バカ日記第5番「四方山山人録」 -3ページ目

バカ日記第5番「四方山山人録」

後の祭のブログです。本体サイトはリンクからどうぞ。

 

 

 

 ちょいとやらかして各方面へ色々とご迷惑をかけ、申し訳ない感じであります。

 

 瑞鳳は来週にはアップしたいです。

 

 

 二航戦、蒼龍型空母2番艦の飛龍だが、まったく同じ型ではない。厳密に云うと改蒼龍型と云っても差し支えないと思う。

 ワシントン及びロンドン軍縮条約で日本は主力艦(戦艦のこと。当時は主力は戦艦で空母は補助艦だった)の保有制限がかけられ、日本は八八艦隊計画が頓挫。廃艦予定の巡洋戦艦赤城、戦艦加賀を空母へ改装した。しかし欧米列強は日本にだけ空母の保有制限までかけてきた。まだ国力の弱かった日本はその不利な条件を飲まざるを得ず、約80,000トンの制限の中、模索する。元戦艦の赤城と加賀の改装で制限枠の大半を使い果たし、鳳翔と龍驤の完成で残りが12,600トンとなった。

 しかし、鳳翔が廃艦可能年数に達したため、廃艦しないけどすることにしてごまかし、鳳翔の分の8,700トンを加えて約21,300トン。それで10,000トン級の小型空母(当初航空巡洋艦のようなものを構想していた)を2隻計画した。それが蒼龍型である。

 その蒼龍の建造中に水雷挺友鶴が高波で転覆し、日本軍の艦艇は設計段階からトップヘビーであることが露呈した「友鶴事件」、台風につっこんで艦隊が大遭難し強度不足が露呈した「第四艦隊事件」が発生。蒼龍へ影響を与え蒼龍は建造に4年もかかった。

 飛龍はそのころ設計途中で、しかも軍縮条約脱退が決定。蒼龍は10,000トン級の船体を基準排水量で16,000トンにするなど改造されていたが、さらに蒼龍より1,000トンほど大きく再設計された。

 

 

 デジタル彩色。


 すなわち、蒼龍と飛龍は同型なのに設計図が異なる特殊な姉妹艦だった。艦橋も、蒼龍と逆に飛龍は赤城と同じく進行方向左(正面向かって右)に建造された。これは煙突と艦橋を両脇に分けることでバランスや構造上の利点があるとされたが、改装後の赤城の運用で左艦橋は着艦の邪魔になることが判明し、飛龍以降は採用中止となった。

 というのも、レシプロ機はプロペラの回転方向の都合でやや左寄りに進むため、着艦してきて左に艦橋があると危ない。じっさい、ドック入りした蒼龍からパイロットが飛龍へ着艦した際、左艦橋に慣れておらず、着艦して艦橋に接触する事故もあったという。

 皇紀2599(昭和14/1939)年、蒼龍型2番艦として竣工する。満載排水量は22,000トンに迫り、加賀や赤城の半分ほどであったが、戦艦から改装されたそれらがやたらと排水量がデカイだけで、中型とはいえ立派な主力空母だった。欧米列強には当初の計画通り10,000トン級と通告されたため、蒼龍と共にアメリカは戦後まで小型空母だと思っていた。

 

 


 竣工後、すぐさま第二航空戦隊へ編入。飛龍のほうが大きく設計されその分会議室等も充実していたためか、翌年12月、二航戦旗艦となる。

 皇00(S15/40)年4月、一航戦と共に中国南部福建省爆撃。9月、飛龍のみ駆逐艦2隻(初雪、白雪)を引き連れ陸軍の北部仏領インドシナ(ベトナム)進駐を援護。翌皇01(S16/41)年7月、第二次仏印進駐を援護。ベトナム沖から中国南部を爆撃する。日本は東南アジアでの影響力を拡大するも欧米と激しく対立。

 そして同年12月、真珠湾へ到る。護衛の高速戦艦、駆逐艦、給油船等を従えた空母群6隻の最前線突入による奇襲作戦は大成功に終わったが、米主力空母5隻を逃したうえ、破壊した戦艦は旧式ばかり、かつ真珠湾の基地施設には大きなダメージを与えられなかった。この時点では、日米とも空母の数はたいして変わらなかった。終戦時には大小合わせて数十隻という米国の空母地獄が始まるのは、ミッドウェーの後である。従って、ここで米空母を少しでも撃滅できていれば、かなりその後の作戦も有利に進んだはずだったが、歴史にイフはない。

 

 


 真珠湾から戻る途中、二航戦のみウェーク島攻略の補佐を命令され、艦隊より別れて南方へ向かう。12月21~23日の第二次ウェーク島攻撃に参加。蒼龍と共に米基地航空隊と戦い、基地を爆撃し、ウェーク島攻略に貢献したのち29日に本土へ戻った。

 翌皇02(S17/42)年1月機動艦隊はパラオへ向かいそこからニューギニア、オーストラリア方面、インド洋、セイロン沖へ進出し、時に陸軍輸送部隊を護衛し、敵基地を爆撃し、またイギリス東洋艦隊の排除に貢献。ビルマ進軍を補佐した。空母集中運用による効果は目覚ましく、真珠湾から半年ほどの連戦連勝で艦隊の規律はゆるみ、また疲労も蓄積していった。

 皇02(S17/42)年5月、歴史は珊瑚海、そしてミッドウェーへ駒を進める。珊瑚海海戦は陸軍のポートモレスビー侵攻作戦の援護を含め、珊瑚海の制海権をえようと急遽機動部隊へ下命されたものである。最新空母翔鶴型2隻と小型空母翔鳳の3隻他が出撃し、その情報を得た米軍も空母を進めて、互いに艦載機のみで海戦を行なった。これは「史上初の互いの艦船を視野に入れない海戦」となった。結果は米軍は空母レキシントン沈没、ヨークタウン中破、日本軍は翔鳳沈没、翔鶴大破であった。被害だけみれば日米引き分けだが、日本軍の侵攻作戦が頓挫しこの方面より撤退したので、戦略的には米軍の勝ちと言える。

 また、索敵で敵空母見ゆとして出撃したら米タンカーだった(いないはずの空母を求めて飛び回り時間を無駄にした)り、日本軍の攻撃機が米空母に誤着艦しかけたりと混乱した。瑞鶴は無傷だったが艦載機を大量に失っており、戦えなかった。飛行機のいない空母など、弾の無い戦艦に等しく何もできない。

 そんなわけで南雲機動部隊はそれから1か月後のミッドウェーに主力6隻中2隻を欠く不完全な状態で挑んだ。しかし米軍は中破したヨークタウンをハワイ基地でわずか数日で修復したうえ、日本潜水艦の雷撃を受けて小破し修理中だったサラトガの物資や艦載機を転用しミッドウェーに間に合わせ、主力空母3隻(エンタープライズ、ホーネット、ヨークタウン)他艦船をそろえた。

 

 


 飛龍では山口多門少将が爆弾と魚雷の換装作業に時間がかかることを懸念し、インド洋で猛特訓を行い魚雷から弾薬なら最短30分で行えるにまでなったが、ミッドウェー前の人事異動でぜんぶパーになった。ミッドウェー攻略作戦自体が何が目的なのか曖昧なうえ、主力部隊は機動部隊の遥か後方にあり、先行部隊は基地攻撃と敵艦隊撃滅とどっちが主なのかアヤフヤなまま6月5日、護衛の榛名、霧島と軽巡、駆逐艦、補給艦多数を従え、ミッドウェー島沖へ展開した。

 日本時間0130第一次攻撃隊が発進。ミッドウェー基地を空襲した。しかし米国はとっくのとうに日本軍の暗号解読等で襲来を知っており、基地は厳重に防備され、対空砲、基地航空隊戦闘機の迎撃で日本軍も被害が大きく、かつ基地へのダメージは小だった。従って0400ころ攻撃隊より第二次攻撃の必要が打診され、敵機動部隊未発見だった艦隊では第二次攻撃の用意と共に念のため対艦用の装備を整えていた攻撃機の魚雷や爆撃機の対艦250kg爆弾を対地800kg爆弾へ換装する作業でごった返した。特に赤城と加賀は魚雷と爆弾(大小2種類)が乱雑に格納庫内へ転がっているというありさまだった。蒼龍と飛龍では、爆弾の換装作業のみが慌ただしく行われた。

 また、第一次攻撃隊を飛ばしたのちの0200ころより艦隊は断続的なミッドウェー基地航空隊の空襲にさらされており、回避を行うとともに迎撃の零戦もひっきりなしに飛んでは補給で着艦していた。随時戻ってきた第一次攻撃隊は、米軍の艦隊攻撃に遭遇し上空で待機を余儀なくされる場面もあった。

 さらに、重巡利根、筑摩の索敵機がカタパルト不調で3時間ほど発進が遅れたのも命運を分けた。これがもっと早かったら、もっと早く敵空母を発見していたかもしれなかったが、分からない。0440利根索敵機より「敵らしき艦影見ゆ」の報があるも、つい1か月前にタンカーを空母と間違って攻撃機を飛ばした実績があるだけに「らしき」では作戦変更に当たらずとしてさらなる索敵を命令。ただし換装作業は中断した。

 0520ついに敵空母1隻認ムと入報。予想はしていたが、衝撃が走った。飛龍の山口少将は対地装備でかまわないから、いますぐ攻撃機を上げろと進言。しかし0530赤城の南雲艦隊司令長官からは直ちに250kg爆弾へ装備戻せの命令が来る。赤城加賀は元より蒼龍飛龍でも換装に次ぐ換装で滅茶苦茶に爆弾魚雷がゴロゴロする状況となった。さらに第一次攻撃隊が戻ってきてその収容、敵基地攻撃隊の迎撃と回避、零戦の補給収容と発進で装備換装終えた対艦攻撃機を上げることができなかった。

 蒼龍ではさらに詳細な情報を得るため、新型高速爆撃機彗星の試作機を偵察機に改良した十三式試作偵察機2機を上げた。これが米空母部隊を発見し戻ってくるころには既に蒼龍は大炎上していたが飛龍へ降りたち、敵空母情報を伝えて反撃の一矢を放つことになる。

 4隻の空母で全ての第一次攻撃隊の収容が終わったのは0700すぎであった。ちょうどその頃より、基地航空隊と入れ替わりに米空母3隻より飛び立った攻撃隊が順次戦闘空域に到達。各個艦隊を発見し、断続的に攻撃開始する。飛龍では赤城へ、対艦攻撃用の第二次攻撃隊発進可能時刻を0730から0800のあいだと報告していた。

 まず攻撃開始したのはデバステーター雷撃機隊でいっせいに高度を下げ各個空母を狙った。4隻の空母と随伴艦は回避運動に入り、赤城、加賀、蒼龍が右旋回を行い駆逐艦もその後を追ったが飛龍だけ艦隊位置との艦橋の位置で左回頭した。しかも回避先にスコールがあったため一目散にそれを目指した。そのため、1隻だけ艦隊から離れてしまった。

 

 

 米軍撮影。日の丸と、ヒ の字が確認できる。


 デバステーター部隊は後を追った零戦に大半が魚雷発射前に叩き落され、魚雷発射しても零戦から逃れられずほぼ全滅した。魚雷も全て回避された。だが、零戦が艦隊上空より1機もいなくなった。

 そこへ猛然と突っ込んできたのがドーントレス急降下爆撃機部隊であった。指揮ミスでエンタープライズ攻撃隊30機ほどが加賀へ殺到した。連携について行けなかった数機が赤城へ向かった。蒼龍へはヨークタウン攻撃隊の17機が襲いかかった。結果は既に当ブログで取り上げているが、3隻は5分ほどのあいだに1000ポンド爆弾を次々に受け、甲板を突き破って格納庫で爆発。散乱していた爆弾、魚雷、燃料満載の攻撃機、あるいは航空燃料タンク車が誘爆して断続的に大爆発を繰り返し、猛炎を噴き上げて大炎上した。一気に日本軍の誇る大機動部隊が壊滅した瞬間だった。

 飛龍はそんな友軍を尻目に雲下へ逃れ、九死に一生を得た。そして、単独反攻を決意。山口少将の指揮下で準備を始める。その際、少将はかくの如く宣言した。

 

 


 「飛龍を除く三艦は被害を受け、とくに蒼龍は激しく炎上中である。帝国の栄光のため戦いを続けるのは、一に飛龍にかかっている」

 0800北進する飛龍より第二次攻撃隊が飛び立った。利根索敵機よりの誘導信号を頼りに飛び続け、ちょうど攻撃隊収容中のヨークタウンを発見。反撃開始する。爆弾3発を命中させるも、米空母は格納庫が解放式で爆風や炎が外へ逃げ、またダメージコントロールや区画割も格段に優れており容易には沈まない。事実、ヨークタウンは鎮火に成功。動力も復活し航行を始めた。また攻撃隊は迎撃が激しく半壊した。

 1130第三次攻撃隊発進。再び航行中のヨークタウンを攻撃。今度は両サイドより魚雷2本ずつの挟み撃ちをお見舞いし、左舷2本命中。今度こそ珊瑚海に続きヨークタウンを航行不能せしめる。しかし攻撃隊も被害が大きく、南方で炎上し続ける3空母より不時着できない艦載機を何機か受け入れるも、飛龍の戦闘力は失われつつあった。

 

 

 友永機を含む飛龍攻撃隊の魚雷をくらう空母ヨークタウン。


 そのころ蒼龍より飛び立っていた十三試偵が飛龍へ戻ってきた。さらに駆逐艦嵐で捕虜とした米攻撃機パイロットの情報により、敵空母が3隻であると確認。だが、ヨークタウンを2回攻撃したことに気づかず、3隻のうち2隻を戦闘不能にしたと判断した。

 互いに空母1隻同士なら勝てるか、あるいは悪くても引き分けてやると山口少将はさらに将兵を鼓舞。第四次攻撃隊の準備に入る。しかし残存勢力の少なさに昼間攻撃を断念。薄暮攻撃にきりかえ、再度十三試偵の発艦準備にかかる。

 しかしちょうどそのころ、ヨークタウン索敵機が飛龍と随伴艦(戦艦1、重巡2 駆逐艦4)を発見、位置情報を空母へ伝え、米攻撃隊の誘導を行った。飛龍上空は赤城、加賀、蒼龍から着艦した零戦が交代で警戒していた。この間、1240ころヨークタウンを雷撃した部隊も収容し、再出撃の準備を続けた。しかし、戦力は激減していた。

 やっと十三試偵の発艦準備が整った1400ころ、出撃準備中の飛龍と随伴艦をエンタープライズ(ヨークタウンに着艦できずエンタープライズに降りたヨークタウン攻撃隊を含む)の急降下爆撃機隊24機が急襲。直掩の零戦6機が迎撃し、第1波攻撃は失敗した。しかし続けざま、太陽を背にした第二波攻撃隊が利根と筑摩の対空射撃を潜り抜けて再び肉薄し、飛龍と榛名へ殺到。榛名は至近弾だったが、飛龍へ爆弾4発が命中した。

 朝の3艦ほどではないが前部エレベーターの蓋がぶっ飛んで艦橋の前に突き刺さるほどの爆発を起こし、大穴が開いて甲板が使用不能、飛龍も一撃で戦闘不能となる。航行は可能だがやはり爆弾や艦載機が誘爆し大火災が発生、機関室と連絡が途絶し、数時間にわたる消火活動も実らず火災が収まらなかった。

 1830ころより駆逐艦による放水を開始するも内部の火災がなかなか収まらず、2100ころ再び爆発。戦艦2隻による曳航も検討されたが前部の損傷が激しく断念。最後まで機関部との通信が回復せず、決死隊も火災熱により断念。機関全滅と判断され総員退艦が決定した。

 2200駆逐艦巻雲が横付けし負傷者を救出、御真影を下ろす。2350軍艦旗降下。翌6月6日0015総員退艦命令。駆逐艦巻雲、風雲にて生存者収容。0210雷撃処分のため巻雲が魚雷2本発射し、1本が命中した。山口少将と加来艦長は艦へ残った。月のきれいな夜だったという。

 その後、朝を待たずに巻雲は飛龍から離れたが、飛龍は沈まずに漂流を続け朝を迎えた。その姿を、後方の本体に随伴していた空母鳳翔の九六式艦攻が発見、高名な写真を撮影している。しかも、生存者が残っていて、甲板で2名が手を振っていたのを報告した。さらに火災が収まり、100名以上の機関部員が機関室脱出に成功したが、救命艇で飛龍を離れることができたのは39名であった。

 

 

 鳳翔が偵察に放った九六式艦攻の撮影した朝方に延焼する飛龍。甲板に生存者を確認した。

 

 

 前甲板に大穴が空いている。艦橋の手前に破損したエレベーター蓋の破片が突き刺さっている。


 報告を受け、駆逐艦谷風が生存者救出と飛龍処分のため現場へ向かったが、途中で米軍の空襲を受けて報告地点への到達に遅延が生じ、飛龍と救命艇を発見することはできなかった。

 飛龍生還者の証言によると、飛龍は6日0615ころ、左舷に傾き艦首から沈んでいった。救命艇は15日間の漂流の後米軍の哨戒機に発見され、救出されたのち捕虜収容所へ送られた。救命艇の少なさに、米尋問官は「国家による殺人である」と憤慨したという。

 

 

 米軍に救出された飛龍機関員。

 

 1日にして主力空母4隻全滅の報を受け、夜間艦砲射撃で反撃しようとしていた山本五十六司令長官も、敵基地航空隊と生き残った空母艦載機の挟撃を懸念し、作戦の続行を断念。ミッドウェーから撤退した。

 

 

 ネット有志のまとめた4空母被弾状況。


 ちなみに艦砲射撃部隊として先行していた最上型重巡最上、三隈、鈴谷、熊野4隻は、作戦中止を受けて撤退中になんと対潜行動の失敗で陣形が乱れ、最上と三隈が衝突してしまうハプニングが起きた。しかも鈴谷と熊野がさっさとその場を離れてしまい、小破中破で残された最上と三隈は米軍の空襲を受け、速度低下していた三隈は逃れられず沈没した。

 また大破し航行不能となった空母ヨークタウンは3ノットで曳航されながら駆逐艦ハムマンが横付けし、懸命の復旧が行われていたが始末を命じられた日本軍の潜水艦伊168号により7日の0530ころ発見された。伊168号は発見から8時間もの間周囲をウロウロし、時には空母や駆逐艦の真下を通って距離を測り機を伺い、1300ころ魚雷4本発射。航跡を発見した米軍があわてて機銃で迎撃、周囲警戒の駆逐艦も爆雷の滅多打ちを放ったが2本がヨークタウンへ命中、1本がハムマンへ命中し、ハムマンは爆雷誘爆し轟沈、ヨークタウンも浸水が増大し一気に沈み始めた。ヨークタウンはそれでも翌8日の0500ころまで持ったが、ゆっくりと転覆して沈んだ。伊168号は復讐に燃える米駆逐艦に執拗に攻撃され損傷したが、脱出成功した。

 ※次回より隔週か不定期の更新にします。すみません。


 

 ワシントン及びロンドン軍縮条約は、戦艦から空母から何回も当ブログでとりあげているので耳にタコだと思われるが、どうしようもない。それだけ、海軍は条約に翻弄されたのである。主に主力艦のトン数を制限され、戦艦・巡洋戦艦の建造計画である八八艦隊計画が頓挫した日本だが、なんと欧米列強はそれに飽き足らず、日本だけ空母も排水量制限をかけてきた。日本は、空母80,000トン(81,000トンとも)以内と定められた。日本は、まだそれへ逆らう国力がなかった。
 
 戦艦と巡洋戦艦から改装した加賀と赤城は元が戦艦なだけに空母とは思えぬ排水量を持っていて、その2隻だけで80,000トン枠の大半を使い果たし、鳳翔と龍驤を10,000トン以下の小型空母として、それで残りは約12,600トンとなった。そこで空母を1隻造るかと思いきや、鳳翔が廃艦可能年数と定めれられた艦齢16年を迎えるにあたり、廃艦しないけど廃艦予定としてそのぶんの約8,700トンを足して約21,000トン分の空母を新たに建造することにした。

 それで、10,000トンクラスの航空巡洋艦のようなものを2隻造ろうと計画したのが、蒼龍クラスの空母2隻である。

 

 

 デジタル彩色。今後の日本空母の基準となる名設計である。


 しかし設計段階で水雷挺友鶴が佐世保でひっくり返った「友鶴事件」が起き、日本軍の軍艦は全体的に装備重量過多でトップヘビ-ということが露呈。武装から重心設計からぜんぶをやり直した。その中で、15.5センチ連装砲を持った航空巡洋艦構想はボツって、普通の空母となった。

 

 

 進水の様子。


 翌年、今度は台風で多くの巡洋艦、空母、駆逐艦が損壊した「第四艦隊事件」が発生。特に最新式の電気溶接が裂けて船体が破断したため、電気溶接の信頼度がガタ落ちし、蒼龍は建造途中の船体を2か所輪切りにして切断面調査を行った。

 そんなわけで、蒼龍はなんだかんだと龍驤の竣工から4年も経った皇紀2597(昭和12/1937)年12月に竣工した。それでも、∇船体である龍驤の改装に次ぐ改装もあり、龍驤の改装終了の翌年である。けっきょく条約脱退が決定し、基準排水量約16,000トン(満載約20,000トン)の中型空母として完成した。しかし情報秘匿のため、欧米はずっと蒼龍を10,000トンクラスの小型空母だと信じていた。

 

 


 ちなみに2番艦の飛龍は設計中に条約廃止を迎えたので、ちょっとだけ大きく設計し直され、蒼龍より基準排水量が1,000トンほど大きい。

 中型とはいえ、加賀や赤城が戦艦改装のためにやたらとデカイだけで、当時の空母としてはまずまずの大きさと搭載量で、十分に主力として戦える空母であった。

 

 


 翌年には護衛の駆逐艦数隻と共に第二航空戦隊を編成、翌々年に姉妹艦(正確には蒼龍改型ともいえる準姉妹艦)の飛龍を二航戦に加える。皇00(S15/40)年11月、かの山口多門少将を二航戦司令官に迎える。翌皇01(S16/41)年4月、一航戦、四航戦や基地航空隊と共に「第一航空艦隊」を編成。南雲中将を司令官に迎え、世界初の空母機動部隊として活躍することになる。

 

 

 デジタル彩色。珍しい、艦橋のアップ。


 そろそろ同じことを何度も記すのに私自身が飽きてきているが、一航戦二航戦は真珠湾からミッドウェーまでほとんどいっしょで、沈んだのもいっしょなので同じことを書かざるを得ない。その中でも、艦ごとに少しづつ特徴があるのが興味深いところであるが。

 同年12月真珠湾。最新鋭の五航戦(翔鶴、瑞鶴)ら空母6隻の集中運用(世界初)という離れ業で、日本は米太平洋艦隊の一時的な壊滅に成功する。しかし破壊した戦艦は多くが旧式艦だったこと、艦船破壊にこだわり真珠湾の基地としての破壊が不充分だったこと、米機動部隊を逃したこと、宣戦布告との時差により米首脳部の対日戦プロパガンダに使用されたこと等により、結果論であるが奇襲大成功であると同時に戦略的な効果は戦果の割にあまり高くなかったといえる。

 

 

 真珠湾。赤城より後方の蒼龍を見る。

 

 真珠湾の帰り、二航戦のみ護衛の重巡2(利根、筑摩)駆逐艦2(谷風、浦風)を引き連れてウェーク島攻略戦を支援した。12月末、任務を終え遅れて日本へ帰還する。

 その後、南雲機動部隊は南方へ進出し、オーストラリア、インド洋、マレー半島、シンガポール方面を攻略する。セイロン島沖海戦では敵東洋艦隊を逃すも、英空母ハーミ-ズの他重巡、駆逐艦、給油艦その他多数の艦船を撃破。ハーミーズは鳳翔に次ぐ古い本格空母であったが、ここで命運尽きた。なおその後、英東洋艦隊の戦艦2隻(レパルス、プリンスオブウェールズ)は日本軍の基地航空隊に撃沈される。加賀がパラオで座礁し、一時日本へ戻るハプニングもあったが南雲機動部隊は連戦連勝であり、1年以上もの疲労と慢心、油断が艦隊へ蓄積していった。蒼龍は皇02(S17/42)年4月、いったん日本へ戻る。

 

 

 インド洋方面へ向かう艦隊。瑞鶴より撮影。奥より赤城、蒼龍、飛龍、比叡、霧島、榛名、金剛。


 皇02(S17/42)年5月、珊瑚海海戦が勃発。これは日本軍のポートモレスビー攻略に際し、現地より航空支援要請があったため急遽五航戦の2隻へ空母翔鳳を加え、3隻で支援を行ったのだが、暗号解読で日本軍の作戦を知った聯合国軍も米軍が空母2隻(レキシントン、ヨークタウン)を差し向けたものである。ここで、海戦史上初の「互いに艦船を視野に入れないまま航空機攻撃だけによる海戦」が発生した。

 

  

 

 結果、日本軍は翔鳳が沈没(日本軍空母喪失第1号)、翔鶴が爆弾直撃で大破、瑞鶴は搭載機多数喪失で戦闘不能となり、修理その他艦載機補充で3か月の時間を要することとなった。そのため、五航戦がミッドウェーへ参加できなくなる。ちなみに米軍は日本軍の攻撃によりレキシントンが沈没、ヨークタウンは大破し航行不能となった。そのため海戦そのものは日本軍の勝ちと云えたが、ポートモレスビー攻略と珊瑚海制圧作戦は中止となり、戦略的敗北を喫した。なお、同じく復旧に3か月はかかると思われたヨークタウンが、真珠湾基地で米兵の不眠不休の鬼の復旧作業により、なんと翌月のミッドウェーに参加している。

 

 


 そのようなわけで南雲機動部隊は五航戦を欠き、戦力は2/3となった。またミッドウェー島攻略作戦そのものも矢継ぎ早で準備不足が否めず、しかも杜撰な作戦立案で不安が募った。皇02(S17/42)年6月、南雲機動部隊は高速戦艦比叡、霧島、重巡利根他駆逐艦多数の護衛をつけ、空母4隻でミッドウェー基地へ先行する。機動部隊の上層部が芸者に作戦を漏らしたなどと云われるほど規律は艦隊全体で緩んでおり、日本軍でこうなのだから米軍もとっくのとうに次の目標はミッドウェーと睨み準備を整えた。

 

 

 甲板下の珍しいショット。


 しかし暗号のAFが正確にどこなのか図りかねていた。米軍はわざと「ミッドウェー基地で真水製造機故障」という偽情報を平文で打電した。すると日本軍が暗号で「AFで真水不足」と打った。米軍はそれを解析し、次はミッドウェーと確信した。

 機動部隊のミッドウェーの第一作戦目標は基地爆撃であった。未だ実戦に耐えうるほどのレーダーを開発できていなかった日本軍は索敵に頼らざるを得ず、索敵しまくったのだが、米機動部隊を発見できなかった。しかも、このころはまだ偵察専用機と専用員をもっておらず、航続距離の長い艦攻を偵察機代わりに使っていた。そのため攻撃隊員が本来の仕事の外である偵察に出ずっぱりで「索敵で日が暮れる」と不満を漏らした。重巡利根、筑摩の索敵機発進がカタパルトのトラブルのため予定時刻を数時間も遅れたのも運命を決した。

 6月5日0130(日本時間)空母4隻より飛び立った第一次攻撃隊がミッドウェー基地を空襲。しかし既に強固な防護陣地が構築され、また対空砲火や迎撃戦闘機の活躍もあり効果的な攻撃には至らなかった。そのため、第二次攻撃の必要が具申された。

 艦隊では直ちに第二次攻撃の準備に入り、赤城と加賀では念のため対艦攻撃用に魚雷装備していた九七式艦攻も地上攻撃用の800kg爆弾へ装備換装開始した。また蒼龍と飛龍では九九式艦爆が対艦攻撃用250kg爆弾を同じく地上攻撃用の800kg爆弾へ装備換装開始した。この装備換装はただ武器を取り換えるだけではなく、そのアタッチメントごと交換しかつ非常に繊細な機器なので慎重に作業しなくてはならず、十数機の攻撃隊の交換終了に1時間半から3時間はかかったという。特に爆弾から魚雷への換装に時間がかかった。

 そのうち、間の悪いことに0440重巡利根の索敵機より「敵らしき船影10隻見ゆ」の報告が入る。「らしき」では作戦命令変更にはあたらずとして、さらに詳細な索敵が命ぜられ、この間、換装作業は30分ほど中断された。とうぜん、格納庫内は爆弾と魚雷がゴロゴロしていた。

 このとき、蒼龍には後の艦爆彗星の試作機を改良した試作偵察機(後の二式艦上偵察機)があり、発進した。その後、この試製偵察機は0830ころ米機動艦隊を発見したが時すでに遅かった。

 0530利根索敵機が米艦隊発見。換装作業は直ちにやり直され、現場は混乱の極みに達した。蒼龍では爆弾のみの換装だったが、帰投する第一次攻撃隊の九七式艦攻へ装備予定の魚雷18本が艦底調整場より格納庫へ上げられていた。

 さらに、いよいよミッドウェー基地航空隊の空襲が始まった。艦隊は回避と直掩の零戦を上げる作業と帰ってきた第一次攻撃隊の収納でてんやわんやとなり、米艦隊へ攻撃隊を発進させる余裕が全くなかった。

 

 

 米軍撮影。回避運動を行う蒼龍。


 第一次攻撃隊の収納は、遅くても0650ごろまでかかった。0700すぎ、第二波空襲として敵機動部隊より飛び立った攻撃隊が、順次南雲機動部隊へ襲いかかった。最初に攻撃を開始したのはTBDデバステーター雷撃機隊で、いっせいに海面へ降りて雷撃体制に入った。空母群もいっせいに回避運動へ入り、零戦隊が迎撃のためこちらもいっせいに低下した。デバステーター部隊は次々に撃墜され、半数が魚雷発射前に叩き落され、魚雷発射した機も零戦にほとんど撃ち落とされた。また発射された魚雷は全て回避された。が、艦隊上空はがら空きとなった。

 

 

 米軍撮影。

 

 そこへ突っこんできたのが40機近いSBDドーントレス急降下爆撃機隊である。対空砲火をくぐり抜け、隊長機の指示ミスと連携失敗で30機前後が加賀へ向かった。赤城へは3~4機、蒼龍へは数機が突入した。飛龍のみ、3隻とは反対方向に転舵し魚雷回避運動を行ったので艦隊から離れるかっこうとなり、難を逃れた。0725から0730にかけて、3隻へ次々に爆弾が命中した。

 蒼龍では3か所のエレベータ付近へ1000ポンド爆弾がそれぞれ1発ずつ計3発命中。甲板や格納庫内隔壁を突き破り、庫内で爆発。爆弾、魚雷、燃料満載の第二次攻撃用の九九艦爆が続々と誘爆した。日本軍の空母格納庫は密閉式で、爆発が抜けずに爆風と火炎が体内を駆けずり回り、甲板を下から突き上げつつさらに爆発を繰り返し、大炎上した。加賀と同じく火災の勢いで機関員が脱出不可能となったうえ、主蒸気管が破壊されて0740には機関停止。0745には早くも総員退艦が命令された。

 その後、海面を漂流する生存者を救出しつつ、1430ころ火災が収まったとのことで駆逐艦が横付けされる。1500ころ駆逐艦磯風が艦内に残る生存者を救出。その後再び爆発があり救出を断念。1615ころ、日没とともに(現地時間は1915)蒼龍は艦尾より沈没したが、磯風が雷撃処分したという説もある。火災により脱出できなかった機関員300人ほどが、そのまま全滅した。

 唯一残った飛龍は水上部隊到達まで渾身の反撃を試み、再び空母ヨークタウンを航行不能せしめるも多勢に無勢、逆襲を食らって翌日沈没。山本聯合艦隊司令長官はミッドウェー基地砲撃のために先行させた最上型重巡4隻を呼び戻し、作戦の中止を決定した。ちなみに反転した4隻のうち最上と三隈が対潜哨戒運動の失敗で衝突し三隈が中破、速度低下したところを空襲されて三隈は沈没した。

 大惨敗である。
 

 日本で4番目の空母として誕生した龍驤。中国語由来の名前が難しい。変換できないので、コピペするのが手っ取り早い。意味は、「龍が空に上ぼる如く威勢がよい」ことだそうである。
 
 改装ではなく、最初から空母設計された(ハーミーズ、鳳翔に続く世界で3番目の)艦であるが、設計段階では軍縮条約の基準により巡洋艦並の排水量しかなかった。が、途中で条約の規制が無くなり、それならばと格納庫をドカンと大型にしたため、正面から見ると逆三角形∇みたいな、異様な艦に仕上がった。これは龍驤の最大の特徴と言えるだろう。

 

 

 正面から。船体幅からはみ出んばかりの格納庫。というか、はみ出てる。


 八八艦隊計画を頓挫せしめた軍縮条約は、日本のみ空母の総排水量を80,000トンと定めてきた。赤城と加賀の改装でその大半を使い果たした日本は予定していた空母翔鶴(後の翔鶴型空母とは別の艦)を計画廃止。排水量の制限のなかった10,000トン以下の艦としてこの空母龍驤を計画した。

 

 

 ひっくり返りそうで返らない。


 竣工は皇紀2593(昭和8/1933)年。しかし、翌年に「友鶴事件」という、日本海軍の艦船全体にかかる設計段階からの復元性不足が露呈し、ただでさえ∇の龍驤は最新の艦にもかかわらず、すかさず改装してバルジを増設等し、復元性の回復に努めた。

 

 

 後ろから。舷側がやたらと低いのが分かる。

 

 

 鳳翔(下)と比較するとその舷側の低さが分かる。波切れも悪かったという。


 さらに翌年9月26日、龍驤は「第四艦隊事件」にまきこまれる。これは演習に参加するべく函館港を出港した第四艦隊(重巡6軽巡7駆逐艦20以上空母2その他補助艦艇多数:艦名略)が岩手沖で台風に遭遇したもので、当時はレーダーも人工衛星もないし、台風の規模を見誤ったうえ既に荒天域に突入しており、目測での全艦回頭も衝突の危険があった。また荒天の中を進むもよい訓練だということで台風突入したらあまりの大シケで大遭難した、とんでもない事件である。

 駆逐艦2隻が艦橋付近より船体破断という大損害を受け、他にも駆逐艦3隻が艦橋大破、鳳翔は甲板破損、龍驤は艦橋破損のうえ甲板後方の扉がぶっ飛んでザブザブ浸水して格納庫が水浸しになり、重巡等3隻は船体が歪んでシワが寄る、リベットがゆるむなどの被害を受けた。その他駆逐艦多数が波浪で損傷した。

 特に船体が千切れた初雪は千切れた先に電信室があり重要軍事機密があったため、漂流して他国へ流れ着いたら大問題となる可能性があった。従って漂流していた艦首部を発見した重巡那智が曳航を試みたが高波で断念。艦首部には未だ24人がいたというが、やむなく生存者の確認をとれぬまま砲撃して沈めた。

 またこの事件では最新式の電気溶接が裂けたため、やはり溶接はだめだリベット打ちに限るとなり、後の大和や武蔵などの超大型艦も主要部は何百万本もリベット打ちされることになり、建造時間の大幅な遅延につながったという影響も出た。

 龍驤はさらに改修をうけ、竣工から3年後の皇96(S11/36)年にようやく落ち着いた。と、思ったら同年、上海事変勃発。空母鳳翔と加賀が参加し(日本空母初の実戦参加)、龍驤は参加しなかったが翌年には第二次上海事変から支那事変へ発展。鳳翔、加賀と共にこれへ龍驤も参加し初陣となった。主力は搭載機数がダントツの加賀だったが、龍驤はやたらと訓練の厳しいことで高名で、活躍した。

 

 

 デジタル彩色。まさに「箱」が動いている。

 

 


 皇01(S16/41)年になると改装空母春日丸(後の大鷹)他護衛の駆逐艦と共に第四航空戦隊(四航戦)を編成。一航戦、二航戦、五航戦の大型空母6隻からなる南雲機動部隊とは別に、独自で活動する。真珠湾の際は、四航戦は南方へ出陣し陸軍の南下占領作戦を補佐した。しかし、春日丸はまだ改装途中で速度があまりに遅く、実戦参加は無理とされ、なんと空母は龍驤1隻でジャワ島、スマトラ島、インドネシア方面、フィリピン方面、シンガポールなどを縦横無尽に駆けずり回り、陸軍の輸送船団を護衛し、または聯合国軍の要塞や防衛部隊を空爆、あるいは敵の輸送船や空母、巡洋艦、その他艦船を破壊して大活躍した。ある時は飛行機を出すまでもないとして、オランダ軍の哨戒艇を龍驤自ら追撃して高射砲の水平射撃で撃沈する(!)という離れ業まで披露した。

 

 


 小型で小回りが利く船体に同型空母の1.5倍もの搭載機を持つ龍驤は非常に使い勝手がよく、通商破壊戦に最適で、聯合国軍からも煙たがられた。大型空母群が真珠湾からセイロン沖まで南雲機動部隊として活躍している裏で、龍驤は通商路遮断という地味ながらも非常に重要な後方支援を行っていた。

 

 


 さて皇02(S17/42)年6月のミッドウェーで主力空母4隻が撃沈され、南雲機動部隊は壊滅、日本軍快進撃の大きなターニングポイントとなったことはご承知のとおりだが、その裏でこの龍驤も、とんでもない事件を起こし結果として日本軍へ深刻なダメージを与えた。

 それが「アクタン・ゼロ」事件である。

 同年5月、作戦に先んじて四航戦へ改装空母隼鷹が編入された。ミッドウェー攻略と同時に日本軍は北方へも軍を進め、アリューシャン列島攻略戦を同時進行する。6月3日、2隻の空母から飛び立った攻撃隊がダッチハーバー基地を空襲。大きな戦果はなかった。翌日、第二次攻撃。一部敵戦闘機と交戦したが天候不良で帰還。さらに翌日の6月5日に第三次攻撃が行われたが、この時は米軍も激しく対空砲火とP-40戦闘機で迎撃した。

 このさい、古賀一等飛行兵曹(20)の操縦する零戦21型が対空機銃掃射の被弾により油圧系統が故障、油漏れを起こし、エンジン停止でアクタン島の湿地帯へ不時着した。しかし車輪主軸がぬかるみにひっかかって抵抗のためひっくり返り、仰向けとなって滑って停止した。古賀一飛曹は頸椎損傷か頭部挫傷のため死亡した。

 

 

 

 

 

 

 米軍に発見された古賀機。


 当時最高機密だった零戦の鹵獲を恐れ、日本軍は敵地不時着した場合の破壊を命じていたが、僚機は古賀の生死確認ができず破壊にまでは至らなかった。また、古賀が生存していた際の救出のための潜水艦も、ずっと古賀を探していたが米駆逐艦に発見され追い払われた。

 1か月後、米哨戒機がほとんど無傷の古賀機を発見。回収、修理し、幾度となくテスト飛行が行われ、零戦の性能、弱点が全て白日の下にさらされた。元より中国戦線、真珠湾、珊瑚海、そして鹵獲時にはミッドウェーも終わり、米軍は零戦の詳細な研究・分析成果を出していたが、このアクタン・ゼロ(もしくはコガのゼロ)はその研究・分析がなんら間違っていなかったことを立証し、対零戦戦法の早期確立に貢献した。

 

 

 

 

 米軍にてテストされる古賀機。


 すなわち、零戦と戦うには低空での格闘戦に持ちこまれないこと、後ろを取られたら急降下・急上昇で脱出すること、常に2機で対戦し一撃離脱で戦うこと……などである。零戦と米戦闘機のキルレシオはたちまち逆転し、それまで無敵だった零戦は苦境に立たされた。米軍の分析力をもってすればこうなるのは時間の問題であったろうが、アクタン・ゼロによりそれが早いうちに立証されてしまったのはやはり大きい。

 P-38戦闘機などは、あまりの低空低速における運動性の悪さに、零戦や隼にいいように食われて「ペロハチ」(ペロリと食えるP-38)などと呼ばれて日本軍パイロットからバカにされていたが、高度高速一撃離脱戦法をとられてからは手も足も出なくなり、手のひらぐるりで「双胴の悪魔」などと呼ばれて恐れられた。

 

 

 米陸軍P-38ライトニング戦闘機。

 

 

 現存機も多い。


 なお、上陸部隊は6月6日にアッツ島、6月7日にキスカ島を上陸占領した。特に守備隊はなく、容易に占領できた。しかし、ミッドウェー攻略作戦中止により、アリューシャン攻略作戦も中止となった。

 さて四航戦はその後空母瑞鳳をくわえ、さらに第五艦隊として他重巡、駆逐艦と共に北方警備にあたったが、米機動部隊は現れず代わりに潜水艦がウヨウヨ出現しだし、日本軍の対潜哨戒の弱さが露呈。米潜水艦の雷撃で駆逐艦2隻沈没、2隻大破の大損害を受け、哨戒警備どころではなく艦隊は日本へ戻る。

 

 


 ミッドウェー後、日本軍は機動部隊を再編した。一航戦に翔鶴、瑞鶴、瑞鳳の3隻、二航戦に龍驤、飛鷹、隼鷹の3隻が加わって計6隻の空母他駆逐艦隊で新生南雲機動部隊とした。

 同年8月4日、日本軍が米豪遮断のために占領していたガダルカナル島へアメリカ軍が上陸。この時から、日本軍の地獄のガ島攻防戦が始まる。8日に発生した第一次ソロモン海海戦で日本軍は勝利し米軍が一時撤退したにも関わらず、日本軍は次の手を打てずに時間がすぎ、逆にガ島へ残された米海兵隊が遺棄された日本軍の機材を使ってヘンダーソン飛行場を完成させる始末。

 日本軍は25日ごろに大規模な奪還作戦を開始すべく陸軍増援部隊や他の艦船もガ島へ向け終結したが、20日ころにはもう米空母3隻(エンタープライズ、サラトガ、ワスプ)他が集結した。一航戦のうち瑞鳳がドックから出たばかりで、代わりに龍驤が臨時に一航戦となった。

 

 


 23日、陸軍の上陸部隊輸送船が米飛行艇に発見される。25日の上陸予定日、龍驤は別行動でヘンダーソン飛行場を攻撃し、敵機動部隊を引き付け、その隙に翔鶴、瑞鶴が艦載機のいなくなった敵機動部隊を叩くという囮作戦が発動。主力空母4隻喪失によりただでさえ貴重な空母を囮に使うとは、後世からするとびっくりである。

 

 


 24日、護衛の重巡利根、駆逐艦天津風、時津風を引き連れた龍驤は飛行場を爆撃したがあまり効果はなく、そのうち敵哨戒機に発見された。陸上基地からのB-17爆撃機の空襲は命中弾が無かったが、サラトガとエンタープライズ(ワスプは補給のため撤退)を飛び立った攻撃機が襲来。対英米戦開戦以降、南方をちょろちょろしていた目障りな小型空母をこの機会に沈めようと、執拗な攻撃が始まった。龍驤は零戦を上げて迎撃し、懸命に回避したが多勢に無勢、甲板と艦橋に被弾、士官多数戦死のうえ炎上した。さらに1400過ぎに魚雷1本命中した。

 龍驤は大火災を起こし傾斜20°に達し航行不能となった。1640ころ、練達乗組員によるダメコンで火災は収まったが機関全滅となり復旧不可能と判断。利根や駆逐艦による曳航も試みられたが傾斜がひどく無理だった。1730龍驤の雷撃処分が決定するも、生存者救出の後1800ごろ龍驤は艦尾よりガダルカナルの海へ沈んだ。降りる場所を失った龍驤の艦載機は陸上基地へ降り、そのまま基地航空隊へ編入された。

 さて龍驤らが空襲を受けていたころ、作戦通り翔鶴、瑞鶴の攻撃隊が艦載機の飛び立ったエンタープライズとサラトガを襲ったが、残念ながらエンタープライズを中破せしめるに終わった。ヘンダーソン飛行場の被害も軽く、翌日には無傷のサラトガと基地航空隊により日本軍上陸部隊が襲撃され、補給艦や輸送船が沈没し上陸断念。作戦は失敗した。

 日本軍の空母喪失は6隻目、米軍は入れ替わるように空母の大量生産に入る。WW2を通しての日本軍空母は主力空母から小型空母まで24隻で、戦艦12隻の倍であり帝国海軍は空母こそ主力と云ってもよいくらいだが、米軍は結果として主力空母だけで30隻以上、護衛空母に到っては数えきれない。Wikipediaの一覧を数えようと思ったが止めた。70隻以上は竣工しており、逆算すると1週間に1隻、米国のどこかの造船所で日本で云うと大鷹クラスの小型空母が竣工している。まさに週刊空母。戦争は数である。1隻に20機ほどしか載せられなくても、10隻集まったら200機の艦載機が飛び立つ。それを動かす油と人員育成、米国の底力はこういうところで如実に分かる。

 

 この後、12月の撤退まで日本軍はガ島攻防戦にかかりっきりとなり、上陸に失敗して海の藻屑となった兵士や物資はもとより撃沈された戦艦、空母、艦載機、戦車、輸送船、などなど、陸海軍とも膨大な人材と資材を消費しただけに終わった。

 

 

 

 

 ワシントン海軍軍縮条約批准により破綻した八八艦隊計画(主力艦は建造8年以内の戦艦8隻巡洋戦艦8隻体制)により、長門型と大和型をつなぐ天城型巡洋戦艦と加賀型戦艦は空母転用、廃艦、計画廃止となったのは何度もこれまでの記事で記しているところである。

 船体のみ完成していた天城と赤城は空母改装、加賀と土佐は標的艦として処分が決定した。ところが関東大震災で、横須賀で改装中の天城がドック内で横倒しに倒れてキールが折れ船体より外れる大被害を受け、修復不可能となってしまう。

 そこで急遽、処分予定だった加賀が不死鳥のように蘇り、空母となることに決定した。

 

 

 デジタル彩色。艤装中の加賀。

 

 

 標的として曳航される土佐。貴重なショットである。


 正直、戦艦として完成していた船体を無理やり空母へするのは技術的にかなり難易度が高く、資金的にも空母を作り直したほうがよいのだが、流石に設計からやりなおすと時間がかかるため、改装にふみきった。

 天城型より巨大な戦艦になる予定だった加賀は、皇紀2588(昭和3/1928)年、赤城の翌年に竣工し、当然のように竣工当時世界最大の空母となった。また、大戦を通じ、日本軍全ての空母の中でも同じく戦艦(しかも大和型)を改装した信濃に次いで2番目の巨大空母だった。搭載機数に関しては、信濃がその運用上搭載数を減らして設計されたため、最後まで日本軍随一だった。

 これは、戦艦は巨大な主砲を積み、また防御装甲も厚いため船体の幅がやたらと広く、どうしても排水量が増えるためである。最初から空母設計の翔鶴型などは、全長は加賀や大和より長く馬力も大和を超えるほどだが、船体の幅が狭く排水量は少ないというか普通の空母並みである。

参考  全長  船幅  満載排水量
 加賀 231m  29m  42,541トン
 信濃 244m  38m  71,890トン
 翔鶴 258m  26m  32,105トン (全て約:改装後)

 赤城と同じく、先輩の英空母フューリアスに準じ多段式甲板を備えた。船体がでかいため、フューリアスは2段だったが赤城と共に前代未聞の3段式甲板だった。これは格納庫が構造の関係上戦艦の船体へ納まらずに、船体の上にそのまま乗っけているため、異様に背が高いことを逆に利用したものである。

 一番下が大型機発艦用、中段が中型機発艦用、一番上が小型機発艦及び着艦用という運用だったが、格納庫内を滑走して、外へ出た瞬間に離陸など危なくてやっておれず、しかも中段甲板は距離が短い上に出た先の艦首には赤城と同様に20センチ2連装砲が脇に2問あって邪魔でしょうがなかったうえ、後に艦橋によって塞がれる。

 

 

 主砲と、中甲板のところに艦橋があるのが分かる。

 

 

 三段式甲板と、艦首の連装砲がよく分かる。


 また艦尾側では、赤城では片舷3門だった20センチ単装砲が5門あった。従って計14門もの砲があった。この、空母なのに重巡並の主砲搭載というのは、当時は航空機も複葉機で航続距離が短く、空母もその分前線へ出るため、会敵した場合の砲戦を想定していたためである。

 

 

 実写真が無いのでこれもプラモデルで。5門の単装砲が分かる。

 

 さらに、加賀は煙突問題が赤城より深刻だった。赤城は艦中央部右舷へ湾曲型煙突を備えていたが、その排煙が煙突後方へ流れ、居住区の窓が開けておられず衛生上も問題になった。加賀はやはり先輩空母の英空母アーガスを参考に、排煙が問題なら艦尾まで煙突を延長して艦のケツから出そう、となった。

 

 

 

 

 

 

 どの写真とも、艦の中央部から後ろへ走っている巨大な筒が分かる。この煙突が両サイドにあった。


 これがものの見事に大失敗。艦中央部から艦尾まで両側の舷側を通して伸ばした長大な煙突は重量過多となり、その分艦内容量の減少を引き起こした。さらに、煙突に隣接していた居住区が廃熱で灼熱地獄。赤城どころではなかった。室内は常に40℃越えで、とてもではないが人が住める環境ではない。しかも格納庫にまで熱が蔓延し、艦載機が影響を受けた。まさに焙り焼き状態。さらに艦尾より排煙したため気流に乱れが生じ、着艦にも影響を与える始末だった。

 ついたあだ名が「海鷲の焼き鳥製造機」である。もうめちゃくちゃで、すぐさま煙突だけでも赤城と同じにするよう計画されたが、予算が無くだめだった。

 さらに、巡洋戦艦になる予定だった赤城は戦艦の船体でもそこそこ速度が出たが、普通の戦艦になる予定だった加賀は空母にしては足が遅かった。これは機関や船体形状の問題である。

 皇92(S7/32)年、第1次上海事変勃発。空母加賀及び鳳翔が初の日本空母実践参加となる。とうぜん、複葉機であった。アメリカ軍退役軍人ショート中尉の乗る国民党軍戦闘機を撃墜し、日本初の敵機撃墜となった。

 その後、加賀は赤城より先に大改装を受ける。不具合の改善だけではなく、性能の大向上も目指していたので、日本海軍の中でも1、2を争う規模の超大改装であったという。

 まずさっそく艦尾まで伸びる舷側煙突を取っ払った。これだけで、100トンも軽くなった。そして甲板を一段全通式にした。加賀は船体幅が大きいので、甲板面積も膨大になった。この陸上基地みたいな広い甲板は、着艦するパイロットへ非常に安心感を与えた。艦橋は進路向かって右側へ備えた。日本軍は空母の艦橋が右か左か、数年間模索するがけっきょく右で落ち着いた。これはレシプロ機のプロペラが進路向かって右回転するため、やや左によって進むために左側に艦橋があると心理的にも圧迫し、実際に邪魔だからである。日本の空母では、左艦橋は赤城と飛龍のみだった。

 皇95(S10/35)年、赤城より先に加賀の改装が終了する。

 

 

 デジタル彩色。赤城と同じ煙突が配備されている。また同じく海水を煙突より噴霧し、排煙と拝熱を処理しているのもよく分かる。煙突から瀧が流れているように見える。


 皇97(S12/37)年、第2次上海事変から支那事変が始まる。赤城は改装中、蒼龍、飛龍は建造中で、改装したばかりの加賀と、鳳翔それに龍驤の3隻が参加。鳳翔、龍驤は小型(いわゆる軽空母、護衛空母などと分類されるもの)であり、必然、大型の加賀が航空戦力の主力となった。

 

 

 上海事変の加賀甲板。手前の2列が九〇式艦戦、3列目より九四式艦爆、奥が八九式艦攻。まだみんな複葉機である。


 国民党軍や中国の町をいいように爆撃する加賀は、中国人より「悪魔艦」「悪魔の軍艦」と呼ばれ忌み嫌われた。近年、ヘリコプター搭載護衛艦「かが」竣工時に、中国から日本の侵略がどうのこうのと難癖をつけられたのは、そのためである。

 

 ちなみに護衛艦かがの全長は248mと、この空母加賀より17mも大きく、甲板も広いが艦橋の大きさでそうは見えない。これは視覚効果というやつだろう。

 

 

 ヘリコプター搭載護衛艦かが。これで加賀より(ちょっと)でかい。

 

 

 大きさの比較。艦橋の大きさが全く異なるのが分かる。

 

 皇01(S16/42)年、ついに真珠湾。第一航空戦隊赤城、加賀(他駆逐艦)、第二航空戦隊蒼龍、飛龍(同)、第五航空戦隊は当時最新鋭の翔鶴、瑞鶴(同)の6隻もの空母が南雲機動部隊として護衛の高速戦艦や重巡、補給部隊と共にハワイへ向かった。

 

 

 真珠湾へ向かう加賀(手前)と瑞鶴(奥)


 ちなみに当時の第三航空戦隊(鳳翔、瑞鳳他)は大和や長門ら水上部隊の護衛、第四航空戦隊(龍驤、春日丸他)は南方へ出た。(ただし春日丸は低速すぎて実戦に耐えられず出撃したのは龍驤のみ)
 

 真珠湾奇襲は大成功で、アメリカ軍の太平洋艦隊は一時的に壊滅した。ただし、このとき敵機動部隊を逃したほか、艦船へこだわりすぎて基地として石油備蓄場や工場を破壊できなかった。しかも、破壊した多くの戦艦のほとんどはWW1時代の旧式だった。

 

 その後、南雲機動部隊はラバウル、ポートモレスビー、インド洋と転戦する。しかし、翌皇02(S17/43)年2月、加賀はパラオで海図に無い珊瑚礁へ衝突し、艦底を傷つける。応急修理で航行には支障なく、その後も一部作戦へ参加したが、3月19日に艦底の修理のため日本へ戻り、セイロン沖海戦には参加しなかった。

 

 

 

 同年6月、運命のミッドウェーへ参加。5月の珊瑚海海戦で五航戦の翔鶴が大破、瑞鶴は無傷だったが搭載機多数喪失で本作戦には不参加だった。また、既に赤城には「ア」 加賀には「カ」 という巨大な文字が甲板に描かれ、誤着艦を防いでいたが、珊瑚海でよりによって敵のアメリカ空母へ着艦しそうになる事故があり、4隻の空母は甲板へ巨大な日の丸が描かれていた。

 

 

 

 これが、不幸の元になったといえるかもしれない。

 

 ミッドウェー島攻略は機動部隊からも反対意見が出るなど、真珠湾とはうって変わった稚拙な作戦だったと云わざるを得ない。作戦目的もあやふやで、いちおう機動部隊による急襲でミッドウェー基地へダメージを与え、その後後方の戦艦主体の水上大部隊が攻略し、上陸占領となっていたが、あんなところを占領してどうするのかよく分からなかったし、補給線も伸びきるのは目に見えていた。それ以前に、敵の機動部隊がいたらどうするのか。(作戦上は、いないことになっていた)

 

 6月5日0130(日本時間)、大和を旗艦とする本隊より600海里も先行する4隻の空母より次々と攻撃機が飛び立った。この時でも、あくまで空母は前衛部隊で、機動部隊は忍者みたいに神出鬼没な撹乱部隊というイメージだった。ミッドウェー島第一次攻撃は成功した。しかし、情報はとっくに米軍へ漏れており、基地は強固に防衛されていて効果は思ったほど無かった。敵機動部隊も未発見で、そのため、第一次攻撃隊より第二次攻撃必要が打診された。機動部隊はそれを受けて、赤城と加賀では念のため魚雷装備していた艦攻を急いで地上攻撃用の大型800kg爆弾へ装備換装開始した。また、蒼龍と飛龍では艦爆の対艦攻撃用の250kg爆弾を同じく地上攻撃用の大型800kg爆弾への換装を始めた。

 

 この装備換装はただ武器を取り替えるのではなく装着装置ごと取り替えるため、数十機の飛行機の全てを取り替え終わるのに最低でも1時間半から3時間はかかった。

 

 0330ころ、大幅に遅れていた重巡利根、筑摩の索敵機がようやく発進する。0400ころより、機動部隊はミッドウェー基地所属の攻撃隊に発見され、執拗な空襲を受け始めるも零戦により撃退する。

 

 0440、なんと索敵機が「敵艦らしき艦影10発見」と報告。「らしき」を詳細報告させるため、魚雷と爆弾の換装作業を一時中断。格納庫内は魚雷と爆弾が乱雑に置かれていた。これは、先の珊瑚海海戦で、あやふやな情報でまったく関係ない場所へ攻撃機を飛ばしてしまった戦訓であるという。

 0520ついに詳細判明、敵空母発見。0530直ちに基地攻撃を取りやめ、再び魚雷換装作業開始。現場は混乱を極めた。  

 

 さらに、ちょうど基地を攻撃した第一次攻撃隊が戻ってきたため、その収容を急いだ。全ての収容が終わったのは0630から0650にかけてであった。また、直掩の零戦が燃料弾薬補給で着艦するために甲板は常に開けておかねばならず、換装作業は格納庫内で行われ続けた。

 

 0720ころ、敵機動部隊の空母3隻(ホーネット、ヨークタウン、エンタープライズ)から飛び立った117機もの攻撃隊が随時現場へ到着。各隊は各個日本軍を発見し、攻撃を開始した。

 

 先に攻撃を開始したのはデバステーター攻撃機による雷撃部隊で、蒼龍が襲われた。零戦隊は迎撃のため上空からいっせいに海面近くへ下り、空母群の上ががら空きとなった。

 

 そこへ到達したのがヨークタウンの爆撃機部隊で、零戦のいない間に、いっせいに日本軍空母へむけて降下した。このとき、日本軍の空母の甲板にある巨大な日の丸が、かっこうの目標になった。加賀へはドーントレス急降下爆撃機が30機近くも殺到した。これは隊長機の判断ミスであった。連携に失敗した残る数機(3から4機)が、赤城へ向かった。

 

 0726、加賀では見張り員が「敵、急降下!」を叫ぶも遅かった。雨のように降ってくる1000ポンド爆弾を、巨大な船体を軋ませて3発まで回避したが、4ないし5発以上が次々に直撃した。ようするに何発当たったか分からないくらいに当たった。

 

 特に艦橋近くへ命中した1発は甲板を突き抜けて格納庫の航空燃料ガソリン車を直撃。大爆発で下から艦橋をほとんど全て吹き飛ばし、艦長以下幹部のほとんどが一撃で戦死した。

 

 続けて格納庫に満載してある魚雷、爆弾、燃料満載の航空機が続々と誘爆。あまりの勢いで甲板はおろか格納庫の壁も爆風が突き破って、横から格納庫内が見えた。大爆発は7回に及び、護衛の戦艦榛名ではあまりの猛爆に生存者は1人もいないのではないかと思ったほどだった。

 

 さらに甲板上でも待機していた第二次攻撃隊の機体が誘爆。火のついたガソリンが流れて燃え広がり、まさに加賀は火の海となった。燃えながら漂流し、1330ころには甲板の前後30mほどの、火の回っていない場所に生存者がひしめきあい、地獄絵図となった。

 

 しかも、そのころ救助に当たっていた駆逐艦をすりぬけて、敵潜水艦が加賀へ向かって魚雷を放った。1発命中したが不発だった。駆逐艦は海面に漂流者のいる状況で爆雷を思うように放てず、潜水艦に逃げられたうえ対潜警戒も必要となり救出は難航した。

 

 艦内は大火災で機関員が脱出不能となり、ほぼ全員が戦死した。1330から1400にかけて、艦長戦死により指揮をとっていた飛行長が総員退艦を決定。

 

 1425ころ、メインのガソリン庫が爆発したであろう、2回の大爆発があり、船体が裂けてついに加賀はゆっくりと沈没を始めた。1450駆逐艦舞風が生存者全員収容を報告。加賀は日の暮れるころ、爆発と共に転覆、艦尾より沈んだという証言もあれば、そのまま艦首と艦尾が見えるまで水平のまま沈んだという証言もあり、一致していない。

 

 ミッドウェーはまことにあっけなく、たった数分のあいだに、数発の爆弾命中で空母3隻がやられるという米軍にとっても恐るべき結果となった。未だに、米海軍の士官学校の机上演習でミッドウェーをやると、どうやって米軍が勝ったのか分からないというほど、日本軍の規模は巨大だった。空母は沈められたが、敵艦載機もこのころまだ無敵に近かった零戦にボコボコにされて深刻なダメージを負っており、もし後衛の水上部隊が突撃していたら残った米空母2隻もどうなっていたか分からなかった。

 

 しかし、歴史にイフはなく、山本五十六聯合艦隊司令長官は敵機動部隊とミッドウェー島基地航空隊の挟撃をおそれ、作戦の中止を決定した。ちなみに空母4隻の他、重巡三隈も退却途中に味方との衝突事故の後、空襲で撃沈されている。

 

 この戦いより、米軍の大逆襲がはじまる。

 

 

 

 鳳翔に続き日本で2番目に竣工した空母が、この赤城となる。
 
 ただし、赤城は「改装空母」だった。ロンドン軍縮条約で戦艦の保有に制限がかけられ、日本が進めていた八八艦隊計画(建造8年以内の戦艦8隻巡洋戦艦8隻体制)も頓挫する。当時、空母は「補助艦艇」だった。補助艦艇の空母は、制限が緩かった。日本軍は船体のみ完成していた巡洋戦艦天城と赤城を空母へ改装することとし、新型の空母翔鶴(後の翔鶴型空母の翔鶴とは別の艦)は計画廃止した。

 しかし関東大震災で、横須賀で作業をしていた天城がドック内で横倒しにひっくり返ってキールが折れるという大損壊し、修復不能となった。

 

 そこで、急遽処分予定だった加賀型戦艦1番艦の加賀が空母へ改装された。

 けっきょく八八艦隊計画は1番艦長門、2番艦陸奥の両戦艦のみ完成して霧散した。日本は条約失効する20年後の大和まで戦艦を造らず、空母をそろえることになる。


 とはいえ、この時代空母といっても日本が作ったことがあるのはちっさい鳳翔のみ。長門型戦艦よりでかい赤城をどうやって空母にするのか、空母にしてどう使うのか、まるで手探りだった。

 

 


 しかも、途中まで作った戦艦から無理矢理に改装した。不鮮明な当時の写真よりプラモデルの完成写真などを見たほうが詳細に分かるのだが、赤城と加賀は既に完成済みの巨大な戦艦の船体の上に格納庫(巨大な箱)を乗っけて、さらにその上を飛行甲板にしているので、やたらと背が高い。最初から空母設計だと、船体の中へ格納庫を半分ほど入れこむことができるので、もっと背が低く安定している。

 

 

 喫水線から上がかなり高い。


 赤城(と加賀)は、当時イギリスで運用していた世界初の空母フューリアスの飛行甲板が二段式となっていたのを参考に、巨大な格納庫の側面を活かして三段式空母として完成した。赤城の竣工は皇紀2587(昭和2/1927)年のことであった。

 

 

 初期、甲板が三段になっているのがわかる。


 今見ると圧巻の姿である。しかも、巡洋戦艦時代の名残で艦首第二甲板の先に20センチ2連装砲を2門そなえていた。さらに艦尾側面には20センチ単装砲を片舷3門ずつ計6門、合計で10門もの20センチ砲があった。まさに巡洋戦闘空母とでもいうべきか。

 

 

 空母なのに艦首20cm連装砲が2門もある。

 

 

 実写真がないのでまたプラモで。艦尾単装砲片舷3門の様子が分かる。


 これは中二病ではもちろんなく、当時の航空機はみんな複葉機で航続距離も短く、空母もそれだけ前線に出張ると考えられており、敵艦と接近遭遇して砲戦も想定したからである。

 

 

 デジタル彩色。複葉機がズラリと甲板に並ぶ様は圧巻である。


 さて、これで運用してみて、当たり前だがめちゃくちゃ使いづらかった。格納庫が内部で二段になっており、下層の第一甲板から発艦といっても格納庫の中を滑走してゆくわけで難易度が高く、すぐに使われなくなった。真ん中の第二甲板など、出た先の両脇に主砲(障害物)があるのだから、危なくて発艦などできるわけがないうえに、艦橋が建設されて塞がれた。

 必然、一番上の第三甲板ばかり使用されたが、ここはもともと着艦と大型機の発艦専用として設計されており、距離が短かった。ようするにどの甲板も使えなかった。

 赤城(と加賀)はしばらく三段空母で試験的に運用と訓練が行われたのち、これではだめだと大改装を受けることとなる。

 

 

 空母赤城(上)と戦艦長門(下)の珍しいツーショット。船体の大きさの違いにご注目いただきたい。巡洋戦艦赤城が完成していたら、長門より大きな戦艦になっていた。赤城が元は長門型と大和型をつなぐミッシングリンクの戦艦だったことが分かる。


 竣工から11年後、皇98(S13/38)年、ついに赤城は近代的な一段式空母として生まれ変わった。格納庫内の段数は変更せずに、内部は密閉式の二段のままで、搭載機数を増やした。当然艦首の砲も取っ払われた。しかし、艦尾の砲は最後までそのままだった。

 

 

 近代化改装後。甲板が一段となる。


 進行方向へ向かって左側(正面から見ると右側)に艦橋を取り付けた。右側の加賀と区別するためや右側の湾曲煙突とのバランスなどの理由だったが、これがパイロットに不評。というのも、レシプロ機はプロペラが進路向かって右回転(正面から見ると左回転)するため、やや左へ曲がって進行する。それを垂直尾翼のフラップで調節するのだが、やはり左側に障害物があると発着が難しい。左艦橋空母は、日本軍では赤城と飛龍のみである。

 

 


 ちなみに、先に改装した加賀で予算の大半を使い尽くして、赤城の改装は細部がなかり「やっつけ」だったという。

 赤城改装中に上海事変が起き、赤城は参加しなかった。赤城が改装を終えたのは支那事変の最中で、皇99(S14/39)年1月、日本へ戻った加賀と入れ替わりで佐世保を出航。海南島攻撃へ参加する。ここでは水上機母艦時代の千代田や、特設水上機母艦神川丸、陸海軍の基地航空隊と協力し、上陸部隊の支援、敵防衛部隊の爆撃を行った。

 

 

 デジタル彩色。戦艦霧島(手前)と空母赤城(奥)。


 その後、日本へ戻り、真珠湾まで猛訓練の日々を過ごす。

 皇01(S16/41)年4月、加賀と護衛の駆逐艦2隻とともに第一航空戦隊を編制。栄光の一航戦となる。その後南雲機動部隊旗艦として択捉島単冠湾を出発したのが11月26日であった。

 12月8日、真珠湾攻撃。空母赤城、加賀、蒼龍、飛龍、翔鶴、瑞鶴、戦艦霧島、比叡、重巡利根、筑摩、軽巡阿武隈、ほか駆逐艦9、潜水艦3(真珠湾内へ進入した特殊潜航艇を運んだ)、輸送艦等補給部隊という大陣容であった。

 

 

 

 

 

 

 全て真珠湾の様子。


 戦争回避の方策もとられていたが、攻撃開始を意味する高名な「ニイタカヤマノボレ一二〇八」が大本営より打電された。ちなみに攻撃中止の合図は「日本からの海外向けラジオ放送の最後に必ず放送される詩吟が無かった場合」という、ちょっと分かりづらい暗号(?)だった。

 

 

 

 

 

 

 真珠湾の赤城。零戦は21型。

 

 この時、対米宣戦布告との調整がシビアで、布告30分後に攻撃開始という手はずだったが、極秘連絡調整の不手際もあって実際に布告がなされたのは攻撃後だった。そのため、アメリカへ高名な「リメンバー バールハーバー」という世論誘導の大義名分を与えてしまった。しかし、アメリカだってスペイン戦など宣戦布告無しでさんざん戦争してきており、うまくプロパガンダへ利用されたに過ぎない。

 真珠湾大成功によって、たとえ停泊中であったとはいえ、艦船を航空機が一方的に叩く効果を立証した。アメリカ軍の被害は大きく、戦艦3隻沈没、2隻大破着底、1隻中破、2隻小破、軽巡洋艦2隻大破、1隻小破(以下略)であり、米太平洋艦隊は一時的に壊滅した。が、機動部隊がたまたま演習中で逃したうえ、やっつけた戦艦はWW1当時の旧式ばかりで、新陳代謝を促した結果に終わった。また結果論だが艦船を標的にしすぎ、貯油場や機械工場の破壊を逃し、基地としての真珠湾の被害は少なかった。

 その後、赤城は南雲機動部隊の一員としてポートダーウィン攻撃、チラチャップ攻撃、セイロン島沖海戦と転戦する。

 

 

 圧巻の発艦シーン。デジタル彩色。中央部から前後にわたって、甲板にゆるい傾斜がある。


 赤城は改装空母で戦艦の船体を無理やり改装したため、居住性にしわ寄せが来た。特に艦の横から突き出た湾曲式煙突が問題で、煙突より後部の居住区は排煙がまともに流れこみ、窓を開けておられず最悪だった。特に南方では炎熱地獄になった。兵士は廊下にハンモックを吊って寝た。訓練に次ぐ訓練で清掃等も不徹底となり衛生面も悪化し、結核や赤痢がよく蔓延した。ついたあだ名が「人殺し長屋」である。

 そのため煙突へ海水を霧状にして内部より噴霧する装置をつけ、煤煙と炎熱の軽減を図った。赤城の煙突から、滝が流れているように見えた。

 対米戦会戦当初の南雲機動部隊は「機動」部隊の面目躍如で神出鬼没なうえ、零戦がまだ事実上無敵だった。連合軍機とのキルレシオは12:1だったといい、特に赤城は猛訓練で急降下爆撃の命中率も精密爆撃もかくやというほどで、連合軍は長門や陸奥などの戦艦よりも機動部隊の空母6隻を恐れた。そのためか、艦の規律はゆるみ、連戦連勝により艦隊全体的に気がゆるんでいたという。

 セイロン島沖海戦では一式陸攻などがイギリス東洋艦隊の戦艦プリンスオブウェールズ、レパルスを沈めたが、赤城ら南雲機動部隊もパラオで座礁した加賀を除く空母5隻が参加、コロンボ及びトリンコマリーを空襲。空母1、重巡2、駆逐艦2を沈めた。

 このとき、英軍陸上基地より飛来した爆撃機(資料によって機種が異なり詳細不明)1機が赤城を空爆。艦首付近に10発ほども爆弾が降ってきた。上空から爆弾が落ちてきて初めて赤城は対空砲で応戦したほどで、対空警戒もせず、まったく気がついていなかった。どれほど気がゆるみきって油断していたかが分かる。

 そして、皇02(S17/42)年6月、赤城ら南雲機動部隊は運命のミッドウェーへ向かう。5月の珊瑚海海戦へ参加した翔鶴、瑞鶴は大破及び搭載機喪失多数で不参加だったため、赤城、加賀、蒼龍、飛龍の4隻がミッドウェー攻略戦へ参加した。翔鶴、瑞鶴が参加していればまた運命も変わっていただろうが、歴史にイフはない。

 しかも、ミッドウェーは作戦自体が色々と腑に落ちない点が多く、当時から内部で反対意見が出るほど作戦目的があやふやだった。しかも発令から開始まで1か月ほどしかなく、準備不足も否めず一航戦作戦参謀は作戦に反対したが、聯合艦隊司令部は既に決定済みと却下した。

 ミッドウェー作戦は米ミッドウェー島基地を叩いて上陸占領するのが最終目的ではあったが、米機動艦隊もおり、前衛部隊である南雲機動部隊は基地を先に叩くのか米機動部隊と戦うのかはっきりしなかった。基地を叩きつつ、敵を発見したらそれと戦うというあやふやさが裏目に出た。しかも上陸本体である大和を旗艦とした攻撃本隊は機動部隊後方600海里をのんびりやってくるという作戦要綱に、赤城の飛行隊員は「戦争見物でもするつもりか」と憤慨した。

 さらに気のゆるみは作戦全体に蔓延していた、トラック諸島の民間人ですら「次はミッドウェーだ」とか平然と話題にしていたというから、情報秘匿など夢のまた夢。また太平洋展開の米空母は6隻中珊瑚海海戦で4隻沈み、残り2隻はハワイにいるという大本営発表の謎情報を艦隊は信じ、まったく敵情把握ができていなかった。もしミッドウェーに現れても空母は2隻のはずだった。実際は空母3、重巡7、軽巡1、駆逐艦15という大戦力が集結していた。空母は3隻なので、これは当たらずとも遠からずであったが……。

 さらに暗号戦も負けた。米軍は早くより日本軍の動きを察知し暗号解読したが、次の攻撃目標「AF」がどこなのか判然としなかった。そこで上記の情報収集の結果ミッドウェー基地の可能性が高いと推測し日本軍を罠にかけた。「ミッドウェー島で真水製造機故障」という電報をわざと平文で打った。日本軍はまんまとひっかかり、「AFで真水不足」という暗号を打った。米軍はそれを傍受解読し、ミッドウェー島へ戦力集中させた。

 6月5日、南雲機動部隊ミッドウェー島接近。既に6月3日に後方の本体がミッドウェー島付近で敵空母艦隊集結らしき内容の通信を傍受。先行する南雲艦隊へ知らせようとしたが、「こっちで傍受しているくらいだから機動部隊でもきっと傍受しているだろう」という甘い判断により知らせなかった。

 日本時間0130(アメリカ時間0430、以後日本時間で統一)、赤城を含め空母4隻より基地攻撃部隊が発艦。250kg及び800kg爆弾によりミッドウェー基地を空襲する。先日来、既に米索敵機に発見されていると推測され、奇襲の効果は薄いと考えられていたが、第一次攻撃は成功する。基地周辺に米艦隊も発見されなかったため、0400第一次攻撃隊は第二次攻撃を具申。機動部隊側では索敵機の発進が著しく遅れ、未だ敵艦隊を発見しておらず、念のため魚雷装備して待機していた97式艦攻も魚雷を外し爆弾を装備開始する。

 ところが0440、重巡利根の索敵機が「敵艦らしき艦影10発見」と報告。「らしき」を詳細報告させるため、魚雷と爆弾の換装作業を一時中断。格納庫内は魚雷と爆弾が乱雑に置かれていた。

 0520ついに詳細判明、敵空母発見の報が入る。0530直ちに基地攻撃を取りやめ、再び魚雷換装作業開始。現場は混乱を極めた。

 そのころ、既に南雲機動艦隊はミッドウェー基地航空隊索敵機に発見されており、その情報をもとに米空母ホーネット、エンタープライズ、ヨークタウンより攻撃機が飛び立っていた……。

 0618赤城は戻ってきた第一次攻撃隊の収容を優先し、収容完了した。米攻撃隊は順次南雲機動艦隊を攻撃開始していたが、直掩の零戦に阻まれ、決定的なダメージは与えられていなかった。

 しかし。

 0726零戦は低空を迫るデバステーター雷撃機を迎撃するため高度を下げていた。赤城や加賀らの真上は、がら空きだった。

 

 

 

  

 米軍撮影。


 その一瞬を逃さず、32機ものドーントレス急降下爆撃機が加賀へ殺到。赤城へは3機のみだったが、赤城は対空砲を撃つ余裕すら無かった。懸命に回避したが、3機の放った爆弾のうち、2発が甲板へ命中。1発は海へ落ちて至近弾だった。

 1発目はエレベータ付近へ命中し甲板を突き抜けて格納庫内で爆発。魚雷、爆弾、燃料満載の攻撃機が次々に誘爆した。2発目は左舷甲板後方に命中、甲板上で炸裂し甲板がめくれあがった。ちょうど発進しようと滑走中だった零戦は衝撃で前のめりに倒れ、艦橋の近くで逆立ちしたまま炎上、艦橋まで火が回った。

 赤城は2発の250kg爆弾で大火災を起こし、猛炎をあげた。衝撃で転舵したまま舵が故障し、旋回のみとなった。0800機関部との通信が途絶。脱出連絡が行えず、機械室やタービン室の科員多数戦死。魚雷を受けなかったので艦体に損傷なく、沈みはしなかったが燃えるがままに漂流を始めた。


 近隣では加賀及び蒼龍も同様に直撃弾多数で大炎上を起こしていた。飛龍はたまたまこの3隻より離れていたため、難を逃れた。

 

 

 赤城は懸命に復旧に努め、駆逐艦からも放水し、横づけで生存者救出したが1200ころ再び艦前部格納庫で大爆発。1520機関復旧断念。1620自力航行不可能により総員退艦命令。1700より駆逐艦野分、嵐に移乗開始。1900生存者収容完了。赤城は無人となる。

 2355唯一残って反撃に転じた飛龍も米軍の逆襲により沈没(正確には雷撃処分したが翌朝まで漂流していた)が確認され、後方の山本聯合艦隊司令長官は作戦中止を決定。赤城の雷撃処分を決定する。赤城は可燃物が燃えつき、残骸のみの無残な姿で漂流していたが、まだ小爆発が起こってたという証言もある。0000すぎころ加賀の生存者を救出していた駆逐艦萩風、舞風が合流。

 翌6月6日0200駆逐艦嵐、野分、萩風、舞風で赤城右舷へ1本ずつ魚雷発射。2ないし3本命中。0210赤城は艦尾よりミッドウェー沖へ沈んでいった。沈没後しばらくして海中より大爆発音があったという。

 駆逐艦に分乗していた生存者は反転した本体へ合流、戦艦長門、陸奥へ移乗し、日本へ帰った。

 赤城を含め主力空母4隻同時喪失は、その搭乗員の戦死も含め、結果として帝国海軍へ回復不能のダメージを与えた。
 

 日本海軍で初の航空母艦が、この鳳翔である。世界で初の空母は英国の改装空母フューリアスであった。これは大型軽巡を改装したもので、空母は英国が発祥。試行錯誤が続き、当初は前半分だけ飛行甲板があるものだった。

 英国ではその後も何隻か巡洋艦からの改装空母を運用した。当時はとうぜん、複葉機だった。そして、1918年、世界で初めて最初から空母として設計された本格式空母であるハーミーズが起工された。

 鳳翔は、ハーミーズから遅れること2年、世界で2番目に設計から空母として建造される空母として、皇紀2580(大正9/1920)年に起工した。

 ところが、ハーミーズは第1次大戦の終結もあり建造を急がなくなり、先に完成して運用していた改装空母が問題だらけだったため、6年もの期間をかけて慎重に建造された。その間に、なんと鳳翔は2年で建造してしまい、皇82(T11/22)年に竣工して、世界で初めて完成した、設計から空母として生まれた艦となった。

 

 


 とはいえ、当時の日本に飛行甲板を造る技術があるわけなく、英国に協力を願った。日英同盟が生きていたので、金剛型戦艦と同じく、英国は飛行甲板の設計や建造に尽力した。

 さて出来上がった空母であるが、当たり前だが日本人のパイロットに空母へ着艦経験のあるものはいない。既に英軍からパイロットを招き、技術指導が行われていたが、鳳翔へ着艦するにはまだ錬度未熟だったのだろう、元英海軍所属で空母勤務経験のあるジョルダンが三菱で航空機エンジン開発のためのに来日しており、鳳翔への着艦テストを依頼した。ジョルダンはおそらく、エンジン開発のテストパイロットとして三菱に雇われていたと推測する。

 しかし、ジョルダンは日本の飛行機と空母を信用せず、依頼を断った。再度依頼すると高額の報酬(当時、1万円から資料によっては10万円、当時は金本位制であり金相場にもよるが、現在の価格にして1万円が500万円~6500万……10万円はその10倍にもなる)を条件に付けてきた。日本軍はそれを諒承し、ジョルダンによる着艦テストが行われた。

 皇83(T12/23)年2月、3日間にわたり、日本軍の一〇式艦上戦闘機によってテストが行われた。一〇式艦戦は鳳翔へ乗せることを前提に開発された日本軍初の艦上戦闘機である。複葉機で三菱製。

 ジョルダンは慎重に鳳翔の上空を旋回し、機を見て一気に着艦し、そのままスーッと再び離陸した。それを数回繰り返して、最後は見事に着艦。テストは成功した。後日、英軍のブラックレー少佐が英国製ヴァイキング戦闘機により着艦に成功した。英国人は意気揚々とふんぞり返っていた。日本初の空母着艦は、英国人だった。

 同年3月、あまりに英人がドヤ顔でふんぞり返るので、陸上で着艦訓練を行っていた吉良海軍大尉が奮起。ぶっつけ本番で着艦テストに挑んだ。ジョルダンも同席していたが、鳳翔の上空を旋回しているのを見上げ、「あの様子ではまだまだだ」と周囲へ嘲るように言った。大尉は一気に艦尾へ向かって高度を下げたが、車輪が甲板へ接地した瞬間、波によって艦が揺れ、バウンドして失敗。そのまま高度を上げる。その後、何度か失敗したうえ、やっと成功したかに見えたが、再びうねり波によって艦が大きく揺れて甲板から飛行機ごと海へ落ちてしまった。

 大尉は奇跡的に無事だったが、納まるはずもなく、救命艇から上がってきてずぶ濡れの飛行服のまま再度のテスト飛行を上申、認められた。着替えて再び一〇式艦戦へ乗り、今度は一発で着艦成功! その後、再度飛行して何度か成功した。これが日本人初の空母着艦である。ジョルダンは不機嫌な顔を崩さずにその場を後にしたが、後に「日本人、恐るべし」と唸った。

 なお、それら2月と3月の着艦テストの日付は資料によってまちまちで、詳細は不明であるという。

 

 


 着艦が難しかったのにはわけがある。そもそも海に浮いて動いている船に飛行機が降りるのだから難しいにきまっているのだが、制動索(降りた飛行機にひっかけてブレーキとなるワイヤーロープ)が横方式と縦方式があり、横方式が一般的だが鳳翔やハーミーズの時代はまだワイヤーや金具の強度が弱く、数回着艦しただけで切れたり壊れたりしていたため、とても実用に耐えうるものではなく、縦方式が採用された。しかし艦の全長に匹敵する長さのワイヤーを15センチ幅の間隔で何本も縦に張って、そこに機体の車輪のところにある鉤をひっかけ、ワイヤーをこする摩擦で制動するため効率も悪く事故が絶えなかった。着艦方式も飛行機のケツから降りるのではなく、そのまま陸上の滑走路へ降りるように前輪から降りて鉤をひっかけるため難易度が高かった。

 フランスで横張用の頑丈なワイヤーと器具が開発されると、みな横索方式へと変わり、鳳翔も改装でその方式に変更された。横にワイヤーを張る制動方式では、飛行機はケツについた鉤へその横ワイヤーをひっかけるため、ケツから着艦し難易度も縦よりは易しくなる。

 当初の鳳翔は大型のアイランド型(島型)艦橋と、3本の煙突を備えていた。見るからに発着艦の邪魔だが、じっさい邪魔だった。初期の空母は手さぐりで、設計の段階と、実際の運用ではまだまだ齟齬があった。また、船体の小ささもすぐに問題となった。艦載機が高出力化して数年単位で大型化したのもあるが、運用してみると計算よりずっと滑走距離が必要だったという事情もあった。

 

 

 

 

 デジタル彩色。艦橋と煙突の様子がよく分かる。艦首の甲板がやや下がっているのが分かる。これは滑走距離が短くても発艦しやすいようにしてあるため。


 すぐさま鳳翔は改装され、島型艦橋は取っ払われた。煙突は垂直と水平の可動式で、ジャマなのでほとんど水平に倒した状態で運用されていたという。

 

 

 

 

 改装後。


 太平洋戦線参加の前に、鳳翔は空母加賀と共に皇92(S7/32)年の第1次上海事変へ参加。これが日本軍初の空母実戦だった。さらにこの際、加賀の艦載機が国民党軍の米国製戦闘機と戦い、日本軍初の敵機撃墜を記録した。

 また皇97(S12/37)年の第2次上海事変及び支那事変にも参加。この時は鳳翔、加賀と龍驤の3隻の空母が他軽巡や駆逐艦多数と共に参加した。特に第2次上海事変では、加賀より発艦した96式艦攻や94式艦爆が、上海の国民党軍をいいように爆撃。加賀は「悪魔艦」と恐れられた。

 

 

 上海事変のころの鳳翔と奥が空母加賀。


 真珠湾のころには、さすがに鳳翔も旧式化し、前線へは出られなかった。なんといっても飛行甲板の距離が足らず、零戦や97式艦攻、99式艦爆といった単葉機の発着が難しくなっていた。


 皇01(S16/41)年12月8日、真珠湾勃発。鳳翔でも発着艦が容易な複葉の96式艦攻を使い、後発の水上部隊の対潜哨戒任務を与えられた。後発部隊は空母部隊が奇襲失敗した際に空母を救うために出撃したが、奇襲大成功を受けて小笠原近海で日本へ戻る。

 

 

 随伴していた武蔵から映された鳳翔。水上部隊の護衛任務が多かった。


 この際、鳳翔が行方不明になるという前代未聞の事件が起きた。12月10日、鳳翔は対潜哨戒のため駆逐艦3隻と風上へ向かい、そのまま音信不通となって行方不明になった。翌日も連絡が取れず、宇垣聯合艦隊参謀長は呆れた。まだレーダーもないうえ、鳳翔は通信用アンテナが波浪でボッキリ折れており、どうしようもなかった。呉では鳳翔が敵潜水艦にやられて沈没したとまことしやかに噂され、13日に呉へ戻ってきたとき、鳳翔艦長は山本聯合艦隊司令長官より(駆逐艦を従えて戻ってきたので)「水戦司令官となった気分はどうだった」と笑顔で迎えられた。

 翌02(S17/42)年には米軍のマーシャル進出やドゥーリットル空襲に際し警戒出撃したが会敵しなかった。

 呉で大和艤装中は大和の隣へ停泊し、秘匿艦である大和を隠蔽した。が、自身の倍ほどもある大和を隠しきれていたのかどうかは、現在では疑問が残る。今となってはむしろほほえましい写真が残っている。

 

 

 大和艤装中。右の見切れてケツのみ映っているのが鳳翔。ぜんぜん隠せてないと思う……。


 同年6月、ミッドウェーへ参加。とうぜん前衛部隊ではなく、初陣の大和を旗艦とするの主力部隊の一員だった。旧式の96式艦戦と96式艦攻(複葉機)を計19機搭載し、対潜哨戒、戦況視察、艦隊よりはぐれた艦の誘導任務に従事。前衛空母群がやられた後も、空母飛龍の最後の姿を鳳翔の96式艦攻が撮影し、また赤城や加賀の生き残りを収容した長門と陸奥へ医薬品をドラム缶に詰めて投下した。本作戦における鳳翔の後方任務は見事なもので、宇垣参謀長も「賞賛すべきなり」と残している。

 その後、鳳翔は前線へ出ることなく、訓練艦としてほとんど瀬戸内海で過ごした。皇04(S19/44)年には改装で飛行甲板を延長したがバランスが悪くなり、よけい外洋へ出にくくなってしまった。終戦の年、皇05(S20/45)年になると燃料も枯渇し、呉で停泊するのみとなった。しかし呉空襲でも被害を受けず、鳳翔は無傷のまま終戦を迎えた珍しい空母となった。終戦時に、問題なく航行できた空母は鳳翔をはじめ、龍鳳、葛城の3隻のみだった。隼鷹は片軸推進ならば航行できた。

 

 

 

  

 

 

 終戦の年の鳳翔。艦尾の甲板を延長している。


 鳳翔の仕事は終わらなかった。改造され、復員船として南方と日本を9往復した。軍民あわせて延べ4万人を日本へ運んだ。S21(46)年8月に復員任務を終え、同年8月31日から解体開始。翌年5月1日解体終了した。
 

 

 艦首甲板下の珍しい写真。錨鎖巻取装置の様子がよく分かる。

 

 世界初の本格空母として帝国海軍を初期から見つめ続け、多くのパイロットたちが最初に発着する艦となり、最後は南方へ残された日本人を本土へ送り届け続け、任務終了後に解体されて平和利用された鳳翔は、まこと海軍の母なる艦というにふさわしい。

 

 大和と同じくワシントン海軍軍縮条約脱退後に建造着手した大和型戦艦2番艦武蔵は、日本軍最新にして最後の戦艦であり、竣工から沈没まで2年2か月という、最も短命な戦艦でもある。

 大和は呉の海軍工廠で建造されたが、武蔵は三菱重工業の長崎造船所で建造された。長崎では戦艦霧島や日向、標的艦として廃棄された土佐、解体され他の艦の資材として使われた巡洋戦艦の愛宕が、既に建造経験があった。ただし、4万トン級のそれらの戦艦からいきなり7万トン級の武蔵建造にあたり、ドック拡張と船台の設計から作業が始まった。

 大和と同じく建造は極秘中の極秘だったが、民間造船所であり、かつ長崎の地形上、非常に目立ったため、秘匿は厳格を極めた。ドックは全て高い丸太組の棕梠のムシロで遮蔽され、全国で棕梠を大量に買いつけたため価格が暴騰し、棕梠を漁網に使う漁師から苦情が入り、悪質な買占め事件として警察が捜査を始める始末だった。

 関係者はおろか、各部署の責任者まで特別な腕章を忘れると現場に入れなかった。長崎は港口が非常に狭く、ドックの対岸は山になっており、よりによってアメリカとイギリスの総領事館があって丸見えだった。なんでそんなところで極秘戦艦を造るかなあ、といったところだが、ドックの前面に使いもしない倉庫を建てて遮蔽した。造船所を見下ろす高台にあったグラバー邸や香港上海銀行長崎支店の建物は、三菱で買い取った。

 しかも、大和は順調に建造されたが、やたらと厳しい監視や慣れぬ作業、さらには一部の装甲板の製造の遅れ等で武蔵は建造に遅れが生じた。武蔵の竣工は皇紀2602(昭和17/1942)年12月の予定だった。しかし皇01(S16/41)年12月に真珠湾が勃発するとそれでは遅いと海軍より督促が出され、予定より半年も早い6月竣工を目指して昼夜を跨ぐ超人的な作業が行われた。

 その中で、某新人製図工による極秘図面紛失事件が起きた。新人製図工は自分が何を製図しているのかも知らされぬままに極端に厳しい監視下で連日仕事をする重圧に耐えられず、図面を数枚、燃やしてしまったのだという。そうしたら自分はもうこの仕事から逃れられると考えた短絡的な行為だったが、憲兵と特高が極秘捜査を開始。疑わしい者は片端からひっとらえて拷問し、徹底的に犯人を捜したため、作業がさらに遅れた。結果としてスパイ罪ではなかったため、某新人製図工は釈放されたが即座に解雇。家族ごと行方知れずとなり、なにがなんだか分からぬまま激しい拷問を受けた容疑者は放免後も作業に戻れぬほどのPTSDとなった。

 そして皇00(S15/40)年11月1日、なんとか進水にこぎつけた。ところがここでも問題が発覚。大和は乾ドックへ注水して進水したが、武蔵は船台へ乗せて海へ滑り出す方式だった。その前代未聞の大きさの船台を設計製作するところから始まり、船台を滑らせる大量の獣脂の調達も前例がなく問題だった。なにより大問題だったのが、長崎湾の狭さだった。計算によると、263mの武蔵がそのまま進水すると、幅500mほどしかない湾を横断して対岸に艦尾からつっこんで座礁することが判明した。

 けっきょく、船台もなんとか製作し、大量の潤滑用獣脂も調達して、対岸座礁問題は巨大な錨鎖を右舷だけに取り付け、海へ出た瞬間に鎖が重りとなって船体を制動し、進行方向(艦尾)に向かって左へ曲がって対岸には影響ない(はず)という手法がとられた。一発本番、当日は防空演習ということにして付近住民は一歩も家から出ないよう通達された。憲兵、警察署員600名が監視し、他に佐世保鎮守府から海兵団1200人が応援に来た。進水式は、昭和天皇名代として来席した伏見宮博恭王ですらいったん私服に着替えて誰ともわからぬ姿で会場入りし、その後にまた着替えるという徹底した秘匿ぶりだった。いざ進水が行われると摩擦熱で獣脂からもうもうと白煙が上がり、すさまじい音を立てて巨大な鎖が引きずられた。艦尾より海へ突入した武蔵は計算通り鎖に引っ張られて左へ曲がった。それでも計算より44mも進んで、ようやく静止した。

 だが、その余波で対岸に高波が押し寄せ、海岸際の家屋は床上浸水に見舞われた。あわてて家を飛び出た住民達は憲兵隊に怒鳴りつけられて家に押し戻され、畳の浮く水浸しの室内で訳も分からず寒さに震えたという……。

 もう進水だけでこの騒ぎであったが、なんとか艤装岸壁まで移動し、あとは突貫だった。内装は大和建造中に問題のあった部分を改装しながら行われ、旗艦として通信、会議設備、また調度品が大和より優れていた。調度品に関しては、客船を多く作っていた三菱の得意な分野であった。

 

  

 デジタル彩色。艤装中。


 また、呉の海軍工廠で製作された主砲を長崎まで運搬するためだけの特殊運搬船 樫野も同時に建造された。1基2510トンと駆逐艦1隻分もある前代未聞の46センチ3連装主砲を、砲身と砲台に分けて1基ずつ運搬できる専用船で、呉と長崎を3基分3往復した。名目上は弾薬や火薬を運ぶ給兵艦だったが、実際は大和型主砲運搬専用船という秘匿ぶりだった。

 

 

 完成間近か完成直後の武蔵。主砲の巨大さが分かる。


 ちなみに樫野は皇02(S17/42)年9月4日、台湾沖で物資運搬中に米潜水艦の雷撃で沈んでしまい、横須賀で建造着手した大和型3番艦信濃の主砲が運搬できなくなった。また、ミッドウェーの敗北により主力空母が不足したこともあり、信濃は空母に改装された。樫野は、船体概要の分かる写真が1枚も残っていない、幻の船である。

 皇02(S17/42)年8月5日、大和竣工の約8か月後、武蔵は日本軍最後の戦艦として竣工した。

 

 

 デジタル彩色。特徴的な艦橋。


 真珠湾はおろか既にミッドウェー後であり、翌皇03(S18/43)年1月22日に大和より聯合艦隊旗艦を譲り受けた武蔵は、しかし、大和と共にトラックで待機が続く。居室も広く、兵卒の部屋にまで冷房完備、アイスクリームやソーダ製造機まである大和型は「大和ホテル」「武蔵旅館」「武蔵御殿」などと揶揄された。

 

 

 トラックにおける大和型2隻揃い踏みの貴重な写真。これほど鮮明なのは珍しい。


 同年4月18日、山本五十六司令長官が一式陸攻で移動中に米軍に襲われて戦死。武蔵は遺骨を日本へ送り届けることとなった。5月22日に日本到着。6月24日には昭和天皇が行幸した。その際の高名な記念写真がある。

 

 

 前列中央が昭和天皇。

 

 再びトラックへ向かい、訓練後にまた日本へ戻った。翌皇04(S19/44)年2月、トラック諸島が米軍の手に落ちたことからパラオへ南洋本拠地を移すために物資や人員を輸送した。3月にはパラオへ迫る米軍を警戒するために外洋を航行中、米潜水艦の雷撃を受ける。艦首部に命中し、2600トンも浸水した。浸水区画にいた兵員は死者7名、負傷者11名だった。大和型(に限らないが、戦艦)の装甲は「敵戦艦による自らと同程度の主砲による徹甲弾」を防ぐための装甲設計がなされており、海中を水平に突き刺さる魚雷は想定外で計算上の強度が出ないという弱点があった。

 これに関しては、当時から弱点を指摘されながら何ら手立てを打たなかった、などという頓珍漢な批判を散見するが、だからって装甲を全部引っぺがしてつけ直すのかという話であり、新しい戦艦を造ったほうが早い。いかにも現代人の視点で当時の事情にいちゃもんをつける浅はかさを露呈している。

 修理のため再び日本へ戻り、同年4月、対空兵器を増設する改装を受けた。タウイタウイへ到着後、大和と共にビアク島へ迫る米軍を迎撃する渾作戦へ参加したが、米軍がビアクではなくマリアナへ向かったので作戦は中止された。

 そして同年6月、マリアナ沖海戦である。ミッドウェーとは逆に、大和型2隻を主軸とする水上部隊を空母機動部隊の前衛に置き、楯としたが、敵航空部隊は水上部隊を無視して後方へ向かい、日本軍は空母3隻を失っただけではなく敵機動部隊を攻撃した艦載機も敵最新対空兵器や直掩戦闘機にほとんど撃ち落とされるという大敗北を喫した。米兵に云われたのが、屈辱の「マリアナの七面鳥撃ち」である。水上部隊は些少の空襲を受けたが、敵機動部隊を発見できず、戦闘もせずにほとんど無傷だった。

 同年10月、日本軍最大にして最後の大海戦、史上最大の海戦とも呼ばれるレイテ沖海戦へ参加する。10月20日、栗田艦隊としてブルネイへ入った武蔵は、どういうわけか明るい銀鼠色へ塗装を塗りなおす。これが艦隊の命令なのか武蔵の独自判断なのか、今も不明である。下士官には死に装束みたいで不吉だという意見や、逆に縁起を担いでいるという意見があったが、艦隊のほかの艦からはおおむね不評だったようである。

 10月22日、朝方に栗田艦隊はブルネイを出発。同日、午後3時ころには西村艦隊がブルネイを発った。栗田艦隊は北上しパラワン水道を抜けシブヤン海を横断。レイテ島を北回りで南下し、小澤艦隊が敵機動部隊を引き付けている間にスリガオ海峡を抜けた西村艦隊、志摩艦隊と合流、レイテ湾へ突入し米上陸艦隊を叩くという作戦だった。

 

 

 後部甲板に零式観測機が見える。


 しかし米軍も手をこまねいているわけではなかった。日本軍の数倍の規模で各所に陣を張り、今かと待ち受けていた。

 ここまでの記事で、戦艦のいない志摩艦隊を除き各艦隊に配備された戦艦たちがどうなったか、書いてきた。武蔵は、最後の記述となる。さらに詳しくは専門書や専門サイトを参照していただくとして、ここではなるべく興味を持っていただくのと、自分の勉強のために、ほどほどに詳しく、かつ簡易にまとめたい。

 10月23日、パラワン水道を東進中に、2隻の米潜水艦の襲撃を受け、重巡愛宕と麻耶が撃沈、高雄が大破撤退する。栗田艦隊は、いきなり重巡3隻を失った。日本軍の駆逐艦は艦隊戦用の大型駆逐艦で、対水上戦能力は高かったが対潜能力はそれほど高くなかったと云わざるを得ない。日本軍の貧相な対潜ソナーではさもありなんといったところだが、どちらかというともっと小型の補給艦隊護衛駆逐艦や海防艦のほうが対潜能力は高い。しかしあまりに小型だと、このような大規模艦隊戦には随伴できないジレンマがある。

 とにかく日本軍は米の高性能量産型潜水艦であるガトー級、改ガトー級潜水艦にボコボコにされたといってよい。戦艦、空母、重巡、軽巡、駆逐艦、その他輸送船、どれだけガトー級にやられたことか。米軍は合計で300隻を超えるガトー級を北はカムチャッカ、南はインドネシアまでウヨウヨと潜ませた。日本軍の、ほとんど試作品だらけの艦隊決戦用大型潜水艦とは根本から運用方針が違った。

 現在、海上自衛隊の対潜能力が事実上米軍をも凌駕して世界一なのは、2次大戦のトラウマと怨念と執念という話もある。が、現実的には、冷戦時代にソ連の潜水艦を連日追いかけていたら錬度が異様に上がったのである。

 10月24日、艦隊はシブヤン海へ突入。武蔵の長い1日のはじまりであった。

 日本軍を発見した米主力機動艦隊3群から、艦載機が次々に来襲。日本軍もレーダーや見張員の報告により、対空戦闘用意。日本軍基地攻撃隊も発進し、敵空母部隊へ攻撃を仕掛けたが迎撃され壊滅した。ただし軽空母プリンストンを撃沈する。

 1025第1波襲来。積乱雲で見失った敵機が、突如として雲間より現れ、急襲さる。武蔵へは17機が襲来。武蔵は主砲発射せず、副砲、対空機銃のみで応戦した。距離が近すぎて、主砲発射できなかったのではないかと考える。直撃弾1、魚雷1命中、至近弾4をくらう。罐室まで浸水した魚雷の衝撃は大きく、艦橋の上の前部主砲射撃方位盤が故障。旋回できなくなり、主砲の統一射撃が不可能となる。これは魚雷1発ごときで故障するはずがないという証言、自らの主砲発射の衝撃で故障したという証言、急激な転舵の連続による艦体振動で故障した説、もともと対空射撃機能が無かった説など多々ある。特に、自らの主砲発射の衝撃で故障した説はまことしやかに書物や戦記マンガに描かれるが、第1次攻撃で主砲発射の記録が無く眉唾である。基地航空隊の掩護が予定されていたが天候不良で中止となり、艦隊は丸裸だった。

 

  

 米軍撮影。シブヤン海で回避運動をする武蔵。まだあまり被害の無いころ。

 
 1145ころ第2波襲来。対空陣外周の駆逐艦、巡洋艦の対空攻撃をすり抜けた攻撃機が武蔵へ集中。やはり武蔵だけ色が違って目立っていたのだという。武蔵は直撃弾2、魚雷3命中、至近弾5。浸水で艦首が2m沈下。装甲板を突き抜けた250kg爆弾が兵員室で炸裂。近隣の機械室も破損して使用不能となり、4つあるスクリューのうち1つが使用不可となって速度低下。主砲9、副砲17発射して応戦。主砲発射時に退避ブザーが鳴らず、衝撃で甲板の作業員や対空機銃員が吹き飛ばされて即死した。

 1217第3波襲来。魚雷1命中、至近弾3。至近弾といっても至近なわけで、かわしてはいるが爆発の衝撃でダメージはある。特に爆弾の破片でむき出しの対空機銃員が死傷し、対空攻撃力が落ちた。主砲13、副砲43発発射。艦隊司令部より退避してコロン湾へ向かうよう下命あり。

 1223連続して第4波襲来。直撃弾4、魚雷4命中。艦首さらに3m沈み、計5m沈下する。注水してバランスを保つ。最大速力16ノットに低下し、ついに艦隊より落伍。主砲15、副砲37発発射。駆逐艦清霜、浜風、重巡利根が護衛につく。

 1315艦隊に第5波襲来するも落伍していた武蔵には1機も来なかった。しかし大和と長門への援護射撃で主砲7発発射。

 1445第6波(武蔵へは第5波)襲来。速度低下していた武蔵へ集中攻撃。直撃弾10以上、魚雷11命中。至近弾6、ついに大火災を起こす。左舷傾斜を注水して戻すも、艦首がさらに4m沈下。第1主砲下部まで波に洗われる。艦橋にも直撃弾をくらい、艦長重傷を含め航海長、高射長など幹部含む57名戦死。この際、戦闘詳報が消失して、後に回想から作成された現存武蔵戦闘詳報は、その記述に曖昧さが残っている。

 

 

 米軍撮影。第5波と思われる猛攻撃を受ける武蔵。これで轟沈しないのだから逆に凄い。奥は護衛の駆逐艦清霜らしい。

 

 

 さらに攻撃は続く。

 

 

 同じく、凄まじい攻撃を受ける武蔵。魚雷直撃による水柱の高さに注目していただきたい。武蔵の速度が低下し、奥の駆逐艦が武蔵を追い越しているのがこの3枚の連続した写真でわかる。


 パラワン水道で撃沈された重巡麻耶の生き残りを収容していたが、当の武蔵が沈没の危機にあり、1730ころ武蔵戦闘補助をしていた者を除く麻耶乗員を横付けした駆逐艦島風へ移す。

 この時点でスクリューは1つのみ動いており、速度は6ノットにまで低下。大火災は意外にもすぐに鎮火したが、なんといっても大浸水が止められなかった。ダメージコントロール用の角材や鉄板が恐るべき水圧で「マッチ棒のように折れ、ベニヤ板のように曲がった」という。

 

 

 1800ころ、栗田艦隊より救援に駆けつけた駆逐艦磯風より撮影された高名な写真。武蔵最後の姿。火災が収まり、機関も生きているのが分かる。艦首がかなり沈んでいる。


 1915左舷傾斜著しく回復の見込みなし。総員退艦準備。軍艦旗降下。

 1930傾斜30度。総員退艦。

 1935武蔵は艦首より転覆しながらゆっくりと沈んで行った。海中で2度、爆発があったという。

 1000名ほどの生存者の多くは武蔵沈没秘匿の意味もありそのままフィリピンに残され、マニラ市街戦に参加し多くが戦死した。

 大和は大爆発した写真が残っているが、武蔵は証言しかなく、また沈没地点の情報をもとに戦後調査しても船体を発見できなかったため、長らく海底での状態が謎だった。中には、そのままの姿でちょうど浮力がつりあって海中に浮遊し、海流に乗っていまもシブヤン海の海底近くを漂っているなどという幽霊船めいた噂まであった。

 しかし、2015年3月、マイクロソフト創業者のポール・アレンが自身の財力を駆使した第二次世界大戦で沈んだ艦船調査で、シブヤン海1000mの海底でついに武蔵を発見した。

 

 

 艦首部の菊の御紋(の跡)。武蔵と確認。 

 

 先に発見されて研究が進んでいた大和と比較し、結局武蔵にも同様のことが起きたと推察された。つまり、海底の武蔵も大和と同じく真っ二つに折れて、周囲には無数に残骸、破片が散らばっていた。転覆した艦首部は一回転してそのままの姿で着底し、艦尾部がひっくり返っているのも大和と同じだった。

 主砲はターレットから抜け落ちて、すっぽりと孔が開いている。そこや煙突から大量の海水が流入し、機関室で水蒸気爆発があった模様。さらに、大和より少し後ろの、第二主砲のあたりで船体が内部より爆発してボッキリと折れていたため、第二主砲弾薬室で誘爆があったと推察された。第二主砲は破壊された状態でひっくり返っていたが、大和と異なり第1、第3主砲は未発見。

 その代わり、大和では船体の下敷きとなりグシャグシャになっていた艦橋が、ほぼそのままの姿で海底にあった。直撃弾のダメージも鮮明だった。艦橋の外観調査により、これまで未発見だった機銃などが確認された。

 

 

 マニアックなネット有志による検証。

 

 

 

 

 艦橋が残っているのか分かる。この巨大な筒みたいなのが測距儀で、第1波攻撃で、これの回転盤が壊れたのである。


 浮沈艦とうたわれた大和型戦艦の沈没は、日本海軍壊滅の序章だった。武蔵を失ってもなお進撃した栗田艦隊はしかし、その後のサマール沖海戦を経てダメージが大きく、西村艦隊壊滅、志摩艦隊撤退、小澤艦隊空母全滅他艦艇撤退により、レイテ湾突入を断念。作戦は失敗し、聯合艦隊は壊滅した。 
 

 

 それぞれ、最終改装時の大和(上)と武蔵(下)。対空機銃の数がまるで違うのと、前甲板の錨鎖、後甲板の赤い線(名前を知らない)の角度、観測機発射カタパルトの先にある装置(これも名前は知らない)の有無などの差異がある。

 

 

 武蔵発見でにわかに注目された際に、武蔵砲術長の遺品からとんでもない写真が発見された。瀬戸内海での公試における、主砲発射試験の写真。

 

 おそらく、46センチ砲発射の瞬間の、今のところ唯一の写真。

 

 

 
 武蔵はたしかに存在した。そして、戦い、沈んだのである。


 これで第二次世界大戦日本軍戦艦シリーズを終わります。

 来週から、第二次世界大戦日本軍空母シリーズをやりたいと思います。

 
 

 今となっては日本を代表し、世界でも5本の指に入るであろう戦艦・大和も、その2番艦の武蔵と共に戦前は国民に秘匿されていたので、戦後、高名になったときには既に2隻とも失われており、一般国民が目にしたことは呉や横須賀、佐世保などの鎮守府の町へ住む人々以外はほとんど無かった。写真も他の艦に比すると極端に少ない。

 軍縮条約失効を翌年に控えた皇紀2597(昭和12/1937)年、極秘裏に設計が始まった。建造は呉の海軍工廠で行われたが極秘を極め、ドックを見下ろせる周囲の山々には憲兵隊が陣取って不審者を見張っていた。ドックは長さが分からないように途中から巨大な屋根がかけられ、巨大な丸太組みに棕櫚のムシロを大量にかけて遮蔽した。工廠で大和建造を拝命した人員も、設計者などは受け取った辞令をその場で回収され、当然のように凄まじい箝口令化で仕事をした。

 余談だが大和はまだ海軍工廠で建造したが、2番艦の武蔵は民間の長崎三菱造船所で建造したため、さらに厳しい監視下と箝口令化で建造された。

 皇00(S15/40)年8月に進水。乾ドックに注水する方式だったので、あまり派手なものではなかった。進水式も極秘裏に行われ、世界最大の戦艦にしてまったく簡素で地味だった。

 それから艤装が行われ、翌皇01(S16/41)年12月16日、真珠湾からすぐに竣工した。皇81(T10/21)年に竣工した陸奥から数えて、実に20年ぶりの戦艦の完成だった。艤装中の高名な極秘写真が残っているが、隣に大和を隠す目的で空母鳳翔が係留されている。しかし船体の長さが倍ほどもあり、まったく大和が隠れていない、珍しくも今となっては微笑ましい光景である。

 

 

 右のオケツが空母鳳翔。奥に浮かんでいるのがかの給糧艦 間宮。艦首のほうには、見えづらいが棕櫚のムシロによる遮蔽が判別できる。

 

 

 同写真のデジタル彩色。


 各種公試を行い、性能は上々だった。速度が遅いといっても、その大馬力と最新流体設計で空母加賀(元戦艦)と同じくらいであり、客船改装空母である飛鷹や隼鷹より速かった。

 

 

 デジタル彩色。瀬戸内海での公試の写真が何枚かあり、高名である。

 

 

 

 

 

 

 これらは全て公試写真である。 


 皇02(S17/42)年6月、ミッドウェーが初陣だった。このころの戦術思想は未だ空母が「露払い」であり、戦艦群は主力本体として進撃し、空母4隻は実は主力ではなく「前衛部隊」だった。アメリカもそうだった。いや、世界中でそうだった。真珠湾は「奇策」が成功しただけだった。ミッドウェーでもミッドウェー島を空母が奇襲したのち、主力部隊が艦砲射撃でトドメをさし、上陸部隊が占領する手はずだった。

 ところが、何が悪かったのかというと、奇襲もするけど米機動部隊がいたら先にそれと戦うという曖昧な作戦要綱だった。索敵で敵機動部隊を発見できなかった。ミッドウェー島爆撃準備中に、いきなり米機動艦隊が現れた。米軍は暗号解読で正確に日本軍の襲来を予測し、機動部隊を隠して逆奇襲に成功した。

 「前衛」の空母艦隊全滅に接し、初めて制空権無しで敵機動部隊とやりあう恐怖を知った。敵機動部隊も被害は深刻で、ここで戦艦部隊が被害を顧みずに突撃していたら歴史は少し変わったかもしれなかった。歴史にイフはない。主力空母4隻を失い、日本軍は撤退した。大敗北の始まりだった。

 ミッドウェー後、燃料をバカ食いする大和と武蔵は訓練もままならず、トラック泊地に停泊しっぱなしとなった。同年8月から始まったガ島攻防戦ではヘンダーソン飛行場艦砲射撃に大和を出す案もあったが、いろいろあって出撃しなかった。

 翌皇03(S18/43)年2月、いったん呉へ戻り、電探などを装備改装。聯合艦隊旗艦を武蔵へ移す。同年8月、再びトラック諸島へ進出。ガ島攻防戦は激化の一途をたどっていたが、大和と武蔵は出撃機会が無かった。トラック泊地でずっと待機しており、冷房完備、なにせ艦がでかいので兵卒の居室も広く、ソーダやアイスクリーム製造機まである大和型2隻は「大和ホテル」「武蔵屋旅館」などと揶揄された。駆逐艦が横付けし、大和の広い風呂へ入らせてもらうことも多かったという。

 

 

 デジタル彩色。トラック諸島で大和と武蔵のツーショットという、たいへん貴重な写真。

 

 同年12月、大和は輸送任務に就く。いったん横須賀へ戻り、大和と駆逐艦2隻(山雲、谷風)へ陸軍兵と軍需物資を積んでトラックへ向かった。

 この際、トラック近くで大和は米潜水艦の雷撃を受けた。魚雷は第3砲塔近くへ命中し、その音を聞いた陸軍兵が驚いてパニックとなる一幕もあったが、大和自体は被雷に気づかず、なんか原因不明の浸水で艦が傾斜しておかしいな、ていどであった。反対側に注水してバランスをとり、トラックで工作艦 明石に診てもらっても浸水の原因がよく分からない。もしやと潜水士が水面下を調査して、やっと魚雷による破孔を発見した。トラックで応急修理し、再び日本へ戻って修理した。

 翌皇04(S19/44)年4月、修理と改装を終えた大和は再び呉を出発。5月にはマニラへ到着する。渾作戦へ参加するも米軍が目的地へ来なかったので作戦自体が中止された。

 同年6月、小澤機動部隊と合流してマリアナ沖海戦へ参加。今度は大和達第一戦隊他水上部隊が前衛となった。ミッドウェーの逆を行った。大和ら前衛部隊は、なんと自分たちの上空を飛んで米艦隊を狙う日本軍の第一次攻撃隊を敵機と誤認し、対空砲を撃ちまくって味方を数機落とすという失態を犯した。その後、マリアナ沖海戦は航空戦となり、日本軍機は熟練度が低い上に敵最新対空兵器の餌食となって「マリアナの七面鳥撃ち」と呼ばれるほど壊滅的被害を受けたうえ、空母大鳳、翔鶴、飛鷹を失う大敗北を喫した。

 結果として、前衛部隊は敵艦隊と交戦はせず、航空機攻撃へ向けて対空砲で迎撃したのみだった。大和は対空三式弾27発を発射し、初の主砲実戦発射となった。27発というのは、3門3基9発の弾丸を三斉射した数である。

 同年10月、一連のレイテ沖海戦が勃発。大和と武蔵は今度こそガチの大規模実戦となった。ついに出番という心持だったろう。

 栗田艦隊主力中の主力としてブルネイを出発。北回りでレイテを目指した。しかし米軍もこの機会に日本を完膚なきまでに叩き潰そうと、何倍もの戦力で待ち受けていた。パラワン水道では潜水艦の執拗な攻撃に曝され、重巡愛宕及び麻耶が沈没。高雄は撃沈を免れたが戦闘不能で離脱した。

 水道を抜けシブヤン海を横断中に、敵機動艦隊に補足され、5次にわたる大空襲をうけた。元より航空機援護の無い丸裸の水上部隊である。基地航空隊からの援護はあったが、とても数でかなわなかった。

 空襲は特に妹である武蔵へ集中。武蔵は激闘9時間のすえ、推定魚雷20本、急降下爆撃直撃弾17発、至近弾20発以上という超絶猛攻を受け、ついに沈没。不沈艦とうたわれた大和型も、けして集中航空戦力の前では無敵ではないことが証明された。

 大和も前部甲板に直撃を受け、火災が発生したがすぐに鎮火。被害は軽微であった。

 

 

 米軍撮影。その直撃弾が前部甲板に当たった瞬間。


 結局栗田艦隊はシブヤン海でいっせいに退避、大きく回頭して体勢を立て直さざるを得なくなり、レイテ湾突入予定時間に6時間もの後れを取ってしまう。そのことを各別働艦隊に報告した無電に返事はなく、作戦全体の進捗状況がもう完全に分からなくなっていた。

 10月25日、0220及び0335に西村艦隊よりスリガオ海峡単独突入すの無電を受ける。この後、西村艦隊はスリガオ海峡で壊滅する。

 0623栗田艦隊はサマール島沖で上陸作戦を支援していた米第3護衛空母艦隊(コードネーム「タフィ(飴玉)3」)を発見。護衛空母艦隊は軽空母数隻と駆逐艦数隻のみの小機動部隊だったが、これを先日来の大空襲を行った敵主力空母群と誤認し、満身創痍ながら戦闘形態に移行する。

 

 

 米軍撮影。サマール沖を進む大和。


 一方タフィ3でもレーダーで日本軍の大艦隊を発見、慌ただしく総員戦闘配置を発令、レイテ島周辺を警戒していたタフィ1タフィ2護衛艦隊からも攻撃機が飛び立ち、たちまちのうちに100機もの航空機を上げた。護衛空母は元より小さな空母で、攻撃機隊は日本軍を攻撃後に陸上基地へ帰投、燃料弾薬を補給し再び栗田艦隊を攻撃した。

 栗田艦隊は長門を筆頭に大和、金剛、各重巡も補足したタフィ3へ向けてを砲撃を開始。艦載機を発進させた護衛空母隊は懸命に回避運動を行った。運よく米艦隊の逃げる先にスコールがあり、駆逐艦が煙幕を張って日本軍を文字とおり煙に巻いた。さらに米駆逐艦が煙幕の中より果敢にも日本軍顔負けの突撃を開始。日本軍へ肉薄して魚雷を放ちまくった。戦艦の足並みが乱れ、さらに艦載機も栗田艦隊を猛攻、爆弾投下後も燃料のある限りフェイントで急降下したり機銃掃射まで行ったりで死に物狂いで戦った。

 結果として、日本軍の雨あられと撃ちまくった砲撃はほとんど当たらず、タフィ3の被害は護衛空母ガンビア・ベイ撃沈、護衛駆逐艦サミュエルBロバーツ、ジョンストン、ホエール撃沈、ほか空母数隻が小破のみだった。大和の主砲弾でガンビア・ベイが沈んだとされているが、正直金剛や利根など、どの艦の砲撃で沈んだのかよく分からないほどに撃ちまくってようやくしとめた。なお、大和の主砲は命中したが強力すぎてガンビア・ベイの船体を撃ち抜いたという逸話がある。

 0900ごろ、栗田艦隊も空襲や敵駆逐艦の反撃により重巡熊野、筑摩、鳥海が落伍。被害は少なくなかった。戦闘海域で各個米艦を追って散会しており、このままでは艦隊統率が取れなくなる危険があったため追撃を中止。タフィ3は壊滅を免れた。

 その後、タフィ3は日本軍初の特別攻撃隊の攻撃を受け、大破中破、撃沈が続出する被害を受けた。 

 1100ころ、戦闘海域でバラバラになっていた栗田艦隊は集結を完了。まだ米軍の空襲が続いていた。栗田艦隊はレイテ湾突撃を諦めず進撃を開始。その艦隊をさらに米軍の空襲が襲った。

 しかしながら1236栗田中将はレイテ湾手前でついに進撃を断念。全軍反転して北上を命ずる。北上地点に米機動艦隊がいるとの索敵情報があり先にそちらを叩くのが理由だったが、米軍はおらず、そのまま撤退した。

 Wikipediaには、「小柳少将の戦略爆撃調査団に語った陳述」により「栗田ターン」理由が下記のようにある。
 
 1.志摩艦隊から西村艦隊の全滅を知らされたこと
 2.栗田艦隊のレイテ湾接近が大幅に遅延したこと
 3.アメリカ空母から発信されたと思われる増援要請の電話傍受により2時間後に航空機が飛来すると予想されたこと
 4.空母機にレイテ島の野戦基地に着陸するよう命じた電話の傍受により基地機との共同攻撃が予想されたこと
 5.別の機動部隊が北方から接近すると考えられたこと
 6.レイテで戦闘を継続した場合、更に多量の燃料を消費すると予想されたこと

 ようするに、満身創痍の現状では当初作戦目的だった米輸送艦隊の壊滅が達成できる状況ではなく、撤退したということだろうと思われる。ここでレイテに突入していたらどうなっていたか……歴史にイフはない。

 西村艦隊壊滅、小澤艦隊空母全滅、志摩艦隊撤退、栗田艦隊撃沈多数で撤退というレイテの大敗北で、聯合艦隊は壊滅した。

 同年10月28日、撤退した大和他はブルネイへ到着。11月8日多号作戦へ参加したが会敵しなかった。11月16日、米B-24爆撃機15機のスキップボミング攻撃を受けたが三式弾で応戦。3機を撃墜した。

 スキップボミングは日本の輸送艦隊を壊滅に追いこんだ米軍の必殺技で、大型爆撃機が海面近くまで降下、高速で爆弾を海へ投下すると表面張力で爆弾が海面を跳ねて跳び、飛び石の要領で高速で進んで船舶の横面に突き刺さるという恐ろしい攻撃だった。もちろん、敵戦闘機がいればできるものではなく、制空権の充分にとれた状況での攻撃である……。

 同日、戦艦長門、金剛他駆逐艦数隻と共に日本へ帰還。台湾沖で雷撃を受け、金剛と浦風が撃沈される。11月23日、呉へ到着した。生き残っている戦艦は大和、長門、伊勢、日向、榛名の5隻だった。大和以外がこの後どうなったかは過去記事を参照願いたい。

 翌皇05(S20/45)年4月5日、ついに沖縄特攻の命令拝受。慌ただしく準備を行い、陸上基地燃料タンクの底から他の艦艇まで重油をかき集め、けして片道分ではない量の燃料を各艦に搭載した。

 4月7日、海上特攻部隊が出撃。戦艦1(大和)軽巡1(矢矧)駆逐艦8(冬月、涼月、磯風、浜風、雪風、朝霜、初霜、霞)の陣容であった。また、瀬戸内海航行中には、対潜攻撃隊として駆逐艦3(花月、榧、槙)が先導していたが錬度未熟として豊後水道で別れ、呉へ引き返させた。
 
 九州近海までは陸上基地航空隊による上空援護が行われたが、零戦数機という規模で、しかも昼前には帰ってしまった。入れ替わりで米軍の偵察機が張りつき、逐一艦隊位置を米艦隊へ報告した。


 1232ついに低く垂れこむ雲海の隙間より、ミッチャー中将率いる7隻もの米空母艦隊から飛び立った攻撃機が雲霞のごとく襲来。防空駆逐艦である冬月、涼月をはじめハリネズミめいて対空装備を整えた大和も回避運動と共に対空砲が火を噴いたが、なにせ米軍の攻撃が圧倒的だった。この第1派空襲で大和は直撃弾2、魚雷推定1命中。軽巡矢矧航行不能、涼月艦首切断大破落伍、浜風爆沈、機関故障で落伍していた朝霜も直撃弾を受けて爆沈した。

 

 

 米軍撮影。奥が大和。手前が対空砲を発射する防空駆逐艦の冬月か涼月。


 1320から1415にかけて第2・第3波襲来。攻撃は大和に集中した。むき出しの対空火器類が爆撃でぶっ飛ばされて死傷者が続出。左旋回で回避が多かったため魚雷攻撃は左舷へ集中した。これはシブヤン海で武蔵撃沈時に、魚雷攻撃を左舷右舷へ満遍なく行った結果、皮肉にもバランスがとれて撃沈まで時間がかかったため、大和は左舷へ集中させたという説があるが、米軍側の記録にそんな作戦記述はなく、偶然とのことである。

 魚雷命中は日米の記録では少なくとも15本以上から最大で30本前後。回るスクリューが見えるほど艦尾が浮き上がった魚雷は特にダメージが深刻で、舵が故障した。艦は激しく傾斜し、注水によって速度が低下。さらに魚雷を食らう。

 この間、大破していた矢矧が魚雷数発をうけて沈没、霞が大破落伍、磯風も大破落伍した。

 1410ころ、左舷へ傾斜して赤い腹を見せている右舷へ魚雷複数命中、これが大きかった。生存者の証言でも、この最後の魚雷数発が致命傷だったという。大量の浸水により艦は急速に傾斜し、沈没は免れなかった。総員退艦命令が発せられたが、1420一気に転覆し、完全にひっくり返った。瞬間、ターレットより主砲が抜け落ち、煙突やその主砲孔より急速浸水、沈みながらボイラーに海水が雪崩こんで水蒸気爆発を起こし、艦は第3砲塔のあたりで内部より大爆発を起こした。さらに第1第2主砲の弾薬庫が爆発、火薬庫に誘爆して大爆発を起こし、艦は艦橋前あたりより真っ二つに折れた。

 

 

 大和爆発の瞬間。らしい。


 その爆発の勢いで海中より海面に投げ出され、助かった者もいた。逆に、煙突周囲に散らばった生存者は煙突へ吸いこまれる海水渦に巻きこまれて二度と浮かんでこなかった。大量に空中へ放出された瓦礫が散弾めいて落下し、運悪く直撃して死ぬ者もいた。

 沈みながらも燃焼爆発を繰り返し、大和は暗い水底へ落ちていった。

 

 

 大和の爆発。米軍撮影。

 

 

 周囲を回る駆逐艦の寂しげなこと。


 生き残った冬月、初霜、雪風の3隻が漂流者を救出し、大破漂流していた霞と磯風は生存者救出の後雷撃処分された。涼月は艦首切断のダメージを受けつつも後進のまま自力で佐世保まで戻り、ドック内で力尽きて擱座した。

 結果としてこの作戦は日本軍最後の艦隊戦となり、この後、帝国海軍は完全に組織的に戦う力を失って、空襲に対して各艦ささやかな抵抗を行うのみであった。

 従って、事実上この戦いをもって帝国海軍は滅亡したといえるだろう。いまもって戦艦大和が特別視されるのは、そういった悲壮感が日本人へそう思わせるのかもしれない。

 なお、開運!なんでも鑑定団にあっては、これまで大和関連では長官室のサイドテーブル(鑑定額300万円)と、休憩室の長椅子の座る部分の板(ただの長い板だが、裏に大和の艦名と備品番号が書いてあり、本物と確認。鑑定額たしか2000万円)が出たことがある。

 

 これらは、出撃前に火災防止として木製品をなるべく陸揚げした際に大和より出されたものの一部である。

 

 

 ヤマトミュージアムにある模型。潜水調査により判明した、海底の大和の様子。

 

 追記

 

 ちなみにアップしてから気づきましたが、今日がその大和他が沈んだ坊ノ岬沖海戦の日です。これは狙っていたわけではなく、本当に偶然です。ちょっと驚きました。

 

 

 

 長門に続き、「八八艦隊計画」に基づき建造された長門型戦艦2番艦である。この計画は、主力艦では「建造年数8年以内の戦艦8隻巡洋戦艦8隻」というもので、長門、陸奥に続いて巡洋戦艦天城、赤城、戦艦加賀、土佐の船体が既に完成していた。その後も天城型巡洋戦艦高雄、愛宕、戦艦紀伊型が計画されていた。

 しかしこの計画に脅威を抱いた欧米各国が建艦競争に歯止めをかけるべくワシントン海軍軍縮条約を定め、日本も列強の求めに応じ軍縮条約を批准した。この中に、「未完成艦は廃艦とする」ことが定められており、船体のみだった天城と赤城は空母へ改装され、加賀と土佐は標的艦として処分されることとなった。

 はずだったが、関東大震災の影響で天城が修復不能の破損を負い、代わりに処分予定だった加賀が空母へ改装された。こうして第一航空戦隊……一航戦の空母赤城、加賀がそろい踏みすることとなる。

 さて陸奥である。陸奥も未だ艤装中で未完成だったため、欧米各国が廃艦を要求してきた。しかし日本は「ほとんどできている」として猛烈に抵抗。未完成状態のまま「完成品」として海軍へ引き渡してしまった。だいたい、85%ほどの完成度であったという。

 

 

 デジタル彩色。これは船体のみ。


 さすがに英米が抗議。英2隻、米2隻の廃艦予定の戦艦の保有が認められた。陸奥1隻をゴネて、英米に2隻ずつ最新鋭戦艦の保有を認めさせてしまったのだから、良かったのかどうか。それは分からない。

 そんなわけで陸奥は皇紀2581(大正10/1921)年、竣工した。思えば最初からケチがついていた。

 

  


 軍縮条約が生きている間、各国は戦艦の建造を禁じられたため、長門と陸奥はしばらくの間、世界でも有数の戦艦だった。40センチ級の主砲を持つ巨大戦艦が長門と陸奥を含めて世界に7隻あるとし、「ビッグセブン」と呼ばれた。

 扶桑型や伊勢型に比べ、かなりバランスの良かった長門型にも欠点が無いわけではなく、第1煙突が艦橋に近すぎて排煙、廃熱に問題があり、カバーをかぶせたがあまり効果はなく、第一次改装でグイッとS字にひん曲げて少しでも排煙を艦橋より遠くした。これはまずまず効果があったという。その後、第二次改装で機関を改良し煙突は1本化された。

 

 

 第1次改装。S字煙突。

 

 

 第2次改装。煙突が1本化されているのが分かる。


 また、船首部の波切が悪く、波しぶきで砲塔の光学照準装置が曇るという問題が発生していた。長門に先立って改装中の陸奥がついでに船首部の形状を改良したが、結果として効果が無かったので長門の同様の船首部改良は行われなかった。従って、厳密に見ると長門と陸奥の船首部は形状が(若干)異なる。上の1次改装、2次改装の写真で比較していただくと、真横から見て、鼻っ面の角度が異なるのが分かると思う。

 

 

 戦艦陸奥記念館の艦首部。実物。


 太平洋戦線が始まると空母随伴できる金剛型は酷使されたが、速度が遅いうえに貧乏な日本軍により秘匿された他の戦艦と同じく、陸奥も待機の日々となった。

 皇01(S16/41)年12月の真珠湾では機動部隊が攻撃失敗し、米機動部隊の反撃を受けた時を想定して救助部隊として長門、伊勢、日向、扶桑、山城らと共に小笠原付近まで進出していたが、奇襲大成功の報を受け日本へ戻った。

 

 


 その際、陸奥はいきなり舵が故障して1人艦隊から落伍するアクシデントがおきた。幸い15分後には復旧し隊列へ戻ったが、宇垣聯合艦隊参謀長は「そんなところを敵潜水艦が発見したら絶好の攻撃機会だ(意訳)」として危惧した。

 本格的な参戦は翌皇02(S17/42)年6月のミッドウェーだった。大和、長門ともに第一戦隊を編成したが空母部隊の遥か後方で移動中に空母4隻が全滅してしまった。陸奥は救助された赤城乗務員を回収し、日本へ帰投した。

 同年8月、一連のガ島攻防戦へ参加するためトラック泊地へ進出。第2次ソロモン海海戦へ参加したが会敵しなかった。

 

 


 その後、大和と共にトラックで待機が続き、南太平洋海戦、第3次ソロモン海海戦にも不参加。「燃料タンク」「艦隊旅館」などと呼ばれたという。これは作戦が重巡と空母主体の高速戦であり、足の遅い陸奥や大和は随伴できなかったためである。戦意昂揚としていた陸奥乗組員は落胆し、見ていて気の毒なほどであった。

 

 


 翌皇03(S18/43)年1月、陸奥は日本本土へ回航され、2月には横須賀から呉へ移り、瀬戸内海の柱島泊地で待機となる。

 5月、アッツ島攻防戦が始まり陸奥は戦闘準備を整えたが出撃しなかった。5月29日アッツ島守備隊玉砕全滅。

 そして運命の6月8日、陸奥は突如としてその生涯を終える。

 

 


 その日は朝から霧雨が降り、雨が止んだのちも霧が立ちこめ、視界が悪かった。同じく柱島泊地には戦艦長門、扶桑、重巡最上、軽巡大淀、龍田のほか、駆逐艦が数隻いた。

 陸奥は1300より長門へ旗艦ブイを譲るために、朝よりその係留ブイ変更準備をしていた。長門は陸奥に代わって係留するために陸奥右前方で停泊していた。

 三好陸奥艦長は前日に扶桑艦長に着任した海軍兵学校の同期である鶴岡大佐を扶桑へ訪ねており、午前中は扶桑で歓談して正午前には陸奥へ戻った。この時、戻る時間がもう少し遅かったら、艦長の運命も変わっていただろう。

 陸奥は昼食が終わり休憩時間であった。

 1210頃。

 長門や扶桑の目の前で、陸奥の第3砲塔付近より突如として白煙が吹き上がり、たちまち大轟音と共に大爆発を起こした。

 その際、360トンある第3砲塔が、艦橋の高さまで吹き飛ばされたのを見た目撃者もいたという。

 陸奥は煙突の後ろの、爆発した第3砲塔のあたりで真っ二つに折れ、艦首部は横倒しになって轟沈。艦尾部はスクリューを天に向けて浮かんだ。

 長門は敵潜水艦による攻撃と判断してすぐさま現場を離脱。その後、救助艇を出した。扶桑や最上からも救助艇が出て、呉鎮守府は対潜戦闘開始で駆逐艦が出撃した。

 陸奥の艦尾部は午後5時ころまで浮かんでいて、救助が行われた。

 陸奥より1000m(後の扶桑艦長の回想では2000m)の距離にいた扶桑から「陸奥爆沈ス。一二一五」の緊急電が出されたが、その後、当然のごとく厳重なる箝口令が敷かれ、付近の航行も厳禁となった。

 しかし、翌日には周辺の島々に重油が流れ着き、兵士の遺体や備部品等も続々と流れ着いた。漁民や島民にも呉鎮守府の憲兵隊から厳重な箝口令が発せられたし、間違って陸奥の備品を拾って所持していようものなら、とんでもないことになった。夜になると、兵士の遺体を荼毘に付す光が島々に見られたという。(吉村昭のルポ小説「陸奥爆沈」に詳しい。)

 乗員1474名中、生存者は353名だった。発見された遺体には強烈な爆風でぶっ飛んだままの、両手両足を前に出した姿勢で亡くなっている者も多く、ほとんどは水死ではなく爆死であった。

 陸奥爆沈は一切の情報が秘匿され、死んだ兵士にも給金が出ていたほどだった。生き残りは南方の最前線へ送られて、ほとんど戦死した。

 それでも、陸奥爆沈はまことしやかにささやかれ、たまたま鎮守府へ用事があって出かけていたために助かった者などは、転任先で「君は幽霊ではないのか」などと云われるケースもあったという。

 さて、爆沈原因である。

 呉ではさっそく査問委員会が発足し、事故原因の調査が行われた。

 瀬戸内海には到る所に対潜防御用の網が設置されており、流石に柱島泊地の奥まで敵潜水艦が侵入するとは考えにくく、原因は火薬庫・弾薬庫の爆発事故と断定された。
 
 日本軍ではなくとも、弾薬や火薬が満載してある軍艦の爆破事故というのは恐ろしいもので、内部より木っ端微塵となってしまう。日本軍でも明治時代から多数の事故による沈没事故があり、有名どころでは日本海海戦の旗艦三笠が2回も火薬庫爆発事故で大破着底している。沈んでいないのは、2回とも不幸中の幸いで港に停泊中の事故だったためだ。

 しかし、1回目の事故はよりによって日露戦争直後で、東郷元帥が上陸中におきた。公式には原因不明だが、当時、艦内は戦勝気分もあって著しく規律が緩んでおり、信号用のアルコールへ火をつけて臭いを飛ばしてこっそり飲むのが流行っていたという。ここからは伝聞や作家吉村昭の想像もあるが、火薬庫番の兵士たちがその夜もこっそり信号用アルコールで勤務時間中に「酒盛り」し、酔っぱらって火のついたアルコール入り洗面器をひっくり返して引火した。なにせみな酔っているし重大な軍機違反である。消火もままならず火薬庫で火災が起き……。

 陸奥は、まず対空三式弾の劣化による自然発火が疑われた。三式弾はいわゆる榴散弾で、焼夷弾子を主砲弾に詰めこんだ構造により非常に取り扱いが難しい弾だった。一時、嫌疑が晴れるまで他の艦艇よりいっせいに三式弾が下ろされたほどだった。

 しかし、爆発時に発生した煙が主砲発射火薬が燃焼したものと同じという証言があったうえ、陸奥砲塔内部を再現までして行われた自然発火実験の結果、三式弾が劣化により発火することはないことが証明され、三式弾の疑いは晴れた。

 そうなると、しかし原因が分からない。査問委員会も原因不明で終わってしまった。

 ここからは、吉村昭等の推測による。

 この爆発事故の寸前、陸奥艦内では兵員同士で窃盗事件が多発しており、挙動の不審だった某兵に嫌疑がかけられ、まさに窃盗事件の査問委員会が行われる直前であったという。その某兵は元より鬱状態にあり、自殺を兼ねて砲塔内弾薬庫へ放火した……という説である。

 真偽のほどは、現在も分からない。火薬庫、弾薬庫は厳重な管理下にあり、鍵も何重にもなっていて、常に歩哨が立っているため、放火など不可能なはずなのだが、前例として火薬庫勤務の経験がある兵士による放火・爆沈事件が海軍にあり、けして不可能ではないことが立証されている。

 その某兵は、爆沈事件後、行方不明のままである。

 陸奥は戦中や戦後すぐに引き揚げが検討されたが、潮流が速く視界も悪いため潜水士が危険であり、実行できなかったが、昭和45(1970)年の大規模な引き揚げ作業で複数の遺骨を含む様々なものが引き揚げされた。その際の写真は、ネットに大量にあるので参照されたい。

 

 

 第4砲塔の引き揚げ。

 

 

 

 

 主砲鉄鋼弾。

 

 

 

 

 

 


 船体の75%が引き揚げされたところで作業は終了し、現在も爆沈地点には船首部が艦橋も含めて120mほど残っている。

 平成19年(2007年)第六管区海上保安部におてマルチビーム探測が行われ、海底の陸奥の様子が3D画像で公開された。

 

 


 戦後、戦車や戦艦などは全て融かされて再利用されており、それも落ち着いたころに引き揚げられた陸奥は、戦前の貴重な鉄材であった。具体には、戦後の製鉄の手法で溶鉱炉の耐火レンガに炉の摩耗状況を調べる目的でコバルト60が使用されており、それが鉄製品へ(もちろん人体に何の影響も及ぼさないレベルで)微量に残っている。陸奥はそのコバルト60を含まない貴重な鉄として、日本各地の研究所、原子力発電所、医療機関における放射能測定において環境放射能遮蔽材などに用いられ「陸奥鉄」の名で重宝されている。