武蔵 | バカ日記第5番「四方山山人録」

バカ日記第5番「四方山山人録」

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 大和と同じくワシントン海軍軍縮条約脱退後に建造着手した大和型戦艦2番艦武蔵は、日本軍最新にして最後の戦艦であり、竣工から沈没まで2年2か月という、最も短命な戦艦でもある。

 大和は呉の海軍工廠で建造されたが、武蔵は三菱重工業の長崎造船所で建造された。長崎では戦艦霧島や日向、標的艦として廃棄された土佐、解体され他の艦の資材として使われた巡洋戦艦の愛宕が、既に建造経験があった。ただし、4万トン級のそれらの戦艦からいきなり7万トン級の武蔵建造にあたり、ドック拡張と船台の設計から作業が始まった。

 大和と同じく建造は極秘中の極秘だったが、民間造船所であり、かつ長崎の地形上、非常に目立ったため、秘匿は厳格を極めた。ドックは全て高い丸太組の棕梠のムシロで遮蔽され、全国で棕梠を大量に買いつけたため価格が暴騰し、棕梠を漁網に使う漁師から苦情が入り、悪質な買占め事件として警察が捜査を始める始末だった。

 関係者はおろか、各部署の責任者まで特別な腕章を忘れると現場に入れなかった。長崎は港口が非常に狭く、ドックの対岸は山になっており、よりによってアメリカとイギリスの総領事館があって丸見えだった。なんでそんなところで極秘戦艦を造るかなあ、といったところだが、ドックの前面に使いもしない倉庫を建てて遮蔽した。造船所を見下ろす高台にあったグラバー邸や香港上海銀行長崎支店の建物は、三菱で買い取った。

 しかも、大和は順調に建造されたが、やたらと厳しい監視や慣れぬ作業、さらには一部の装甲板の製造の遅れ等で武蔵は建造に遅れが生じた。武蔵の竣工は皇紀2602(昭和17/1942)年12月の予定だった。しかし皇01(S16/41)年12月に真珠湾が勃発するとそれでは遅いと海軍より督促が出され、予定より半年も早い6月竣工を目指して昼夜を跨ぐ超人的な作業が行われた。

 その中で、某新人製図工による極秘図面紛失事件が起きた。新人製図工は自分が何を製図しているのかも知らされぬままに極端に厳しい監視下で連日仕事をする重圧に耐えられず、図面を数枚、燃やしてしまったのだという。そうしたら自分はもうこの仕事から逃れられると考えた短絡的な行為だったが、憲兵と特高が極秘捜査を開始。疑わしい者は片端からひっとらえて拷問し、徹底的に犯人を捜したため、作業がさらに遅れた。結果としてスパイ罪ではなかったため、某新人製図工は釈放されたが即座に解雇。家族ごと行方知れずとなり、なにがなんだか分からぬまま激しい拷問を受けた容疑者は放免後も作業に戻れぬほどのPTSDとなった。

 そして皇00(S15/40)年11月1日、なんとか進水にこぎつけた。ところがここでも問題が発覚。大和は乾ドックへ注水して進水したが、武蔵は船台へ乗せて海へ滑り出す方式だった。その前代未聞の大きさの船台を設計製作するところから始まり、船台を滑らせる大量の獣脂の調達も前例がなく問題だった。なにより大問題だったのが、長崎湾の狭さだった。計算によると、263mの武蔵がそのまま進水すると、幅500mほどしかない湾を横断して対岸に艦尾からつっこんで座礁することが判明した。

 けっきょく、船台もなんとか製作し、大量の潤滑用獣脂も調達して、対岸座礁問題は巨大な錨鎖を右舷だけに取り付け、海へ出た瞬間に鎖が重りとなって船体を制動し、進行方向(艦尾)に向かって左へ曲がって対岸には影響ない(はず)という手法がとられた。一発本番、当日は防空演習ということにして付近住民は一歩も家から出ないよう通達された。憲兵、警察署員600名が監視し、他に佐世保鎮守府から海兵団1200人が応援に来た。進水式は、昭和天皇名代として来席した伏見宮博恭王ですらいったん私服に着替えて誰ともわからぬ姿で会場入りし、その後にまた着替えるという徹底した秘匿ぶりだった。いざ進水が行われると摩擦熱で獣脂からもうもうと白煙が上がり、すさまじい音を立てて巨大な鎖が引きずられた。艦尾より海へ突入した武蔵は計算通り鎖に引っ張られて左へ曲がった。それでも計算より44mも進んで、ようやく静止した。

 だが、その余波で対岸に高波が押し寄せ、海岸際の家屋は床上浸水に見舞われた。あわてて家を飛び出た住民達は憲兵隊に怒鳴りつけられて家に押し戻され、畳の浮く水浸しの室内で訳も分からず寒さに震えたという……。

 もう進水だけでこの騒ぎであったが、なんとか艤装岸壁まで移動し、あとは突貫だった。内装は大和建造中に問題のあった部分を改装しながら行われ、旗艦として通信、会議設備、また調度品が大和より優れていた。調度品に関しては、客船を多く作っていた三菱の得意な分野であった。

 

  

 デジタル彩色。艤装中。


 また、呉の海軍工廠で製作された主砲を長崎まで運搬するためだけの特殊運搬船 樫野も同時に建造された。1基2510トンと駆逐艦1隻分もある前代未聞の46センチ3連装主砲を、砲身と砲台に分けて1基ずつ運搬できる専用船で、呉と長崎を3基分3往復した。名目上は弾薬や火薬を運ぶ給兵艦だったが、実際は大和型主砲運搬専用船という秘匿ぶりだった。

 

 

 完成間近か完成直後の武蔵。主砲の巨大さが分かる。


 ちなみに樫野は皇02(S17/42)年9月4日、台湾沖で物資運搬中に米潜水艦の雷撃で沈んでしまい、横須賀で建造着手した大和型3番艦信濃の主砲が運搬できなくなった。また、ミッドウェーの敗北により主力空母が不足したこともあり、信濃は空母に改装された。樫野は、船体概要の分かる写真が1枚も残っていない、幻の船である。

 皇02(S17/42)年8月5日、大和竣工の約8か月後、武蔵は日本軍最後の戦艦として竣工した。

 

 

 デジタル彩色。特徴的な艦橋。


 真珠湾はおろか既にミッドウェー後であり、翌皇03(S18/43)年1月22日に大和より聯合艦隊旗艦を譲り受けた武蔵は、しかし、大和と共にトラックで待機が続く。居室も広く、兵卒の部屋にまで冷房完備、アイスクリームやソーダ製造機まである大和型は「大和ホテル」「武蔵旅館」「武蔵御殿」などと揶揄された。

 

 

 トラックにおける大和型2隻揃い踏みの貴重な写真。これほど鮮明なのは珍しい。


 同年4月18日、山本五十六司令長官が一式陸攻で移動中に米軍に襲われて戦死。武蔵は遺骨を日本へ送り届けることとなった。5月22日に日本到着。6月24日には昭和天皇が行幸した。その際の高名な記念写真がある。

 

 

 前列中央が昭和天皇。

 

 再びトラックへ向かい、訓練後にまた日本へ戻った。翌皇04(S19/44)年2月、トラック諸島が米軍の手に落ちたことからパラオへ南洋本拠地を移すために物資や人員を輸送した。3月にはパラオへ迫る米軍を警戒するために外洋を航行中、米潜水艦の雷撃を受ける。艦首部に命中し、2600トンも浸水した。浸水区画にいた兵員は死者7名、負傷者11名だった。大和型(に限らないが、戦艦)の装甲は「敵戦艦による自らと同程度の主砲による徹甲弾」を防ぐための装甲設計がなされており、海中を水平に突き刺さる魚雷は想定外で計算上の強度が出ないという弱点があった。

 これに関しては、当時から弱点を指摘されながら何ら手立てを打たなかった、などという頓珍漢な批判を散見するが、だからって装甲を全部引っぺがしてつけ直すのかという話であり、新しい戦艦を造ったほうが早い。いかにも現代人の視点で当時の事情にいちゃもんをつける浅はかさを露呈している。

 修理のため再び日本へ戻り、同年4月、対空兵器を増設する改装を受けた。タウイタウイへ到着後、大和と共にビアク島へ迫る米軍を迎撃する渾作戦へ参加したが、米軍がビアクではなくマリアナへ向かったので作戦は中止された。

 そして同年6月、マリアナ沖海戦である。ミッドウェーとは逆に、大和型2隻を主軸とする水上部隊を空母機動部隊の前衛に置き、楯としたが、敵航空部隊は水上部隊を無視して後方へ向かい、日本軍は空母3隻を失っただけではなく敵機動部隊を攻撃した艦載機も敵最新対空兵器や直掩戦闘機にほとんど撃ち落とされるという大敗北を喫した。米兵に云われたのが、屈辱の「マリアナの七面鳥撃ち」である。水上部隊は些少の空襲を受けたが、敵機動部隊を発見できず、戦闘もせずにほとんど無傷だった。

 同年10月、日本軍最大にして最後の大海戦、史上最大の海戦とも呼ばれるレイテ沖海戦へ参加する。10月20日、栗田艦隊としてブルネイへ入った武蔵は、どういうわけか明るい銀鼠色へ塗装を塗りなおす。これが艦隊の命令なのか武蔵の独自判断なのか、今も不明である。下士官には死に装束みたいで不吉だという意見や、逆に縁起を担いでいるという意見があったが、艦隊のほかの艦からはおおむね不評だったようである。

 10月22日、朝方に栗田艦隊はブルネイを出発。同日、午後3時ころには西村艦隊がブルネイを発った。栗田艦隊は北上しパラワン水道を抜けシブヤン海を横断。レイテ島を北回りで南下し、小澤艦隊が敵機動部隊を引き付けている間にスリガオ海峡を抜けた西村艦隊、志摩艦隊と合流、レイテ湾へ突入し米上陸艦隊を叩くという作戦だった。

 

 

 後部甲板に零式観測機が見える。


 しかし米軍も手をこまねいているわけではなかった。日本軍の数倍の規模で各所に陣を張り、今かと待ち受けていた。

 ここまでの記事で、戦艦のいない志摩艦隊を除き各艦隊に配備された戦艦たちがどうなったか、書いてきた。武蔵は、最後の記述となる。さらに詳しくは専門書や専門サイトを参照していただくとして、ここではなるべく興味を持っていただくのと、自分の勉強のために、ほどほどに詳しく、かつ簡易にまとめたい。

 10月23日、パラワン水道を東進中に、2隻の米潜水艦の襲撃を受け、重巡愛宕と麻耶が撃沈、高雄が大破撤退する。栗田艦隊は、いきなり重巡3隻を失った。日本軍の駆逐艦は艦隊戦用の大型駆逐艦で、対水上戦能力は高かったが対潜能力はそれほど高くなかったと云わざるを得ない。日本軍の貧相な対潜ソナーではさもありなんといったところだが、どちらかというともっと小型の補給艦隊護衛駆逐艦や海防艦のほうが対潜能力は高い。しかしあまりに小型だと、このような大規模艦隊戦には随伴できないジレンマがある。

 とにかく日本軍は米の高性能量産型潜水艦であるガトー級、改ガトー級潜水艦にボコボコにされたといってよい。戦艦、空母、重巡、軽巡、駆逐艦、その他輸送船、どれだけガトー級にやられたことか。米軍は合計で300隻を超えるガトー級を北はカムチャッカ、南はインドネシアまでウヨウヨと潜ませた。日本軍の、ほとんど試作品だらけの艦隊決戦用大型潜水艦とは根本から運用方針が違った。

 現在、海上自衛隊の対潜能力が事実上米軍をも凌駕して世界一なのは、2次大戦のトラウマと怨念と執念という話もある。が、現実的には、冷戦時代にソ連の潜水艦を連日追いかけていたら錬度が異様に上がったのである。

 10月24日、艦隊はシブヤン海へ突入。武蔵の長い1日のはじまりであった。

 日本軍を発見した米主力機動艦隊3群から、艦載機が次々に来襲。日本軍もレーダーや見張員の報告により、対空戦闘用意。日本軍基地攻撃隊も発進し、敵空母部隊へ攻撃を仕掛けたが迎撃され壊滅した。ただし軽空母プリンストンを撃沈する。

 1025第1波襲来。積乱雲で見失った敵機が、突如として雲間より現れ、急襲さる。武蔵へは17機が襲来。武蔵は主砲発射せず、副砲、対空機銃のみで応戦した。距離が近すぎて、主砲発射できなかったのではないかと考える。直撃弾1、魚雷1命中、至近弾4をくらう。罐室まで浸水した魚雷の衝撃は大きく、艦橋の上の前部主砲射撃方位盤が故障。旋回できなくなり、主砲の統一射撃が不可能となる。これは魚雷1発ごときで故障するはずがないという証言、自らの主砲発射の衝撃で故障したという証言、急激な転舵の連続による艦体振動で故障した説、もともと対空射撃機能が無かった説など多々ある。特に、自らの主砲発射の衝撃で故障した説はまことしやかに書物や戦記マンガに描かれるが、第1次攻撃で主砲発射の記録が無く眉唾である。基地航空隊の掩護が予定されていたが天候不良で中止となり、艦隊は丸裸だった。

 

  

 米軍撮影。シブヤン海で回避運動をする武蔵。まだあまり被害の無いころ。

 
 1145ころ第2波襲来。対空陣外周の駆逐艦、巡洋艦の対空攻撃をすり抜けた攻撃機が武蔵へ集中。やはり武蔵だけ色が違って目立っていたのだという。武蔵は直撃弾2、魚雷3命中、至近弾5。浸水で艦首が2m沈下。装甲板を突き抜けた250kg爆弾が兵員室で炸裂。近隣の機械室も破損して使用不能となり、4つあるスクリューのうち1つが使用不可となって速度低下。主砲9、副砲17発射して応戦。主砲発射時に退避ブザーが鳴らず、衝撃で甲板の作業員や対空機銃員が吹き飛ばされて即死した。

 1217第3波襲来。魚雷1命中、至近弾3。至近弾といっても至近なわけで、かわしてはいるが爆発の衝撃でダメージはある。特に爆弾の破片でむき出しの対空機銃員が死傷し、対空攻撃力が落ちた。主砲13、副砲43発発射。艦隊司令部より退避してコロン湾へ向かうよう下命あり。

 1223連続して第4波襲来。直撃弾4、魚雷4命中。艦首さらに3m沈み、計5m沈下する。注水してバランスを保つ。最大速力16ノットに低下し、ついに艦隊より落伍。主砲15、副砲37発発射。駆逐艦清霜、浜風、重巡利根が護衛につく。

 1315艦隊に第5波襲来するも落伍していた武蔵には1機も来なかった。しかし大和と長門への援護射撃で主砲7発発射。

 1445第6波(武蔵へは第5波)襲来。速度低下していた武蔵へ集中攻撃。直撃弾10以上、魚雷11命中。至近弾6、ついに大火災を起こす。左舷傾斜を注水して戻すも、艦首がさらに4m沈下。第1主砲下部まで波に洗われる。艦橋にも直撃弾をくらい、艦長重傷を含め航海長、高射長など幹部含む57名戦死。この際、戦闘詳報が消失して、後に回想から作成された現存武蔵戦闘詳報は、その記述に曖昧さが残っている。

 

 

 米軍撮影。第5波と思われる猛攻撃を受ける武蔵。これで轟沈しないのだから逆に凄い。奥は護衛の駆逐艦清霜らしい。

 

 

 さらに攻撃は続く。

 

 

 同じく、凄まじい攻撃を受ける武蔵。魚雷直撃による水柱の高さに注目していただきたい。武蔵の速度が低下し、奥の駆逐艦が武蔵を追い越しているのがこの3枚の連続した写真でわかる。


 パラワン水道で撃沈された重巡麻耶の生き残りを収容していたが、当の武蔵が沈没の危機にあり、1730ころ武蔵戦闘補助をしていた者を除く麻耶乗員を横付けした駆逐艦島風へ移す。

 この時点でスクリューは1つのみ動いており、速度は6ノットにまで低下。大火災は意外にもすぐに鎮火したが、なんといっても大浸水が止められなかった。ダメージコントロール用の角材や鉄板が恐るべき水圧で「マッチ棒のように折れ、ベニヤ板のように曲がった」という。

 

 

 1800ころ、栗田艦隊より救援に駆けつけた駆逐艦磯風より撮影された高名な写真。武蔵最後の姿。火災が収まり、機関も生きているのが分かる。艦首がかなり沈んでいる。


 1915左舷傾斜著しく回復の見込みなし。総員退艦準備。軍艦旗降下。

 1930傾斜30度。総員退艦。

 1935武蔵は艦首より転覆しながらゆっくりと沈んで行った。海中で2度、爆発があったという。

 1000名ほどの生存者の多くは武蔵沈没秘匿の意味もありそのままフィリピンに残され、マニラ市街戦に参加し多くが戦死した。

 大和は大爆発した写真が残っているが、武蔵は証言しかなく、また沈没地点の情報をもとに戦後調査しても船体を発見できなかったため、長らく海底での状態が謎だった。中には、そのままの姿でちょうど浮力がつりあって海中に浮遊し、海流に乗っていまもシブヤン海の海底近くを漂っているなどという幽霊船めいた噂まであった。

 しかし、2015年3月、マイクロソフト創業者のポール・アレンが自身の財力を駆使した第二次世界大戦で沈んだ艦船調査で、シブヤン海1000mの海底でついに武蔵を発見した。

 

 

 艦首部の菊の御紋(の跡)。武蔵と確認。 

 

 先に発見されて研究が進んでいた大和と比較し、結局武蔵にも同様のことが起きたと推察された。つまり、海底の武蔵も大和と同じく真っ二つに折れて、周囲には無数に残骸、破片が散らばっていた。転覆した艦首部は一回転してそのままの姿で着底し、艦尾部がひっくり返っているのも大和と同じだった。

 主砲はターレットから抜け落ちて、すっぽりと孔が開いている。そこや煙突から大量の海水が流入し、機関室で水蒸気爆発があった模様。さらに、大和より少し後ろの、第二主砲のあたりで船体が内部より爆発してボッキリと折れていたため、第二主砲弾薬室で誘爆があったと推察された。第二主砲は破壊された状態でひっくり返っていたが、大和と異なり第1、第3主砲は未発見。

 その代わり、大和では船体の下敷きとなりグシャグシャになっていた艦橋が、ほぼそのままの姿で海底にあった。直撃弾のダメージも鮮明だった。艦橋の外観調査により、これまで未発見だった機銃などが確認された。

 

 

 マニアックなネット有志による検証。

 

 

 

 

 艦橋が残っているのか分かる。この巨大な筒みたいなのが測距儀で、第1波攻撃で、これの回転盤が壊れたのである。


 浮沈艦とうたわれた大和型戦艦の沈没は、日本海軍壊滅の序章だった。武蔵を失ってもなお進撃した栗田艦隊はしかし、その後のサマール沖海戦を経てダメージが大きく、西村艦隊壊滅、志摩艦隊撤退、小澤艦隊空母全滅他艦艇撤退により、レイテ湾突入を断念。作戦は失敗し、聯合艦隊は壊滅した。 
 

 

 それぞれ、最終改装時の大和(上)と武蔵(下)。対空機銃の数がまるで違うのと、前甲板の錨鎖、後甲板の赤い線(名前を知らない)の角度、観測機発射カタパルトの先にある装置(これも名前は知らない)の有無などの差異がある。

 

 

 武蔵発見でにわかに注目された際に、武蔵砲術長の遺品からとんでもない写真が発見された。瀬戸内海での公試における、主砲発射試験の写真。

 

 おそらく、46センチ砲発射の瞬間の、今のところ唯一の写真。

 

 

 
 武蔵はたしかに存在した。そして、戦い、沈んだのである。


 これで第二次世界大戦日本軍戦艦シリーズを終わります。

 来週から、第二次世界大戦日本軍空母シリーズをやりたいと思います。