バカ日記第5番「四方山山人録」

バカ日記第5番「四方山山人録」

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 長々と自分の再勉強のためにもやってきた大日本帝国海軍空母紹介も、残るは5隻(大鳳、雲龍、天城、葛城、信濃)となった。

 

 


 艦これではゲームのシステム上「正規空母」と「軽空母」という分け方をされているが、これは正確ではない。本来そんな分類はなく、全部「航空母艦」である。あえて云うならば「主力空母」「改装空母」「護衛空母」などになるが、これも便宜上のもので、軍で正式にそのように分類していたわけではない。自分の知る範囲では、軍で分けていたのは「航空母艦」と「特設航空母艦」のみだ。その違いはよく分からない。改装空母はいったん特設空母になって、後に正式に空母になるという流れに見える。

 ところでこの大鳳であるが、久々に改装空母ではなく最初から空母として設計・建造された。順番で云うと瑞鶴以来となるから、真珠湾以前からこっち、日本軍で竣工したのは全て改装空母であった。原因はやはり、ミッドウェーにおいて主力空母4隻撃沈の余波で、日本の作戦計画が根本から覆り、目先の空母確保に予算と時間を取られたからと推測する。

 また、対米戦といっても実質は4年半とちょっとである。じっくり空母の運用計画など練る暇はない。特に新機軸を盛り込んだ新型は設計から始めて模型実験を繰り返し、竣工させるにはどんなに急いでも数年かかるので、瑞鶴の次が大鳳なのも常時では普通と考えられる。

 さて、ミッドウェーの戦訓として「日本空母の防御力の弱さ」があった。これは構造上の問題で、格納庫が密閉式(閉鎖式)であったことや、機関が集中式であったこと等が挙げられる。米空母は格納庫が解放式で、波浪による航空機の塩害という弱点があるが、いざ爆撃を食らうと爆発が外に逃げて損害を減らし、また誘爆を起こす爆弾・魚雷や延焼した航空機を人力(ブルドーザー)で海へ投棄することができる。機関は戦艦のようにブロックごとに分かれており、魚雷の1、2発では機関を全てやられない。日本の空母は特に潜水艦の攻撃でわりとあっさり沈むのに、米軍の空母は爆撃されようが魚雷を食らおうがなかなか沈まない。自軍の自沈処理でも沈まなくて放棄されているくらいである。また、消火設備や訓練も雲泥の差があった。ダメージコントロール技術でも、米軍のほうがずっと上だった。

 それらは、改装空母では元の船の設計もあり、なかなか改善できなかった。隼鷹、飛鷹で戦訓により消火設備を充実させたが、飛鷹は肝心の消火ポンプ故障で火災が収まらず沈んだ。機関は翔鶴や瑞鶴で既に2ブロックで分けていたが、それを参考にして同様に分けた。また最も重要なのは、英空母イラストリアスで既に実践されていた甲板へ装甲を装備する、日本軍初の「装甲空母」として大鳳は設計されたことである。

 装甲といっても半端ではない。全面ではないが、500kg爆弾の直撃に耐えられる最大厚95ミリもの甲鉄板を甲板下に張ったので自重が増加。重心も上がったため、格納庫容積を減らして背を低くして重心を下げ、甲板と船体が一体化したハリケーンバウを採用する等、設計を工夫した。空母は船体の上に半分埋め込みで箱(格納庫)を乗っけて、その天井部分から甲板が伸びており、船首と甲板に隙間があって柱が見えているのが日本空母の外見的な特徴だったが、大鳳はそこへも船側を張り付けて米空母や現代空母と同じく船体と甲板が一体化している。日本軍が初めて採用した形状の空母であった。

 しかし格納庫が圧迫され、物理的に狭くなったので翔鶴型より一回り大きいのに搭載機数は格段に減っている。マリアナ時翔鶴77機、大鳳54機であった。これは、格納庫が狭くなったことに加え搭載機が新型で旧式機より大型の烈風、天山、彗星、流星想定となり、零戦、97式、99式に比べて必然、搭載機数が減ったこともある。

 また機関や燃料タンク周囲にも厳重に甲鉄板よる防護壁が施された。

 艦橋は戦訓により空母での艦隊指揮も考慮し大型化した。かつて飛龍で艦橋に指揮所が無くえらい苦労したのであった。また、既に隼鷹型で試されていた大型艦橋と一体化した斜形煙突が採用されている。ただし、これはもともと大鳳のために設計されたものを先行して隼鷹型で試して効果を得ていたもの。

 

 

 ハリケーンバウ、大型艦橋、そして艦橋と一体型の斜形煙突が分かる。


 最新鋭の装甲空母だったが、弱点もあった。

 航空機を格納庫から甲板へ出し入れするエレベーターの床は、甲板へ上がると甲板になる。そのため、エレベーター床にも装甲が施されたが、それによりエレベーター1基の重量が100トンを超え、いちど故障すると艦内工作員では復旧不可能だった。実際そうなった。

 格納庫が密閉式なうえに、他の空母では爆撃された場合の衝撃や爆風が甲板を突き抜けて逃げるのだがそこが装甲で塞がれているため、被害が甚大になる恐れがあった。じっさい被害甚大であった。

 鋭意建造中、既に戦争は佳境に入っており、熟練工が軒並み徴集されて建造精度に難があった。じっさいたった被雷1本の衝撃で航空燃料であるガソリン庫の溶接が外れ、漏洩したガソリンが元で沈没した。

 さて、大鳳はマル4計画により計画されたが運用や仕様に紆余曲折があった。皇紀2601(昭和16/1941)年7月10日に建造開始、その冬には真珠湾により対英米蘭戦勃発。工事を突貫して行い2年後の皇03(S18/43)年4/7に進水、艤装も超突貫で行い工期短縮に継ぐ短縮で翌皇04(S19/44)年3/7に竣工した。

 さっそく訓練に入り、同年3/28に兵員輸送を兼ねて呉を出発。大鳳飛行隊の第六〇一航空隊の航空機である零戦、天山、彗星のほか、百式司令偵察機、月光、零式観測機、零式水上偵察機を運んだ。4/4-5シンガポールで兵と輸送航空機を下ろし、4/9にリンガ泊地到着。4/15に小澤機動艦隊旗艦を拝命。第一航空戦隊(一航戦)として翔鶴、瑞鶴と共に着艦訓練に勤しんだ。5/14タウイタウイ泊地へ移動。二航戦(隼鷹、飛鷹、龍鳳)、三航戦(千歳、千代田、瑞鳳)と合流。マリアナ沖海戦へ備える。

 

 

 タウイタウイの大鳳。奥に翔鶴か瑞鶴、右上に金剛か榛名が見える。デジタル彩色。大鳳の甲板は木の甲板説とラテックス説があるが、自動復元を見るに木の甲板っぽい。

 
 しかしタウイタウイは周囲に大きな陸上基地が無く、また外洋で航行しながら訓練を行おうにも米潜がウヨウヨ集結しており、警戒の日本軍駆逐艦が逆に5隻以上も撃沈される始末であり、まったく航空隊の訓練ができない状況だった。

 6/13、陸上基地を利用して訓練を行うべくフィリピンのギマラスへ移動。訓練を行ったが、対潜哨戒を行っていた天山が着艦ミスで事故が起き、甲板上で炎上、露店駐機していた航空機多数と搭乗員、整備員計8人が戦死した。嫌な予感を抱えたまま、米軍のサイパン攻略公算大として「あ号作戦」が発令。たった2日後、ろくな訓練もできないまま6/15運命のマリアナ沖へ向かう。

 マリアナ沖海戦は、既にパラオ空襲の際に二式大艇で脱出した海軍上層部が墜落により米軍に捕らわれ作戦大綱が奪われるという「海軍乙事件」により、米軍の知るところであった。日本軍はこの大航空戦に米機動艦隊壊滅を賭けて一大アウトレンジ作戦を慣行した。ミッドウェーの戦訓により水上部隊を前衛に出して囮または防御とし、後衛の甲乙丙(それぞれ一、二、三航戦)機動部隊より矢継ぎ早に攻撃隊が発艦、米軍を叩く。

 これもミッドウェーの戦訓による三段構えの水も漏らさぬ索敵により、日本軍は米軍より先に敵を発見していた。6/18各陸上基地から攻撃隊が米軍へ向かったが、返り討ちにあい半壊した。このため、陸上基地隊との共同作戦が頓挫。同日夕刻近く、甲部隊より攻撃隊が発艦したが、帰還が夜間になるため夜間着陸による事故を恐れ、攻撃は中止。甲部隊は反転した。(この反転により、米潜行動圏に入ったのだという。)


 翌19日も早朝より日本軍の索敵が先に米軍を発見した。この時点で、米機動部隊は日本艦隊を発見できていない。小澤司令は攻撃を決意する。

 しかし、このころには、甲部隊へ米潜カヴァラ及びアルバコアが接近、追尾していた。日本軍は艦隊規模のわりに護衛の駆逐艦が少なく、潜水艦の接近にまったく気づいていなかった。

 0630より各艦とも順調に攻撃隊を発艦させ、大鳳では0800ころ第一次攻撃隊の発艦を終えた。艦隊には楽観ムードさえ漂い、手すきの者は甲板で帽振れの令が出され、各員帽子を振って航空隊を見送った。無線傍受していた軍令部でも勝利の気分が漂った。

 しかし、文字通りそれを全て吹き飛ばす悪夢が始まる。0810まず潜水艦アルバコアが大鳳へ向けて魚雷発射。編隊合流中の彗星1機が上空よりそれを発見し海面へ突っこんで阻止しようとした。大鳳でも雷跡発見し取舵いっぱい急旋回したものの、右舷前方へ1発が命中する。

 浸水し右舷傾斜したが注水により復旧。速度低下したものの航空隊発艦作業が続けられた。

 ところが、雷撃の衝撃で零戦を乗せて動いていた前部エレベータが甲板まであと1mというところで止まってしまった。昇降用のワイヤーが滑車よりはずれたのだという。エレベーター重量が記述のとおり100トンあり、艦内工兵では復旧不可能だった。そのため、工兵総動員でダメコン用の丸太角材、さらには食堂の椅子テーブルまで組み上げて、なんとか甲板の穴(14m四方)を埋めた。

 補強部の強度を確かめ、武装を外して軽量化した零戦や天山を飛ばし、瑞鶴へ移動させた。その後、1030から翔鶴や瑞鶴より第二次攻撃隊発進。

 そのころより、大鳳内では先の攻撃で漏洩した航空燃料のガソリンが気化充満し始めた。ガソリン庫は電気溶接だったが、それがたった1発の魚雷の衝撃で裂けてしまった。前部海面下ガソリン庫の近くに被雷したのであった。そのため漏れたガソリンが浸水により押し上げられ、格納庫まで上がってきたのが原因であるという。運の悪いことに前部エレベーターは塞がれたまま動かず、密閉式の格納庫ではそもそも排気に限界があり、気化ガソリンは艦内を述べなく舐めた。ガソリン庫近くの部署は気化ガスにより退出を余儀なくされ、復旧作業のため近づいたものは失神するほど濃度であったため、ガソリンの漏洩を防げなかった。

 火花を恐れて工作道具の使用も憚られ、艦内は火気厳禁のまま成す術なく窓を全開にする、排気ファンを全開にする、後部エレベーターを下げる、格納庫の壁を一部破壊するなどの措置で必死に換気したが、まるで追いつかなかった。格納庫内では眼も開けられない程にガソリンが充満した。艦内換気扇を全開にしたためかえって艦内全域に気化ガソリンが行き渡った。

 そうこうしている間に、1120米潜カヴァラの放った魚雷のうち3~4本が翔鶴右舷へ命中。これもガソリン庫が破れ引火し、先に大火災を起こした。

 1200ころ大鳳などを発艦した第一次攻撃隊が戻ってきたが、アメリカ軍のとてつもない反撃を受け、なんと大鳳隊で帰還できたのは42機中たったの4機(零戦3、二式試偵1)であった。天山及び彗星は全滅した。米軍は既に日本軍のそれを遥かに超える高性能レーダー、VT信管付対空兵器、さらにはF6Fヘルキャット戦闘機を備え、錬度の低い日本機を「マリアナの七面鳥撃ち」と揶揄するほどメチャクチャに叩き落したのである。

 翔鶴が大炎上中であり、やむなく大鳳でも米軍を発見できずそのまま戻ってきた翔鶴第二次攻撃隊の収容が細心の注意を払って行われることになった。

 1400すぎ、ついに翔鶴が前方より沈み始めた。甲板へ逃れていた生存者はそのまま燃え盛るエレベータ孔へ次々に滑り落ち、地獄絵図であった。

 さらに1432戻ってきた攻撃隊の収容が始まった直後、大鳳が大爆発する。戻ってきた1機めが胴体着陸した瞬間だったというが、他にも数機着陸後に爆発した、何機か着陸後に零戦が何らかの理由によりタッチアンドゴーで飛び立った瞬間に爆発した、艦内換気扇のモーターが焼けて発火した、電気室後部の罐室に気化ガソリンが到達し罐の熱で発火したなど、各種説がある。

 とにかく「関東大震災のような」揺れが艦を襲い、装甲の装備された甲板が飴細工のようにひん曲がって押し上げられた。しかしその装甲のせいで爆圧が甲板を抜けず艦の下へ向かって吹きつけ、機関まで達して甚大な被害となった。

 大鳳の後部を航行していた重巡羽黒では、大鳳の格納庫の壁が吹き飛んで炎が吹き抜け、まるで大鳳が火柱に串刺しにされているような光景が見られた。その際、航空機や人間が大量に吹き飛ばされた。前部甲板はたちまち猛火に包まれた。

 艦橋では直ちに消火装置のスイッチが入れられたが延焼が酷く鎮火できなかった。爆発の衝撃で機関がやられ見る間に速度低下、ついには航行停止した。潤滑油配管が破れ機械油が漏洩し、機関が破壊されたのだという。また機関室と連絡が取れず、消火管が開けられず火は全く衰えなかった。あまりの猛火に機関員全滅と判断されたが、一部は助かって脱出成功している。

 直ちに重巡羽黒や駆逐艦若月に救助が命じられたが、爆発が連続して続き接近できなかった。翔鶴沈没、大鳳大炎上により翔鶴の二次攻撃隊は随時瑞鶴に着艦した。

 小澤長官は大鳳へ残ることを希望したが、周囲の説得で参謀長らと共に脱出。艦橋が楯となり助かった唯一のカッターボートで若月へ移動。その後羽黒へ移った。周囲の船から次々にカッターボートが派遣され、生存者を救出した。最後は駆逐艦磯風が果敢にも燃え盛る大鳳艦尾に接舷し、救助を行った。

 その間にも大鳳は左舷へ大きく傾斜し、救出断念し磯風が離艦した直後の1628(爆発から2時間後)そのまま左舷から沈没した。

 大鳳は日本海軍の中でも1、2を争う運の悪さで、竣工から3か月、初陣で沈んでしまった。

 その後、日本軍は残る瑞鶴、また乙丙部隊から第6次まで攻撃隊を繰り出したが、ほとんどが全滅または壊滅の憂き目を見たうえ、翌日は補給のため洋上集結しているところを米軍に発見され200機もの大逆襲を受ける。この空襲で飛鷹及びタンカー2隻が撃沈され、他にも損傷艦多数というミッドウェー以上の大敗北を喫した。

 艦艇も然る事ながら航空隊が壊滅的被害を受け、乗せる航空機の無い機動艦隊は二度と立ち直らなかった。このことはもう日本艦隊にまともな航空機掩護が着かないことを意味し、レイテ、沖縄特攻でも事実そうなった。

 

 

 まさに近代的な最新空母に相応しい日本を代表する空母であるが、まことに不運な沈み方をした。

 

 

 


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 空母千代田は、ほとんどすべての戦いを姉妹艦の千歳と過ごし、沈没したのも同じレイテの戦い……エンガノ岬沖海戦だったので、千歳の記事と内容の大部分が重なる。

 

 

 東京湾において公試。


 マル2計画により建造を決定。当初は特殊潜航艇「甲標的」母艦として作られる予定であったが、秘匿のため水上機母艦として計画される。千歳に送れること5か月。皇紀98(昭和13/1938)年12月25日に水上機母艦千代田として竣工する。

 水上機とは艦載機の一種だが火薬式カタパルトより射出され、偵察等の任務終了の後に水上へ着水、クレーンで吊って回収する。港湾基地での運用も可能である。千代田は千歳と同じく、九四式及び九五式水上偵察機を運用した。

 

 

 特殊潜航艇「甲標的」

 

 

 94式水上偵察機

 

 

 95式水上偵察


 2年後、皇00(S16/40)年5月、千代田のみ当初の計画通り甲標的母艦へ改造される。甲標的12機を格納し、艦尾スリットより発進可能であった。また、そのための甲標的用指揮マストが新設された。それでも水上機12機も運用可能であった。

 

 

 千歳型水上機母艦。


 翌月、さっそくミッドウェーへ参加。水上部隊本隊付随として、赤城、加賀、蒼龍、飛龍の空母4隻をメインとする先行部隊の吉報を待つも、もたらされたのは主力空母4隻喪失の衝撃だった。日本軍はいざというときのために空母改装を前提とした船を多数建造していたが、千代田を含む5隻(千歳、千代田、貨客船ぶらじる丸、同あるぜんちな丸、ドイツ客船シャルンホルスト)がこの時空母改造決定し、次年度予算が承認された。

 ただし、ぶらじる丸が空母化のため日本へ回航途中に米潜の雷撃により沈没してしまったため、4隻が空母となった。

 あるぜんちな丸は空母海鷹(かいよう)へ、シャルンホルストは空母神鷹(しんよう)へ改造された。千歳と千代田は、艦名が変わらなかった。

 年度も押し迫った皇03(S18/43)年の2月、空母化工事開始。同年の12月に空母千代田は完成した。

 

 

 デジタル彩色。

 

 船団護衛に従事したのち、翌皇04(S19/44)年6月、千代田は日本海軍の大規模反攻作戦である「あ号作戦」へ参加。マリアナ沖海戦である。日本軍は艦隊付属可能な全空母9隻を集め、米機動艦隊へ超大規模アウトレンジ戦法を仕掛けることになった。

 しかしパラオ空襲の際に脱出した海軍高官が捕虜となり、あ号作戦の概要が事前に米軍の手に渡るという「海軍乙事件」が発生していた。米軍は日本軍の倍以上(日本軍:空母9、戦艦5、重巡11、軽巡2、駆逐艦20、計47隻に対し米軍:空母15、戦艦7、重巡8、軽巡12、駆逐艦67!の計109隻)の兵力を備え、日本を待ち受けていた。そもそも日本軍集結地のタウイタウイ泊地周辺には封じ込めのため米潜がウヨウヨしており、空母群は訓練もままならずに作戦へ突入した。

 6月18日、一足早くグアム、トラック、ヤップなどの基地航空隊が米軍を攻撃。しかし反撃にあい壊滅的損害を受ける。これにより日本軍の基地航空隊との共同作戦は頓挫。日本軍は三段索敵により米艦隊を発見し、大鳳から攻撃隊が飛び立った。しかし夕刻に近く、小澤艦隊司令から夜間攻撃になるとこを危惧し攻撃中止命令。発艦した部隊は爆弾を捨てて帰投する。しかし、錬度未熟により満足な着艦すらできず、数機が失敗して大破したという。大鳳は嫌な予感で重苦しい空気となった。

 6月19日、依然、米軍は日本艦隊を発見できず、逆に米艦隊を発見していた日本軍は先制攻撃を決意。ミッドウェーの轍を踏み護衛の水上部隊を前衛に、後方に甲(大鳳、翔鶴、瑞鶴)乙(隼鷹、飛鷹、龍鳳)丙(瑞鳳、千歳、千代田)の三群に分けた空母部隊を配した。しかし日本軍の第1次から第6次まで行われた波状攻撃隊は最新鋭レーダー、VT信管付最新対空弾、零戦の倍の馬力で飛び零戦の弾では落とせない装甲を持った最新艦載機F6Fヘルキャットの配備、などにより、攻撃隊の半数以上を失うという「壊滅」の憂き目にあった。特に最新鋭の天山艦攻と彗星艦爆は、搭乗員の錬度未熟もあってほぼ全滅した。

 千代田は丙部隊配属。小澤艦隊司令の元、次々に艦載機を飛ばすも大半が未帰還であった。しかも甲部隊では米潜の攻撃により虎の子最新鋭の大鳳が沈没、翔鶴も米潜の攻撃でその日のうちに沈没した。どちらも魚雷攻撃により航空燃料が漏れて気化し、引火して大爆発した。

 翌20日、補給のためタンカー部隊と合流し、洋上給油しているところを200機もの米軍に急襲される。機動部隊は電探にていち早く襲来を察知し避難するも、補給部隊へ指揮命令する権限がなくタンカーを見捨てて自分たちだけ逃げたかっこうとなった。どちらにせよ空襲を受け、飛鷹が沈没、タンカーも2隻大破後処分された。その他艦艇損傷多数。小澤司令は米軍への反撃も試みたが、駆逐艦らの燃料枯渇の危険があり断念。米軍も逃げた日本艦隊を発見できず撤退した。

 日本軍は「マリアナの七面鳥撃ち」と揶揄されたこの戦いにより航空戦力が大打撃をうけ、空母はもはや飛ばせる航空機が無くなってしまったうえ損傷艦多数により、機動部隊は事実上壊滅した。一方、米軍の艦艇被害はほとんど無かった。米軍損失の航空機も、半分以上が夜間攻撃による着艦失敗の自損であった。

 乗せる航空機の無い空母など、輸送か囮にしか使えない。日本軍は生き残ってまともに動く主力空母4隻(瑞鶴、瑞鳳、千歳、千代田)を、囮部隊として編成する。

 皇04(S19/44)年10月、日本海軍は米軍のフィリピン侵攻を阻止すべく捷一号作戦を発動。最後の一艦まで戦う覚悟で聯合艦隊の総力を挙げて米軍を迎え撃つ。戦艦大和、武蔵、長門、金剛、榛名を中心とする栗田艦隊を水上部隊本体とし、要撃部隊として戦艦扶桑、山城を中核とする西村艦隊、その補佐の志摩艦隊、さらには主力空母4隻に護衛の航空戦艦伊勢、日向を有する小澤艦隊を囮として配置した。

 小澤艦隊はレイテ島へ向けて南下し、米軍のハルゼー提督率いる機動部隊を引き付ける役目を追っていたが、なにせ無線の調子が悪く日本軍の連携は定まらなかった。10月23日、本体である栗田艦隊がパラワン水道にて米潜水艦隊の攻撃を受け、重巡愛宕、麻耶が沈没、高雄が大破撤退という被害を受け第4戦隊が壊滅。翌24日シブヤン海へ入るも米機動艦隊の5波にわたる大空襲を受け、戦艦武蔵が沈没した。

 しかし、ハルゼー提督は空襲中に南下する小澤艦隊を発見。空母4隻を有するそちらが「日本軍の本隊」と誤認し空襲を中止、北上する。助かった栗田艦隊は、バラバラになった艦隊を立て直すために一時反転せざるを得なくなった。

 小澤艦隊は栗田艦隊反転を撤退と判断。自身も南下を中止し、北上する。25日未明、栗田艦隊反転を知らない西村艦隊が志摩艦隊の到着を待たず単独スリガオ海峡へ突入。駆逐艦時雨を残し壊滅する。

 25日、小澤艦隊は追撃してくるハルゼー艦隊との戦闘を決意。囮として北上を続けつつ、錬度未熟機を陸上基地へ退避させ、艦隊直掩の零戦を瑞鶴と千代田から上げる。しかし、その数は空母4隻でたったの18機であった。

 小澤艦隊は6群に分かれて航行していたが、25日0815ついに米機動部隊の第1波空襲180機の攻撃を受ける。この時の 「敵艦上機約80機来襲我と交戦中。地点ヘンニ13」(1KdF機密第250815電) の電報はしかし、機器の不調か、栗田艦隊に届かなかった。

 0835いきなり瑞鳳が被弾、小破ですんだものの甲板をやられ発着艦不可能となる。同時刻姉の千歳も直撃弾3、至近弾多数で浸水。0837には瑞鶴被雷、速度低下のうえ通信不能となって旗艦の役割を果たせなくなる。このため艦隊は以後自立運動となる。戦艦伊勢、軽巡大淀も小破。0850駆逐艦秋月がいきなり大爆発轟沈。軽巡多摩も被雷により大破落伍。0937ころ千歳沈没。

 1000ころ第2次攻撃。それまで無傷だった千代田に直撃弾1、大火災。1016には航行不能となって艦隊落伍。小澤司令は瑞鶴から大淀へ旗艦移動。直掩の零戦は空母がみな着艦不可能なため海上着水し、救助された。

 

 

 爆撃とされる千歳もしくは千代田。

 

 


 1300ころ第3次攻撃。残っていた瑞鶴と瑞鳳に攻撃集中。1414瑞鶴沈没。瑞鳳は1526に沈没した。

 さて航行不能で漂流していた千代田は、軽巡五十鈴が曳航を準備していたが燃料不足で断念。五十鈴と駆逐艦槙が生存者救助の後雷撃処分を命じられた。しかし五十鈴は千代田と接触し曳航を諦めず準備。そこへ米軍の空襲があり被弾、曳航を断念し退避した。遅れて到着した槙も米軍の空襲で被弾。2隻は夜まで待って救助と雷撃処分を行おうと海域を離れる。

 そこへ1648米軍の偵察機が千代田を発見。ハルゼー提督は呼び戻されて海域を離れており、残存艦隊処理を任されたデュポーズ少将率いる水上部隊へ通報。巡洋艦隊は直ちに現場へ向かい、漂流する千代田を発見、砲撃を開始。一斉者を受けた千代田は左に傾斜し、おそらく1747に沈没した。総員戦死。

 26日には、五十鈴が沖縄の中城へ、伊勢、日向、大淀、霜月、若月、槙はそれぞれ29日に呉へ避難。随伴の補給部隊もタンカー2隻がやられた。

 小澤艦隊は見事囮任務を果たしたかに見えたが、栗田艦隊へ報が届かず、米機動艦隊も途中から引き返したため中途半端に終わった。サマール沖海戦を経て再びハルゼーの脅威にさらされた栗田艦隊は、西村艦隊壊滅と志摩艦隊撤退の報を受け、ついにレイテ湾突入を断念。「栗田ターン」をもって離脱した。

 以後、残存空母僅かにして動かす燃料も飛ばす航空機も搭乗員も無く、栄光の機動部隊は解散。各空母は聯合艦隊麾下となるもその聯合艦隊も戦闘可能な残存艦艇少なく事実上壊滅した。

 


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 ミッドウェー海戦における主力空母4隻同時喪失に伴い、海軍がいそぎ不足空母の穴を埋めるべく、日本に留まっていたドイツ客船の改装空母化へ着手したものである。

 そもそも日本は軍縮条約の規制により空母建造枠を使い切っており、将来的に空母へ改装しうる他種の船舶を多く建造していた。また、民間貨客船にも将来、有事の際には徴傭し空母改装を行うのを条件に補助金を出す制度である「優秀船舶建造助成施設」により作られた貨客船や豪華客船も空母へ改装している。

 日本軍において別種の船として建造後に改装された空母は、以下のとおり。

 客船春日丸(大鷹 たいよう)
 客船八幡丸(雲鷹 うんよう)
 客船新田丸(冲鷹 ちゅうよう)
 貨客船あるぜんちな丸(海鷹 かいよう)
 客船橿原丸(隼鷹 じゅんよう)
 客船出雲丸(飛鷹 ひよう)
 
 潜水母艦大鯨(龍鳳)
 水上機母艦剣先(祥鳳)
 水上機母艦高先(瑞鳳)
 水上機母艦千歳(千歳)
 甲標的母艦千代田(千代田)

 そしてドイツ客船シャルンホルストを改装したのが、この空母神鷹(しんよう)である。

 

 


 そもそも、どうしてドイツ客船を日本軍が空母に改装することになったのかというと、やはりミッドウェーへ遡る。

 客船シャルンホルストは1935(昭和10)年4月に竣工したが、国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)政権下にあって初めて竣工した大型客船で、竣工式にはヒトラー総統、ゲーリンク国家元帥、レーダー海軍元帥らを筆頭に政府要人が列席したという。ブレーメン~横浜間を含む多くの航路を走った。しかし39(S14)年8月、神戸からシンガポールなどを経てドイツへ向かう途中、ドイツ軍の暗号伝聞を受け日本へ引き返す。第二次世界大戦の勃発により、イギリス軍に拿捕されるのを恐れたのだという。ドイツ人の乗員乗客は当時まだ国交のあったソ連を経由し、シベリア鉄道でドイツへ戻った。シャルンホルストはそのまま神戸に3年間、繋留される。

 既に皇紀2602(昭和17/1942)年の4月には、シャルンホルストが日本へ譲渡されていたという記録もあるようだが、一般的には、6月5日のミッドウェーにて主力空母4隻を喪失した日本軍が、ドイツへ建造途中の大型空母グラーフ・ツェッペリンの譲渡を打診。しかし、現在の情勢では極東までの回航は不可能であるとの回答を受ける。その代わり、ドイツは神戸に留めっぱなしで扱いに困っていたであろうシャルンホルストの売却を打診。ドイツ大使館との交渉により、日本は戦後にドイツ船価の倍の料金を払うことで折り合いがついた。

 

 

 客船シャルンホルスト。

 

 

 

 


 6月12日、神戸より呉へ回航。ミッドウェー後たったの7日であった。6月30日、日本軍はあるぜんちな丸、ぶらじる丸、シャルンホルスト、千歳、千代田の空母改装を決定。呉で空母化工事の始まったシャルンホルストには、建造中止となった大和型戦艦4番艦(第111号艦。竣工していれば戦艦「紀伊」の予定であったという)の資材も流用された。

 シャルンホルストは先に空母化された新田丸級客船と設計が酷似しており、空母化工事は大鷹型空母の要領で行うことができた。ただし詳細設計図がドイツにあり、日本の技術者が現場で採寸しながら設計図を書き直した。

 また船体は新田丸級より若干大きく、排水量は20,000トンを超え飛龍型に匹敵した。従って格納庫も大きく二段式にすることも可能だったが資材節約と工期短縮のため小型空母と同じく一段式にし、艦橋も船首甲板下に作られた。改装工事は1年3か月かかり、皇03(S18/43)年12月15日竣工。

 

 

 デジタル彩色。


 さて戦争も末期になり、日本軍は陸海ともアメリカの徹底した通商破壊作戦により完全に干上がっており、戦争当初の被害予想の数倍のトン数の輸送船を米潜水艦に沈められていた。しかも日本の輸送船は海軍の建造だけではとても賄えず、漁船も含めた民間船を大量に徴傭していたため、軍人ではない軍属民間人が多数戦死していた。

 さらには、聯合艦隊には輸送船部隊を護衛する義務も指揮命令する権限も無かったため、トラックでは米軍の空襲を察知して聯合艦隊だけ撤退命令が出て、輸送部隊(ほとんど民間船)を見捨てて脱出したし、マリアナ沖海戦において海上補給中に米軍の空襲を受けた際も、レーダーでいち早く敵機襲来を察知した聯合艦隊だけタンカー部隊を置いて逃げ出す始末であった。これは、聯合艦隊には輸送部隊に情報共有し退避命令を出す権限も義務も、そのようにしろという命令も無いためである。日本人は変なところに律儀なので、こういうときでも縦割り行政を厳守する。

 神鷹竣工の1か月前、皇03(S18/43)年11月、日本海軍は海上交通路保護と対潜掃討を目的とする「海上護衛総司令部」を設立。聯合艦隊とは別個に動き、遅ればせながら輸送船団護衛へ本格的に乗り出す。

 12月に海上護衛総司令部へ配属となった神鷹は、さっそく翌皇04(S19/44)年1月8日、航空機輸送のため大鷹、護衛の駆逐艦3隻と共に呉を出発したが機関故障により佐伯で泊まり、神鷹だけ呉へ戻った。1月19日、再び輸送任務を受け試運転したが機関の調子が悪く、呉へ戻った。

 ここにきてシャルンホルストの機関であるドイツ製ヴァグナー式高温高圧タービンと電気推進機の併設はトラブルが多く日本の技術者では扱いきれないこともあり、このままの運用は難しいと判断。甲板と一部船体を切断除去し、日本軍の標準蒸気ボイラーへの機関総取換工事を急遽行った。それに3か月を要したうえ、速度が低下し合成風力が得られず彗星、天山の新型艦載機の運用が難しくなったため、旧型の97式艦攻、99式艦爆を運用することとなった。

 2月に工事が終わり、3月より運用再開。訓練を積み、7月にようやく第一海上護衛司令官の指揮下へ入った。その後は、他の大鷹型と同じく大規模輸送船団である「ヒ船団」の護衛任務に就く。

 7月14日、ヒ69船団護衛として門司を出発。空母は他に大鷹と海鷹がいたがこの2隻は航空機輸送任務であり、神鷹のみ対潜哨戒を行った。ただし、神鷹にも海軍の局地戦闘機「雷電」が10機、輸送のために積まれていた。台湾、マニラを経由し31日にシンガポール着。直ちにヒ70船団として8月2日にシンガポールを出発。日本へ原油などを運んだ。途中マニラで中破していた軽巡北上と合流し、台湾を経て8月15日(終戦のちょうど1年前)に船団は門司へ到着した。

 8月18日ヒ71船団を護衛していた大鷹が撃沈される。9月8日整備を終えた神鷹はヒ75船団護衛任務にて門司を出発。台湾を経由し、一部はマニラを目指して別れ、9月22日にシンガポール到着。停泊中に神鷹搭載の97式艦攻が周囲を対潜哨戒したが戦果無し。

 10月2日(もしくは3日)ヒ76船団が物資を積み日本へ向けてシンガポールを出発。台湾を経て日本へ向かう途中、沖縄空襲や台湾沖航空戦のため海南島へ避難。15日(もしくは16日)に出発するも、アメリカ軍のフィリピン空襲に備え海南島へ戻る。18日に再出発するも一部はレイテへ向かう栗田艦隊へ給油するために分離した。25日、なんとか日本到着。神鷹は呉で修理に入った。

 11月13日、修理を終えた神鷹はヒ81船団を護衛し、マニラを経てシンガポールを目指した。このヒ81船団には陸軍第23師団(一部)が乗っており、マニラ攻防戦へ参加する予定だった。第23師団はノモンハン以来機械化装甲師団の先駆けとして満州に長く駐屯していたが、戦局悪化に伴い虎の子としてフィリピン防衛へ派遣されたものだった。ヒ81船団を含み数回に分けてレイテへ移動の途中であった。

 またヒ81船団には陸軍の特殊揚陸艦あきつ丸も同行していた。あきつ丸は空母のように全通甲板を持ち、見た目は空母そのものである。哨戒機を運用できたが、この時は通常輸送任務でった。

 

 

 あきつ丸。

 

 厳重な対潜警戒を行いつつ関門海峡から対馬沖へ出たが、待ち伏せの米戦艦と思わしき無線を多数傍受。念のため引き返して14日五島列島で仮泊した。翌15日出発。神鷹より哨戒機を飛ばし入念なる対潜警戒を行っていたが正午少し前、済州島沖にてあきつ丸が米潜クィーンフィッシュの雷撃を受ける。自衛用爆雷や輸送中だった陸軍兵器の弾薬が誘爆し、たったの数分で転覆、沈没した。輸送中の23師団陸軍兵2000名が戦死した。

 あきつ丸の生存者を収容した船団はいったん朝鮮半島まで逃れ、巨文島から済州島と島伝いに移動。17日朝、再び出港した。しかし米潜と中国大陸からの米海軍哨戒機に発見され、執拗な追尾を受けた。米潜は神鷹の哨戒機が飛べなくなる日没を待ち、1830ころ米潜ピグーダの発射した魚雷が陸軍特殊船麻耶山丸を襲った。麻耶山丸はものの10分で轟沈。輸送中の第23師団司令部と歩兵師団は壊滅した。4500人中約3200人が戦死した。

 護衛の海防艦が懸命に爆雷投下したが、それから5時間後の2300ころ、米潜スペードフィッシュの放った魚雷6本中4本が神鷹右舷へ命中。航空燃料に引火し、神鷹は爆発を繰り返しながら大炎上した。10分後には総員退艦。それから20分後、被雷からたったの30分で神鷹は艦尾から沈没してしまった。燃え盛るガソリンが海上に流れ、生存者は少なかった。

 朝を迎え、船団は命からがら潜水艦の近づけない浅い海域を陸地沿いに進み、18日夕刻に泗礁山泊地(浙江省、上海の南)へ避難した。爆雷投下と生存者救助、対潜哨戒で離れた護衛艦群を待ち、21日に出発。陸地伝いに南下し、25日、陸軍を乗せた輸送船は途中で別れて高雄へ向かった。陸軍部隊はタマ33船団として30日にマニラへ到着した。

 ヒ81船団はタンカー部隊となって12月4日にシンガポールへ到着した。

 精鋭第23師団の司令部と半数を失ったヒ81船団の悲劇は大本営に衝撃を与え、マニラ防衛の準備が整わないままに翌皇05(S20/45)年1月の米軍上陸を迎えてしまい、マニラ攻防戦は非常に苦戦することとなる。


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 この空母千歳と姉妹艦の千代田は、瑞鳳、翔鳳、龍鳳らと異なり、潜水母艦ではなく水上機母艦から空母になった。水上機母艦とは、巡洋艦や戦艦より火薬式カタパルトで射出し偵察、索敵を行い帰りは海上に着水してクレーンで吊って回収する航空機である水上機を専門に搭載する艦である。

 もっとも、計画当初は水上機母艦ではなく、甲標的母艦であった。甲標的とは1人乗りの特殊潜航艇で、例えば敵海上基地の近くで母艦より発進、湾内、泊地などに侵入し至近距離から魚雷を1発だけ撃つ秘密兵器である。真珠湾で実践参加した。しかし計画は秘匿され、千歳と千代田は水上機母艦として建造された。その後、千代田のみ計画通り甲標的母艦に改装された。

 

 

 現存する甲標的。船首に敵の防護網を切断するカッターが装備されている。


 したがって厳密には、千代田は水上機母艦→甲標的母艦→空母となった。千歳は、水上機母艦のままで甲標的母艦にはならなかった。

 

 

 

 

 水上機母艦千歳もしくは千代田。背部の特徴的な高架が認められる。


 マル2計画により、皇紀2598(S9/1938)年7月、水上機母艦として竣工。上記の通り元は特殊潜航艇甲標的母艦として設計されたが、秘匿のため水上機母艦として完成した。搭載したのは九四式水上偵察機、九五式水上偵察機で、後に零式観測機、零式水上偵察機へ変わった。機関は艦本式蒸気タービンとディーゼルエンジンとの併用だった。

 

 

 九四式水上偵察機

 

 

 九五式水上偵察機 

 

 

 零式観測機 

 

 

 零式水上偵察機

 

 一時、水上機母艦として中国大陸へ進出したのち、真珠湾後の太平洋戦線にも水上機母艦として参加。皇02(S17/42)年6月のミッドウェーにも参加した。ただし前衛部隊の空母4隻全滅により、ミッドウェー島攻略が中止となり、途中で引き返した。

 主力空母喪失の穴を補うため、潜水母艦大鯨(龍鳳)、貨客船あるぜんちな丸(海鷹)、ドイツ客船シャルンホルスト(神鷹)、貨客船ぶらじる丸(撃沈され未改装)、そしてこの水上機母艦千歳と、甲標的母艦千代田の空母改装が決定する。

 その前には、同年8月の第2次ソロモン海海戦へ水上機母艦として参加。龍驤隊が囮となり、翔鶴、瑞鶴がヘンダーソン航空基地を爆撃する作戦だったが、敵航空隊に逆襲され、龍驤が沈み基地攻撃も不発に終わってしまった。この一連のガ島攻防戦は1回1回の戦いはそうでもないが、同年12月のガ島撤退までに失った艦船、航空機、弾薬燃料、人員は総数でこの後のどの戦いよりも大きく、日本海軍の体力を大きく奪った。

 翌皇03(S18/43)年1月より佐世保で空母改装開始。順調に進み、同年の8月1日に工事は完成。12月に正式に空母となり、竣工を迎えた。

 

 

 竣工直後。

 

 この年、聯合艦隊では大きな戦いはなかったが、日米とも休んでいたわけではなく、戦争は継続中。大規模な航空戦が行われ、空母艦載機は基地航空隊へ派遣。消耗した航空機やパイロットの補充がままならず、日本は航空戦力をすり減らし、また大艦隊が作戦出撃しては会敵せずを繰り返してついにトラック基地の備蓄燃料が底をつきかける事態となったうえ、米潜水艦による補給船の被害は増える一方。空母にまでドラム缶を積んで燃料輸送する有様であった。

 皇04(S19/44)年6月、日本は航空戦力及び艦隊随伴可能空母を結集し、米機動艦隊へ超アウトレンジ作戦を挑んだ。マリアナ沖海戦である。

 結集した空母は9隻。その護衛補給随伴部隊を含め、大艦隊であった。ミッドウェーの轍を踏み、戦艦水上部隊を前衛に出し、後方の空母群からのアウトレンジ攻撃だった。

 空母は3隻ずつ甲乙丙の3群に分かれ、護衛部隊を引き連れて進軍した。甲部隊(大鳳、翔鶴、瑞鶴)乙部隊(隼鷹、飛鷹、龍鳳)丙部隊(千歳、千代田、龍鳳)であった。

 しかし敵はパラオ空襲時に海軍の参謀将校が捕虜となり、後のマリアナ作戦要綱が米軍の手に渡るという「海軍乙事件」によりこの「あ号作戦」を事前に掴んでいた。米軍は前衛の水上部隊を無視し、日本軍と同じく超アウトレンジ戦法をとった。また日本軍の潜水艦攻撃隊に備え、駆逐艦を日本軍の3倍もの67隻配備したうえ、日本軍の護衛艦の少なさに注目してか、逆に潜水艦隊を派遣した。さらには、最新鋭艦戦F6Fヘルキャット、VT信管付対空弾、空母戦艦はもとより巡洋艦駆逐艦にまで最新式レーダー搭載と、日本のそれを遥かに凌駕する戦力を充実させていた。

 結果は、惨憺たるものであった。6月19日、早朝の第1次から薄暮の第6次にまで渡って行われた日本軍の航空攻撃は半数以上を失ったうえ、敵被害はほぼゼロという大敗北。しかも攻撃隊発進中に最新鋭空母大鳳と歴戦の翔鶴が米潜により雷撃され、それが元で航空燃料が漏れ引火し大爆発。2隻ともその日のうちに沈没した。

 翌日20日、海上補給のため艦隊集結していたところを米軍航空隊が逆襲、総勢200機にも及ぶ大編隊に襲われる。艦隊は散り散りとなり、特にタンカー部隊は混乱した。空母飛鷹とタンカー2隻が撃沈され、各艦も小破中破の損害を受けた。千代田も直撃弾1をうけ火災発生した。20日夕刻には日本軍も米軍を発見し攻撃隊を発進させたが、全損し攻撃失敗した。

 日米とも残存艦隊を集め追撃に移ったが、日本軍は小型艦艇の燃料不足が懸念されたため追撃を諦め、撤退した。米軍も日本軍を追ったが発見できなかったため、21日2120に追撃中止し撤退した。

 米軍より「マリアナの七面撃ち」などと呼ばれたという歴史的大敗北により、日本軍は航空隊が壊滅。空母は乗せる艦載機とパイロットを失い、機動艦隊は事実上戦力を失った。

 同年10月、海軍は最後の攻勢にうってでる。マリアナ沖海戦の勝利によりマリアナ諸島方面の制海・制空権を得た米軍はそこを拠点にフィリピンへ戦力を結集しはじめた。日本軍はフィリピン防衛のため、米軍の大規模輸送上陸部隊を撃滅せんと史上最大の海戦を計画。米軍もまたそれを迎え撃つため、最強の布陣を敷いた。

 レイテ沖海戦である。日本軍は部隊を4つに分け、司令官の名をとってそれぞれ「栗田艦隊」「西村艦隊」「志摩艦隊」「小澤艦隊」と通称する。小澤艦隊のみ空母を主力とした機動部隊で、他は全て空母無しの水上部隊である。すなわち、制空権はほぼフィリピンの基地航空隊に依存するほかはなかった。戦艦大和、武蔵、長門を要する栗田艦隊を本体とし、生き残った空母瑞鶴、瑞鳳、千歳、千代田の4隻と航空戦艦伊勢、日向の小澤艦隊が陽動(囮)として北東より米機動艦隊を引き付け、その隙に西北より侵入した栗田艦隊がパラワン水道を抜けシブヤン海を横断、レイテ島を北周りに進撃しレイテ湾へ突入、集結していた米上陸部隊を叩く。また背後より戦艦扶桑、山城を中心とする西村艦隊と、日本より南下した重巡那智を中心とする志摩艦隊がスリガオ海峡を抜け南西からレイテ湾へ侵入、栗田艦隊と合流するという空前絶後の超大作戦であった。

 詳細は専門サイト等を参照していただくとして、空母千歳は小澤艦隊として囮作戦に参加する。航空機がまともに確保できない空母は、もはや輸送か囮にしか使えない。

 エンガノ岬沖海戦である。既にシブヤン海では栗田艦隊がハルゼー提督の執拗な空襲に襲われており、戦艦武蔵が落伍(後日沈没)していた。しかし、その空襲がぴたりとやむ。ハリゼー提督は南下する小澤艦隊の前衛部隊を発見。空母4隻を有するため、そちらが主力と「誤認」したのであった。ここに、小澤艦隊は見事に囮の役割を果たすことになるが、栗田艦隊は被害の大きさに一時反転せざるを得なくなる。

 小澤艦隊はその報を受け、栗田艦隊が撤退したと判断。自身も反転し北上を開始。結果的に、さらにハルゼーを誘引することに成功した。小澤艦隊はその旨を栗田艦隊に打電したが、届かなかった。

 10月24日、米機動部隊の襲来が避けられないと判断した小澤艦隊は錬度未熟と思われる航空機を陸上基地へ避難させる。これにより、艦隊を護る直掩の零戦はたったの18機という様相を呈した。この18機は勇躍奮戦し、敵機撃墜17機を報告している。

 0815、180機もの敵機襲来。第1次攻撃である。小澤中将は全軍に当てハルゼー提督を誘引成功を意味する打電をするが、どこにも届かなかった。第1次空襲で早々に瑞鳳が被弾、落伍する。瑞鶴も魚雷1発受け速度低下。0850ころ駆逐艦秋月が突如として大爆発し轟沈。原因は不明である。0900ころ千歳は直撃弾5至近弾多数を受け、喫水線下で爆発が起き大浸水。航行不能となり、0930総員退艦。救助作業もむなしく0937に沈没した。その他艦艇も被害多数。

 

 

 

 

 エンガノ岬沖にて爆撃を受ける千歳と思わしき空母。

 

 その後、攻撃は第4次まで行われ、ハルゼー提督は再び栗田艦隊へ向かったため攻撃は中止された。ただし、一部水上部隊が残存日本艦艇を求めて追撃した。千歳の後、瑞鶴、瑞鳳も沈没。特に瑞鶴は米軍にとって真珠湾以来の宿敵であり、最後の大物空母であった。千代田は第2次攻撃で直撃を受け大火災。航行不能となり漂流していたところ、味方の雷撃処分を待たずにデュポーズ少将の率いる重巡2軽巡2駆逐艦多数の追撃部隊に発見され、砲撃により撃沈された。

 ここに日本の機動艦隊は壊滅。本土には竣工したばかりの雲龍型や、故障中の隼鷹、龍鳳、練習艦となっていた翔鳳らがいたが、機動艦隊は解散し空母は単独で行動することとなった。空母4戦艦2軽巡3駆逐艦8総勢17隻の小澤艦隊で生き残ったのは、戦艦2(伊勢、日向)軽巡2(大淀、五十鈴)駆逐艦3(霜月、若月、槙)の7隻であった。

 武蔵沈没後の24日深夜、西村艦隊が志摩艦隊の到着の遅れを理由にスリガオ海峡へ単独突入。米軍の大迎撃を受け、壊滅する。志摩艦隊が到着した時には、駆逐艦時雨を残して海峡が燃え盛る炎で真っ赤に染まっていた。志摩艦隊は時雨と合流し、突入を断念、反転する。

 体勢を立て直した栗田艦隊は進撃を再開。翌25日にサマール島沖で米第3護衛艦隊と遭遇、ハルゼー部隊と「誤認」し戦闘開始。勇戦するも、報告を受けた第1第2護衛艦隊群からも艦載機が飛び立ち、逆に200機もの航空機に襲われる。米軍は油圧カタパルトを実装しており、搭載数が20機ていどの小型空母にも大型の最新航空機を配備していた。そんな護衛空母が10隻集まれば、200機もの攻撃隊を運用できた。

 栗田艦隊は大した戦果もあげられぬまま追撃中止。さらに南下するも、燃料弾薬の欠乏、味方艦艇の沈没、損傷激しく、また西村艦隊壊滅と志摩艦隊撤退の報を受け作戦遂行を断念。「栗田ターン」をもってレイテを離れたのであった。

 ここに日本は聯合艦隊も壊滅し、制空権、制海権を失ったため残存艦艇を本土へ集めるのにも苦労する。翌皇05(S20/45)年4月の大和特攻が、最後の大規模海戦となった。その後は、動かす油も無いまま、残存艦艇は呉などで浮遊砲台と化す。
 


テーマ:

 大鷹(たいよう)型航空母艦の1つである海鷹(かいよう)は、厳密には大鷹型ではなく、一定の大きさの商船改装空母を分類上便宜的に大鷹型としたものである。大鷹型は新田丸級客船改装空母の大鷹、雲鷹(うんよう)、冲鷹(ちゅうよう)の3隻のみで、貨客船あるぜんちな丸改装のこの海鷹と、ドイツ客船シャルンホルストを改装した神鷹(しんよう)は、独立した1隻のみの空母となる。

 

 


 有事の際に優先的に海軍が徴収、または買収して軍務に就かせることを条件に軍が建造費を融資する「優秀船舶建造助成施設」補助金で貨客船「あるぜんちな丸」と「ぶらじる丸」が大阪商船によって建造された(竣工した)のは、皇紀2599(S14/1939)の5月(あるぜんちな丸)と12月(ぶらじる丸)であった。大型のディーゼルエンジンを積み、16500馬力で最大21.5ノットを出せた。さっそく南米航路へ投入され、海軍へ徴傭されるまでブラジルへ日系移民を運ぶなど、大いに活躍した。

 

 

 貨客船あるぜんちな丸。上の写真と比べて、船首の形状がそのまま海鷹へ残っているのがわかる。


 2年後の皇01(S17/41)年9月、真珠湾を控え、両船は海軍に徴傭される。12月真珠湾。対英米蘭戦開始。翌年5月、ミッドウェー海戦に備えて兵員を輸送し、6月の海戦にもミッドウェー島上陸占領作戦用の兵員を乗せて作戦に参加した。しかし、ミッドウェーは主力空母4隻重巡1隻を失う大敗北を喫し、出番なく撤退する。

 その後、6月30日、空母不足を補うために日本軍は次年度予算としてあるぜんちな丸、ぶらじる丸、ドイツより譲渡された客船シャルンホルスト、水上機母艦千歳、千代田の空母改装を決定する。

 しかし8月5日、空母改装準備のためトラックから横須賀へ向かっていたぶらじる丸が米潜グリーンリングの攻撃によって撃沈されてしまう。このため、あるぜんちな丸のみが空母となった。

 あるぜんちな丸はアリューシャン方面や東南アジア方面への兵員輸送作戦へ従事したのち、12月20日、長崎の三菱造船にていよいよ空母改装へ着手した。翌皇03(S18/43)年11月23日工事完成。空母海鷹となる。龍鳳と同じく、ディーゼル主機をすべて陽炎型蒸気タービンへ換装した大工事だった。

 

 

 改装直後の公試。まだ菊の御紋にカバーがついている。


 既に海軍は度重なる徴傭補給船の被害に業を煮やし、聯合艦隊とは異なる「海上護衛総司令部」を設立。海防艦、駆逐艦、それに大鷹型空母を編入し大規模補給船団の護衛にあたらせた。が、当初はまだ護衛艦隊として動く準備ができておらず、護衛司令部付きのまま、連合艦隊麾下として航空機輸送を行う。

 翌皇04(S19/44)年1月、護衛の駆逐艦とともにシンガポール、マニラ、パラオ方面へ航空機輸送。2月20日に呉へ戻った。

 3月17日、ヒ57船団護衛として護衛艦隊初任務。何事もなく4月16日シンガポール到着。帰路はヒ58船団として物資を積み4月21日に日本へ向かい、5月3日に門司へ到着した。5月29日ヒ65船団としてシンガポールへ向けて出発。台湾沖で米潜ギターロの襲撃にあい海防艦淡路が沈没。輸送船2隻が回避行動中に衝突、1隻が大破し練巡香椎に曳航され台湾へ逃れたが他はなんとか離脱、6月11日にシンガポール到着。帰路ヒ66船団は6月17日にシンガポール出発、6月26日に無事門司へ戻った。
 
 マリアナ後、日本軍はフィリピンへ戦力を終結させる。修理の後、海鷹は大鷹、神鷹らと共にヒ69船団に加わる。ただし対潜哨戒を行ったのは神鷹のみで、大鷹と海鷹は零戦、彗星、天山、雷電、月光などの航空機を輸送した。米潜により第17号海防艦が中破したが他に被害無く7月20日にマニラ到着。帰路は神鷹がヒ69船団護衛としてシンガポールへ、大鷹がヒ68船団護衛として日本へ向かった。

 7月5日、海鷹はマモ01船団護衛で台湾を経て日本へ向かう。8月3日日本到着、海鷹はドック入りし10月まで機関修理する。

 10月17日、再び聯合艦隊に所属した海鷹は龍鳳と共に台湾沖航空戦で被害を受けた高雄へ向けての物資や損耗した航空機補充のため台湾へ向かう。しかし台湾空襲が始まり船団は非難しつつ基隆や高雄へ入港、物資を下ろし、またアルコールや砂糖を積んで日本へ戻った。呉で11月まで再び補修。

 レイテでも大敗し戦争も末期を迎える11月下旬、海鷹は最後の船団護衛任務を受ける。海鷹のほか駆逐艦5、海防艦5に守られた貨客船5とタンカー3他2隻からなるヒ87船団が日本を出発、高雄を経由し、一部はマニラへ向かい、12月13日、シンガポール到着。海防艦1隻が米潜の雷撃で失われた。12月26日、ヒ84船団としてシンガポールを出発。香港を経由して翌皇05(S20/45)年1月13日、門司へ無事に到着した。

 その後、燃料の枯渇と何より制海権、制空権の亡失により大規模輸送船団は運航停止に追い込まれ、海鷹も燃料不足により活動できなくなって、瀬戸内海で訓練艦(標的目標艦)となった。

 3月19日の呉空襲において、海鷹は空母天城、葛城近くに停泊していたところ、爆弾の直撃を受けた。しかし方向・角度が幸いしたのか、甲板を貫通して海面で炸裂したため、被害は少なかった。その後、同じく呉で生き残った空母仲間の龍鳳、鳳翔、天城、葛城と共に甲板へ植物などを置きカモフラージュする。

 その後、呉にてドック入りし修理したのち、瀬戸内海伊予灘にあって特高兵器桜花、回天の目標艦を務めた。終戦直前の7月18日、別府湾沖にてB-29の投下した機雷に接触し、損害軽微だったものの湾内へ戻る。7月24日米機動部隊の空襲を受けたが対空兵器で応戦、回避し無事だった。しかし空襲の終わった夕刻に退避のため湾を出たところ再び機雷に接触、機関と舵をやられ航行不能となる。駆逐艦夕風の曳航で別府湾内の日出に擱座。

 

 7月28日、再び米機動部隊艦載機による空襲。動けない海鷹は直撃弾3発をくらい浸水。発電機が停止し、排水ポンプが動かず浸水増大で完全に着底した。火災発生により艦内に煙が充満したが、排煙装置が作動せず総員退艦。どうしようもなく放棄された。

 

 

 着底した様子。引き揚げの後、解体された。


 そのまま終戦を迎え、昭和26(1946)年9月1日解体開始。S28(48)年1月31日解体完了した。スクラップ材として、戦後復興に貢献した。

 
 解体途中。

 


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 皇紀2590(S5/1930)年のロンドン軍縮条約により、日本は戦艦(主力艦)や空母の保有トン数制限がかけられた。主力空母を何とか蒼龍、飛龍まで建造した日本だったが、そこで保有枠を使い切った。そのため、いつでも空母へ改造できる条約対象外の艦を建造する。それが高速給油艦(後に潜水母艦)高崎(後の空母瑞鳳)、高速給油艦(後に潜水母艦)剣先(つるぎさき)(後の空母祥鳳)、そしてこの潜水母艦大鯨(たいげい)後の空母龍鳳である。

 

 


 大鯨はさまざまな試験的要素を含んだ大型艦で、このクラスの艦として日本軍で初めて全体を電気溶接で建造し、また主機は大型ディーゼルエンジンを4機備えていた。計算では最大速度20ノットを予定した。当初の設計より後の空母化を想定しており、船体が大きく機関にも余裕があり、潜水母艦としても優秀な設計だった。

 

 

 潜水母艦、大鯨。


 ところがどっこい、大規模な電気溶接工法は当時の日本ではまだ技術的に至難であり、不足する溶接工の養成を同時に進めたというありさまで、現在では主流のブロック工法で溶接していったはよいが、大きくなるにつれ船体に歪みが生じ、解消のためいったん船体を切断してリベットで繋ぎなおした。そのため工事が遅れたが、なんと昭和天皇に浸水日を伝えてしまっていたため工期を伸ばすわけにもゆかず吶喊。

 皇93(S8/33)年11月16日なんとか進水。擬装が続けられ、擬装ドック内でも歪みの解消が充分ではなく、同じ場所を再切断して繋ぎなおした。翌年3月31日にいちおう竣工したものの、擬装は未完成で引き続き工事が行われ、11月20日に事実上の竣工。それでも細部の工事が翌年の春まで呉で行われた。

 大型ディーゼルエンジンは不調が続き、設計の半分も馬力が出なかった。また皇95(S10/35)年の第四艦隊事件にまきこまれた。大鯨は重巡足柄、軽巡川内と共に「アメリカ戦艦役」を担っていたところ、台風の波浪で船体中央外板に大きな皺が寄り亀裂が発生するという被害を受けた。これにより電気溶接工法の信頼が損なわれた。

 その修理や、機関の改良工事などで大鯨の就役は遅れに遅れ皇98(S13/38)年9月5日にようやく第一潜水戦隊へ編入。その後しばらくは潜水母艦として活躍した。皇01(S16/41)年11月、真珠湾の際には潜水艦隊旗艦を伊8号潜水艦へ譲り、対英米戦勃発後の12月10日、大鯨はいよいよ空母へ改装するために横須賀へ入る。

 まず信頼性の低い主機の大型ディーゼルエンジンをすべて廃止し、陽炎型駆逐艦と同じ蒸気タービンへ全換装。4月18日のドーリットル空襲ではなんとB-25の落とした爆弾が大鯨に命中、船体に大穴が空いて修理に4か月を要した。5月上旬には珊瑚海海戦で大破した翔鶴が修理のため母港である横須賀に来たが、大鯨の改修で手いっぱいのため呉へ回された。11月28日、空母として改装完了。30日に大鯨改め、龍鳳と命名された。

 12月上旬、さっそく同じく初任務の、客船新田丸から空母改装された冲鷹といっしょに護衛艦を伴ってトラックへ航空機輸送任務に就く。運んだのは、陸軍の九九式双発軽爆撃機だった。ところが、冲鷹が機関不調により出発が延期され、12月11日龍鳳のみ護衛の駆逐艦時雨と共に出発した。さらにところが、12日に八丈島沖で龍鳳は待ち伏せていた米潜ドラムの雷撃を受け、右舷中央に魚雷1本命中。航行可能だがトラックまではとても行けなくなったため、出たばかりの横須賀へ引き返した。遅れて出発した冲鷹隊は無事にトラックへ到着した。龍鳳が運ぶ予定だった航空機は、後に瑞鶴が運搬した。龍鳳は修理に4か月かかった。

 

 

 横須賀へ戻る途中だそうである。


 翌皇03(S18/43)年、修理を終えた龍鳳は翔鶴や凰翔と訓練を行い、ミッドウェー後の新生航空戦隊の確立に努めた。6月、増える一方の米潜水艦を航空機で撃退するべくトラックへ航空機輸送。しかし、先行した飛鷹が三宅島沖でその潜水艦に雷撃され小破、軽巡五十鈴に曳航されて日本へ戻り、飛鷹の分の航空機も一部積んだ龍鳳は無事にトラックへ到着した。龍鳳の航空隊は一時的に陸上基地へ配備され航空戦を行ったが、1か月半で半数を失い、解散してそのまま陸上基地に編入されてしまった。戦う航空隊を失った龍鳳は航空機輸送任務を続けて行い、前線で米軍と戦う機会はなかった。
 
 翌皇04(S19/44)年、瑞鳳と共にサイパン・グアム方面へ航空機を輸送し、4月8日に呉へ戻った。その後、あ号作戦(マリアナ沖海戦)へ参加。いよいよ初の実戦となった。

 日本軍が全航空戦力をかき集めて渾身の大攻勢に打って出たマリアナであったが、既にパラオ空襲の際にマリアナ作戦の概要を記した超機密書類がアメリカに奪われていた(海軍乙事件)うえ、米軍には零戦を凌駕するF6Fヘルキャット艦戦やVT信管付の対空弾、高性能レーダーが装備されていた。

 6月19日、日本軍は艦隊を大きく3つに分け、それぞれ空母群を中心に護衛や補助艦隊を配置。甲部隊に最新鋭装甲空母大鳳、歴戦の翔鶴、瑞鶴。乙部隊に客船改装ながら充実した艦載機数を誇った隼鷹、飛鷹、そしてこの龍鳳、丙部隊に水上機母艦及び高速輸送船改装の千歳、千代田、瑞鳳が配置された。日本軍に残った機動部隊参加可能空母9隻が、全てそろっていた。

 日本軍は第1次から6次に分けて寸断無く攻撃隊を発進、米機動艦隊を襲撃したものの、対空レーダーにより早期発見され、F6Fと充実した対空兵器によって1次では半分、2次では2/3を失う大打撃を受けた。特に最新鋭の艦爆彗星と艦攻天山はほぼ全滅し、旧式の九九艦爆、九七艦攻のほうが生き残る。これは、新型のほうが性能が悪いのではもちろんなく、パイロットの錬度不足、生産性の悪化による性能の劣化に尽きる。

 日本軍はたった1日で、全航空隊の半数以上を失う大敗北を喫する。くわえて発艦作業中の大鳳、翔鶴が米潜水艦の雷撃を受け、両艦とも航空機燃料のガソリン庫が損傷し燃料漏れを起こして、午後に漏れて充満したガソリンに引火し大爆発、夕刻までに沈没する。

 翌20日、洋上補給のためにタンカー部隊と集結していたところを米軍が200機もの攻撃隊で急襲。大混乱に陥る。タンカー2隻と空母飛鷹が撃沈され、空母瑞鶴、隼鷹、千代田も爆撃により損傷した。米軍は20機が撃墜され、80機が薄暮攻撃による夜間着陸の失敗で自損した。小澤艦隊は残存勢力を結集し米軍を追撃したが、小型艦艇の燃料が尽きかけたため作戦を中止。米軍も21日夜まで日本軍を追撃したが発見できずに引き返した。

 これにより日本軍機動部隊は航空隊が壊滅し、空母としての仕事ができなくなる。後は航空機をひたすら輸送するか、囮として敵を引き付けるしかなかった。龍鳳は、最初で最後の機動部隊実戦参加だった。

 龍鳳は若干の損傷があったのみで航行は可能だった。10月のレイテで生き残っていた空母4隻(瑞鶴、瑞鳳、千歳、千代田)も沈み、機動艦隊壊滅後の11月7日、同年8月に竣工したばかりの空母雲龍より第一機動艦隊旗艦を引き継ぐが、15日には第三機動艦隊と共に機動艦隊そのものが解散。日本海軍最後の機動艦隊旗艦となった。

 12月下旬、フィリピンへ特攻兵器桜花ほか陸上兵器、軍需物資や人員を輸送していた雲龍が米潜レッドフィッシュによって撃沈され、同じく桜花を運ぶ予定だった龍鳳はフィリピンから台湾へ目的地が変更となった。同時に大規模輸送船弾「ヒ87船団」の一員としてタンカー9隻、駆逐艦4隻、海防艦4隻の護衛を伴って龍鳳は12月31日に門司港を出発した。しかし皇05(S20/45)年1月3日に大規模な台湾空襲。輸送船団は空襲を避けてあちこちに移動しながら避難した。龍鳳は命令により7日に基隆へ入港し、船団から離れた。船団は最後に目的地の高雄へ向かう途中に空襲や潜水艦の雷撃を受け、大損害を受けた。

 11日、駆逐艦磯風と海防艦御蔵が基隆まで逃れてきた。そのまま龍鳳護衛となり、日本へ向かうタモ35船団の護衛を兼ねて12日に基隆を出発。17日に無事日本へ到着し、龍鳳は船団と別れて呉へ入った。

 龍鳳は呉で練習空母となったが、動かす油も飛ばす艦載機も無かった。3月19日に呉空襲に遭い、ロケット弾と爆撃を受けて中破。甲板へ衝撃で50mにわたって亀裂が生じた。その後、同じく呉に係留されていた他の大型艦(天城、葛城、榛名、伊勢、日向、利根、青葉、大淀)と共に浮き砲台となった。大和や矢矧らも沈んだ沖縄特攻の後、乗組員は艦の修理を細々と行いながら農園作業に従事した。

 

 

 呉で空襲を受けた龍鳳。

 

 

 同じく、係留のまま放置される。

 

 7月24日及び28日の呉軍港空襲で対空戦闘を行い、伊勢、日向、榛名、天城、利根、大淀などの艦船と異なり大破着底はしなかった。

 そのまま終戦を迎えたが中破したままのためか復員船として使われず、昭和21(1946)年4月2日より呉で解体開始。9月25日に完了して、その身は戦後日本の復興資材となった。
 


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 客船改装大鷹型空母3番艦、冲鷹(ちゅうよう)。サンズイの「」ではなく、ニスイの「」なのがちょっとややこしい。元の客船としては、新田丸級客船の1番船、新田丸である。客船としてはネームシップだったが、その分長く客船や輸送船の仕事をしており、空母に改装されたのは一番最後だったため、空母としては3番艦となるのもちょっとややこしい。

 

 


 客船:新田丸→八幡丸→春日丸の順
 空母:大鷹(春日丸)→雲鷹(八幡丸)→冲鷹(新田丸)の順

 

 

 新田丸。

 

 

 新田丸、八幡丸、春日丸の頭文字をとり、N.Y.Kラインと呼ばれた。

 

 

 戦前から船舶擬人化。


 皇紀2600(S15/1940)年、客船新田丸として竣工。サンフランシスコ航路に就航したが、日米関係悪化により航路廃止。翌皇01(S16/41)年にはさっそく海軍に徴用され、輸送船として活躍した。上海から横須賀経由で海軍の陸戦隊(現在で云う海兵隊)をウェーク島へ輸送し、帰りは米軍捕虜1000名ほどを本土へ運んだ。

 翌皇02(S17/42)年、空母へ改装されるべく呉へ入港。8月には海軍に買収され、既に作業は始まっていたが本格的に改装が進む。8月20日、新田丸より冲鷹に改名。改装中の改名であり、先の大鷹、雲鷹と異なり特設空母ではなく最初から軍艦として空母だった。11月25日、空母改装完了。大鷹、雲鷹の運用実績から甲板が10m延長され、対空機銃も強化された。

 それでも、カタパルト未実用化や低速度で、姉たちと同じく艦隊運用はできずに航空機輸送任務に集中することになる。この点、大鷹型より小さな護衛空母に蒸気カタパルトを装備し、大型の艦載機を発艦させたアメリカの護衛空母とは雲泥の差があった。しかも、アメリカはその護衛空母を何十隻もそろえ、主力空母に匹敵する戦闘力を発揮した。

 12月4日、さっそく航空機輸送任務により潜水母艦大鯨(たいげい)より空母化された龍鳳と護衛駆逐艦でトラックへ向かう。輸送したのは、陸軍の九九式双発軽爆23機だった。甲板に露天繋止し飛行部隊の陸軍兵230人を乗せて出港したが、なんと機関不調で出港延期。龍鳳隊のみ出発するものの、今度は龍鳳が八丈島沖で米潜ドラムに雷撃され、右舷中央に1発命中、あわてて横須賀に引き返した。遅れて出発した冲鷹隊は無事にトラックへ到着する。日本へ戻り、翌皇03(S18/43)年の正月早々にもトラックへ航空機輸送。


 この年、聯合艦隊に大きな戦いはなかったが、作戦で出撃しては会敵せずを繰り返しており、何もしていなかったわけではない。また別作戦で大規模な航空戦が行われ、空母部隊は航空隊を引っこ抜かれて損耗し、戦力を減らし続けた。トラックでは燃料の備蓄が底をつきかける事態となり、空母もドラム缶を積んでタンカー代わりを務める始末。その中で、大鷹型はひたすら航空機を輸送し、作戦の根幹を支える重要な任務を黙々とこなした。

 2月にはカビエン、ラバウル方面へ航空機を輸送し、4月には陸軍の三式戦飛燕を再びラバウルへ輸送。米潜タニーに襲われるも魚雷早爆で助かった。6月、横須賀へ戻る。6月10日、出港するも共に行動していた飛鷹が米潜トリガーに雷撃され航行不能となり、軽巡五十鈴に曳航され横須賀へ戻る。16日、戦艦2(金剛、榛名)、空母3(龍鳳、大鷹、冲鷹)、重巡2(熊野、鈴屋)、軽巡1(五十鈴)、駆逐艦他多数の大艦隊でトラックへ向け再度出発。途中で暗号解読で待ち伏せていた米潜スピアーフィッシュに襲われるも魚雷命中せず。

 

 

 陸軍機輸送後、トラック諸島にて。冲鷹の写真は、この1枚のみっぽい。


 いったん日本へ戻り、小澤機動艦隊に随伴してトラックへ陸軍兵や重火器を輸送。空母4(翔鶴、瑞鶴、瑞鳳、冲鷹)、重巡3(利根、筑摩、最上)、軽巡2(大淀、阿賀野)、駆逐艦その他艦艇多数という、けっこうな規模の艦隊だったが、お決まりの暗号解読による米潜待ち伏せでトラック諸島近海で米潜ティノサに雷撃されるも、艦隊は魚雷を回避し被害なくトラックへ到着した。

 日本へ戻って9月7日に大鷹と冲鷹は駆逐艦3隻に護衛され、横須賀を出発、再びトラックへ向かう。11日にトラック到着、21日、駆逐艦島風の護衛によりトラック出発。しかし、またまた暗号解読により米潜に待ち伏せされる。日本の暗号はいったいどうなっとるんだと思うが、これが現実である。父島沖で悪天候の中、米潜カリブラの放った魚雷6本の内数本が大鷹右舷に命中するも、幸運なことに1本しか起爆せず沈没を免れた。しかし機関と舵の呼称により航行不能となった。島風の爆雷と悪天候でカリブラは大鷹を見失い、そのまま脱出する。大鷹は冲鷹に曳航され、26日、応援に駆け付けた駆逐艦漣、白露と共に横須賀へ帰りついた。

 11月、ブーゲンビル島沖航空戦で消耗した航空隊を補充するために瑞鳳がトラックより内地に帰投し、11月16日空母3(瑞鳳、雲鷹、冲鷹)と護衛の駆逐艦多数で横須賀出発。21日にトラック到着した。航空機を下ろし、30日にその空母3隻に加え修理のため本土回航を命じられた重巡麻耶、護衛の駆逐艦5隻が日本へ向けて出発した。

 空母3隻には、ソロモン・ニューギニアよりの移動陸軍兵や機材、民間人、それに米軍捕虜41名も分乗していた。

 案の定、トラック港湾部長発、護衛艦隊司令部宛暗号電文が傍受解読され、複数の米潜水艦が輸送艦隊襲撃を命じられた。

 12月3日深夜、悪天候の中、艦隊は単縦陣(麻耶、瑞鳳、冲鷹、雲鷹)で進み、護衛艦は周囲に配置されていたようだが、余りの嵐で互いの位置もよく分からなかった。0000ころ、レーダーで艦隊を把握した米戦セイルフィッシュは悪天候にも関わらず艦隊へ向けて魚雷4本を発射。うち1本が冲鷹に命中。「前部兵員室ニ火災発生」した。

 艦隊は冲鷹と護衛の浦風を残し、急ぎ退避。セイルフィッシュは浮上して落伍した冲鷹を確認すると0450第2撃発射、魚雷1本が機関室に命中し多数の死者を出した。セイルフィッシュは浮上したまま冲鷹の右舷1500メートルを航行、再び潜航して0840艦尾発射管より第3撃発射、冲鷹の艦橋付近へ命中した。

 浦風の爆雷によりセイルフィッシュは退避。冲鷹は0847に3撃目の命中で一気に沈没した。浦風や救助に駆け付けた漣により160名ほど救助されたが、残りの乗組員や便乗者は総員戦死。一航戦の熟練整備員や機械工が多数戦死し、その後の航空機整備に支障を与えたという。また運搬中の米軍捕虜21名中20名が戦死した。

 12月9日、日本軍の潜水艦ではとうてい攻撃できない悪天候下での襲撃だったため、軍令部により護衛及び対潜水艦に関わる研究会が開かれ、米軍の潜水艦攻撃は

 1)水中音発射
 2)レーダー発射
 3)聴音魚雷

 のいずれかである可能性が指摘された。なんにせよ、日本軍の技術ではどれも不可能な攻撃であった。


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 有事の際には戦時徴用されることを条件に建造の一部を助成する制度である「優秀船舶建造助成施設」補助金をもって日本郵船により建造された2隻の豪華客船、橿原丸(かしはらまる)と出雲丸(いずもまる)。いざ建造決定の段になって海軍が補助率を8割から6割にし、また世界情勢が危うくなってきてどうせ作っても資金回収前に徴用されるんじゃないかという不安もあって、実は日本郵船では乗り気ではなかったようだが、同社がとらないとライバル会社がどうせとるので、メンツのために日本郵船で建造したようである。

 その不安も的中、出雲丸は皇紀2599(昭和14/1939)年に11月末に川崎重工神戸造船所で浸水、それから1年をかけて客船に艤装している最中の翌年10月に空母への改装が決定。さらに翌年1月、海軍が同じく建造途中だった橿原丸と、この出雲丸を買収。再びドック入りし、空母への大改装が本格的に始まる。6月24日に浸水、ドックを出る。出雲丸が出た後のドックでは、直ちに空母大鳳の建造が始まった。その年の暮れ、12月8日に真珠湾。日本はアメリカを含めイギリス、オランダと戦争状態に入る。

 翌皇02(S17/42)年7月31日竣工。建造途中から空母になった隼鷹よりむしろ遅かった。特設空母となることなく、ただちに軍艦籍に入り空母飛鷹となる。隼鷹型の艦橋と煙突が一体化した設計は、日本で初めて採用されたものだった。排煙による気流の乱れを考慮し、煙突が外側に傾いていた。(もっとも、まっすぐでも大して気流が乱れないことが判明し、大鳳や信濃は同じく艦橋と一体型だが煙突はまっすぐになった。)

 

 

 写真は同型の隼鷹。


 既に珊瑚海海戦とミッドウェーは終わっており、日本軍は空母祥鳳のほか、主力空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)を一気に失っていた。飛鷹は先に竣工した姉妹艦隼鷹、古参の龍驤と共に新生二航戦を編成したが、新参の二隻は訓練が先で実戦へは出られなかった。また、龍驤は新生一航戦(翔鶴、瑞鶴、瑞鳳)にあって瑞鳳が錬度不足ということで代わりに臨時編入され、8月7日の第二次ソロモン海海戦で撃沈されてしまう。

 10月、護衛の駆逐艦を従えて二航戦はトラックへ到着。元客船の2隻は例にもれず速力不足で、結局艦隊配備できなかった大鷹型よりはましだったが、最大26ノット程度では航空機発艦に必要な甲板風速15m/sを得るのに苦労した。

 飛鷹と隼鷹の初任務は、高速戦艦金剛、榛名によるヘンダーソン飛行場艦砲射撃の上空警戒・掩護であった。第一次艦砲射撃は成功したが、米機動部隊排除を目論んだその後の南太平洋海戦において、10月20日、飛鷹は機関故障(電気室火災)をおこし戦う前から戦線離脱、同海戦とその後の第三次ソロモン海海戦へ参加できなかった。12月5日にトラックを出発、11日に呉到着。修理に入る。

 翌皇03(S18/43)年、海軍では大きな海戦はなかったが、遊んでいたのではなく、聯合艦隊が作戦行動で出撃しては会敵せずを繰り返し、トラック泊地の油が枯渇し始めたため、空母にすらドラム缶を積んで運ぶ仕儀となった。また航空隊が基地航空隊への補充として空戦に駆り出され、損耗を繰り返し補充が追いつかず、疲弊した。航空隊の戦力は、終戦まで南太平洋海戦以前の規模をついに取り戻せなかった。

 飛鷹にあっては同年6月10日、護衛の駆逐艦2隻と横須賀を出発したが、三宅島沖にて暗号解読により待ち伏せていた米潜水艦トリガーの雷撃を受け、4本が命中するも、幸運にも爆発したのは1本だけだった。しかし飛鷹は航行不能となり、救援に駆けつけた軽巡五十鈴に曳航されて横須賀へ戻った。

 11月、修理が終わり現場復帰、航空機輸送任務に就く。マニラ、シンガポールを経て12月22日にトラック着。航空機を下ろし、航空隊も一部ラバウル転用のため下ろした。27日トラック出発、サイパンを経由し翌04(S19/44)年1月2日、呉へ到着した。

 

 

 消火訓練中。ネットで検索した限り、飛鷹の写真はこれしかなかった。


 5月11日、戦艦武蔵、護衛の駆逐艦らと共に空母6隻(隼鷹、飛鷹、龍鳳、千歳、千代田、瑞鳳)が日本を出発。16日にタウイタウイで翔鶴、瑞鶴、大鳳と合流。ここに小澤機動艦隊の空母9隻が全てそろった。

 マリアナ沖海戦の勃発である。飛鷹にとっては、初陣であった。

 6月19日、飛鷹は第二航空戦隊、空母飛鷹、隼鷹、龍鳳、戦艦長門、重巡最上、他駆逐艦8隻他補助艦艇で小澤機動艦隊乙部隊を編成。空母翔鶴、瑞鶴、大鳳主体の甲部隊、千歳、千代田、瑞雲主体の丙部隊と共に第1次~6次にわたる米軍へのアウトレンジ攻撃を行った。

 その結果は大惨敗。機密文書が米軍に奪われるという海軍乙事件により作戦要綱を知っていた米軍は既に日本軍に勝る兵力を集めており、空母はおろか駆逐艦にすら対空レーダーを備え、日本軍航空隊は丸見え。しかも零戦を遥かに凌駕する艦戦F6Fヘルキャットが配備されていた。さらに、VT信管付対空弾により、効果的に迎撃。日本軍航空隊は総数で半数以上を失ったうえ、米軍へほとんど被害を与えられず大敗北だった。ここに、南太平洋海戦以降立て直せなかった空母航空隊は事実上壊滅。日本軍の空母は乗せる飛行機、まともに戦える航空隊が無くなった。

 さらに、航空機発艦中の大鳳、翔鶴が相次いで潜水艦に襲われ、数発魚雷名中。航空燃料が漏れてそれへ引火し大爆発。その日のうちに2隻とも沈んでしまう。飛鷹は距離10海里で大鳳の爆発炎上、沈没を目撃した。

 翌20日には、洋上補給で甲乙前衛、補給艦隊集結していたところを200機もの米軍大編隊に逆襲される。ここでも日本軍はいち早くレーダーで接近を察知したものの、タンカー部隊を置いて自分たちだけ退避する。これは、聯合艦隊に補給部隊を指揮命令する権限が無かったためで、最後まで海軍の深刻な問題として補給路構築を破綻せしめた。

 しかし退避したといってもたちまち追いつかれ、艦隊は迎撃機を上げる間もなく空襲を受ける。戦闘詳報によると、飛鷹は爆弾命中で炎上した隼鷹を追撃しようとした米雷撃機6機を長門が至近からの主砲斉射で4機を撃墜、2機があわてて退避したところ、その2機がコースを変えて回避運動中の飛鷹へ接近、飛鷹は1機を対空砲で撃墜したが1機の魚雷命中、右舷機械室がやられ、連動して左舷機械室も停止、航行不能となる。

 そこへ急降下爆撃の爆弾が艦橋後部へ命中、指揮所要員多数死亡のうえ、さらに魚雷が命中した。

 空襲が終わった後、消火活動中の飛鷹を長門が曳航準備していたところ、潜水艦と思わしき魚雷2本命中、前後のエレベーターが煙突の高さ以上までぶっ飛び、そのままエレベータ孔に落ちて大炎上した。長門が第4主砲からワイヤーを流して引っ張ったが、微速前進したとたんにワイヤーが切れてしまった。飛鷹は肝心な時に消火ポンプが故障して鎮火は絶望的となり、軍艦旗降下、総員退艦。1930ころ、飛鷹は左舷へ傾斜し艦首を突き上げるようにして沈没した。

 マリアナ沖海戦で日本軍は空母3隻を失い、なにより航空隊の壊滅により、空母は囮と輸送くらいにしか使えなくなる。

 生き残った空母6隻のうち、まともに動ける4隻(瑞鶴、瑞雲、千歳、千代田)はレイテへ参加し、飛ばす艦載機の無い囮部隊としてハルゼー艦隊を引き付けつつも、空母は全滅、栄光と挫折の機動部隊はここに壊滅した。

 


テーマ:

 有事の際は海軍が徴収することを条件とした補助金「優秀船舶建造助成施設」により、東京オリンピックを見据えて建造された豪華客船、新田丸、八幡丸、春日丸。その3隻とも、太平洋戦線の勃発によって空母に改造されたのだった。


 客船としては新田丸級だったが、短期間ながら新田丸と八幡丸は客船として就航し、最後に建造中だった春日丸がそのまま空母に改造されて、一番早く特設空母春日丸(後に空母大鷹(たいよう))になったため、空母としては大鷹級となる。それが特設空母八幡丸、後の空母雲鷹(うんよう)である。

 

 

 デジタル彩色。


 皇紀2600(昭和15/1940)年の記念すべき年、豪華客船八幡丸として竣工。シアトルへ一往復したのち、サンフランシスコ航路で活躍。翌皇01(S16/41)年、真珠湾も迫った11月22日、海軍は八幡丸を徴用。空母へ改装されることになる。翌皇02(S17/42)年5月31日改装終了。特設航空母艦八幡丸となる。

 

 

 新田丸旧客船。

 

 

 新田丸、八幡丸、春日丸三姉妹のキャンペーンポスター。

 頭文字をとってN.Y.K.ラインと呼ばれた。

 

 


 しかし、元は客船だったため船体強度と機関の関係で速度が20-22ノットと、空母としては格別に遅く、とても機動部隊として作戦行動ができるものではなかったうえ、日本軍は最後まで蒸気カタパルトを実用化できなかったため、大型化する艦載機の発艦にも支障をきたし、空母としてまともに運用できずに、ほとんどの生涯を航空機輸送任務に費やした。その点、カタパルトの運用によりこの大鷹級より小さな空母を護衛空母として集中運用し、時に大和を含めた栗田艦隊と死闘を演じた米軍と大差ができた。たとえ艦載機が20機しかいなくとも、10隻集まれば200機の航空機が襲ってくる。米軍の底力、侮るなかれ。

 同年7月、初任務として護衛の駆逐艦潮、漣を伴い、さっそく航空機輸送任務でサイパンを経てウルシー環礁へ向かう。8月31日、特設空母春日丸と共にそれぞれ軍艦・空母大鷹、雲鷹となる。しかし、その後も航空戦は行えず、ひたすら航空機輸送任務に就く。速度が20ノット程度とはいえ、輸送船としては超高速なうえに航空機を満載できる空母は輸送任務にも最適だった。大鷹級は、最前線の航空戦力の根幹を担う最重要任務を黙々とこなした。
 
 8月にガ島攻防戦が始まると、基地航空隊の航空機需要は高まる一方で、雲鷹も海軍基地へ零戦を運ぶほか、陸軍の一式戦隼も輸送するようになる。しかし、日本軍の輸送部隊は暗号解読により待ち伏せした米潜水艦により、常に狙われていた。

 翌皇03(S18/43)年も、雲鷹は大鷹、冲鷹(ちゅうよう:元新田丸)と共にひたすら航空機を輸送する。時には聯合艦隊の移動にくっついてトラックやマーシャル、ギルバート諸島などに航空機を運び続ける。その間、潜水艦にひたすら襲われ続けるも、運が良かったのか時には不発、目測誤りで艦底通過、他の艦に命中するなどして雲鷹は無事だった。

 11月、瑞鳳、雲鷹、冲鷹がろ号作戦で消耗した航空機を補充するため護衛の駆逐艦と共にトラックへ出発。11月末に到着。30日に日本へ向けて出発したが、12月4日に冲鷹が米潜水艦セイルフィッシュの雷撃で沈没した。

 12月15日、アメリカの護衛空母のように輸送船団を専用に護衛する海上護衛総司令部が設立、日本版の護衛空母として大鷹、雲鷹、海鷹(かいよう:元貨物船あるぜんちな丸)、神鷹(しんよう:元ドイツ客船シャルンホルスト)が配備された。
 
 翌皇04(S18/44)年、雲鷹はまだ聯合艦隊麾下で輸送任務を続けていた。正月明け早々、1月4日に瑞鳳、ほか護衛駆逐艦と共にトラックへ向けて出発。9日トラックへ到着。18日日本へ向けて出発。しかしサイパン沖で米潜水艦3隻に襲われる。潜水艦ハダックの魚雷が3本、雲鷹に命中。機関は無事だったが速度4ノットに低下、瑞鳳隊と別れ、雲鷹はサイパンへ逃れた。サイパンへ工作艦明石から排水ポンプと修理要員が届き、応急修理の後2月2日に日本へ向け出発。なにせ雲鷹が遅いので護衛隊も入れ代わり立ち代わりだった。重巡高雄で曳航する案も悪天候で断念、その間に米潜水艦の執拗な攻撃を受けたがすべて排除し、7日の夜になんとか東京湾へ入り横須賀へ向かった。

 

 

 横須賀へ向かう途中、伊豆諸島沖での航空写真。波浪で艦首を喪失しているという。


 8月、やっと修理の終わった雲鷹は呉へ回航、海上護衛部隊に編入。大規模輸送船団の護衛任務に就く。搭載機は九七式艦攻10機をメインに、補助で複葉機の九三式中間練習機6機であった。それらを駆使して潜水艦を監視しつつ、船団護衛を行う。しかし8月18日、ヒ71船団を護衛していた大鷹がフィリピンで米潜水艦により撃沈される。

 8月24日、ヒ73船団の護衛で日本を出発。9月5日、無事にシンガポールへ到着。9月11日、台湾へ向けてヒ74船団が出発。16日、ルソン島沖でたまたま米潜水艦2隻が海面へ不時着した米機動部隊艦載機のパイロット救出作戦を行っていた。夜になって船団旗艦である練巡香椎より敵潜発見の報を受けるも襲撃はなかった。しかし17日深夜、いきなり潜水艦バーブが襲いかかる。

 まず雲鷹の右舷やや後方を航行中の軍用タンカーあづさ丸が機関室とポンプ室に1本ずつ被雷、爆発、炎上して轟沈。雲鷹が舵を切り、回避運動へ入る。そこへ反転したバーブの艦尾発射管より発射された魚雷が接近、艦中央部と後部に1本ずつ命中した。炎上はしなかったが浸水が止まらず、艦尾沈下が激しくなり夜が明けた0730総員退艦開始。0752軍艦旗降下。そのたった3分後の0755雲鷹は沈没した。乗員と輸送要員1750名中、推定900名が戦死した。

 雲鷹戦闘詳報では、もっと海防艦を増やして潜水艦掃討部隊をつくること、輸送船の速度で進む空母は格好の獲物であるが航空機の哨戒はぜひとも必要なので基地航空隊を増やし護衛空母は廃止すること、護衛したとしても高速を活かし後方をジグザグで進むこと、空母が輸送船と同じ速度で進むのは絶対に不可、などが提言されている。

 
 


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 客船を有事の際に空母化することは、既に大正時代イギリスからヒントを得ていた。軍縮条約により空母の保有制限がかけられていた日本は、他の艦種(高速タンカー、潜水母艦)の軍艦を空母化することに加え、民間の客船をいつでも空母に改装できる前提で補助金を出し、造らせている。

 古くは皇紀2589(S4/1929)年から翌年にかけて秩父丸(鎌倉丸)、浅間丸、龍田丸を建造。これらは空母化も検討されたが輸送船等になる。続いて皇98(S13/1938)から翌年にかけ、あるぜんちな丸とぶらじる丸が完成。あるぜんちな丸が空母海鷹(かいよう)となる。さらに東京オリンピックに向けて新田丸、八幡丸、春日丸が完成。これらは大鷹(たいよう)型空母となる。

 そして対米戦勃発寸前の皇01(S16/41)年1月、長崎は戦艦武蔵の横で建造中だった豪華客船、橿原丸(かしはらまる)は海軍に買収され、翌皇02(S17/42)年5月3日特設空母(まだ軍艦ではない)隼鷹(じゅんよう)として竣工する。島型艦橋と煙突が一体化した形状を日本軍で初めて採用した空母だった。煙突は外へ向けて角度が付けられた。

 

 

 艦橋と一体化した煙突形状がよく分かる。


 ただちに第四航空戦隊(龍驤、祥鳳)へ編入されたが、祥鳳は同年5月7日の珊瑚海海戦で撃沈された。訓練期間は短く、5月19日に広島湾の那沙美水道最狭部で大和とすれがった際に、大型船及び軍艦優先のため停船して進路を譲るべきところをそのまますれ違って大和に乗船していた宇垣聯合艦隊参謀長に「無謀で危険だし礼儀を知らん!(意訳)」と隼鷹艦長が叱責されたという。

 

 

 艦橋を背後から写す。対空機銃が写っている。傾いているのは、傾斜試験中のため。らしい。

 

 

 同じく、傾斜試験中。


 隼鷹(と同型の飛鷹)は客船だったため、大鷹型ほどではないにしても空母にしては鈍足で、最大で25ノットほどだった。しかし割と船体が大きく、搭載機数は二航戦の蒼龍、飛龍に匹敵し、使い勝手が良かった。

 5月末、再び2隻となった四航戦は他重巡、駆逐艦と共にアリューシャン方面作戦へ参加、ミッドウェーと同時に北方を攻略した。6月3日よりダッチハーバーを空襲したが天候不良や兵力小規模により戦果微小だった。6月5日ミッドウェーで大敗北。主力空母4隻を失う。知らせを受けた北方軍は第3次攻撃の後撤退を決意。しかし天候不良のため隼鷹所属の艦爆1機が行方不明となり、また激しい迎撃のため龍驤所属の零戦1機がアクタン島湿地帯へ不時着、後に米軍に鹵獲されるアクタン・ゼロ事件が起きた。(詳細は龍驤の項を参照されたい)

 6月下旬、日本軍は北方よりの米機動部隊襲来に備えて北方海域を警備したが、逆に展開する米潜水艦によって駆逐艦2隻沈没、2隻大破という結果となり警備どころではなく撤退した。

 7月14日、隼鷹は軍艦籍となり正式に空母となる。7月31日には同型艦の空母飛鷹(元客船出雲丸)が竣工した。飛鷹、隼鷹、龍驤で新生二航戦を編成。8月7日、米軍がガダルカナル及びフロリダ諸島へ上陸。12月の日本軍撤退まで日米の悲惨な消耗戦となるガ島攻防戦が始まる。新生一航戦は翔鶴、瑞鶴、瑞鳳で編成されたが瑞鳳が錬度不足とされ龍驤が臨時に一航戦へ加わる。8月24日、第2次ソロモン海海戦で龍驤沈没。

 10月、戦艦金剛と榛名によるヘンダーソン基地夜間艦砲射撃で飛行場が使えない間に、日本はガ島陸上勢力で総攻撃をかける。それへ合わせ海軍は残存空母5隻、一航戦(翔鶴、瑞鶴、瑞鳳)二航戦(隼鷹、飛鷹)を集め、米機動部隊に航空決戦を挑む。南太平洋海戦である。

 ところが10月20日移動中に飛鷹の機関室で火災が発生、しかも消火ポンプ故障により火災が収まらず落伍、トラックへ戻る。戦う前から空母1隻が脱落した。空母は前進部隊(二航戦)と本隊(一航戦)に分かれ、他艦船と共に索敵を行いつつ敵を警戒。10月26日、暁闇にまぎれ両軍の索敵機が多数飛び立ち、ほぼ同時刻に互いを発見する。日本軍の攻撃隊はレーダー迎撃で多大な犠牲を払いつつも米空母2隻(ホーネット、エンタープライズ)へ損害を与えた。一方日本側も米攻撃機により瑞鳳が小破ながら甲板後部をやられ発着艦不能となり早々に離脱、瑞鶴は無傷だったが翔鶴が直撃弾多数で大破、大炎上する。

 第1次攻撃隊を収容した隼鷹は3隻とは別に前進部隊にいたが本隊が瑞鳳、翔鶴落伍のため瑞鶴と合流するべく護衛の駆逐艦黒潮、早潮を引き連れて移動。飛行隊の被害甚大であったが、敵空母は2隻とも炎上中で好機と残存艦と残存機をもって追撃開始。同日1113、隼鷹より第2次攻撃隊発進。1115瑞鶴からも第3次攻撃隊が発進したが、損耗激しく零戦5、艦爆2、艦攻6(爆弾装備)という少なさだった。

 1313隼鷹隊が炎上するホーネットを発見、硝煙で煙る中、攻撃開始。ホーネットは重巡ノーザンプトンに曳航されていたが、索を切ってノーザンプトンは脱出、魚雷を全て回避した。しかし、索を切られたホーネットに魚雷1本命中。傾斜する。数十分後には瑞鶴隊がホーネットを発見、攻撃開始。直撃弾1、至近弾多数でさらに傾斜。ホーネット艦長は総員退艦を命じた。1335、隼鷹は攻撃の手を緩めず、隼鷹隊第3次攻撃を敢行。漂流中のホーネット発見後エンタープライズを探したが発見できなかったのでそのままホーネットを爆撃した。直撃弾1によりさらに炎上。攻撃機が引き上げたのち、米軍はホーネットを雷撃処分しようとしたが、2隻の駆逐艦より魚雷を計9本命中させたもののホーネットはびくともしなかった。そのうち日本軍索敵機に見つかり、駆逐艦は急いで離脱。代わりにやってきた重巡愛宕、駆逐艦秋雲、巻雲ら日本軍水上部隊がホーネットを砲雷撃で沈めた。既に翌日の深夜、0135であった。中破したエンタープライズは撤退した。

 この海戦で、なんと一時的に太平洋に展開する米空母がゼロとなった。が、日本も無地だった瑞鶴が飛行隊損耗激しく内地へ帰還し、トラックに残った空母は隼鷹1隻だけだった。

 11月、日本軍は戦艦比叡、霧島を中核とする水上打撃部隊で第2次ヘンダーソン飛行場夜間射撃を敢行するべく水上部隊を前進させる。11月12日より第3次ソロモン海海戦が発生。詳細は比叡、霧島の項を参照願いたいが、米軍も最新鋭戦艦サウスダコタ、ワシントンを繰り出し、日米の戦艦、重巡、軽巡、駆逐艦による二夜にわたる夜戦水上戦という凄惨な戦いが起き、両軍の艦艇が狭い海域に多数沈没した。

 隼鷹は12日の夜戦で傷ついた比叡と護衛の駆逐艦隊を米軍基地航空隊の空襲より掩護するため、13日に零戦を派遣したが南太平洋海戦での損耗が激しく、飛ばせたのは数機であった。護衛のF4Fワイルドキャットを伴って次々に飛来する米基地攻撃隊を防ぎきれるはずもなく、比叡は空襲を受け航行不能となり、雷撃処分される。13日の夜戦では霧島も米戦艦との砲戦で撃沈され、第2次ヘンダーソン飛行場砲撃作戦は中止、日本軍補給部隊も空襲により大打撃を受け第3次ソロモン海海戦は敗北、ガ島をめぐる決定的な戦いで負けたことにより、ガ島奪還は絶望的となる。隼鷹は18日にトラックへ戻る。
 
 皇03(S18/43)年、機動部隊は航空機等輸送を行いつつ、トラックを出撃しては会敵せずを繰り返し、トラック基地の燃料が枯渇する。瑞鳳を含め隼鷹も輸送作戦に従事する。空母は、専用船ではないが輸送艦並みの輸送力を持ちつつ速度が輸送艦よりはるかに速いので輸送任務に向いていた。
 
 11月5日、暗号解読により米潜水艦の待ち伏せを受けた艦隊は豊後水道付近で潜水艦ハリパッドの奇襲を受け、隼鷹艦尾に1本命中、機関まで浸水し傾斜、直進不能となる。隼鷹は翌日重巡利根に曳航され、修理のため呉へ入る。この年、海軍に大きな戦いは無いものの、度重なる基地航空隊の航空戦へ空母の飛行隊が派遣されて消耗し、機動部隊の戦力は確実に落ちて回復しなかった。
 
 皇04(S19/44)年、2月に隼鷹は戦線復帰。既に機動部隊司令官は南雲中将より小澤中将へ変わっていた。5月、訓練空母となっていた鳳翔や輸送専用となっていた大鷹級を除く機動部隊全空母9隻がタウイタウイに集結。3隻ずつ護衛艦を従え甲(大鳳、翔鶴、瑞鶴)乙(飛鷹、隼鷹、龍鳳)丙(千歳、千代田、瑞鳳)部隊に分かれた。6月19日、マリアナ沖海戦が勃発。

 日本軍はミッドウェーの反省で水上部隊を空母群の護衛として前衛に出し、後方の空母群よりアウトレンジ攻撃を繰り出したが、パラオ空襲の際に重要作戦要綱が米軍の手に渡るという海軍乙事件が発生しており、米軍は日本の水上部隊を無視、同じくアウトレンジ戦法で直接日本の空母部隊を襲撃したうえ、日本軍の駆逐艦が少ないことをいいことに潜水艦を海域にたっぷりと潜ませた。また護衛駆逐艦を日本軍の3倍配置し、日本軍の潜水艦狩りを行った。

 既に米軍にはレーダーのほか、VT信管付の対空弾が配備され、護衛の戦闘機も零戦の倍の馬力のエンジンを積み防弾も機銃も速度も遥かに零戦を凌駕したF6Fヘルキャットが日本軍の攻撃隊を待ち受けていた。第1次~第6次まで繰り出された日本軍の攻撃隊は、敵の激しい迎撃と錬度不足により、総数で半数以下を失う大打撃を被った。特に最新鋭の彗星爆撃機と天山攻撃機はほとんど全滅した。
 
 また甲部隊の大鳳と翔鶴が潜水艦の雷撃で沈没、翌20日には給油のため集結していた艦隊へ200機もの米軍機が襲いかかった。艦隊はあわてて散会したが、命令の無いタンカー部隊が取り残された。この襲撃で飛鷹が撃沈され、隼鷹も艦橋と一体化した煙突に被弾、その破片や至近弾6発の影響で甲板が使用不可となり上空退避させた飛行隊を収容できなくなる。艦尾の空き部屋に飛行科が「帳簿外の」石油缶を積みこんでおり、それへ引火し火災が発生するハプニングも起きた。

 この際、被弾直後にTBFアベンジャー雷撃機6が隼鷹めがけて魚雷発射コースに入ったが、それを認めた長門がなんと攻撃隊めがけて主砲発射、衝撃で6機中4機を撃ち落とし、2機が命からがら退避した。

 「マリアナの七面鳥撃ち」と米軍に揶揄された大敗北で、日本機動部隊は飛行隊が事実上壊滅。飛ばす飛行機の無い空母達が惨憺たる様相を呈することになる。

 

 

 マリアナで破壊された煙突が分かる。死者53名を数えた。

 

 

 同じく、マリアナより撤退中の写真。煙突が無い。


 7月、隼鷹は煙突等の修理を行い、同年10月のレイテ沖海戦には参加しなかった。その代わり、駆逐艦へ給油するため八丈島へ向かった。10月25日、エンガノ岬沖海戦で囮任務の空母4隻(瑞鶴、瑞鳳、千歳、千代田)喪失。他、戦艦武蔵を筆頭に艦船多数喪失で、レイテは大敗北。聯合艦隊は壊滅した。

 以降、生き残った空母は飛行隊が存在しないまま、ひたすら輸送作戦へ従事する。

 11月3日、護衛の軽巡木曽、駆逐艦夕月、卯月、秋風と輸送作戦中の隼鷹は台湾からブルネイに向かう途中潜水艦ピンタドに雷撃されるも、隼鷹ではなく秋風に命中、秋風は轟沈、総員戦死する。11月6日ブルネイ到着。レイテ後にブルネイへ入っていた満身創痍の戦艦大和、長門、金剛、榛名ら第一遊撃部隊と合流。輸送していた大和の46センチ砲弾を補給する。8日未明、第一遊撃部隊は日本へ向けて出発。その途中、台湾沖で金剛が米潜水艦に撃沈される。隼鷹部隊はその後を追っていたがマニラへ寄港。木曽がマニラへ残り、西村艦隊の生き残り駆逐艦時雨と合流して12日にマニラ出発。15日潜水艦バーブの攻撃を受けたが艦隊無事。16日本土到着。部隊は解散し各母港へ向かった。

 11月下旬、再びマニラへ向けて出発。護衛は駆逐艦涼月、冬月、槙だった。緊急物資上陸後、武蔵の生存者200名が日本へ戻るため隼鷹に乗りこんだ。シンガポールで合流した榛名と共に台湾へ寄った後、12月6日に台湾出発。12月9日、佐世保へあと少しというところの長崎県沖で嵐の中、米潜水艦3隻(シーデビル、レッドフィッシュ、プライス)に襲われる。魚雷3本が隼鷹へ迫る中、槙が被害最小限を狙いながら魚雷へ突進、1本を艦首にうけた。しかし2本が隼鷹の艦首と右舷中央部に命中。艦首は10mほども艦底亡失し、右舷側の罐室が満水するほど浸水、傾斜した。航行は可能だったが、涼月はそのまま隼鷹が転覆するのではないかと思った。また武蔵乗員は「また沈没するのか」と慌てふためいた。隼鷹はなんとか佐世保へ帰投。槙も艦首を失ったものの沈没を免れ、長崎へ帰投した。

 

 

 魚雷を受けた痕。


 12月、船体修理は終わったが、機関室は直されなかった。また、既に動かす燃料も無かった。

 

 

 皇05(S20/45)年1月の様子。

 

 

 デジタル彩色。

 

 

 同じく3月。手前に潜水艦(波201型)が写っている。


 翌皇05(S20/45)年4月、大和他沖縄特攻。同じく、修理した隼鷹も特攻作戦に使う計画もあったが、機関を修理されることなく隼鷹は係留され続けた。マストから甲板へ四方にワイヤーを張り、マットや樹木でカモフラージュした。それが功を奏し、終戦まで一度も空襲されなかった。

 

 

 終戦後の隼鷹。

 

 

 

 

 米軍が撮影。

 

 

 同じく米軍撮影。

 

 

 

 終戦後、隼鷹は鳳翔、葛城、龍鳳と共に生き残った数少ない空母だったが、片軸推進のままで外洋航海できず、引揚船には使われなかった。翌年、そのまま佐世保で解体され、昭和22(1947)年8月1日、解体終了した。

 

 

 解体のためにドックへ入る隼鷹。

 

 

 

 

 

 甲板が解体された様子。

 

 

 

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