに加え、年の終わりに明るい時間から酒を飲むという非日常感がハマり、恒例となりもう約15年になる。

 しかし、ここのところはみんなそれぞれ家庭を持ち忙しくなってきたので、集まりは悪い。流石に、昼から赤い顔して酔ったお父さんがら家に帰るというのは、家族的にはかなり不評のようだ。入社して数年は20数名の参加者がいたが、徐々に減ってゆき、ここ数年は三、四人の参加である。今年も四人だけの参加だった。

 私にとってこの忘年会はとても大事で、大好きな行事だ。年の最後に、最近は疎遠になった同期と、明るいうちから近況を語り合って、ようやく年を越えられる、という気分になる。

 ここ数年の恒例として、みんなで次の年の目標をそれぞれ宣言して、翌年の忘年会で答え合わせ、ということをしている。そして、クリアした数が少ない人がオゴリ、というルールにしている。今年はみんなひとつずつしか目標をクリアできず、ドローで割り勘だった。

 以下は、その時にそれぞれが定めた目標のメモである。(※酔っ払いながらの会話メモなので、しょーもない下ネタもふくまれます笑)



(以下メモ引用)

1番未達成の数が多い人が一次会を奢る

2番は二次会


前提:

1はほぼ達成見込み

2は達成確率60%

3達成確率40%

4は達成確率20%

5は限りなく達成が難しい目標



●H氏(二児の父。趣味筋トレの電気系技術屋)

1: 体脂肪率21%未満

2: ベンチプレス115kg

3: 筋肉系大会エントリー(ボディビル、ウェイトリフティング等)

4: 筋肉系大会入賞

5: 筋肉系大会優勝


●H氏(モテるが独身。結婚願望なし。当社は退職して外資系にて勤務中。ニュージーランドの会社より内定。コロナ後移住予定。電気系技術屋)

1: 新規に日本国内世界遺産に3箇所訪問

2: 懸垂5回

3: ニュージーランドで働き始める

4: セ×レ作る

5: ニュージーランドでサモア系彼女を作る


●N氏(二児の父。東北に単身赴任中の設計者。嫁は私が紹介した。働きつつ大学院に通う)

1: ドクター論文審査パス

2: 来年末飲み会に参加

3: フルマラソン、4時間切る

4: 東北脱出

5: 妻に「細かいウソつくの止めろ!」と言う


●わたし(一児の父。事務系社員。趣味模索中)

1: スポーツの大会に出る(格闘技、マラソン等)

2: バービージャンプ年間累積7300回(身体つきで判断)

3: 退職(転職含む)

4: ベンチ120kg

5: 女友達を作る(不貞行為は無し)





…それぞれの状況、キャラクターがじんわりと滲み出た味のある各モクヒョーだと思う。

 さて、来年も頑張るか。同期諸氏の一年の健闘、充実を祈る!


 16年前のクリスマスイブのこと。


 彼女のいない後輩二人を誘って、クリスマスなんぞ関係ねえ!滝に打たれて煩悩を祓いにいくぞ!と。ネットで見つけた滝行ツアーに申し込んだ。


 12月24日の朝、神奈川県某駅にて集合。気温は3度。ダウンを着ていても寒い朝だった。

 滝行ツアーを主催する、白髪混じりの長髪にヒゲ、という怪しげな風貌のおっさんの車に乗せられそこから山奥へ。どうやら静岡に近い山深い場所へ向かうようだ。1時間半ほど車で走った後、小さな小屋で白装束を渡された。ボロい空手着をまとった。


 気合の雄叫びと共に滝壺へ。まずは滝には入らず、直前に習った不動明王のマントラを大声で唱える。そこに沈んで体を馴染ませること約5分。もはや体は冷たいを越えてジンジンと痛い。寒い、という感覚はなくなっていた。

 ついにおっさんの号令で滝へ。冷たいよりも痛い!頭上から砂袋を次々にぶつけられているようだ。肩が痛い、頭が痛い!そして、頭の中に氷を詰め込まれたようにキンキンと痛い。ひたすらその時間をやり過ごすために、必死でマントラを大声で叫びちらした。煩悩を祓えたか、と言われれば、その瞬間はありとあらゆる思考は吹っ飛んでいた。とにかく辛かった…。いや、ツラいという感覚さえなく、とりあえずその瞬間を生き延びるのに必死になっていた。


 あとで知ったのだが、そのうちの後輩の一人は、密かにイブの一週間前に彼女が出来たらしく、その彼女にはエラく恨まれた。そして、いまだに恨まれている。そいつらはのちに結婚した。私は、より暴君キャラの印象を強めてしまったが、イヤイヤ、彼女が出来たと知ってても強要するような小さい器じゃねー、と言い訳したものの、後の祭りであった…。

  ちなみに、その滝行ツアーのおっさんの姿は、いまだに年に数回見かける。芸人の罰ゲーム等で滝行のシーンがあるとたびたび、そのおっさんがテレビに現れる。怪しい、いかにもな風貌で、滝の前で法螺貝を吹く姿は相変わらずである。


 若かりし日の懐かしい思い出である!さて、家に帰ってケーキ食うのが楽しみだなぁ。

 やはり自転車での旅は味わい深い。車や電車では見れない風景、雰囲気、においが味わえる。もちろんその分、体力は使うのだが…。

 小さな漁村からは何とも言えぬすえた潮の香りがする。名も知らぬ小さな街を通過すると、都会ではなかなか見なくなった地元密着の個人商店がぽつりぽつりとある。3、40年前?の古びたモデルのポスターの貼った美容室。昭和の匂いのするスナック…。そして閉店したのであろう店も多数。昔は賑やかだったんだろうなぁと思うような昭和の商店街。

 瀬戸内海はみかんやレモンといった柑橘系の栽培が盛んのようで、至る所に緑のなかに色鮮やかな黄色が輝いていた。しまなみ海道は人気のない海も多く、尺八持って来ればよかったなぁと思った。そういえば、かつて17年前に東京から鹿児島に自転車旅行したときに寄った、松山の小さな喫茶店は無くなっていた。残ってたら寄ってみようと思っていたのだが。色々飯を食わせてもらってとても懐かしい思い出だったので残念だ。


 一昨日は大島の民宿に泊まった。古びた民宿だったが、晩飯のボリュームも凄く、また魚も新鮮でうまかった。やはり自転車を長距離漕いだあとの美味い飯とビールは最高だ。


 昨夜は尾道泊。ちょうど20年前の暮れに初の一人旅をしたのが、広島と尾道だった。ちょうど尾道に帰省していた友達と観光したものだ。その時に泊まった民宿は駐車場になっていた。その後、大学も中退して地元に帰ったと聞いたその友達にも15年ぶりに電話してみたが、やはりというか、電話は繋がらなかった。…昔を懐かしんで、やたらと振り返ってしまうのは私の悪いクセである。昨夜はお好み焼きでビールを飲んで寝た。


 今朝は朝6時に目が覚めたので、港あたりをぶらぶらしてコーヒーを飲んだ。昨夜の心残りのひとつだった尾道ラーメンも、朝からやっているラーメン屋を見つけて食えた。九州ではなかなか味わえない醤油ベースのラーメンでうまかった。今日は有給なので、ゆっくり尾道観光でもして帰ろうかと思っていたが、3日も息子に会わないと、息子の顔が早く見たくなったし、何故か今まで感じなかった淋しさを一人旅をしていて感じたので、さっさと帰ることにした。そしていま、自転車を抱えて新尾道駅から新幹線に乗った。昼過ぎには家に着くだろう。新幹線て便利だなぁ。味気ないけど。

 久々の一人旅終わり。さて、帰って妻子の顔を見るのが楽しみだ。

 私はいま、フェリーのフリースペースでハイボールを飲みながら、小倉港から松山への出航を待っている。明日の朝5時に愛媛、松山に着く。


 妻は県外での仕事、地元での結婚式などが続き、家を空けるので、私は久々に一人旅をさせてもらうことになった。折りたたみ自転車を抱えて、フェリーに乗り込んだ。松山から今治、しまなみ海道を渡って尾道へ。海沿いで山越えはなく、2日で100キロ程度という、わりとゆっくりとした自転車旅行だ。体力が落ちて、久々のチャリ旅行とあって、まあちょうどいい行程だろう。帰りは、月曜日は有給とったので、月曜日に新尾道駅から、またチャリンコを抱えて新幹線で帰る。

 フェリーのなかは、お客さんは少ないが、ほかの乗客はトラックの運転手さん的な人が多そうだ。そして四国行きのフェリーというだけあって、笠と杖をもった中高年の人もちらほら。お遍路さんだろう。私もいつかやってみたいものだ。


 さて、久々の一人旅。チャリ旅。日常を忘れてぼーっとするか。リセットだ。

 久々に行った、一年半くらいぶりに行った中洲の飲み屋にて隣に座ったお客さんの話。カウンターだけの、五、六人入れば一杯の小さな店だ。その人は中洲で小さなスナックのママだったそうだ。


 ママさんは28年前に中洲に来て、約20年前に独立、それから小さいながらも中洲でスナックを営んでいたという。昨年から、なんとなく体調が悪くなり、調べてみたら手術が必要な状態であると。10月に店を閉めて、これから関西に帰って手術を受けるらしい。15時間はかかる、そこそこ大変な手術だという。

 生死に関わるんであろう、ひとつの人生の節目を前に、そのママさんは明るく、何も怖くない、と言っていた。そして豪快に焼酎を飲み、電子タバコを吸っていた。隣には、15年以上の常連さんという男性がいた。この人は一回も寝てないのに、ずっと支えてくれて、いろいろ相談に乗ってくれてるのよーってママさんはカラカラと明るく笑っていた。イヤイヤ、聞いてないから!と私はツッコミをいれた。

 もうちょっと早く会えたらねー、とこれから関西に帰るママさん。いやぁママさんの店に通いたかったっすよーと私は答えた。

 目の前には、グツグツとおでんが煮えた鍋。時折、お客様が帰ったり、店を覗いたりで入り口が開くと、フワッと冷気が入って、ひやっとする。そんな時に、冬の飲み屋はいいなぁ、としみじみ思った。


 色んな人生がある。そういう風に色々な人生とすれ違えるのが夜の街の醍醐味だよなあ、と久々に思った。

 初めて会った人だけども、ママさんの手術の成功を祈る。

 ほとんどの人がスマホをそれぞれ持つ時代故か。

 あまりにも生々しい動画、写真の数々が目に触れる。何ともリアルな恐ろしさを感じた。そして、事件が起きたのはかつて学生時代に住んでいた所とそう遠くはない場所。普通に日常的に使っていた沿線。映画の悪役主人公に扮した犯人が、太々しく車内でタバコを吸う姿に、背筋が凍るような、そんな気持ちになった。一昨日、昨日は出社だったが、行き帰りの車内、ここでそういうことが起きる可能性もゼロじゃないよな…と。時折、そんなことを考えていた。


 刺されたのは犯人を一喝した初老の男性だったという。被害者の勇気は凄いと思う。自分がその場に居たらどうしただろうか。多くの人々と一緒に逃げたのだろうか。それが正解だとは思うが。もしかしたら他の人を押しのけて我先にと逃げてしまうのかもしれない。

 目の前に妻や子供、家族、友達、知り合いがいたら?そう考えると、他人事ではなく一層この事件が恐ろしく感じられた。


 犯人は普段から目立たない人物だったという。そういう大人しい人間が、普段感情を発露することなく、少しずつ怒りや鬱屈を溜めてゆき爆発して他人のみならず自分の人生を台無しにしてしまった。もちろん被害者が最も気の毒なのは当たり前だが、犯人にも同情してしまう。そこまでいくまでになんとかならなかったのか…と。


 ああいう事件を見ると、格闘技をやってるとか、フィジカルが強いというのは別次元の話で、結局意味を持つのは心の強さだなと思う。つまり、危機に際した時に、正しく判断し、正しく適切に、自分を犠牲にできるかということ。大前提としての、その心の強さの後についてくるのが肉体だ。どんなにルールの下で闘った経験があった所で、命のやりとりに身を投じられるかと言えばそれは別問題だと思う。

 心を強くするにはどうしたらいいのか。それはとても難しい問題で、答えはわからない。だからこそ人類は様々な宗教や武道、修行を生み出して試行錯誤してきたのだろう。そして、今なおしているのだろう。


 私もいざという時に戦える強い人間になりたい。つまり強い心の人間になりたい。それは肉体を鍛えることはその一助とはなるかも知れないが全てではない。やり方はよくわからないが、模索し続け、こう在りたい自分、というものは描き続けておきたい。