赤城 | バカ日記第5番「四方山山人録」

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 鳳翔に続き日本で2番目に竣工した空母が、この赤城となる。
 
 ただし、赤城は「改装空母」だった。ロンドン軍縮条約で戦艦の保有に制限がかけられ、日本が進めていた八八艦隊計画(建造8年以内の戦艦8隻巡洋戦艦8隻体制)も頓挫する。当時、空母は「補助艦艇」だった。補助艦艇の空母は、制限が緩かった。日本軍は船体のみ完成していた巡洋戦艦天城と赤城を空母へ改装することとし、新型の空母翔鶴(後の翔鶴型空母の翔鶴とは別の艦)は計画廃止した。

 しかし関東大震災で、横須賀で作業をしていた天城がドック内で横倒しにひっくり返ってキールが折れるという大損壊し、修復不能となった。

 

 そこで、急遽処分予定だった加賀型戦艦1番艦の加賀が空母へ改装された。

 けっきょく八八艦隊計画は1番艦長門、2番艦陸奥の両戦艦のみ完成して霧散した。日本は条約失効する20年後の大和まで戦艦を造らず、空母をそろえることになる。


 とはいえ、この時代空母といっても日本が作ったことがあるのはちっさい鳳翔のみ。長門型戦艦よりでかい赤城をどうやって空母にするのか、空母にしてどう使うのか、まるで手探りだった。

 

 


 しかも、途中まで作った戦艦から無理矢理に改装した。不鮮明な当時の写真よりプラモデルの完成写真などを見たほうが詳細に分かるのだが、赤城と加賀は既に完成済みの巨大な戦艦の船体の上に格納庫(巨大な箱)を乗っけて、さらにその上を飛行甲板にしているので、やたらと背が高い。最初から空母設計だと、船体の中へ格納庫を半分ほど入れこむことができるので、もっと背が低く安定している。

 

 

 喫水線から上がかなり高い。


 赤城(と加賀)は、当時イギリスで運用していた世界初の空母フューリアスの飛行甲板が二段式となっていたのを参考に、巨大な格納庫の側面を活かして三段式空母として完成した。赤城の竣工は皇紀2587(昭和2/1927)年のことであった。

 

 

 初期、甲板が三段になっているのがわかる。


 今見ると圧巻の姿である。しかも、巡洋戦艦時代の名残で艦首第二甲板の先に20センチ2連装砲を2門そなえていた。さらに艦尾側面には20センチ単装砲を片舷3門ずつ計6門、合計で10門もの20センチ砲があった。まさに巡洋戦闘空母とでもいうべきか。

 

 

 空母なのに艦首20cm連装砲が2門もある。

 

 

 実写真がないのでまたプラモで。艦尾単装砲片舷3門の様子が分かる。


 これは中二病ではもちろんなく、当時の航空機はみんな複葉機で航続距離も短く、空母もそれだけ前線に出張ると考えられており、敵艦と接近遭遇して砲戦も想定したからである。

 

 

 デジタル彩色。複葉機がズラリと甲板に並ぶ様は圧巻である。


 さて、これで運用してみて、当たり前だがめちゃくちゃ使いづらかった。格納庫が内部で二段になっており、下層の第一甲板から発艦といっても格納庫の中を滑走してゆくわけで難易度が高く、すぐに使われなくなった。真ん中の第二甲板など、出た先の両脇に主砲(障害物)があるのだから、危なくて発艦などできるわけがないうえに、艦橋が建設されて塞がれた。

 必然、一番上の第三甲板ばかり使用されたが、ここはもともと着艦と大型機の発艦専用として設計されており、距離が短かった。ようするにどの甲板も使えなかった。

 赤城(と加賀)はしばらく三段空母で試験的に運用と訓練が行われたのち、これではだめだと大改装を受けることとなる。

 

 

 空母赤城(上)と戦艦長門(下)の珍しいツーショット。船体の大きさの違いにご注目いただきたい。巡洋戦艦赤城が完成していたら、長門より大きな戦艦になっていた。赤城が元は長門型と大和型をつなぐミッシングリンクの戦艦だったことが分かる。


 竣工から11年後、皇98(S13/38)年、ついに赤城は近代的な一段式空母として生まれ変わった。格納庫内の段数は変更せずに、内部は密閉式の二段のままで、搭載機数を増やした。当然艦首の砲も取っ払われた。しかし、艦尾の砲は最後までそのままだった。

 

 

 近代化改装後。甲板が一段となる。


 進行方向へ向かって左側(正面から見ると右側)に艦橋を取り付けた。右側の加賀と区別するためや右側の湾曲煙突とのバランスなどの理由だったが、これがパイロットに不評。というのも、レシプロ機はプロペラが進路向かって右回転(正面から見ると左回転)するため、やや左へ曲がって進行する。それを垂直尾翼のフラップで調節するのだが、やはり左側に障害物があると発着が難しい。左艦橋空母は、日本軍では赤城と飛龍のみである。

 

 


 ちなみに、先に改装した加賀で予算の大半を使い尽くして、赤城の改装は細部がなかり「やっつけ」だったという。

 赤城改装中に上海事変が起き、赤城は参加しなかった。赤城が改装を終えたのは支那事変の最中で、皇99(S14/39)年1月、日本へ戻った加賀と入れ替わりで佐世保を出航。海南島攻撃へ参加する。ここでは水上機母艦時代の千代田や、特設水上機母艦神川丸、陸海軍の基地航空隊と協力し、上陸部隊の支援、敵防衛部隊の爆撃を行った。

 

 

 デジタル彩色。戦艦霧島(手前)と空母赤城(奥)。


 その後、日本へ戻り、真珠湾まで猛訓練の日々を過ごす。

 皇01(S16/41)年4月、加賀と護衛の駆逐艦2隻とともに第一航空戦隊を編制。栄光の一航戦となる。その後南雲機動部隊旗艦として択捉島単冠湾を出発したのが11月26日であった。

 12月8日、真珠湾攻撃。空母赤城、加賀、蒼龍、飛龍、翔鶴、瑞鶴、戦艦霧島、比叡、重巡利根、筑摩、軽巡阿武隈、ほか駆逐艦9、潜水艦3(真珠湾内へ進入した特殊潜航艇を運んだ)、輸送艦等補給部隊という大陣容であった。

 

 

 

 

 

 

 全て真珠湾の様子。


 戦争回避の方策もとられていたが、攻撃開始を意味する高名な「ニイタカヤマノボレ一二〇八」が大本営より打電された。ちなみに攻撃中止の合図は「日本からの海外向けラジオ放送の最後に必ず放送される詩吟が無かった場合」という、ちょっと分かりづらい暗号(?)だった。

 

 

 

 

 

 

 真珠湾の赤城。零戦は21型。

 

 この時、対米宣戦布告との調整がシビアで、布告30分後に攻撃開始という手はずだったが、極秘連絡調整の不手際もあって実際に布告がなされたのは攻撃後だった。そのため、アメリカへ高名な「リメンバー バールハーバー」という世論誘導の大義名分を与えてしまった。しかし、アメリカだってスペイン戦など宣戦布告無しでさんざん戦争してきており、うまくプロパガンダへ利用されたに過ぎない。

 真珠湾大成功によって、たとえ停泊中であったとはいえ、艦船を航空機が一方的に叩く効果を立証した。アメリカ軍の被害は大きく、戦艦3隻沈没、2隻大破着底、1隻中破、2隻小破、軽巡洋艦2隻大破、1隻小破(以下略)であり、米太平洋艦隊は一時的に壊滅した。が、機動部隊がたまたま演習中で逃したうえ、やっつけた戦艦はWW1当時の旧式ばかりで、新陳代謝を促した結果に終わった。また結果論だが艦船を標的にしすぎ、貯油場や機械工場の破壊を逃し、基地としての真珠湾の被害は少なかった。

 その後、赤城は南雲機動部隊の一員としてポートダーウィン攻撃、チラチャップ攻撃、セイロン島沖海戦と転戦する。

 

 

 圧巻の発艦シーン。デジタル彩色。中央部から前後にわたって、甲板にゆるい傾斜がある。


 赤城は改装空母で戦艦の船体を無理やり改装したため、居住性にしわ寄せが来た。特に艦の横から突き出た湾曲式煙突が問題で、煙突より後部の居住区は排煙がまともに流れこみ、窓を開けておられず最悪だった。特に南方では炎熱地獄になった。兵士は廊下にハンモックを吊って寝た。訓練に次ぐ訓練で清掃等も不徹底となり衛生面も悪化し、結核や赤痢がよく蔓延した。ついたあだ名が「人殺し長屋」である。

 そのため煙突へ海水を霧状にして内部より噴霧する装置をつけ、煤煙と炎熱の軽減を図った。赤城の煙突から、滝が流れているように見えた。

 対米戦会戦当初の南雲機動部隊は「機動」部隊の面目躍如で神出鬼没なうえ、零戦がまだ事実上無敵だった。連合軍機とのキルレシオは12:1だったといい、特に赤城は猛訓練で急降下爆撃の命中率も精密爆撃もかくやというほどで、連合軍は長門や陸奥などの戦艦よりも機動部隊の空母6隻を恐れた。そのためか、艦の規律はゆるみ、連戦連勝により艦隊全体的に気がゆるんでいたという。

 セイロン島沖海戦では一式陸攻などがイギリス東洋艦隊の戦艦プリンスオブウェールズ、レパルスを沈めたが、赤城ら南雲機動部隊もパラオで座礁した加賀を除く空母5隻が参加、コロンボ及びトリンコマリーを空襲。空母1、重巡2、駆逐艦2を沈めた。

 このとき、英軍陸上基地より飛来した爆撃機(資料によって機種が異なり詳細不明)1機が赤城を空爆。艦首付近に10発ほども爆弾が降ってきた。上空から爆弾が落ちてきて初めて赤城は対空砲で応戦したほどで、対空警戒もせず、まったく気がついていなかった。どれほど気がゆるみきって油断していたかが分かる。

 そして、皇02(S17/42)年6月、赤城ら南雲機動部隊は運命のミッドウェーへ向かう。5月の珊瑚海海戦へ参加した翔鶴、瑞鶴は大破及び搭載機喪失多数で不参加だったため、赤城、加賀、蒼龍、飛龍の4隻がミッドウェー攻略戦へ参加した。翔鶴、瑞鶴が参加していればまた運命も変わっていただろうが、歴史にイフはない。

 しかも、ミッドウェーは作戦自体が色々と腑に落ちない点が多く、当時から内部で反対意見が出るほど作戦目的があやふやだった。しかも発令から開始まで1か月ほどしかなく、準備不足も否めず一航戦作戦参謀は作戦に反対したが、聯合艦隊司令部は既に決定済みと却下した。

 ミッドウェー作戦は米ミッドウェー島基地を叩いて上陸占領するのが最終目的ではあったが、米機動艦隊もおり、前衛部隊である南雲機動部隊は基地を先に叩くのか米機動部隊と戦うのかはっきりしなかった。基地を叩きつつ、敵を発見したらそれと戦うというあやふやさが裏目に出た。しかも上陸本体である大和を旗艦とした攻撃本隊は機動部隊後方600海里をのんびりやってくるという作戦要綱に、赤城の飛行隊員は「戦争見物でもするつもりか」と憤慨した。

 さらに気のゆるみは作戦全体に蔓延していた、トラック諸島の民間人ですら「次はミッドウェーだ」とか平然と話題にしていたというから、情報秘匿など夢のまた夢。また太平洋展開の米空母は6隻中珊瑚海海戦で4隻沈み、残り2隻はハワイにいるという大本営発表の謎情報を艦隊は信じ、まったく敵情把握ができていなかった。もしミッドウェーに現れても空母は2隻のはずだった。実際は空母3、重巡7、軽巡1、駆逐艦15という大戦力が集結していた。空母は3隻なので、これは当たらずとも遠からずであったが……。

 さらに暗号戦も負けた。米軍は早くより日本軍の動きを察知し暗号解読したが、次の攻撃目標「AF」がどこなのか判然としなかった。そこで上記の情報収集の結果ミッドウェー基地の可能性が高いと推測し日本軍を罠にかけた。「ミッドウェー島で真水製造機故障」という電報をわざと平文で打った。日本軍はまんまとひっかかり、「AFで真水不足」という暗号を打った。米軍はそれを傍受解読し、ミッドウェー島へ戦力集中させた。

 6月5日、南雲機動部隊ミッドウェー島接近。既に6月3日に後方の本体がミッドウェー島付近で敵空母艦隊集結らしき内容の通信を傍受。先行する南雲艦隊へ知らせようとしたが、「こっちで傍受しているくらいだから機動部隊でもきっと傍受しているだろう」という甘い判断により知らせなかった。

 日本時間0130(アメリカ時間0430、以後日本時間で統一)、赤城を含め空母4隻より基地攻撃部隊が発艦。250kg及び800kg爆弾によりミッドウェー基地を空襲する。先日来、既に米索敵機に発見されていると推測され、奇襲の効果は薄いと考えられていたが、第一次攻撃は成功する。基地周辺に米艦隊も発見されなかったため、0400第一次攻撃隊は第二次攻撃を具申。機動部隊側では索敵機の発進が著しく遅れ、未だ敵艦隊を発見しておらず、念のため魚雷装備して待機していた97式艦攻も魚雷を外し爆弾を装備開始する。

 ところが0440、重巡利根の索敵機が「敵艦らしき艦影10発見」と報告。「らしき」を詳細報告させるため、魚雷と爆弾の換装作業を一時中断。格納庫内は魚雷と爆弾が乱雑に置かれていた。

 0520ついに詳細判明、敵空母発見の報が入る。0530直ちに基地攻撃を取りやめ、再び魚雷換装作業開始。現場は混乱を極めた。

 そのころ、既に南雲機動艦隊はミッドウェー基地航空隊索敵機に発見されており、その情報をもとに米空母ホーネット、エンタープライズ、ヨークタウンより攻撃機が飛び立っていた……。

 0618赤城は戻ってきた第一次攻撃隊の収容を優先し、収容完了した。米攻撃隊は順次南雲機動艦隊を攻撃開始していたが、直掩の零戦に阻まれ、決定的なダメージは与えられていなかった。

 しかし。

 0726零戦は低空を迫るデバステーター雷撃機を迎撃するため高度を下げていた。赤城や加賀らの真上は、がら空きだった。

 

 

 

  

 米軍撮影。


 その一瞬を逃さず、32機ものドーントレス急降下爆撃機が加賀へ殺到。赤城へは3機のみだったが、赤城は対空砲を撃つ余裕すら無かった。懸命に回避したが、3機の放った爆弾のうち、2発が甲板へ命中。1発は海へ落ちて至近弾だった。

 1発目はエレベータ付近へ命中し甲板を突き抜けて格納庫内で爆発。魚雷、爆弾、燃料満載の攻撃機が次々に誘爆した。2発目は左舷甲板後方に命中、甲板上で炸裂し甲板がめくれあがった。ちょうど発進しようと滑走中だった零戦は衝撃で前のめりに倒れ、艦橋の近くで逆立ちしたまま炎上、艦橋まで火が回った。

 赤城は2発の250kg爆弾で大火災を起こし、猛炎をあげた。衝撃で転舵したまま舵が故障し、旋回のみとなった。0800機関部との通信が途絶。脱出連絡が行えず、機械室やタービン室の科員多数戦死。魚雷を受けなかったので艦体に損傷なく、沈みはしなかったが燃えるがままに漂流を始めた。


 近隣では加賀及び蒼龍も同様に直撃弾多数で大炎上を起こしていた。飛龍はたまたまこの3隻より離れていたため、難を逃れた。

 

 

 赤城は懸命に復旧に努め、駆逐艦からも放水し、横づけで生存者救出したが1200ころ再び艦前部格納庫で大爆発。1520機関復旧断念。1620自力航行不可能により総員退艦命令。1700より駆逐艦野分、嵐に移乗開始。1900生存者収容完了。赤城は無人となる。

 2355唯一残って反撃に転じた飛龍も米軍の逆襲により沈没(正確には雷撃処分したが翌朝まで漂流していた)が確認され、後方の山本聯合艦隊司令長官は作戦中止を決定。赤城の雷撃処分を決定する。赤城は可燃物が燃えつき、残骸のみの無残な姿で漂流していたが、まだ小爆発が起こってたという証言もある。0000すぎころ加賀の生存者を救出していた駆逐艦萩風、舞風が合流。

 翌6月6日0200駆逐艦嵐、野分、萩風、舞風で赤城右舷へ1本ずつ魚雷発射。2ないし3本命中。0210赤城は艦尾よりミッドウェー沖へ沈んでいった。沈没後しばらくして海中より大爆発音があったという。

 駆逐艦に分乗していた生存者は反転した本体へ合流、戦艦長門、陸奥へ移乗し、日本へ帰った。

 赤城を含め主力空母4隻同時喪失は、その搭乗員の戦死も含め、結果として帝国海軍へ回復不能のダメージを与えた。