バカ日記第5番「四方山山人録」 -4ページ目

バカ日記第5番「四方山山人録」

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 伊勢型の建造によりノウハウを得た日本は、いよいよ本格的な最新艦隊計画に基づき、長門型の建造に着手する。

 長門は同時代や少し先の時代の英米の戦艦と比べても遜色なく、かなり強力な戦艦として完成した。あまりに強力なうえ、日本が「八八艦隊計画」という計画をぶち上げてさらに強力な戦艦群をそろえようとしていたので、欧米各国がそれを脅威に感じ建艦競争を抑えるため軍縮条約を結んだほどである。日本も建造計画中の艦は計画中止、建造中の艦は解体や空母転用、標的艦として処分された。

 八八艦隊計画の主力艦計画の概要は以下のとおり。

 「建造年数8年以内の戦艦8隻、巡洋戦艦8隻をそろえる」
 
 戦艦 長門 陸奥
 戦艦 加賀 土佐
 巡洋戦艦 天城 赤城 高雄 愛宕 
 戦艦 紀伊 以下3隻
 以下計画予定

 建造中の艦は廃艦と定められたが、ほとんど完成している陸奥は破棄できないと日本が猛烈に抵抗し、時間を稼いで未完成(85%ほどの完成度だったという)のまま海軍へ納品し、無理やり保有を認めさせた。その代わり英米も軍縮枠を減らし保有艦数が増えた。

 加賀と土佐は船体のみ完成していたが破棄が決定。標的艦として処分されることとなった。

 同じく船体の完成していた天城と赤城は、空母へ改装されることになった。計画段階の高雄と愛宕は計画中止。

 紀伊型は計画予定の段階だったが全て中止となった。

 ところが、関東大震災の発生で、横須賀で空母へ改装中だった天城がドック内で横倒しにひっくり返ってしまい、キールが折れて船体が裂けるという、復旧不可能な大被害を受けてしまった。

 そこで急遽、処分予定だった加賀が空母へ改装されることになった。こうして日本機動部隊の誇る一航戦空母赤城・加賀が生まれることとなった。土佐は予定通り標的艦として処分された。

 またそのようなわけで、戦艦は長門・陸奥からややしばらく期間が開いて、軍縮条約失効後に大和・武蔵が造られることになった。

 さて長門であるが、皇紀2580(大正9/1920)年に竣工。軍縮条約時代は戦艦の建造が禁止されており、しばらく世界トップクラスの戦艦として君臨していた。世界に7隻ある主砲口径40cmクラスの巨大戦艦として陸奥と共に「ビッグセブン」と呼ばれた。

 

 

 デジタル彩色。


 非常にバランスの取れた艦だったが問題が無いわけではなく、近代化改装を受け煙突や艦橋などが改修された。特に第1次改装時のS字煙突は特徴的である。これは艦橋に煙突が近すぎたため排煙に問題があり、カバーをかぶせたが意味が無かったので煙突をグイッとまげてS字にしたもので、まあまあ効果があった。その後、第二次改装で煙突は1本に統合された。

 

 

 前煙突にカバーがかかっているのが認められる。

 あまり効果はなかったようである。

 

 

 前煙突がS字に曲がっているのがよく分かるショット。

 

 

 こちらも分かりやすい。


 建造当時、最大船速26.5ノットと巡洋艦並の速度を誇ったが、日本軍は秘匿し23ノットとしていた。関東大震災発生時は渤海で演習中だったが、救援物資を満載し最大船速で東京湾へ向かった。その際、途中でイギリス駆逐艦を後方に認め、秘匿していた最大船速がばれるので速度を落とした。しかし、機関や煙突の形状から推測し、各国は長門の最大船速が23ノットなわけがないと思っていたので公然の秘密だった。空気を読み、イギリス駆逐艦は礼砲を打ってすぐさま長門を追い越して行ってしまった。長門は再び最大船速となって、東京へ駆けつけた。

 大和型がその存在ごと秘匿されていたため、戦前戦中は、日本を代表する戦艦といえばこの長門型だった。

 

 

 実弾演習中の長門。

 

 

 高名な全乗務員集合写真。


 そんな長門も、対米戦が始まると他の戦艦と同じく出番がない。いかに長門が高速でも、流石に空母随伴はできなかった。

 

 


 皇紀2601(昭和16/1941)年、真珠湾では空母部隊の補佐として後続部隊を率い、聯合艦隊旗艦としてハワイへ向かったが、奇襲大成功、機動部隊無事を受けて日本へ帰還した。その際、空母鳳翔が一時行方不明になるという「騒ぎ」があった。

 

 


 翌02(S17/42)年2月のミッドウェーでは、空母4隻をみすみす沈めつつ、長門達後続本隊は何もできずに帰投した。それから1年半ほど、長門は日本本土で待機した。

 03(S18/43)年6月、瀬戸内海柱島泊地で、扶桑や重巡最上、軽巡大淀らと待機中の姉妹艦陸奥が、突如として眼前で第3砲塔付近が大爆発し、ボッキリと折れて轟沈した。この「陸奥爆沈」は現在でも原因が謎である。

 同年10月、大和、武蔵、扶桑、金剛、榛名らと共にウェーク諸島へ進出したが会敵しなかった。

 04(S19/44)年6月、マリアナ沖海戦へ参戦。長門は初の本格的な実戦を迎える。空襲により被弾するも損害は軽微だった。空母隼鷹へトドメに迫る米艦載機を、対空三式弾の一斉射で追い払った。被弾した飛鷹を曳航しようとしたが失敗し、飛鷹は沈没した。そのほかに空母翔鶴、大鳳も沈み、日本は惨敗した。

 同年10月、長門はレイテへ参戦する。栗田艦隊の一員としてブルネイを出発。西村艦隊と別れ北上。パラワン水道で敵潜水艦の猛攻を受け、重巡高雄、愛宕が沈没。シブヤン海では5次にわたる大空襲を受け、武蔵が沈没。長門も直撃弾2発を受けて200名近い死者、負傷者を出した。

 

 

 ブルネイで待機中の長門。奥に大和型も見える。


 栗田艦隊は一時撤退し、西村艦隊との合流へ間に合わないばかりか、その西村艦隊はスリガオ海峡で壊滅した。

 小澤機動艦隊が身を挺して米機動艦隊を引き付けたが、栗田艦隊にも空襲が激しくなる一方で、ついに栗田中将は南進を断念。レイテ湾突入を中止して撤退した。ここに作戦は失敗した。

 なんと、この捷一号作戦時には海軍主計士官として中曽根元総理が長門へ乗艦し戦闘記録を作成していた。

 同年11月、大和、長門、金剛他でブルネイより日本へ帰還したが、途中の台湾沖で金剛と駆逐艦陽炎が潜水艦の攻撃により沈んだ。

 11月25日、長門は駆逐艦雪風、磯風、浜風に護衛されて横須賀へ帰還する。入れ替わりに横須賀で建造中だった大和型3番艦にして空母へ改装された信濃が空襲を避けるために同じ駆逐艦隊に護衛され呉へ出発した。長門は総員で信濃を見送ったが、信濃は突貫工事のうえ未完成で、艦内はまだ配線だらけ、溶接工事をしながらの航海だったという。当然ダメージコントロールの訓練もままなっておらず、紀伊半島沖で潜水艦による4本もの魚雷を受けて、あっけなく信濃は沈んでしまった。

 05(S20/45)年7月、長門は横須賀で空襲を受け艦橋に被弾。艦長以下多数が戦死。その修復もできないまま、終戦を迎えた。

 呉で空襲をうけた榛名、伊勢、日向は大破着底したため、そのまま解体されたが、長門は中破とはいえまだ浮かんでおり、機関も生きていて航行可能だった。日本軍で生き残った唯一の戦艦だった。

 

 

 終戦時の長門。


 終戦後の8月30日、アメリカ軍が接収。旭日旗が下ろされ、星条旗が長門へたなびいた。

 

 

 米軍撮影。

 

 

 米軍撮影。


 アメリカ軍による詳細な調査の後、武装解除され、長門は最後の仕事へ向かう。


 翌1946(S21)年7月、長門は他の実験艦と共にマーシャル諸島のビキニ環礁にいた。ここで、水爆実験に使われる。クロスロード作戦である。

 アメリカ軍は長門、軽巡酒匂、ドイツ海軍の重巡プリンツ・オイゲンのほか、自軍からも戦艦アーカンソー、ネヴァダ、ペンシルヴァニア、ニューヨーク、空母サラトガ、インディペンデンス、その他大量の潜水艦、巡洋艦、駆逐艦、上陸艇等の小型艦艇を使用した。むしろ武勲艦を含む自軍の船がほとんどで、けして敵国の船を復讐として水爆実験したわけではない。

 実験は3回行われる予定だったが、放射能汚染が深刻で3回めは中止され、2回で終わった。長門は1回目の爆発に耐え、2回目を食らったのち、夜のうちに人知れず沈んだ。

 

 

 水爆実験の写真。手前に長門のシルエットが見える。


 現在でもビキニ環礁の海底に他の実験艦と共に長門の船体は残っており、ダイビングスポットとなっている。ただし、放射能の影響が懸念されるため、ダイバーは船体への直接の接触を禁じられている。

 また、私も同回放送を見たが、接収された際に米兵に持ち去られ長らく行方不明だった長門の軍艦旗がテレビ東京の「開運!なんでも鑑定団」に出品された。持ち帰った米兵の孫が出品したものだった。当時の写真と照合し、汚れが一致し本物と鑑定され、1000万円の値がついた。当時司会だった石坂浩二がその値段で出品者より買い取り、呉のヤマトミュージアムへ寄贈した。

 

 

 

 

 

 

 

 不幸型もとい(もういい)扶桑型戦艦4番艦として計画されていたが、財政上の都合で大幅に予定が遅れたため、先行する扶桑型の問題点をなるべく改善して再設計された伊勢型戦艦2番艦である。

 伊勢の翌年、皇紀2578(大正7/1918)年に竣工した。

 

 

  

 デジタル彩色。

 


 伊勢と日向は、それまでの金剛型や扶桑型と同じく、その燃費や速度、さらに運用方法が同一なため、ほとんどいっしょに行動を共にした。日向も近代化改装を経てごつい艦橋を備え、対米開戦時には、艦齢25年としてはかなり強力な戦艦として存在していた。

 

 

 改装前の伊勢と日向。

 

 

 デジタル彩色。近代化改装後。


 日向で特筆すべきは、その砲塔事故の多さである。なんと、3回も砲塔火災、爆発事故を起こしておきながら助かった。日本軍にあってはかの戦艦三笠が艦内火薬庫爆発事故で2回も船底が抜けて轟沈……するところを港内であったため着底のみで助かった。しかしながら1回目の事故では日本海海戦をはるかに超える死者を出してしまい、参謀秋山真之をして無常観のあまり剃髪せしめた。

 戦艦陸奥は第3砲塔爆破事故で真っ二つになって瀬戸内海柱島沖に轟沈した。

 日向が沈まなかったのは、運が良かっただけだった。それほど、軍艦の爆破事故は恐ろしい。

 

 1度目は竣工直後の皇紀2579(大正8/1919)年10月24日、演習中に第3砲塔が爆発した。2度目は火災で、皇紀2584(大正13/1924)年に第4砲塔火薬庫で火災が発生した。火薬庫で火災である。どうしてそんなものが発生するのか意味が分からないが、現実に火事は起きた。

 そして3度目はそれからしばらくたって、皇紀2602(昭和17/1942)年、伊勢、日向、扶桑、山城の4隻で演習中に第5砲塔が爆発した。原因は弾頭と火薬を装填し、尾栓(砲身の底の蓋)が完全に閉じないうちに電流着火してしまい、主砲の炸裂が砲塔内に逆流したのだった。外見からは状況がよくわからなかったが死者55名を出す大惨事で、砲塔で火災が発生。直ちに火薬庫に注水が行われ九死に一生を得た。

 

 なんとその時の砲塔事故の瞬間の映像が残っている。NHKのニュース映画に、事故と気づかずにそのまま放映されてしまったもの。


 呉へ戻った日向は第5砲塔を撤去し、その跡を塞いで対空機銃を4基装備した。その後、日向の第5砲塔が無いことをちょうどよいとして、伊勢型が「航空戦艦」へ改装されることとなった。

 ミッドウェーで4隻の主力空母をいっぺんに失った日本軍は扶桑、山城、伊勢、日向を空母へ改装する計画を立てた。しかし全面改装は時間的にも資金的にも無理だった。そこで扶桑型か伊勢型のどっちかを改装することとなり、しかも第5第6砲塔のみを撤去し、短い甲板と格納庫を備えた「航空戦艦」への改装と決定する。

 世界的にもあまり例のない航空戦艦だが、あくまで便宜上の呼称であって正式な艦種は戦艦のままなので誤解なきよう。また、当時からすると珍妙だが、現在の回転翼機搭載護衛艦の先駆けと云ってもよい斬新な発想であった。最新鋭艦上攻撃機「彗星」を18機、同じく最新鋭水上攻撃機「瑞雲」を8機の、計22機も航空機を備える前代未聞の「戦艦」だった。

 短い甲板からはカタパルト発進はできても着艦ができないので、彗星は陸上基地や他の空母へ帰還する。瑞雲は水上機なのでクレーンのトンボ釣りで回収する予定だった。

 予定だったというのは、肝心の彗星と瑞雲の開発が遅れ、いっこうに配備されなかったのである。広い格納庫を活かし輸送任務などに従事したのち、皇紀2604(昭和19/1944)年6月、魔の悪いことに伊勢と日向でそろって対空機銃増設工事中にマリアナ沖海戦が発生。いまこそ航空戦力輔弼のために生まれた航空戦艦の出番だったが、急いで工事を中止し出撃準備中に海戦は日本軍の惨敗で終わった。日本は空母翔鶴と最新鋭の大鳳と多くのパイロット他を失う。

 さらに、配備予定の航空隊そのものが台湾沖海戦へ参戦。そこでも大敗し、伊勢と日向はいよいよ配備する航空隊自体を失ってしまった。

 そうなると甲板も格納庫も意味がない。皇紀2604(昭和19/1944)年10月、伊勢と日向は対空機銃、対空墳進砲を甲板へずらりと装備し、まるで対空戦艦のようになって、小澤機動艦隊の一角として捷号作戦へ参加。レイテへ出陣する。

 陣容は以下のとおりである。駆逐艦名は省略。

 空母4(瑞鶴、瑞鳳、千歳、千代田) 戦艦2(伊勢、日向) 軽巡3(大淀、五十鈴、多摩) 駆逐艦8

 小澤艦隊の役割は、レイテ湾よりハルゼー提督率いる米軌道艦隊をおびき寄せる囮だった。米機動部隊を湾外へ引きずり出し、その隙にレイテ島北部を回ってきた栗田艦隊(本体)とスリガオ海峡を突破してきた西村艦隊(第1陽動部隊)と志摩艦隊(第2陽動部隊)が米水上部隊と輸送艦隊を挟撃、撃滅する作戦だった。

 そうは問屋が卸さなかったわけだが。

 栗田艦隊は執拗な潜水艦攻撃と空襲で戦力が漸減。反転(一時撤退)して艦隊の立て直しに迫られた。横須賀から向かっていた志摩艦隊は到着が遅れ、西村艦隊は単独で海峡へ侵入。待ち伏せされ壊滅した。

 小澤艦隊は空母4隻を擁していたが、マリアナ沖で熟練どころか通常のパイロットまでも大量に失い、ほとんど新人のパイロットを陸上基地へ避難させる有様だった。直援のゼロ戦は18機だった。

 ハルゼー提督の執拗な攻撃で4隻の空母は次々に撃沈、あるいは大破炎上で味方に処分された。小澤機動艦隊は見事に囮の役を担ったが、栗田艦隊はレイテ突入を断念。「栗田ターン」でフィリピンを後にした。

 一方、伊勢・日向の両戦艦は米機動艦隊の猛攻をしのぎ切って生還した。皮肉なことに後部甲板へ並べまくった対空兵器が、迫りくる敵機を次々に撃ち落とした。両戦艦の操艦も秀逸だった。敵急降下爆撃機が投擲体制に入るや見張り員が報告。すぐさま転舵する。爆撃機からの視界では、コクピットの外に伊勢や日向が「流れて消えて」しまう。そうなると急降下爆撃機はもう海へ爆弾を捨てて逃げるほかない。爆弾を抱えたままでは重くて機首を起こせず、墜落してしまうからだ。

 聯合艦隊壊滅を尻目にシンガポールへ集結した伊勢と日向は後部甲板よりカタパルトを撤去し、航空戦艦としての役目を終える。ただの一度も、実戦で航空機を射出することはなかった。

 その後、制海権と制空権を連合国へとられたまま、皇紀2605(昭和20/1945)年2月、伊勢、駆逐艦大淀などとシンガポールよりガソリンやゴムなど希少物資輸送を兼ねて日本へ決死の帰還を行う北号作戦に従事した。敵潜水艦と基地航空隊がひしめく中をシンガポールより日本へ到達した奇跡の作戦成功だったが、輸送物資の量としては中型輸送艦1隻分ていどであったという。

 あとは動かす油も無く、レイテで生き残った榛名、伊勢と共に呉で浮き砲台と化した。残った燃料は大和へ集められた。


 同年3月19日の、最初の呉空襲で直撃弾3発を受けて炎上。呉郊外へ曳航され、そこで7月24日、26日の空襲を受けてついに大破着底した。

 

 

 大破着底した日向。

 

 

 

 

 戦後の写真。被害の大きさが分かる。

 

 

 米軍による撮影。迷彩がよく分かる。

 

 

 

 

 

 

 デジタル彩色。


 戦後、日向も解体され、スクラップとして平和利用された。

 

 伊勢と同じく、日向も映像が残っている。


 

 戦艦伊勢は、本来は不幸型もとい扶桑型戦艦3番艦として計画されたが、予算が無く工期が延長になったうえ、扶桑及び山城が問題だらけで不幸だったため、根本から設計しなおし改扶桑型として生まれ変わった伊勢型戦艦1番艦である。

 皇紀2577(大正6/1917)年に竣工した。

 

 

 デジタル彩色。竣工当時の姿。


 改扶桑型といっても基本設計は変わらないため、砲塔は相変わらず前時代的な6門搭載だったが、防御面で大幅に設計が見直され、ようやくまともに戦えそうな船に仕上がった。その後も近代化改装を進め、対米戦のときもかなり強力な戦艦として存在感を有していた。

 

  

 デジタル彩色。近代化改修後。


 ただし、複雑化した運用や速度の遅さ、燃費の悪さで、金剛型が空母随伴で八面六臂の活躍だったのに対し、どうしても後方待機の機会が多かった。

 皇紀2601(昭和16/1941)年真珠湾では先行した空母がやられた際の救出任務で遅れてハワイへ向かっていたが、奇襲が大成功だったので途中で日本へ帰った。
 
 翌皇紀2602(昭和17/1942)年に試製電探の実験も兼ねてアリューシャン方面へ出撃したが、会敵しなかった。

 同年6月のミッドウェーで主力空母4隻がいっぺんにやられたのち、伊勢型戦艦に大きな転機が訪れる。それは伊勢と2番艦日向を「航空戦艦」に改装することだった。

 航空戦艦などというが、けして中二病の妄想ではない。それだけ日本軍は空母喪失に衝撃を受けた。

 

 元々の計画では4隻の空母を喪失したので4隻の戦艦を空母へ改装しようとしたのだが、時間がかかりすぎるので、後部甲板のみの航空戦艦とした。一種の妥協の産物であった。

 

 扶桑型と伊勢型の後部第5第6砲塔を取っ払って甲板にし、攻撃機を飛ばすこととなった。最新鋭の水上攻撃機「瑞雲」と艦上攻撃機「彗星」を合計で22機も搭載する予定で、そこらの軽空母に匹敵した。これはカタパルトで射出し、瑞雲は水上機なのでクレーンで回収、彗星は近くの陸上基地へ帰投する。

 

 なお、この「航空戦艦」というのは金剛型の「高速戦艦」と同じで、正式な分類ではなく便宜上のもの。
 
 しかしながら扶桑型と伊勢型4隻全部を改装する時間が無く、また、たまたま日向の第5砲塔が事故でぶっ飛んでいたのもあって伊勢型のみが航空戦艦へ改装された。扶桑型はここでも不幸……だったのかどうかは分からない。

 

 

 デジタル彩色。航空戦艦改装後。

 

 

 もうワンショット。後部甲板の様子がよく分かる。

 

 ところが、いざ後部甲板を備え付けても、肝心の瑞雲と彗星の開発が遅れ、伊勢は甲板だけ備えた積む飛行機の無い航空戦艦となってしまった。皇紀2603(昭和18/1943)年には、そのがらんどうの格納庫へ人員と物資弾薬を積み、トラック諸島への輸送任務に従事する。

 その後は呉で訓練に明け暮れつつ、少しずつ配備された瑞雲や彗星の射出実験も行って時を過ごした。

 皇紀2604(昭和19/1944)年6月、伊勢は対空機銃増設のためドック入りしていたが、魔の悪いことにマリアナ沖海戦が発生した。いまこそ航空戦力の不足を補うために改装された伊勢の出番だったが、工事を中止し急ぎ出撃準備を整えたものの、海戦へは間に合わなかった。マリアナ沖海戦で日本は大敗。空母翔鶴と最新鋭の大鳳、大量の艦載機とパイロット等を失った。

 その後、相変わらず搭載する航空機が配備されぬまま、なんと搭載予定の航空隊がそのまま台湾沖航空戦に投入されてしまった。しかも日本軍はそこでも敗北し、伊勢は搭載する航空隊そのものを失った。

 そしてそのまま、運命のレイテへ突入する。

 皇紀2604(昭和19/1944)年10月、伊勢は日向と共に載せる航空機の既にない甲板へ対空機銃、対空墳進砲をズラリと並べ、小澤機動部隊の一角として囮艦隊の任につく。ハルゼー提督率いる米主力空母部隊をレイテ湾より引きずり出し、その間に栗田艦隊とそれへ合流した西村・志摩両艦隊がレイテ湾へ集結している米水上部隊及び上陸部隊を叩くのである。

 小澤艦隊の構成は以下のとおり。駆逐艦名は略。

 空母4(瑞鶴、瑞鳳、千歳、千代田) 戦艦2(伊勢、日向) 軽巡3(大淀、五十鈴、多摩) 駆逐艦8

 何が無念かというと、既に熟練パイロットは皆無、あまりに未熟なパイロットは陸上基地へ避難させ、4隻の空母全体で直援機はたったの18機であった。これはもう、ありえない数で、戦いにならぬ。

 しかも西村艦隊がどうなったかは、先週、先々週の扶桑・山城の項を既にお読みいただいた方はご存じだろう。

 空母4隻は執念のハルゼー提督により三次にわたる猛攻にさらされ、次々に撃沈された。伊勢も空母瑞鳳の乗員を救出している。

 いっぽう、意外なことに伊勢と日向は、軽微な被害はあったがほとんど無傷と云ってよかった。

 両戦艦も激しい空襲を受けたが、何といっても満載の対空兵器が物をいい、さらに伊勢艦長中瀬大佐の操艦が良かった。敵急降下爆撃機が攻撃体勢に入ったのを監視員が認めるや、すぐさま転舵。すると爆撃機から見ると、慣性の法則ですーっと視界の後ろに伊勢が流れて消えてしまう。しかし急降下爆撃機は、一度攻撃体勢に入ると爆弾が重くて機首を起こせない。海へ爆弾を捨てて逃げるしかないのである。

 

 

 デジタル彩色。航空攻撃を受ける伊勢。米軍撮影。

 

 

 米軍撮影。主砲より対空三式弾を発射する伊勢。


 皮肉なことに、航空機を搭載しない航空戦艦はその甲板へ設置した充実した対空装備のおかげで助かった。生き残った伊勢は残存戦力を集め、命からがらいったんシンガポールへ帰投した。

 西村艦隊に続き小澤艦隊も空母全滅の憂き目にあったが、結局栗田艦隊は突入を断念して捷号作戦は失敗した。

 皇紀2605(昭和20/1945)年2月、伊勢は日向や大淀、駆逐艦3隻と共に制空権、制海権無しの状態で待機中のシンガポールから日本帰還を兼ねて希少物資を輸送する北号作戦へ従事。この際伊勢と日向は後部甲板より射出用カタパルトを撤去し、事実上航空戦艦艦としての役割を追える。ただの一度も、実戦で航空機を飛ばすことはなかった。

 日本軍の暗号を解読した潜水艦や航空隊がウジャウジャと待ち受ける中を、艦隊はなんと無事に日本へ生還する。悪天候続きで敵航空隊より逃れたこと、潜水艦の雷撃をかわし続け、追い払い続けることができたことが幸いした。

 久々の作戦成功だが、軍艦に詰める物資など量的にはたかが知れており、運ばれた物資は中型輸送艦1隻ぶんほどであったという。

 伊勢にはもはや動かす油が無く、同じくレイテで生き残った榛名、日向と共に呉で浮き砲台となる。

 7月24日の呉空襲で艦橋に直撃弾を受け、艦長以下20名が戦死。浸水もあったため乾ドックへ曳航準備中の28日に再度空襲。応戦したが直撃弾多数で爆発炎上、ついに大破着底した。空襲後、伊勢の第2砲塔へ対空用三式弾が装填されたままになっていたが、火災もあって誘爆の危険があり、呉市街方面を向いたまま山腹へ発射して処分した。これが、日本軍最後の戦艦主砲発射となった。

 

 

 呉にて空襲を受ける伊勢。米軍撮影。

 

 

 同じく。米軍撮影。


 その後、第二砲塔は最大仰角を保ったまま回転し船体正中位置へ向き直ったところで動力が完全停止。伊勢は沈黙した。そのまま、終戦を迎えた。

 

 

 戦後、米軍撮影。天をにらむ第2砲塔が確認できる。艦橋は迷彩が施されている。

 

 

 大破着底の様子。この写真でも第2砲塔が確認できる。

 

 

 米軍の撮影した貴重なカラー映像より。

 伊勢型の特徴の後部アンテナと、これも第2砲塔が確認できる。

 
 戦後は解体され、一時バラック住宅として利用されたのち、スクラップとなって平和再利用された。

 

 

 貴重な解体の様子。

 

 米軍撮影の貴重な伊勢のカラー映像。

 

 

 不幸型もとい扶桑型戦艦2番艦山城は、扶桑に環をかけて不幸だったかもしれない。扶桑が完成してからのテストや運用で次々に問題点が判明したころ、山城はまだ建造(艤装)中だった。山城は生まれる前から不幸戦艦の烙印を押されていた。

 

 


 とはいえ、造っている最中にもう欠点が分かっているのだから、山城はできるだけそれらを改善しながら建造された。設計に起因する根本的な弱点は扶桑と同じく最後まで克服できなかったが、でき得る限り細部は改善されて誕生したため、第3砲塔の向きなど、扶桑と細かく見た目が異なる。皇紀2577(大正6/1917)年竣工。

 扶桑が2回に分けて行った近代化化改修を1回で行い、同じくあの特徴的で異様な「くの字型艦橋」を備えた。

 

 


 戦歴は扶桑に準じ、ミッドウェー後に失われた4隻の空母の穴を少しでも埋めるべく構想された航空戦艦への改装も流れ、扶桑が標的艦として訓練に明け暮れているころ、山城は砲術訓練艦として過ごした。どうにも足が遅いのと、図体がでかいわりに防御力に不足がありとても最前線では戦えないと判断されていたのである。

 

 

 デジタル彩色。扶桑と山城で訓練中。


 そんな山城の手も借りねばならなくなった捷一号作戦。すなわち一連のレイテ沖海戦だが、詳細は先週の扶桑を参照願いたい。

 山城は扶桑と共に第一遊撃部隊を編成。西村中将率いる「西村艦隊」として、志摩艦隊と合流し敵水上戦力を撃滅しつつスリガオ海峡を抜け、レイテ湾で栗田艦隊と合流し米軍を挟撃する作戦に参加した。

 

 

 デジタル彩色。


 西村艦隊の編成は以下のとおりである。山城は西村艦隊司令を乗せ、旗艦を務めた。

 戦艦2(扶桑・山城) 重巡1(最上) 駆逐艦4(時雨、満潮、山雲、朝雲)

 このたったの7隻で、戦艦6 重巡4 軽巡4 駆逐艦26 魚雷艇39という大戦力と戦う羽目になった。

 この戦いは、敵水上部隊にも空母がおらずしかも夜戦だったので、大東亜戦争最後の純粋な砲雷撃戦であった。

 

 

 デジタル彩色。


 栗田艦隊は米軍撃滅作戦の本体として大規模な聯合艦隊を編成していたが、執拗な潜水艦雷撃や5次にわたる大規模空襲に曝され、戦艦武蔵が沈没したのを筆頭に戦力をすり減らし、レイテ湾突入を前に一時反転して体制を立て直す必要に迫られていた。

 その突入の遅れの無電を、記録によると西村艦隊は受け取っていなかった。しかも志摩艦隊も予定より遅れていた。

 ここで数時間、待っていれば、西村艦隊の運命も変わったのであろうか。

 スリガオ海峡の手前で空襲を受け、既に扶桑へ軽くない被害が出ており、このまま志摩艦隊を待っていては栗田艦隊との合流に間に合わず、かつ夜が明けると再度空襲が始まると判断したであろう栗田中将は、10月24日2000ころ、7隻で海峡単独突入を決断、敢行する。

 

 

 海峡手前で空襲を受ける山城。

 

 昼間に飛ばした最上の水上偵察機の報告により、海峡には敵駆逐艦、水雷挺多数の状況が判明しており、艦隊はまず駆逐艦4隻を先行させ、露払いとした。4隻は軽く会敵したが被害はなく、日も変わった25日0130山城、扶桑、最上は先行駆逐艦隊と合流。再び7隻となり単縦陣で海峡を進む。

 0300敵駆逐艦隊が、ついに群れを成して襲いかかってきた。西村艦隊も電探・探照灯で把握し砲撃で応戦したが、米軍は次々に接近して魚雷を放った。狭い海峡で砲撃は近すぎて照準が合わず、逆に深夜の魚雷は視認しづらく、かつ至近距離で到達時間が短い。

 真っ先に扶桑が魚雷をくらい、爆発大炎上して落伍。その後、すぐさま弾薬庫が誘爆して大爆発と共に船体が真っ二つに折れて裂け、まさに轟沈した。

 駆逐艦時雨は、落伍したのが山城だと判断していた。また西村司令官は扶桑の落伍自体に最後まで気づかなかった。

 さらに魚雷が次々に西村艦隊を襲い、駆逐艦山雲、満潮が直撃により大爆発して轟沈。朝雲は艦首切断し大破して反転したが追いすがる米軍の砲撃により撃沈された。最上は魚雷4発をくらい大破大炎上して反転、脱出中に遅れて海峡突入してきた志摩艦隊の重巡那智と衝突してしまった。さらに弾薬魚雷が誘爆して手が付けられなくなり、明るくなって米軍の空襲も受け、最後は駆逐艦曙により雷撃処分された。時雨のみが生還した。

 山城は0330ころ魚雷1発を受け爆発炎上、火薬庫へ注水し速度低下した。最上は旗艦山城より「各艦我にかまわず突進せよ」の指令を受けた。落伍したところを0350ころより米巡洋艦、戦艦群の正確無比なレーダー射撃を一身に受けた。艦橋に被弾し爆発炎上。このとき、艦橋の一部が崩れ落ちたという。続けて魚雷2発が命中した。

 

 

 米軍の探照灯を受ける山城(と思われる日本艦)


 山城はさらに速度低下、ほとんど停止した。爆発大炎上及び艦内電気系統遮断により第一砲塔のみ反撃していた。そこへ再び米駆逐艦隊が接近し15本の魚雷を発射。1発が命中し爆発。これで計4発命中した。

 

 

 米軍の砲撃による猛火。


 立て続けに3撃受けた魚雷により、黎明に天まで猛烈な爆煙を噴出させて燃え上がる山城は急速に傾斜し、総員退艦命令が出されたが下命たった3分後0419一気に転覆して艦尾より沈んでしまった。最期まで第一砲塔は火を噴いていたという。

 扶桑と同じく、ほとんど生存者はいなかった。

 このスリガオ海峡戦では、西村艦隊、志摩艦隊合わせて日本軍は7隻沈没、死者4000名以上だったのに対し米軍は駆逐艦1隻損傷、魚雷艇1隻沈没、戦死39名・負傷者114名とのことで、あまりに一方的な戦いだった。

 それでも、西村・志摩艦隊は敵を見事に引き付けた。さらに、囮として敵機動部隊を北方に引きずり出し壊滅した小澤艦隊も見事に役目を果たした。それでも、栗田司令官は突如として突入断念し、レイテ湾を離れた。その行動は、未だに賛否が分かれよう。なぜならば、突入して上陸部隊を攻撃しても数倍もの米艦隊に包囲されて、けっきょく栗田艦隊も遠からず壊滅していたのは想像に難くなく、フィリピン上陸部隊を少々を叩いたところで終戦が1か月ほどのびるだけ、という考えもあるし、どちらにせよ聯合艦隊は壊滅したのだから、少しでも残存戦力を残したとも判断できるのである。


 

イギリスの協力により金剛型の製作、すなわち超ド級戦艦建造のノウハウを得ることが決定した日本は、次に設計から自分たちで行うべく行動を開始した。
 
 それが超ド級戦艦の扶桑型である。しかも、当時世界最大だった。日本はこのころから、抑止力として世界最大の戦艦で数に勝るアメリカを牽制しようとしていた。扶桑は、世界で初めて3万トンを超える戦艦として生まれた。
 
 しかしながら、いきなり世界一の戦艦を造るなど無謀極まりなく、もう設計の段階であれやこれや右往左往、あれもしろこれもしろ、あれもつめこめこれもつめこめ、速度は防御力はああでもないこうでもないで、扶桑型は設計案や構想が実に35種類! どれだけ四苦八苦したかが伺える。

 起工は金剛より一年遅れで、竣工は皇紀2575(大正4/1915)年11月だった。

 

 


 ところが扶桑は完成直後の色々な試験、あるいは運用開始から問題続出。

 まず攻撃力重視のため35.6cm連奏砲を6門も搭載したことにより、一斉射撃の砲煙で視界が真っ暗になった。

 次に重いのか出力不足なのか、速度が設計より全然でなかった。

 それなのに防御力がまったく足らず、長大な船体の大部分が「防御不足」とされた。これは、設計段階では自分より前時代の戦艦しか参考にできなかったためと言われる。

 特に真上からの攻撃に対する防御は最後まで改善できなかった。これは自分と同等以上の艦砲による砲弾の垂直落下や、なにより急降下爆撃をくらったらひとたまりもないことを意味する。

 さらに、前部2門、中央部2門、後部2門の主砲のため、弾薬室と火薬庫が船体の3か所に分かれており、そこを全て完全防御するとさらに重くて遅くなるという事実も判明。

 これらは、完全に設計ミスと言えた。そもそもこの時代に主砲6門の設計思想がもう古かった。他国にも実例はあったが、残念ながらWW1時代の設計思想だった。

 とはいえ、大金をかけて造っちまったもんはどうしようもない。改善に改善を重ねるしかないのである。
 
 扶桑も2回の大改装を経て機関を総取換し、装甲を加え、船体も30m伸び、なにより扶桑型の代名詞ともいえる異様な「くの字型の艦橋」へ生まれ変わった。これは主砲発射時の視界確保と、船体中央の第3第4砲塔の位置との兼ね合いの結果、その形になったそうである。

 

 

 デジタル彩色。


 現代でついたあだ名が「海の違法建築物」だが、単に箱を積み上げているのではなく、3本の巨大マストを柱としてそれへ前後に建物を増築してあるので見た目ほど不安定ではない。(はず)

 

 


 だが、最後まで垂直防御と弾薬庫付近の防御は不十分だった。

 先輩の金剛型や後輩の長門型と比べていかにも見劣りし、当時からついたあだ名が扶桑型ならぬ「不幸型戦艦」である。航空戦艦への改装もけっきょく伊勢型が担い、扶桑と山城は不幸なままだった。

 そんなわけで対米戦が始まると、扶桑と山城は完全な足手まといとして全く出撃の機会が無かった。真珠湾へ空母部隊の護衛として同行したが足が遅すぎて、途中から日本へ帰れという屈辱的な命令を受けた。

 

 


 ミッドウェーでも他の戦艦同様出番がなく、その後は瀬戸内海の柱島泊地でただ浮かんでたまに訓練するだけとなった。

 

 


 皇紀2603(昭和18/1943)年、その柱島泊地で戦艦長門、陸奥と待機していた時、突如として陸奥が目の前で爆発轟沈するのに遭遇した。この「陸奥爆沈」は、いまだに原因が謎である。

 

 

 長門、陸奥、扶桑。第一次改装の姿。


 ミッドウェーにて主力空母が一気に4隻沈んだのち、砲塔の多さが問題となっていた扶桑型と伊勢型を後部主砲2基をとっぱらって飛行甲板を設置しカタパルトより攻撃機や水上攻撃機を発進させる「航空戦艦」とする構想が上がり、検討されたが、結局伊勢型のみ航空戦艦に改装されて扶桑型はされなかった。

 

 

 デジタル彩色。扶桑と山城。訓練中。


 翌皇紀2604(昭和19/1944)年、米国艦隊と雌雄を決するべく一連のレイテ沖海戦が起きる。扶桑型にもついに出番が訪れた。いや、扶桑型の手も借りねばならぬほど、日本軍は追い詰められていた。

 扶桑は通称「西村艦隊」として西村中将率いる遊撃部隊を編成し、レイテ湾を目指した。編成は以下のとおりである。重要なので駆逐艦の艦名も記す。

 戦艦2(扶桑、山城) 重巡1(最上) 駆逐艦4(時雨、満潮、朝雲、山雲) の計7隻。

 話は長くなるが、外すわけにはゆかないので、なるべく簡易にまとめると、レイテ沖海戦とは「史上最大の海戦」と呼ばれるフィリピンを舞台とした日米豪の超大規模海戦である。日本はそれまでにミッドウェー、マリアナ沖、ガ島攻防戦で度重なる大敗北を喫し、じわじわと迫る米軍の侵攻圧力に防戦一方となっていた。いっぽうアメリカはフィリピン奪還を目標に、ここで一気に大攻勢をかけた。日本は残る艦隊戦力を大終結させ、侵攻する米軍よりフィリピンを護り米艦隊撃滅を図るべく、ここに艦隊決戦の火ぶたが切って落とされたのである。

 ご承知のとおり、日本軍は大々々敗北を喫し、聯合艦隊は壊滅する。

 米軍はフィリピン進撃の大上陸部隊の護衛及び日本軍の撃滅を図り、空母17に護衛空母18の合計35(!!)、戦艦12(!)、重巡11、軽巡15、駆逐艦141(!!)という言語を絶する艦隊規模をフィリピンへ集めた。航空機は約1000機、水雷挺等の補助艦艇は約1500隻(!!!)であった。

 対する日本は空母4、戦艦9、重巡13、軽巡6他、駆逐艦34、航空機は約600機(ほとんど新人パイロット)だった。

 10月22日から25日にかけて行われた一連の戦いで日本軍は惨敗を極めるわけだが、扶桑もその戦いの中で沈んだ。

 日本は艦隊を4つに分け、四方八方よりレイテ島のレイテ湾に集結した米軍上陸大部隊及び敵水上戦力の撃滅を目指し進撃した。一般的には小澤艦隊(陽動)、栗田艦隊(本隊)、西村艦隊(第1遊撃)、志摩艦隊(第2遊撃)と呼ばれる。それらはまさに待ち受ける数倍の規模の米軍により「各個撃破及び撃退」されたわけだが、ここでは扶桑にしぼって記述する。全体像を詳細に学びたい方は、専門書や専門サイトを参照願いたい。特に地名と地図が分からないと、どの艦隊がどこを通って何をしようとしていたのか把握が難しいが、省略する。各自ぐぐられたし!

 ブルネイを出発した西村中将率いる第一遊撃部隊(西村艦隊)は北上、東進し、はるばる日本より南下してきた志摩中将率いる第二遊撃部隊(志摩艦隊)と共にミンダナオ島とレイテ島を分ける狭いスリガオ海峡を突破してレイテ湾へ抜け、同じくブルネイを出発してレイテ島北部を回ってきた栗田艦隊と合流し米軍を挟撃することを目指していた。

 なお栗田艦隊はその途中、10月23日パラワン水道で魚雷を受けて重巡愛宕、麻耶が撃沈、高雄が大破撤退した。24日シブヤン海を東進中には5回にわたる大空襲を受け、武蔵が沈んで一時撤退(反転)を余儀なくされた。これが西村艦隊の運命を分けた。

 同じく10月24日、スリガオ海峡へさしかかった西村艦隊は最上より水上偵察機を飛ばし、目指すレイテ湾に米戦艦4と輸送船団80がいることを確認。

 

 

 スリガオ海峡にて米軍航空機が撮影。


 しかし、志摩艦隊は到着が遅れており、栗田艦隊が一時反転したことも無線が届かず知らなかった。米軍の空襲があり、扶桑は艦尾に直撃弾を食らって水上機やその燃料、爆薬が爆発炎上してバルジが裂け、そこから浸水。艦が傾斜するけっこうな被害となったが作戦自体は続行可能だった。

 西村中将は聯合艦隊司令より全軍突撃開始の命を受けたこともあり、栗田艦隊はそれほど遅れてはいないと判断したものか、再び空襲が行われる夜明けまでに海峡を突破しようと夜戦を決意。志摩艦隊を待つ余裕も無いままに24日2000ころスリガオ海峡の単独突入を開始する。

 ところが、海峡には西村艦隊7に対し、戦艦6 重巡4 軽巡4 駆逐艦26 魚雷艇39という大艦隊が牙をむいて待ち構えていた。

 魚雷艇と駆逐艦多数を昼間の水上機偵察で把握しており、駆逐艦4を先行させ、その後山城、扶桑、最上の順で海峡を進んだ。

 2230ころ、先行隊が米魚雷艇や駆逐艦と会敵し軽微な戦闘となるが被害はなかった。25日0130山城、扶桑、最上は先行駆逐艦隊と合流。再び7隻となる。

 そこへ米駆逐艦隊が数隻ずつの部隊に分かれて波状攻撃を仕掛けてきた。0300ころ、米駆逐艦隊が接近して27発もの魚雷を発射。米軍は駆逐艦にまでレーダーを備えていたが、日本軍はまだ一部だった。接近する駆逐艦群に西村艦隊は随時砲撃を加えたが、暗夜の魚雷接近を見抜けず、扶桑はいきなり右舷、艦のど真ん中に1本被雷した。

 その場所が悪かった。よりによって扶桑の弱点である第3第4砲塔の爆薬・火薬庫の間近だった。炎上、傾斜して落伍した扶桑はたちまちのうちに弾薬庫が誘爆、大爆発して艦の中央からボッキリと折れてしまった。遅れて海峡突入した志摩艦隊は、暗闇の中で真っ二つになって転覆、大炎上する扶桑を、扶桑と山城の2隻がやられて燃えていると思ったほどだった。

 0430ころ扶桑は艦首部が沈み、0520ころ明るくなってから米軍の砲撃で艦尾部が沈められた。

 かくして、戦艦扶桑はスリガオ海峡で戦闘開始早々、あまりにあっけなく撃沈された。あっという間に沈み、かつ深夜のうえ日本軍の救出艦艇も無く生存者はほとんどいなかった。

 なお西村艦隊は命からがら脱出した時雨を除き、扶桑、山城、最上、満潮、山雲、朝雲の6隻が敵雷撃及び砲撃、翌日の空襲、もしくは大破後味方の処分で沈み、壊滅した。海峡途中で反転した志摩艦隊は、軽巡阿武隈が沈んだものの脱出に成功した。

 扶桑・山城とも、初の本格的実戦で沈んだ。最後まで不幸であったと云わざるを得ない。

 なお、レイテで惨敗した日本海軍だったが、先に上陸してレイテに残された陸軍はさらに悲惨を極めた。そもそも台湾沖航空戦で「大勝利」「米機動艦隊壊滅」などという大本営発表を信じた陸軍作戦本部はこれを機にフィリピンの米軍を一気に追い落とそうとルソン防衛隊をレイテへ集結させており、一転した聯合艦隊壊滅で完全に孤立した。ガ島と同じ状況がレイテ島の規模で起きた。補給を絶たれた8万4千名もの陸軍部隊は上陸した20万の米軍と補給も制空権も制海権も無く戦う羽目になり、7万9千名が戦死、餓死、あるいは消息不明となった。


 

 金剛型4番艦、4姉妹の末っ子である戦艦「霧島」は、3番艦「榛名」と同じく日本で初めて部材から製作され、かつ日本で初めて民間造船所で建造された戦艦となった。榛名を受注した神戸の川崎造船所と霧島を受注した長崎の三菱造船所で、どちらが先に民間で戦艦を建造した日本初の造船所になるか激しい建艦競争が起こり、榛名の機関製作にミスがあって試験が6日遅れた際に、川崎の機関製造責任者が責任を取って自殺してしまったほどである。

 さすがに海軍も行きすぎだと感じたのか、榛名と霧島は海軍のとりなしで皇紀2575(大正4/1915)年4月19日に同日で竣工した。

 

 

 デジタル彩色。


 また、霧島も姉たちと当然同じく、当初は巡洋戦艦としてWW1時代に相応しい背の低い姿だったが、2回の大改装を経て機関も総取換し、装甲も加え、艦橋も箱型鐘楼となり、高速戦艦へ生まれ変わった。

 

 


 毎週同じことを云って4回目だが、これで最後である。金剛型は分類としては、はじめは戦艦というより超ツヨイ巡洋艦という意味の巡洋戦艦だったが、海軍の規約変更で普通の戦艦となった。高速戦艦とはある種の通称で、超ハヤイ戦艦という程度の意味である。さいしょは巡洋艦だったから当たり前なのだが。

 この超ハヤイというのが重要で、金剛型は空母へ随伴できる貴重な戦艦だった。長門や大和では、空母の足手まといになる時代となっていたのである。

 

 

 デジタル彩色。奥に見える空母は赤城。南雲機動部隊護衛時代。


 金剛型4隻は速度調整の関係で金剛・榛名組と比叡・霧島組の2隻ペア4隻体制で常に活動していた。それが運命を分けた。比叡と霧島は第三次ソロモン海海戦で2隻いっぺんに沈んでしまった。

 金剛型4隻は30ノットという空母にも負けぬ速度をもって皇紀2601(昭和16/1941)年より南雲機動部隊の護衛としてはたらき、真珠湾、セイロン沖海戦(九六式陸攻と一式陸攻がイギリスの誇る戦艦2隻を沈めた)、ミッドウェー、第二次ソロモン海海戦、南太平洋海戦を戦い抜いたが、戦艦としては特に活躍しなかった。

 そして、運命の第三次ソロモン海海戦を迎える。

 

 

 デジタル彩色。


 金剛・榛名により行われたソロモン諸島ガダルカナル島ヘンダーソン飛行場夜間砲撃による攻撃は成功したかに見えたのだが、米軍は圧倒的な工兵力でたちまちのうちに被害を回復し、また日本軍へ秘匿していた第二飛行場もあって、残念ながらまったく功を奏さなかった。飛行場より飛び立つ航空兵力により日本軍の補給部隊は壊滅し、ガ島に取り残された陸軍の窮状は変わらなかった。

 陸軍は補給作戦を諦めず、再度の攻撃を海軍へ要請。海軍としては、次は米軍の待ち伏せもあるだろうし、反対の意見もあったが最終的には断り切れなかった。

 かくして、戦艦比叡・霧島を主体とした第二次攻撃隊「挺身部隊」が編成された。名前がもう捨て身なのだから、生きて帰らぬ覚悟がある。

 

 

 デジタル彩色。


 皇紀2602(昭和17/1942)年11月12日、艦隊はガ島へ接近、夜半に激しいスコールの発生する中、一時は砲撃中止を決断したが、やおら晴れて再度砲撃実施、というところで米艦隊と接近遭遇。日米入り乱れて海戦史に残る超乱戦となったのは、先々週の比叡の項に述べた。この時、駆逐艦夕立が獅子奮迅の活躍で「ソロモンの悪夢」と米軍に恐れられたが自身も沈没した。

 比叡はその傷がもとで翌日の夜に沈没(自沈)。

 霧島は奇跡的に無傷で夜戦を終え、戦線を離脱し北方へ避難した。一時は傷を負った比叡曳航も試みたが南下している途中に不発ながら魚雷を受け、また夜が明けてしまったため曳航は危険と判断。再び避難した。

 その後、残存戦力や周辺戦力を編成しなおし、霧島を中核とした再砲撃部隊が編成され、11月14日に再びガ島へ向かった。

 その編成は以下のとおりである。(駆逐艦の艦名は省略)

 射撃部隊 戦艦1(霧島) 重巡2(高雄、愛宕) 軽巡1(長良) 駆逐艦2
 直衛部隊 駆逐艦4
 掃討部隊 軽巡1(川内) 駆逐艦3

 片や米軍は、12日の巡洋艦隊ではなく、戦艦2(ワシントン、サウスダコタ) 駆逐艦4という戦力で日本軍を待ち構えていた。この米軍2隻の戦艦は日本で云うと大和と同時期に竣工した最新鋭で、40cm三連装主砲を3門搭載し、最新式のレーダーを備えていた。片や霧島は35.6cm二連装主砲4門で、レーダーは装備していなかった。

 霧島たちに先立つ13日には、既に重巡麻耶、鈴屋率いる別動隊がヘンダーソン飛行場を砲撃したが、巡洋艦の砲撃では充分なダメージを与えられず、作戦は失敗した。逆に航空戦力より攻撃され、合流した重巡衣笠が撃沈された。

 14日には再度戦闘が行われ、米航空戦力により日本の輸送部隊はまたも壊滅した。

 14日夜、日本軍は夜のうちに飛行場を使用不可能にすべく、霧島率いる第二次射撃部隊がガ島へ接近。第三次ソロモン海海戦第二夜戦が行われる。

 20:00(日本時間)ころから互いの艦隊が敵を発見しあったが、味方と誤認したり、スコールで見失ったりとミスが続き、本格的な戦闘が始まったのは21:19過ぎであった。軽巡川内に米戦艦が砲撃を加えたが、21:30ころ、サボ島をぐるっと回って日本軍3隻(軽巡長良、駆逐艦五月雨、綾波)が戦艦2、駆逐艦4の米艦隊の後ろにいきなり出現して攻撃を加えた。驚いた米艦は、島の日本軍要塞による攻撃と誤認し、島へ向かって砲撃した。
 
 このとき、駆逐艦綾波が第一夜戦の夕立よろしく単艦で米艦隊のど真ん中に突っ込んでゆくかっこうとなり、米軍を混乱に陥れた。綾波は至近距離から砲撃しまくり、魚雷も撃ちまくって敵駆逐艦2を撃沈、1を中破炎上(その後に出現した日本軍の攻撃を受けて沈没)させ、戦艦サウスダコタの艦橋に一発お見舞いし、小破であったが電気系統を故障、指揮系統も破壊せしめ、サウスダコタは一時砲撃不能に陥った。しかし自身も反撃を食らって大炎上し、23:46に魚雷誘爆、00:06さらに魚雷誘爆して沈没した。

 さて綾波の大活躍で混乱した米艦隊だったが、戦艦ワシントン・サウスダコタVS霧島の戦いはその後に行われた。

 綾波の活躍でサウスダコタが一時的に攻撃不能になり、かつ米軍は陣形が乱れ、無傷のワシントンはレーダーに映る霧島とサウスダコタの区別がつかず攻撃できなくなってしまう。

 その隙に霧島と高雄、愛宕がサウスダコタをフルボッコにし、23:55サウスダコタは直撃弾多数で炎上、レーダーと通信設備が破壊され、砲塔も使用不能になり、戦闘力を失って命からがら戦線を離脱した。

 しかし、そこでワシントンが息を吹き返す。探照灯で米軍を探す姿にレーダーに残った大型艦は霧島と確信。8200mという近距離で40cm三連装砲全門斉射を開始。9発の砲弾のうち数発がいきなり命中した。照明弾発射し霧島の姿を視認でもとらえ、さらに第二斉射第三斉射と続き、霧島は連続して被弾し爆発炎上した。

 いくら近距離とはいえ夜戦において……いや、夜戦におかずともこの命中率は、当時の常識では前代未聞といえるもので、恐るべきは米軍の正確無比なレーダー射撃であった。

 だがワシントンはそこで霧島撃沈と誤認し、砲撃を中止する。霧島が反撃に出て、35.6cm砲4基のうち生き残った3基6門を発射したが、命中しなかった。

 霧島は離脱しようと進路を変えたが、ワシントンはこれを追撃。レーダー射撃を駆使しさらに9発もの命中弾を与えた。米軍は、レーダー射撃の有効性を確信した。ワシントンが放った砲弾は主砲75発、副砲45発であった。

 ワシントンが日本軍の生き残りや補給部隊を求めて戦場を去り、大破炎上して残った霧島は舵も故障し傾いてグルグル回るだけとなった。ボイラーが破壊され高圧高温蒸気により機関科員はほぼ戦死してしまっており、機関復旧は絶望的だった。主砲弾貫通孔よりの浸水も進み、00:42ついに総員退艦が命令された。乗員は駆逐艦朝雲へ移り、後に五月雨も現れ、処分命令が発令され五月雨が砲撃開始しようとしたところ一気に左舷へ傾斜した。

 01:25ついに霧島は左舷より転覆し、沈没した。沈没中に弾薬庫が爆発したのか、海底の霧島は艦首と艦尾が失われ、転覆したまま着底している。残った駆逐艦3隻が生き残りを救助し、02:30現場を離脱した。

 日本軍は一連の第三次ソロモン海海戦で戦艦2(比叡、霧島) 重巡1(衣笠) 駆逐艦3(暁、夕立、綾波)を失い、特に貴重な高速戦艦を一気に2隻も喪失した衝撃は大きく、霧島の沈没は秘匿されたほどだった。

 

 

 
 日本軍は二度とガ島を攻撃できなくなり、駆逐艦や潜水艦での細々とした夜間補給が行われた。ガ島へ取り残された日本軍に再起する力はなく、その年の12月31日に御前会議を行いようやく撤退を決定。翌03(S18/43)年の2月に撤退作戦を敢行した。その際、傷病兵等が大量に「自決を強要」あるいは「処分」された。

 上陸した陸軍兵力約3万のうち、撤退に成功したのは1万、戦死が5千、餓死・傷病死が1万5千という、惨憺たる戦果であった。

 海軍は駆逐艦や潜水艦を補給作戦にとられ、一連の戦いで失った航空機はミッドウェーの3倍だった。まして貴重な補給船がどれだけ沈んだか。片や陸軍も海の藻屑と消えた大量の物資のせいで、他の戦線の補給計画が大幅に狂った。

 ガ島に航空基地を建設し、ソロモン諸島の制空権を確保。米豪連携の分断を目的とするガ島攻略戦は、せっかく作った飛行場を米軍に獲られ、しかも奪還に失敗したうえその航空戦力で散々にやっつけられただけではなく、陸海とも日本軍全体の戦略を大幅に狂わせる結果を招いた。これは、単なる日本の戦術的敗北ではなく、大東亜戦争後半戦の運命を決定づける、戦略的大敗北のひとつであった。


 

 金剛型3番艦「榛名」は、4番艦「霧島」と共に初めて部材から国産で製作した戦艦となった。加えて、初めて民間造船所で建造された戦艦ともなった。榛名は神戸の川崎造船所へ、霧島は長崎の三菱造船所へほぼ同時に発注され、二社はどちらが日本で初めて民間の戦艦建造所になるかで激しく競い合った。

 この競い合いは、現代の感覚では説明がつかないほどに、社にとって重要だった。まさに社運をかけてというに相応しいものだったようで、榛名は機関始動試験直前に不具合が見つかって6日間試験が伸び、川崎造船機関建造最高責任者の造機工作部長が責任を取って自殺してしまった。戦艦建造はそれほどの名誉と責任だった。

 しかし、さすがにそれは海軍もやりすぎと感じたのか、榛名と霧島は海軍から配慮を促され、皇紀2575(大正4/1915)年に「同時に竣工」した。

 

 


 毎週同じことを書いているが、榛名も当初はWW1時代の特徴を色濃く残した艤装をしていたが、2回の大改装で高速戦艦となる。また、金剛型はその高速を活かして空母随伴として活躍し、常に「金剛・榛名」「比叡・霧島」ペアの4隻体制で活動したため、戦歴も他の金剛型とほとんど同じである。

 結論から云うと、榛名は金剛型の中で最も長く生きて、戦後に解体された。

 予算の都合やタイミングの問題で、榛名は8年間も改装を続けて、皇紀2588(昭和3/1928)年にようやく高速戦艦として生まれ変わる。

 

 

 デジタル彩色。


 日米開戦後は、真珠湾、セイロン沖海戦、クリスマス島砲撃、ミッドウェー等を経て、榛名もまた金剛型運命のソロモンの戦いへ吸い寄せられる。

 皇紀2602(昭和17/1942)年、金剛・榛名は第一次ヘンダーソン飛行場砲撃で活躍し、第二次砲撃には関与せず敵と交戦もしなかったので、比叡・霧島が他の駆逐艦や巡洋艦多数と共にソロモン海で沈んでしまったのと対照的に、五体無事のままソロモンを離れた。ソロモン近海は日米両軍の艦船が沈みすぎて、「鉄底海峡(アイアンボトムサウンド)」とすら呼ばれる激戦地だった。

 

 


 その後、しばらく出番はなく、皇紀2604(昭和19/1944)年6月、榛名はマリアナ沖海戦で爆撃され火薬庫まで浸水する被害を受ける。マリアナ沖海戦は「マリアナの七面鳥撃ち」などと呼ばれるほど、日本の艦載機は出れば全滅という被害を受け、最新空母「大鳳」を含む艦船も多く沈み、屈辱的な日本軍の大敗北に終わった。

 修理の後、同年10月、レイテ沖海戦へ参加するも日本軍はまたも大敗北を喫し、戦艦、巡洋艦、空母、駆逐艦と多くの艦船を失って聯合艦隊は壊滅した。榛名は生き残ったがマリアナの傷の影響もあって速度が出ず、あまり活躍できなかった。加えて、ここでも傷を負ってレイテを離脱する。

 レイテの後、日本軍は傷ついた残存勢力をかき集め、艦隊を編成しなおす。しかし一足先に本土へ戻った金剛が台湾沖で潜水艦の雷撃により駆逐艦「浦風」と共に沈んでしまい、ついに金剛型は榛名1隻となってしまった。

 また榛名は運の悪いことに停泊中のブルネイから再編のためリンガ泊地へ向かう途中、座礁してしまい、浸水が起きるほどの被害を受けた。とうぜん現代のようにGPSも無い時代であるから、海図に無い岩礁などがあってはひとたまりもない。

 榛名の傷は深く、現地では修復不可能で、本土へ帰ってドッグ入りして直すことが決まった。駆逐艦「霞」「初霜」を護衛として日本へ戻り、台湾で空母「隼鷹」等と合流して、米潜水艦の襲撃を受けつつもなんとか呉へ寄港したのが同年の12月12日だった。

 皇紀2605(昭和20/1945)年となり、榛名の修理は完了したが、既に日本には戦艦を動かす油はなく、榛名は同じく油が無くて動けない戦艦「伊勢」「日向」空母「天城」などと共に、呉で停泊しているだけとなった。

 大和も沈んだ4月となると、もう予備役へ移籍され、浮き砲台となる。6月には米軍空襲を受け、激しく対空砲火で対抗したが直撃弾を受けた。曳航されて呉から対岸の江田島へ移り、7月24日、28日の空襲でついに大破着底した。

 

 

 爆撃される榛名。(米軍の撮影)

 

 

 同。

 

 

 大破着底した榛名。


 なお、7月28日の空襲の際に榛名の対空砲がB-24爆撃機を2機撃墜し、その搭乗員の生き残りが捕虜として広島へ送られたが、8月6日に原爆で死んでいる。

 榛名は江田島で着底したまま終戦を迎え、11月20日に除籍。昭和21(1946)年7月4日に解体完了した。

 

 

 同じく着底した榛名。

 

 

 

 榛名はWW2時代の最古参戦艦でありつつ、最後まで帝国海軍を見つめ続けた。
 

 

 戦後、米軍の撮影、カラー映像。

 

 

 同。

 

 

 戦後の解体のニュース。海の戦犯人と報道されている。報道の掌返しが如実に認められる。

 

 

 

 タイムリーなことに、日本のNPOがソロモン海で沈没した比叡と思わしき戦艦を発見したそうである。

 金剛型戦艦2番艦「比叡」は、国産初の超ド級戦艦として誕生した。が、部材は全て英国発注で、日本はまだ建造のみ、だった。それでも、技術の習得に多大な貢献を果たした。横須賀海軍工廠にて建造された。

 皇紀2574(大正3/1914)年に竣工した。当初は巡洋戦艦であったが、後に改装工事を経て(高速)戦艦となる。

 

 

 竣工当時、巡洋戦艦時代。まだ前時代的な姿をしている。

 

 

 デジタル彩色されたもの。


 ところが間の悪いことに、WW1後のロンドン海軍軍縮条約の批准により、改装工事の遅れていた比叡はその対象として武装や装甲を一部撤去し、練習戦艦となってしまう。完成は皇紀2593(昭和8/1933)年だった。

 

 

 練習戦艦時代。第4砲塔が撤去されているのがわかる。バランスをとるため、砲塔跡に500トンの重りが積まれたという。


 また練習戦艦のためスケジュールに余裕があり、武装の一部撤去によりスペースも空いていたため、比叡は内装等を綺麗にされて昭和天皇の御召艦という新しい任務も受けた。満州国皇帝溥儀も御召艦時代の比叡に乗艦し、日本と満州を往復した。

 皇紀2596(昭和11/1936)年、条約の期限切れを待って、比叡は他の金剛型が2回に分けて行った改装をいっぺんにやる大改装を経て、高速戦艦として生まれ変わった。

 

 


 金剛でも記したが、金剛型戦艦4隻はその高速性をもって古参ながら空母へ随伴できる貴重な存在だった。常に2隻ワンセット4隻体制(金剛・榛名ペアと比叡・霧島ペア)で行動した。従って、戦歴はほとんど4隻一緒となる。後は、どこで沈んだかの違いだけだ。

 真珠湾護衛随伴後、皇紀2601(昭和16/1941)年、機動部隊を護衛しつつ南太平洋へ展開。特筆すべきは、比叡はWW2において敵艦を砲撃により初めて撃沈した日本軍戦艦となったことだった。

 が、重巡(利根・筑摩)と共に敵駆逐艦へ25kmの距離から砲撃してもいっこうに当たらず、業を煮やした空母から飛んだ九九式艦爆による爆撃が命中し駆逐艦は沈みかけ、それを15kmの距離から副砲をもって撃沈したというオマケがついた。目測射撃の難しさを逆に証明する結果となった。

 イギリスの誇る戦艦が日本の航空部隊に沈められた戦いを含むセイロン沖海戦を経て日本へ戻り、翌皇紀2502(昭和17/1942)年、ミッドウェーを経て金剛型は運命のソロモン戦を迎える。

 

 


 ソロモン諸島ガダルカナル島攻防戦は日米の戦いの中盤の山場といってよいほど激烈な戦闘だった。ガ島攻略のために上陸した陸軍部隊は、同島のヘンダーソン飛行場より飛び立つ敵航空戦力によって補給ができず、完全に孤立してしまい、敵と戦う前に飢えとマラリアで餓死病死という憂き目に遭っていた。

 その窮状を打破すべく、陸軍は敵飛行場の撃滅を海軍へ要請。海軍も断る理由はなかった。

 同年10月13日、金剛・榛名による夜間艦砲射撃でヘンダーソン飛行場は穴だらけとなったのだが、既に第2飛行場が稼働していたうえ、米軍は「ブルドーザー」という秘密兵器を持っており、あっという間に被害を回復。何事もなかったかのように飛行場は再稼働した。

 このブルドーザーは衝撃的な存在で、日本軍がシャベルやツルハシ、モッコでえっちらおっちら数か月をかけて飛行場の地ならしをしていたころ、米軍はブルでドザー、数日で終えていた。勝負にならぬ。米軍捕虜よりその存在を知らされた日本軍は、あわてて小松の国産トラクターに板をとっつけて、臨時のブルを開発したほどだった。

 

 

 小松のトラクターに板をつけて制作した国産ブルドーザー第1号。

 陸軍は再度の飛行場攻撃を海軍に要請。次は、米軍も攻撃を予測して待ち受けているだろうし、そううまくゆくはずがないのは自明だった。海軍内では反対の意見もあったが陸軍上陸部隊を見捨てるわけにもゆかず、再攻撃を決意する。

 

 


 同年11月9日、空母1(隼鷹)、戦艦2(比叡、霧島)、軽巡1(長良)、駆逐艦15による「挺身部隊」(捨て身部隊)がトラック泊地を出港。ソロモンへ向かい、第三次ソロモン沖海戦を迎える。

 11月12日、夜、これまた日本軍得意の楽観的観測が炸裂し、「米軍は夜戦に弱い」だの「夜戦となったら米軍は逃げる」だのが連合艦隊参謀の口から出る始末。日本軍は「油断しきっているはず」の米軍を撃滅せんとガ島へ接近する。

 夜半の長いスコールで艦砲射撃不可能と判断し同日22時過ぎ反転して帰りかけたが、やおら晴れてガ島陸軍部隊より砲撃実施の要請があったためまた反転してガ島へ向かった。これで40分をロスした。運命の40分であった。

 挺身部隊はそもそも臨時編成であり、部隊間の通信の調整が完全ではなく、暗夜の二度の反転により後ろにいるはずの旗艦比叡が前にいて、旗艦を護るはずの駆逐艦隊が後ろにいた。ルンガ泊地に敵艦隊を発見できなかったため、戦艦2隻は対地攻撃用三式弾を装填。この三式弾は、本来は対空弾だが燃焼炸薬で地上施設を焼き払えることが分かり、対地攻撃弾としても使われていた。

 23時40分過ぎ、いざ主砲斉射というところで、駆逐艦隊が右前方10kmという近さで米巡洋艦隊(重巡2、軽巡1、防空巡2、駆逐艦8)を発見。徹甲弾へ切り替える時間的余裕はなく、三式弾のまま同50分頃には比叡が敵へ向けてサーチライトを照射。全問斉射で米艦隊を砲撃した。

 その代わり、一番前で闇夜の行灯状態の比叡は敵軍の全攻撃を一身に受けることとなった。

 それから狭い海域で敵味方の駆逐艦やら巡洋艦やらが入り乱れて訳が分からなくなり、日本軍も米軍も同士討ちが発生するほどメチャクチャに混乱した。近すぎて砲が撃てず機銃を撃ち、魚雷は安全装置が働いて不発というほどで、戦闘が終わった後は両軍とも惨憺たる有様となった。

 

 ちなみに駆逐艦「夕立」は「春雨」と共に真っ先に米艦隊へつっこんでゆき、春雨が魚雷発射のため左へ転進したところを右へ転進して、単独で米艦隊のど真ん中を通りすぎた。そして米軍が近すぎて夕立を敵と認識できず、比叡らを攻撃している中を駆けずり回り、至近距離からドカドカ米艦へ砲撃や魚雷を加えまくった。夕立はたった1隻で敵米艦 軽巡1駆逐艦1撃沈。駆逐艦2大破。重巡1軽巡1撃破または大破という、とんでもない戦果を上げ、「ソロモンの悪夢」と呼ばれる。ただし、その後、米軍から逆襲にあい、フルボッコにされて航行不能となったため、翌日味方の手により雷撃処分された。


 比叡も敵弾85発以上(そのうちサーチライトのあった艦橋部へ50発以上)、魚雷数発命中不発、一発炸裂で、火災も発生し艦内電線が遮断され電気系統が不通、真夜中の40分間の大乱戦が終わったころは満身創痍だった。機関は生きており走行可能だったが舵が破壊されてしまった。

 

 翌13日、夜明けを待って米軍は陸上基地から航空戦力を出し、比叡を沈めようとする。日本軍は生き残りの駆逐艦や、空母隼鷹や陸上基地からの航空機が援護したが、比叡は直撃弾を多数くらって応急修理も中断。もはや傾斜して浮いているだけとなってしまった。

 同日13時30分、比叡の西田艦長は最後まで復旧を諦めていなかったが「機関全滅」の報告により自沈を決断。総員退艦と自沈弁解放を命令した。

 しかし自身は艦と運命を共にせんと部下の説得にもかかわらず意地でも退艦しなかったが、駆逐艦雪風艦上の阿部挺身艦隊司令官の命令で手足を押さえつけられ、強引に退艦させられた。

 ところが、西田艦長が雪風へ移乗した直後、「機関全滅は誤報」だったことが発覚した。機関はまだ生きていた!

 しかし自沈弁が解放されており、比叡はどんどん沈み始めている。時すでに遅し。同日16時、比叡の雷撃処分が命令された。

 ところが、ここで謎がある。雪風は間違いなく魚雷を発したという証言があるのだが、戦闘詳報には記録がない。むしろ、雷撃処分中止の命令が出されたという。

 17時ごろ、ガ島攻撃へ向かう別動部隊との同士討ちを避けるためいったん生き残りの駆逐艦隊は比叡を離れて退避し、23時ころ再び同海域へ戻った際には、既に比叡の姿は無かったので沈没したと判断された。
 
 戦艦比叡はWW2初の戦艦沈没となり、かつ誤報により放棄され、人知れず沈んだというまことに後味の悪い喪失となった。

 

 

 WW2時に活躍した日本軍の戦艦シリーズをはじめます。数は少ないので、すぐに覚えられます。これは簡易簡潔な自分の復習も含めた紹介シリーズで、もっとくわしく知りたい人はこれをきっかけにどうぞ専門書でも読んで沼にはまってください(笑)

 さて、WW2時代に日本海軍の現役で最も古い戦艦は、イギリスはヴィッカーズ社製の戦艦「金剛」である。当時、日本は超ド級戦艦の建造技術を持っていなかったため、世界で最も優れた造船技術をもっていた英国へ発注した。日英同盟もあって、イギリス側でも快諾。しかも、実験的に最新技術をもって作ったため、イギリスにもないくらい高性能の艦ができた。

 竣工は皇紀2573(大正2/1913)年。当初は「戦艦並の武装を持った超強力な巡洋艦」という意味で巡洋戦艦だった。

 

 

 竣工当時の金剛。まだ、WW1時代の面影がある。

 

 

 デジタル彩色されたもの。


 その後、機関総取換を含む2回の大改装を経て、巡洋戦艦という艦種は廃止され、金剛型は「高速戦艦」となる。ただし、高速戦艦という艦種は無く、単にすごく速い戦艦という意味。

 

 

 近代化改装で、いかにも戦艦らしくなる。


 しかしこの「すごく速い」というのは、結果として大変重要な意味を持った。なぜなら、そのころには空母が機動部隊として艦隊の中核となり、その護衛に超ド級戦艦では足が遅くて務まらなくなっていた。とはいえ、通常の駆逐艦や巡洋艦では、心もとない。

 そうなると艦齢は古いが高速戦艦の金剛型が「空母に着いて行ける戦艦」として、大活躍することになる。

 また、最新鋭の大和型や長門型が、夢の艦隊決戦のために、あるいは抑止力として、あるいは燃料弾薬がもったいないという日本軍のわびしい懐事情で温存され、いつ沈んでもいい最古参の金剛型が必然最前線で大暴れした。

 結果として、皮肉なことに金剛型は大東亜戦争で最も年寄ながら最も活躍した戦艦となった。

 

 


 皇紀2601(昭和16/1941)年のマレー沖海戦ではイギリスの誇る東洋艦隊、戦艦レパルスや戦艦プリンスオブウェールズとあわや艦隊砲撃戦となるところ、日本軍の陸上基地より飛び立った九六式陸攻、一式陸攻の活躍により両戦艦は撃沈された。

 翌年3月、金剛型4隻(金剛、比叡、榛名、霧島)で南雲機動部隊(空母赤城、蒼龍、飛龍、瑞鶴、翔鶴)の護衛随伴。インド洋へ進出。4月に分隊し、クリスマス島を艦砲射撃。

 セイロン沖海戦やミッドウェー海戦の後、皇紀2602(昭和17/1942)年には僚艦と共にソロモン諸島ガダルカナル島のヘンダーソン空軍基地を夜間艦砲射撃。大損害を与えたが残念ながら既に日本軍に秘匿された第2飛行場が稼働しており、米軍の被害は半分だったため、輸送船団が航空戦力による反撃を食らい、当初の作戦目的である敵飛行場を叩いてその隙にガ島への大規模輸送作戦は失敗した。

 それから1年半ほど金剛は大規模な戦いへ参加せず、皇紀2604(昭和19/1944)年6月のマリアナ沖海戦を経て、10月のレイテ沖海戦を迎える。

 

 


 レイテの戦いのひとつ、サマール沖海戦においては、敵護衛空母ガンビア・ベイ撃沈に寄与という戦艦としては異例の戦果を挙げる。寄与というのは、戦艦大和、重巡羽黒、筑摩、利根などの滅多撃ちの中で沈んだので、どの艦の弾でやっつけたのか判然としなかったためである。共同撃沈という説もある。ほか、駆逐艦2隻を撃沈している。

 また、この戦いで重巡鳥海が空襲により撃沈されたが、その前に金剛からの誤射命中があったという証言もある。

 その後、レイテで傷ついた金剛は最終的に本土へ戻ることとなった。

 皇紀2604(昭和19/1944)年11月20日、戦艦大和、長門、金剛、軽巡矢矧、駆逐艦6隻で艦隊を組んで台湾を経由し日本へ向かっていたが、台風に遭い小型の駆逐艦2隻が台湾へ残る。また、レイテで損傷していた矢矧が台風の中落伍した。

 翌21日、午前3時ころ、その艦隊を米潜水艦シーライオンの魚雷6本が襲った。

 駆逐艦浦風は1本の直撃を受けて轟沈。金剛へは2本直撃し、生まれは巡洋戦艦なため戦艦としては元から装甲が薄かったためもあってか大穴が空いた。レイテでも至近弾で損傷しており、大正時代から数えて艦齢30年を超えていた金剛は浸水に耐えられず、傾斜したまま駆逐艦2隻(磯風、浜風)を護衛にして台湾へ戻ることになった。

 まさか魚雷で戦艦が沈むまいという日本軍得意の楽観的観測で、金剛は乗員を退避させなかった。結果として、浸水は止まらず傾斜は進み、総員退艦は時すでに遅し。午前5時30分、金剛は転覆したとたんに弾薬庫が誘爆して大爆発し、艦長、第三艦隊司令官以下1300人が亡くなった。生存者は237名だったそうである。

 ひっくり返っただけで大爆発なんかするのか、と思った方もおられるかもしれないが、艦がひっくり返って弾薬庫の中の何百という弾頭がバラバラ!っとぶちまかれるのである。信管が作動して一発でも爆発したら、残りの弾頭から階下(ひっくり返ったら逆に上階)の火薬庫から一気に誘爆して、どんな艦で中央から割れてぶっ飛んでしまう。

 さらに、ひっくり返ってスポッと抜け落ちた主砲孔や煙突などから大量の海水が真っ赤に燃えている機関へなだれ込み、水蒸気爆発を同時に起こすため、ひとたまりもない。連続して爆発し、沈みながらも爆発して広範囲へバラバラになってしまう。

 

 


 ちなみに、アメリカ軍はこの「空母随伴できる高速戦艦」を非常に警戒しており、大和型のライバルと目されるアイオワ型戦艦は、実はこの金剛型を撃滅するために開発された「高速戦艦」だった。

 

 52型

 零戦の決定機として皇03(43/S18)年から生産が開始されたのが52型である。順番からいえば、32型の次なので42型となるのだが、42は 「死に」 に通じて縁起が悪いので4を飛ばして52型となった。

 52型は22型の主翼の折りたたみ機構をまた廃止し、32型と同じ長さに戻したが32型と異なり先端が四角ではなく丸なのが特徴。また、エンジンは32型(22型)と変更ないが、排気管を改造した。従ってマニアは主翼の形状(22型より短く32型と同じ長さだが先端が丸)と、エンジンカウルの排気管の形状(推力式単排気管~カウルの周囲から排気管が無骨に複数出ているもの)で見分ける。排気管の関係で32型より重さが200kgほど増えたが、エンジン排気も推力へ利用する形状なのでむしろ速度が上がった。後期生産型は無線機の性能がアップし、コクピット防弾設備や翼内自動消火装置が付いた。

 

 

 筆者撮影 靖国神社遊就館の52型 

 エンジンカウルの横から突き出ている推力式単排気管の様子がよく分かる。 

 

 

 同じく筆者撮影

 

 

 アメリカで保存されている52型の飛行可能な現存機。

 復元機ではなく、エンジンまで栄エンジンのほぼオリジナルで大変に貴重なもの。


 武装によって甲乙丙とある。

 52型  翼内20.0mm機関砲(22型丙と同じ長身の長い二号砲)×2 機首7.7mm機関砲×2

 52型甲 挺数はノーマルと同じだが20.0mm機関砲の弾倉をドラム式からベルト式にして弾数を増やしたもの

 

 52型甲


 52型乙 20.0mm機関砲(甲と同じ)×2 13.2mm機関砲×1 7.7mm機関砲×2

 

 52型乙(正直、写真を見ても私は区別がつかない)


 52型丙 20.0mm機関砲(甲と同じ)×2 13.2mm機関砲×2

 

 52型丙 

 これは、機首の機関砲が廃止され、主翼に機関砲が片側2問ついているので分かる。

 

 全機種合わせて6000機以上が生産され、零戦の中で最も多く生産された。

 


 53型

 ここら辺から、零戦のバージョンは再び試作機や少数生産機が増えて分かりづらくなってくる。戦局の悪化による混乱が伺える。

 53型は52型丙のエンジンを隼三型と同じ水エタノール噴射装置付にしたもので、雷電や紫電の生産遅延を埋める目的で開発されたが、その肝心の水エタノール噴射装置付エンジンの生産が遅延してグダグダに。そのうちレイテ沖海戦のために52型丙の生産が優先されて開発中止になり、レイテ後に開発が再開されたが量産の前に終戦となった。ほとんど生産されていないという。

 62型

 零戦はもともと軽爆弾(30kgもしくは60kg)を搭載できたが、本格的な250kg爆弾を搭載できるように52型丙の機体を改造したのが62型である。通称「爆戦」。戦闘爆撃機として急降下爆撃に耐えられるよう、機体の強度を上げている。数百機生産され、零戦の最終量産型は、本機である。特攻機は500kg爆弾を積んだ。

 

 

 

 

 ヤマトミュージアムに残る62型の実機

 


 63型

 53型の機体を62型同様爆撃機にしようとしたもの。当たり前ながら、53型と同じくほとんど生産されていないという。

 


 54型

 52型丙の栄エンジンを、より馬力がある金星エンジンにした試作機。エンジンの直径が大きくなり、機首の機関砲が撤去された。何機か生産されたが、既に皇05(45/S20)年の4月であり、テスト飛行中に終戦。

 

 

 

 

 54型は長らく写真すら無いと云われていたが、最近、発見された。

 これらがそうらしい。エンジンの径が大きいのが分かる。

 終戦後に進駐軍による撮影か?

 


 64型

 54型の量産機にふられる予定だった番号が、64型である。機体番号が更新されているので、54型に比べて何かしら改良があったと推察されるが、資料や写真がほとんど無いという。皇05(45/S20)年の7月から生産が開始されたが、生産中に終戦。完成品は、あったのかなかったのか不明。本機が零戦の最終型番である。

 このように零戦は大東亜戦争の初期から最後までを戦い抜いた、名機の中の名機である。

 

 


 これでWW2時代の日本の主要飛行機紹介シリーズをおわります。さいしょはネコ画像の枯渇に伴う趣味の記事でしたが、調べてるうちに自分でも勉強になりました。もっと詳しく知りたい人は専門書でも読んでくださいw

 次は、本命のWW2時代の戦艦・空母・重巡洋艦シリーズでもやりますかね。軽巡洋艦と駆逐艦以下は、数が多すぎますし。

 

 ※一部の写真はこちらより引用させていただきました