伊勢型の建造によりノウハウを得た日本は、いよいよ本格的な最新艦隊計画に基づき、長門型の建造に着手する。
長門は同時代や少し先の時代の英米の戦艦と比べても遜色なく、かなり強力な戦艦として完成した。あまりに強力なうえ、日本が「八八艦隊計画」という計画をぶち上げてさらに強力な戦艦群をそろえようとしていたので、欧米各国がそれを脅威に感じ建艦競争を抑えるため軍縮条約を結んだほどである。日本も建造計画中の艦は計画中止、建造中の艦は解体や空母転用、標的艦として処分された。
八八艦隊計画の主力艦計画の概要は以下のとおり。
「建造年数8年以内の戦艦8隻、巡洋戦艦8隻をそろえる」
戦艦 長門 陸奥
戦艦 加賀 土佐
巡洋戦艦 天城 赤城 高雄 愛宕
戦艦 紀伊 以下3隻
以下計画予定
建造中の艦は廃艦と定められたが、ほとんど完成している陸奥は破棄できないと日本が猛烈に抵抗し、時間を稼いで未完成(85%ほどの完成度だったという)のまま海軍へ納品し、無理やり保有を認めさせた。その代わり英米も軍縮枠を減らし保有艦数が増えた。
加賀と土佐は船体のみ完成していたが破棄が決定。標的艦として処分されることとなった。
同じく船体の完成していた天城と赤城は、空母へ改装されることになった。計画段階の高雄と愛宕は計画中止。
紀伊型は計画予定の段階だったが全て中止となった。
ところが、関東大震災の発生で、横須賀で空母へ改装中だった天城がドック内で横倒しにひっくり返ってしまい、キールが折れて船体が裂けるという、復旧不可能な大被害を受けてしまった。
そこで急遽、処分予定だった加賀が空母へ改装されることになった。こうして日本機動部隊の誇る一航戦空母赤城・加賀が生まれることとなった。土佐は予定通り標的艦として処分された。
またそのようなわけで、戦艦は長門・陸奥からややしばらく期間が開いて、軍縮条約失効後に大和・武蔵が造られることになった。
さて長門であるが、皇紀2580(大正9/1920)年に竣工。軍縮条約時代は戦艦の建造が禁止されており、しばらく世界トップクラスの戦艦として君臨していた。世界に7隻ある主砲口径40cmクラスの巨大戦艦として陸奥と共に「ビッグセブン」と呼ばれた。
デジタル彩色。
非常にバランスの取れた艦だったが問題が無いわけではなく、近代化改装を受け煙突や艦橋などが改修された。特に第1次改装時のS字煙突は特徴的である。これは艦橋に煙突が近すぎたため排煙に問題があり、カバーをかぶせたが意味が無かったので煙突をグイッとまげてS字にしたもので、まあまあ効果があった。その後、第二次改装で煙突は1本に統合された。
前煙突にカバーがかかっているのが認められる。
あまり効果はなかったようである。
前煙突がS字に曲がっているのがよく分かるショット。
こちらも分かりやすい。
建造当時、最大船速26.5ノットと巡洋艦並の速度を誇ったが、日本軍は秘匿し23ノットとしていた。関東大震災発生時は渤海で演習中だったが、救援物資を満載し最大船速で東京湾へ向かった。その際、途中でイギリス駆逐艦を後方に認め、秘匿していた最大船速がばれるので速度を落とした。しかし、機関や煙突の形状から推測し、各国は長門の最大船速が23ノットなわけがないと思っていたので公然の秘密だった。空気を読み、イギリス駆逐艦は礼砲を打ってすぐさま長門を追い越して行ってしまった。長門は再び最大船速となって、東京へ駆けつけた。
大和型がその存在ごと秘匿されていたため、戦前戦中は、日本を代表する戦艦といえばこの長門型だった。
実弾演習中の長門。
高名な全乗務員集合写真。
そんな長門も、対米戦が始まると他の戦艦と同じく出番がない。いかに長門が高速でも、流石に空母随伴はできなかった。
皇紀2601(昭和16/1941)年、真珠湾では空母部隊の補佐として後続部隊を率い、聯合艦隊旗艦としてハワイへ向かったが、奇襲大成功、機動部隊無事を受けて日本へ帰還した。その際、空母鳳翔が一時行方不明になるという「騒ぎ」があった。
翌02(S17/42)年2月のミッドウェーでは、空母4隻をみすみす沈めつつ、長門達後続本隊は何もできずに帰投した。それから1年半ほど、長門は日本本土で待機した。
03(S18/43)年6月、瀬戸内海柱島泊地で、扶桑や重巡最上、軽巡大淀らと待機中の姉妹艦陸奥が、突如として眼前で第3砲塔付近が大爆発し、ボッキリと折れて轟沈した。この「陸奥爆沈」は現在でも原因が謎である。
同年10月、大和、武蔵、扶桑、金剛、榛名らと共にウェーク諸島へ進出したが会敵しなかった。
04(S19/44)年6月、マリアナ沖海戦へ参戦。長門は初の本格的な実戦を迎える。空襲により被弾するも損害は軽微だった。空母隼鷹へトドメに迫る米艦載機を、対空三式弾の一斉射で追い払った。被弾した飛鷹を曳航しようとしたが失敗し、飛鷹は沈没した。そのほかに空母翔鶴、大鳳も沈み、日本は惨敗した。
同年10月、長門はレイテへ参戦する。栗田艦隊の一員としてブルネイを出発。西村艦隊と別れ北上。パラワン水道で敵潜水艦の猛攻を受け、重巡高雄、愛宕が沈没。シブヤン海では5次にわたる大空襲を受け、武蔵が沈没。長門も直撃弾2発を受けて200名近い死者、負傷者を出した。
ブルネイで待機中の長門。奥に大和型も見える。
栗田艦隊は一時撤退し、西村艦隊との合流へ間に合わないばかりか、その西村艦隊はスリガオ海峡で壊滅した。
小澤機動艦隊が身を挺して米機動艦隊を引き付けたが、栗田艦隊にも空襲が激しくなる一方で、ついに栗田中将は南進を断念。レイテ湾突入を中止して撤退した。ここに作戦は失敗した。
なんと、この捷一号作戦時には海軍主計士官として中曽根元総理が長門へ乗艦し戦闘記録を作成していた。
同年11月、大和、長門、金剛他でブルネイより日本へ帰還したが、途中の台湾沖で金剛と駆逐艦陽炎が潜水艦の攻撃により沈んだ。
11月25日、長門は駆逐艦雪風、磯風、浜風に護衛されて横須賀へ帰還する。入れ替わりに横須賀で建造中だった大和型3番艦にして空母へ改装された信濃が空襲を避けるために同じ駆逐艦隊に護衛され呉へ出発した。長門は総員で信濃を見送ったが、信濃は突貫工事のうえ未完成で、艦内はまだ配線だらけ、溶接工事をしながらの航海だったという。当然ダメージコントロールの訓練もままなっておらず、紀伊半島沖で潜水艦による4本もの魚雷を受けて、あっけなく信濃は沈んでしまった。
05(S20/45)年7月、長門は横須賀で空襲を受け艦橋に被弾。艦長以下多数が戦死。その修復もできないまま、終戦を迎えた。
呉で空襲をうけた榛名、伊勢、日向は大破着底したため、そのまま解体されたが、長門は中破とはいえまだ浮かんでおり、機関も生きていて航行可能だった。日本軍で生き残った唯一の戦艦だった。
終戦時の長門。
終戦後の8月30日、アメリカ軍が接収。旭日旗が下ろされ、星条旗が長門へたなびいた。
米軍撮影。
米軍撮影。
アメリカ軍による詳細な調査の後、武装解除され、長門は最後の仕事へ向かう。
翌1946(S21)年7月、長門は他の実験艦と共にマーシャル諸島のビキニ環礁にいた。ここで、水爆実験に使われる。クロスロード作戦である。
アメリカ軍は長門、軽巡酒匂、ドイツ海軍の重巡プリンツ・オイゲンのほか、自軍からも戦艦アーカンソー、ネヴァダ、ペンシルヴァニア、ニューヨーク、空母サラトガ、インディペンデンス、その他大量の潜水艦、巡洋艦、駆逐艦、上陸艇等の小型艦艇を使用した。むしろ武勲艦を含む自軍の船がほとんどで、けして敵国の船を復讐として水爆実験したわけではない。
実験は3回行われる予定だったが、放射能汚染が深刻で3回めは中止され、2回で終わった。長門は1回目の爆発に耐え、2回目を食らったのち、夜のうちに人知れず沈んだ。
水爆実験の写真。手前に長門のシルエットが見える。
現在でもビキニ環礁の海底に他の実験艦と共に長門の船体は残っており、ダイビングスポットとなっている。ただし、放射能の影響が懸念されるため、ダイバーは船体への直接の接触を禁じられている。
また、私も同回放送を見たが、接収された際に米兵に持ち去られ長らく行方不明だった長門の軍艦旗がテレビ東京の「開運!なんでも鑑定団」に出品された。持ち帰った米兵の孫が出品したものだった。当時の写真と照合し、汚れが一致し本物と鑑定され、1000万円の値がついた。当時司会だった石坂浩二がその値段で出品者より買い取り、呉のヤマトミュージアムへ寄贈した。