金剛型3番艦「榛名」は、4番艦「霧島」と共に初めて部材から国産で製作した戦艦となった。加えて、初めて民間造船所で建造された戦艦ともなった。榛名は神戸の川崎造船所へ、霧島は長崎の三菱造船所へほぼ同時に発注され、二社はどちらが日本で初めて民間の戦艦建造所になるかで激しく競い合った。
この競い合いは、現代の感覚では説明がつかないほどに、社にとって重要だった。まさに社運をかけてというに相応しいものだったようで、榛名は機関始動試験直前に不具合が見つかって6日間試験が伸び、川崎造船機関建造最高責任者の造機工作部長が責任を取って自殺してしまった。戦艦建造はそれほどの名誉と責任だった。
しかし、さすがにそれは海軍もやりすぎと感じたのか、榛名と霧島は海軍から配慮を促され、皇紀2575(大正4/1915)年に「同時に竣工」した。
毎週同じことを書いているが、榛名も当初はWW1時代の特徴を色濃く残した艤装をしていたが、2回の大改装で高速戦艦となる。また、金剛型はその高速を活かして空母随伴として活躍し、常に「金剛・榛名」「比叡・霧島」ペアの4隻体制で活動したため、戦歴も他の金剛型とほとんど同じである。
結論から云うと、榛名は金剛型の中で最も長く生きて、戦後に解体された。
予算の都合やタイミングの問題で、榛名は8年間も改装を続けて、皇紀2588(昭和3/1928)年にようやく高速戦艦として生まれ変わる。
デジタル彩色。
日米開戦後は、真珠湾、セイロン沖海戦、クリスマス島砲撃、ミッドウェー等を経て、榛名もまた金剛型運命のソロモンの戦いへ吸い寄せられる。
皇紀2602(昭和17/1942)年、金剛・榛名は第一次ヘンダーソン飛行場砲撃で活躍し、第二次砲撃には関与せず敵と交戦もしなかったので、比叡・霧島が他の駆逐艦や巡洋艦多数と共にソロモン海で沈んでしまったのと対照的に、五体無事のままソロモンを離れた。ソロモン近海は日米両軍の艦船が沈みすぎて、「鉄底海峡(アイアンボトムサウンド)」とすら呼ばれる激戦地だった。
その後、しばらく出番はなく、皇紀2604(昭和19/1944)年6月、榛名はマリアナ沖海戦で爆撃され火薬庫まで浸水する被害を受ける。マリアナ沖海戦は「マリアナの七面鳥撃ち」などと呼ばれるほど、日本の艦載機は出れば全滅という被害を受け、最新空母「大鳳」を含む艦船も多く沈み、屈辱的な日本軍の大敗北に終わった。
修理の後、同年10月、レイテ沖海戦へ参加するも日本軍はまたも大敗北を喫し、戦艦、巡洋艦、空母、駆逐艦と多くの艦船を失って聯合艦隊は壊滅した。榛名は生き残ったがマリアナの傷の影響もあって速度が出ず、あまり活躍できなかった。加えて、ここでも傷を負ってレイテを離脱する。
レイテの後、日本軍は傷ついた残存勢力をかき集め、艦隊を編成しなおす。しかし一足先に本土へ戻った金剛が台湾沖で潜水艦の雷撃により駆逐艦「浦風」と共に沈んでしまい、ついに金剛型は榛名1隻となってしまった。
また榛名は運の悪いことに停泊中のブルネイから再編のためリンガ泊地へ向かう途中、座礁してしまい、浸水が起きるほどの被害を受けた。とうぜん現代のようにGPSも無い時代であるから、海図に無い岩礁などがあってはひとたまりもない。
榛名の傷は深く、現地では修復不可能で、本土へ帰ってドッグ入りして直すことが決まった。駆逐艦「霞」「初霜」を護衛として日本へ戻り、台湾で空母「隼鷹」等と合流して、米潜水艦の襲撃を受けつつもなんとか呉へ寄港したのが同年の12月12日だった。
皇紀2605(昭和20/1945)年となり、榛名の修理は完了したが、既に日本には戦艦を動かす油はなく、榛名は同じく油が無くて動けない戦艦「伊勢」「日向」空母「天城」などと共に、呉で停泊しているだけとなった。
大和も沈んだ4月となると、もう予備役へ移籍され、浮き砲台となる。6月には米軍空襲を受け、激しく対空砲火で対抗したが直撃弾を受けた。曳航されて呉から対岸の江田島へ移り、7月24日、28日の空襲でついに大破着底した。
爆撃される榛名。(米軍の撮影)
同。
大破着底した榛名。
なお、7月28日の空襲の際に榛名の対空砲がB-24爆撃機を2機撃墜し、その搭乗員の生き残りが捕虜として広島へ送られたが、8月6日に原爆で死んでいる。
榛名は江田島で着底したまま終戦を迎え、11月20日に除籍。昭和21(1946)年7月4日に解体完了した。
同じく着底した榛名。
榛名はWW2時代の最古参戦艦でありつつ、最後まで帝国海軍を見つめ続けた。
戦後、米軍の撮影、カラー映像。
同。
戦後の解体のニュース。海の戦犯人と報道されている。報道の掌返しが如実に認められる。