鳳翔 | バカ日記第5番「四方山山人録」

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 日本海軍で初の航空母艦が、この鳳翔である。世界で初の空母は英国の改装空母フューリアスであった。これは大型軽巡を改装したもので、空母は英国が発祥。試行錯誤が続き、当初は前半分だけ飛行甲板があるものだった。

 英国ではその後も何隻か巡洋艦からの改装空母を運用した。当時はとうぜん、複葉機だった。そして、1918年、世界で初めて最初から空母として設計された本格式空母であるハーミーズが起工された。

 鳳翔は、ハーミーズから遅れること2年、世界で2番目に設計から空母として建造される空母として、皇紀2580(大正9/1920)年に起工した。

 ところが、ハーミーズは第1次大戦の終結もあり建造を急がなくなり、先に完成して運用していた改装空母が問題だらけだったため、6年もの期間をかけて慎重に建造された。その間に、なんと鳳翔は2年で建造してしまい、皇82(T11/22)年に竣工して、世界で初めて完成した、設計から空母として生まれた艦となった。

 

 


 とはいえ、当時の日本に飛行甲板を造る技術があるわけなく、英国に協力を願った。日英同盟が生きていたので、金剛型戦艦と同じく、英国は飛行甲板の設計や建造に尽力した。

 さて出来上がった空母であるが、当たり前だが日本人のパイロットに空母へ着艦経験のあるものはいない。既に英軍からパイロットを招き、技術指導が行われていたが、鳳翔へ着艦するにはまだ錬度未熟だったのだろう、元英海軍所属で空母勤務経験のあるジョルダンが三菱で航空機エンジン開発のためのに来日しており、鳳翔への着艦テストを依頼した。ジョルダンはおそらく、エンジン開発のテストパイロットとして三菱に雇われていたと推測する。

 しかし、ジョルダンは日本の飛行機と空母を信用せず、依頼を断った。再度依頼すると高額の報酬(当時、1万円から資料によっては10万円、当時は金本位制であり金相場にもよるが、現在の価格にして1万円が500万円~6500万……10万円はその10倍にもなる)を条件に付けてきた。日本軍はそれを諒承し、ジョルダンによる着艦テストが行われた。

 皇83(T12/23)年2月、3日間にわたり、日本軍の一〇式艦上戦闘機によってテストが行われた。一〇式艦戦は鳳翔へ乗せることを前提に開発された日本軍初の艦上戦闘機である。複葉機で三菱製。

 ジョルダンは慎重に鳳翔の上空を旋回し、機を見て一気に着艦し、そのままスーッと再び離陸した。それを数回繰り返して、最後は見事に着艦。テストは成功した。後日、英軍のブラックレー少佐が英国製ヴァイキング戦闘機により着艦に成功した。英国人は意気揚々とふんぞり返っていた。日本初の空母着艦は、英国人だった。

 同年3月、あまりに英人がドヤ顔でふんぞり返るので、陸上で着艦訓練を行っていた吉良海軍大尉が奮起。ぶっつけ本番で着艦テストに挑んだ。ジョルダンも同席していたが、鳳翔の上空を旋回しているのを見上げ、「あの様子ではまだまだだ」と周囲へ嘲るように言った。大尉は一気に艦尾へ向かって高度を下げたが、車輪が甲板へ接地した瞬間、波によって艦が揺れ、バウンドして失敗。そのまま高度を上げる。その後、何度か失敗したうえ、やっと成功したかに見えたが、再びうねり波によって艦が大きく揺れて甲板から飛行機ごと海へ落ちてしまった。

 大尉は奇跡的に無事だったが、納まるはずもなく、救命艇から上がってきてずぶ濡れの飛行服のまま再度のテスト飛行を上申、認められた。着替えて再び一〇式艦戦へ乗り、今度は一発で着艦成功! その後、再度飛行して何度か成功した。これが日本人初の空母着艦である。ジョルダンは不機嫌な顔を崩さずにその場を後にしたが、後に「日本人、恐るべし」と唸った。

 なお、それら2月と3月の着艦テストの日付は資料によってまちまちで、詳細は不明であるという。

 

 


 着艦が難しかったのにはわけがある。そもそも海に浮いて動いている船に飛行機が降りるのだから難しいにきまっているのだが、制動索(降りた飛行機にひっかけてブレーキとなるワイヤーロープ)が横方式と縦方式があり、横方式が一般的だが鳳翔やハーミーズの時代はまだワイヤーや金具の強度が弱く、数回着艦しただけで切れたり壊れたりしていたため、とても実用に耐えうるものではなく、縦方式が採用された。しかし艦の全長に匹敵する長さのワイヤーを15センチ幅の間隔で何本も縦に張って、そこに機体の車輪のところにある鉤をひっかけ、ワイヤーをこする摩擦で制動するため効率も悪く事故が絶えなかった。着艦方式も飛行機のケツから降りるのではなく、そのまま陸上の滑走路へ降りるように前輪から降りて鉤をひっかけるため難易度が高かった。

 フランスで横張用の頑丈なワイヤーと器具が開発されると、みな横索方式へと変わり、鳳翔も改装でその方式に変更された。横にワイヤーを張る制動方式では、飛行機はケツについた鉤へその横ワイヤーをひっかけるため、ケツから着艦し難易度も縦よりは易しくなる。

 当初の鳳翔は大型のアイランド型(島型)艦橋と、3本の煙突を備えていた。見るからに発着艦の邪魔だが、じっさい邪魔だった。初期の空母は手さぐりで、設計の段階と、実際の運用ではまだまだ齟齬があった。また、船体の小ささもすぐに問題となった。艦載機が高出力化して数年単位で大型化したのもあるが、運用してみると計算よりずっと滑走距離が必要だったという事情もあった。

 

 

 

 

 デジタル彩色。艦橋と煙突の様子がよく分かる。艦首の甲板がやや下がっているのが分かる。これは滑走距離が短くても発艦しやすいようにしてあるため。


 すぐさま鳳翔は改装され、島型艦橋は取っ払われた。煙突は垂直と水平の可動式で、ジャマなのでほとんど水平に倒した状態で運用されていたという。

 

 

 

 

 改装後。


 太平洋戦線参加の前に、鳳翔は空母加賀と共に皇92(S7/32)年の第1次上海事変へ参加。これが日本軍初の空母実戦だった。さらにこの際、加賀の艦載機が国民党軍の米国製戦闘機と戦い、日本軍初の敵機撃墜を記録した。

 また皇97(S12/37)年の第2次上海事変及び支那事変にも参加。この時は鳳翔、加賀と龍驤の3隻の空母が他軽巡や駆逐艦多数と共に参加した。特に第2次上海事変では、加賀より発艦した96式艦攻や94式艦爆が、上海の国民党軍をいいように爆撃。加賀は「悪魔艦」と恐れられた。

 

 

 上海事変のころの鳳翔と奥が空母加賀。


 真珠湾のころには、さすがに鳳翔も旧式化し、前線へは出られなかった。なんといっても飛行甲板の距離が足らず、零戦や97式艦攻、99式艦爆といった単葉機の発着が難しくなっていた。


 皇01(S16/41)年12月8日、真珠湾勃発。鳳翔でも発着艦が容易な複葉の96式艦攻を使い、後発の水上部隊の対潜哨戒任務を与えられた。後発部隊は空母部隊が奇襲失敗した際に空母を救うために出撃したが、奇襲大成功を受けて小笠原近海で日本へ戻る。

 

 

 随伴していた武蔵から映された鳳翔。水上部隊の護衛任務が多かった。


 この際、鳳翔が行方不明になるという前代未聞の事件が起きた。12月10日、鳳翔は対潜哨戒のため駆逐艦3隻と風上へ向かい、そのまま音信不通となって行方不明になった。翌日も連絡が取れず、宇垣聯合艦隊参謀長は呆れた。まだレーダーもないうえ、鳳翔は通信用アンテナが波浪でボッキリ折れており、どうしようもなかった。呉では鳳翔が敵潜水艦にやられて沈没したとまことしやかに噂され、13日に呉へ戻ってきたとき、鳳翔艦長は山本聯合艦隊司令長官より(駆逐艦を従えて戻ってきたので)「水戦司令官となった気分はどうだった」と笑顔で迎えられた。

 翌02(S17/42)年には米軍のマーシャル進出やドゥーリットル空襲に際し警戒出撃したが会敵しなかった。

 呉で大和艤装中は大和の隣へ停泊し、秘匿艦である大和を隠蔽した。が、自身の倍ほどもある大和を隠しきれていたのかどうかは、現在では疑問が残る。今となってはむしろほほえましい写真が残っている。

 

 

 大和艤装中。右の見切れてケツのみ映っているのが鳳翔。ぜんぜん隠せてないと思う……。


 同年6月、ミッドウェーへ参加。とうぜん前衛部隊ではなく、初陣の大和を旗艦とするの主力部隊の一員だった。旧式の96式艦戦と96式艦攻(複葉機)を計19機搭載し、対潜哨戒、戦況視察、艦隊よりはぐれた艦の誘導任務に従事。前衛空母群がやられた後も、空母飛龍の最後の姿を鳳翔の96式艦攻が撮影し、また赤城や加賀の生き残りを収容した長門と陸奥へ医薬品をドラム缶に詰めて投下した。本作戦における鳳翔の後方任務は見事なもので、宇垣参謀長も「賞賛すべきなり」と残している。

 その後、鳳翔は前線へ出ることなく、訓練艦としてほとんど瀬戸内海で過ごした。皇04(S19/44)年には改装で飛行甲板を延長したがバランスが悪くなり、よけい外洋へ出にくくなってしまった。終戦の年、皇05(S20/45)年になると燃料も枯渇し、呉で停泊するのみとなった。しかし呉空襲でも被害を受けず、鳳翔は無傷のまま終戦を迎えた珍しい空母となった。終戦時に、問題なく航行できた空母は鳳翔をはじめ、龍鳳、葛城の3隻のみだった。隼鷹は片軸推進ならば航行できた。

 

 

 

  

 

 

 終戦の年の鳳翔。艦尾の甲板を延長している。


 鳳翔の仕事は終わらなかった。改造され、復員船として南方と日本を9往復した。軍民あわせて延べ4万人を日本へ運んだ。S21(46)年8月に復員任務を終え、同年8月31日から解体開始。翌年5月1日解体終了した。
 

 

 艦首甲板下の珍しい写真。錨鎖巻取装置の様子がよく分かる。

 

 世界初の本格空母として帝国海軍を初期から見つめ続け、多くのパイロットたちが最初に発着する艦となり、最後は南方へ残された日本人を本土へ送り届け続け、任務終了後に解体されて平和利用された鳳翔は、まこと海軍の母なる艦というにふさわしい。