今年の連休 | 香椎攻防記

香椎攻防記

轟丸英士、アラフォー。
底辺窓際サラリーマン。
主に通勤時間中の時間潰しの駄文、ならびにダイエット記録です。

 五月の連休に実家に帰るなんてのは記憶がないくらい久しぶりだ。そういうことができたのも妻と子供のお陰である。倅の初節句、そして私の実家にはまだご招待したことも無かったので、遠路はるばる九州から妻の両親にも、実家に来ていただいた。

 倅は親父とは似ずに、いつも笑顔でニコニコとしていた。はじめは緊張感があったものの、すぐに正月以来の実家に馴染み、完璧な孫業をこなして実家の両親を喜ばせてくれた。


 うちの親父は某ゼネコンにて約30数年働き続けた典型的団塊世代のサラリーマンだが、私からすると喜怒哀楽特に見せる事なく、平坦に淡々と生きてきた印象がある。しかし、時には心療内科にかかり薬を服用していた時期もあったそうだ。だから、私が辛そうにしている時もある、と妻が言った時は、時には逃げることも必要だと言っていたらしい。親父は定年後何をしているのかは全く知らなかったが、ボランティアで外国人に日本語を教えているらしい。

 私が寝てしまってから、妻が私の両親と夜遅くまで話し込んでいたそうだ。妻を通じて、色々と初めて聞くエピソードがある。


 妻の父はかつて東京で単身赴任で働いていた。退職して10年弱経つが、最近では神経系の難病に犯され、ちょっとずつ足が利かなくなってきている。突然足に力が入らなくなる時があり、外出するのも怖くなってきているという。妻が言うには、人生最後の東京のつもりのようだ、と。義父のリクエストにお応えして、倅を実家に預けて、かつての職場の近くで馴染みがあると言う渋谷に一緒に行った。

 スクランブルスクエアという新しく出来た、東京が一望できるビルの展望スペースに立つと、義父は、かつての馴染みの渋谷から、まるっきり変わった様子に目を丸くしていた。ゆっくりとした足取りで、展望台から東京を見下ろす義父は、どんな感情で、最後の東京かも知れない、この絶景を見ているのだろうか、と感慨を覚えた。

 

 それにしても東京は、特に渋谷は物凄い変化の仕方だ。私の学生時代の十数年前と比べても全く違う街になってしまった。私が良く学生時代に行っては、色んな人生の先輩の話を聞いたり、奢って貰ったりしていた呑兵衛横丁もすっかり様子が変わっていた。かつての馴染みの店はなくなり、外国人観光客向けの英語の看板なんかもかかっていた。渋谷という流行の最先端の狭間に残された、ああいうコテコテの昭和の残骸みたいな場所は、なんとか変わらずに残って欲しいものだよな、とも思うが、時代の流れには抗えないものなのだろう。


 実家を離れてもう20年を越えるが、一応、私の自室は実家に確保されていた。しかし、もういい加減明け渡せ、と言われたので、少々片付けた。久々に古びた段ボールを開けると、黄ばんだ色紙が出てきた。かつてお小遣いを貯めては後楽園ホールに行き、試合後のボクサーを出待ちして貰ったサインである。

 竹原慎二、リック吉村、西島洋介山…。懐かしい。高校生だった私のアイドルたちのサインだ。宝物だった。…埃をかぶったかつての宝物を、一応ケータイで記念に写メを撮り、ゴミ袋に捨てた。…ボクシング少年だった自分はもう居なくなったんだな、となんだか切なくなった。だからといってまたゴミ袋から拾うということはしなかったが。



 人も、街も、自分自身も、時の経過と共に良くも悪くもどんどん変わってゆくなぁと。また妻子を連れて実家に帰るのが楽しみだ。

 実家に帰ることを楽しみにしてる自分も、またかつては考えられなかったことだ。私も変化していっている。