蒼龍 | バカ日記第5番「四方山山人録」

バカ日記第5番「四方山山人録」

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 ワシントン及びロンドン軍縮条約は、戦艦から空母から何回も当ブログでとりあげているので耳にタコだと思われるが、どうしようもない。それだけ、海軍は条約に翻弄されたのである。主に主力艦のトン数を制限され、戦艦・巡洋戦艦の建造計画である八八艦隊計画が頓挫した日本だが、なんと欧米列強はそれに飽き足らず、日本だけ空母も排水量制限をかけてきた。日本は、空母80,000トン(81,000トンとも)以内と定められた。日本は、まだそれへ逆らう国力がなかった。
 
 戦艦と巡洋戦艦から改装した加賀と赤城は元が戦艦なだけに空母とは思えぬ排水量を持っていて、その2隻だけで80,000トン枠の大半を使い果たし、鳳翔と龍驤を10,000トン以下の小型空母として、それで残りは約12,600トンとなった。そこで空母を1隻造るかと思いきや、鳳翔が廃艦可能年数と定めれられた艦齢16年を迎えるにあたり、廃艦しないけど廃艦予定としてそのぶんの約8,700トンを足して約21,000トン分の空母を新たに建造することにした。

 それで、10,000トンクラスの航空巡洋艦のようなものを2隻造ろうと計画したのが、蒼龍クラスの空母2隻である。

 

 

 デジタル彩色。今後の日本空母の基準となる名設計である。


 しかし設計段階で水雷挺友鶴が佐世保でひっくり返った「友鶴事件」が起き、日本軍の軍艦は全体的に装備重量過多でトップヘビ-ということが露呈。武装から重心設計からぜんぶをやり直した。その中で、15.5センチ連装砲を持った航空巡洋艦構想はボツって、普通の空母となった。

 

 

 進水の様子。


 翌年、今度は台風で多くの巡洋艦、空母、駆逐艦が損壊した「第四艦隊事件」が発生。特に最新式の電気溶接が裂けて船体が破断したため、電気溶接の信頼度がガタ落ちし、蒼龍は建造途中の船体を2か所輪切りにして切断面調査を行った。

 そんなわけで、蒼龍はなんだかんだと龍驤の竣工から4年も経った皇紀2597(昭和12/1937)年12月に竣工した。それでも、∇船体である龍驤の改装に次ぐ改装もあり、龍驤の改装終了の翌年である。けっきょく条約脱退が決定し、基準排水量約16,000トン(満載約20,000トン)の中型空母として完成した。しかし情報秘匿のため、欧米はずっと蒼龍を10,000トンクラスの小型空母だと信じていた。

 

 


 ちなみに2番艦の飛龍は設計中に条約廃止を迎えたので、ちょっとだけ大きく設計し直され、蒼龍より基準排水量が1,000トンほど大きい。

 中型とはいえ、加賀や赤城が戦艦改装のためにやたらとデカイだけで、当時の空母としてはまずまずの大きさと搭載量で、十分に主力として戦える空母であった。

 

 


 翌年には護衛の駆逐艦数隻と共に第二航空戦隊を編成、翌々年に姉妹艦(正確には蒼龍改型ともいえる準姉妹艦)の飛龍を二航戦に加える。皇00(S15/40)年11月、かの山口多門少将を二航戦司令官に迎える。翌皇01(S16/41)年4月、一航戦、四航戦や基地航空隊と共に「第一航空艦隊」を編成。南雲中将を司令官に迎え、世界初の空母機動部隊として活躍することになる。

 

 

 デジタル彩色。珍しい、艦橋のアップ。


 そろそろ同じことを何度も記すのに私自身が飽きてきているが、一航戦二航戦は真珠湾からミッドウェーまでほとんどいっしょで、沈んだのもいっしょなので同じことを書かざるを得ない。その中でも、艦ごとに少しづつ特徴があるのが興味深いところであるが。

 同年12月真珠湾。最新鋭の五航戦(翔鶴、瑞鶴)ら空母6隻の集中運用(世界初)という離れ業で、日本は米太平洋艦隊の一時的な壊滅に成功する。しかし破壊した戦艦は多くが旧式艦だったこと、艦船破壊にこだわり真珠湾の基地としての破壊が不充分だったこと、米機動部隊を逃したこと、宣戦布告との時差により米首脳部の対日戦プロパガンダに使用されたこと等により、結果論であるが奇襲大成功であると同時に戦略的な効果は戦果の割にあまり高くなかったといえる。

 

 

 真珠湾。赤城より後方の蒼龍を見る。

 

 真珠湾の帰り、二航戦のみ護衛の重巡2(利根、筑摩)駆逐艦2(谷風、浦風)を引き連れてウェーク島攻略戦を支援した。12月末、任務を終え遅れて日本へ帰還する。

 その後、南雲機動部隊は南方へ進出し、オーストラリア、インド洋、マレー半島、シンガポール方面を攻略する。セイロン島沖海戦では敵東洋艦隊を逃すも、英空母ハーミ-ズの他重巡、駆逐艦、給油艦その他多数の艦船を撃破。ハーミーズは鳳翔に次ぐ古い本格空母であったが、ここで命運尽きた。なおその後、英東洋艦隊の戦艦2隻(レパルス、プリンスオブウェールズ)は日本軍の基地航空隊に撃沈される。加賀がパラオで座礁し、一時日本へ戻るハプニングもあったが南雲機動部隊は連戦連勝であり、1年以上もの疲労と慢心、油断が艦隊へ蓄積していった。蒼龍は皇02(S17/42)年4月、いったん日本へ戻る。

 

 

 インド洋方面へ向かう艦隊。瑞鶴より撮影。奥より赤城、蒼龍、飛龍、比叡、霧島、榛名、金剛。


 皇02(S17/42)年5月、珊瑚海海戦が勃発。これは日本軍のポートモレスビー攻略に際し、現地より航空支援要請があったため急遽五航戦の2隻へ空母翔鳳を加え、3隻で支援を行ったのだが、暗号解読で日本軍の作戦を知った聯合国軍も米軍が空母2隻(レキシントン、ヨークタウン)を差し向けたものである。ここで、海戦史上初の「互いに艦船を視野に入れないまま航空機攻撃だけによる海戦」が発生した。

 

  

 

 結果、日本軍は翔鳳が沈没(日本軍空母喪失第1号)、翔鶴が爆弾直撃で大破、瑞鶴は搭載機多数喪失で戦闘不能となり、修理その他艦載機補充で3か月の時間を要することとなった。そのため、五航戦がミッドウェーへ参加できなくなる。ちなみに米軍は日本軍の攻撃によりレキシントンが沈没、ヨークタウンは大破し航行不能となった。そのため海戦そのものは日本軍の勝ちと云えたが、ポートモレスビー攻略と珊瑚海制圧作戦は中止となり、戦略的敗北を喫した。なお、同じく復旧に3か月はかかると思われたヨークタウンが、真珠湾基地で米兵の不眠不休の鬼の復旧作業により、なんと翌月のミッドウェーに参加している。

 

 


 そのようなわけで南雲機動部隊は五航戦を欠き、戦力は2/3となった。またミッドウェー島攻略作戦そのものも矢継ぎ早で準備不足が否めず、しかも杜撰な作戦立案で不安が募った。皇02(S17/42)年6月、南雲機動部隊は高速戦艦比叡、霧島、重巡利根他駆逐艦多数の護衛をつけ、空母4隻でミッドウェー基地へ先行する。機動部隊の上層部が芸者に作戦を漏らしたなどと云われるほど規律は艦隊全体で緩んでおり、日本軍でこうなのだから米軍もとっくのとうに次の目標はミッドウェーと睨み準備を整えた。

 

 

 甲板下の珍しいショット。


 しかし暗号のAFが正確にどこなのか図りかねていた。米軍はわざと「ミッドウェー基地で真水製造機故障」という偽情報を平文で打電した。すると日本軍が暗号で「AFで真水不足」と打った。米軍はそれを解析し、次はミッドウェーと確信した。

 機動部隊のミッドウェーの第一作戦目標は基地爆撃であった。未だ実戦に耐えうるほどのレーダーを開発できていなかった日本軍は索敵に頼らざるを得ず、索敵しまくったのだが、米機動部隊を発見できなかった。しかも、このころはまだ偵察専用機と専用員をもっておらず、航続距離の長い艦攻を偵察機代わりに使っていた。そのため攻撃隊員が本来の仕事の外である偵察に出ずっぱりで「索敵で日が暮れる」と不満を漏らした。重巡利根、筑摩の索敵機発進がカタパルトのトラブルのため予定時刻を数時間も遅れたのも運命を決した。

 6月5日0130(日本時間)空母4隻より飛び立った第一次攻撃隊がミッドウェー基地を空襲。しかし既に強固な防護陣地が構築され、また対空砲火や迎撃戦闘機の活躍もあり効果的な攻撃には至らなかった。そのため、第二次攻撃の必要が具申された。

 艦隊では直ちに第二次攻撃の準備に入り、赤城と加賀では念のため対艦攻撃用に魚雷装備していた九七式艦攻も地上攻撃用の800kg爆弾へ装備換装開始した。また蒼龍と飛龍では九九式艦爆が対艦攻撃用250kg爆弾を同じく地上攻撃用の800kg爆弾へ装備換装開始した。この装備換装はただ武器を取り換えるだけではなく、そのアタッチメントごと交換しかつ非常に繊細な機器なので慎重に作業しなくてはならず、十数機の攻撃隊の交換終了に1時間半から3時間はかかったという。特に爆弾から魚雷への換装に時間がかかった。

 そのうち、間の悪いことに0440重巡利根の索敵機より「敵らしき船影10隻見ゆ」の報告が入る。「らしき」では作戦命令変更にはあたらずとして、さらに詳細な索敵が命ぜられ、この間、換装作業は30分ほど中断された。とうぜん、格納庫内は爆弾と魚雷がゴロゴロしていた。

 このとき、蒼龍には後の艦爆彗星の試作機を改良した試作偵察機(後の二式艦上偵察機)があり、発進した。その後、この試製偵察機は0830ころ米機動艦隊を発見したが時すでに遅かった。

 0530利根索敵機が米艦隊発見。換装作業は直ちにやり直され、現場は混乱の極みに達した。蒼龍では爆弾のみの換装だったが、帰投する第一次攻撃隊の九七式艦攻へ装備予定の魚雷18本が艦底調整場より格納庫へ上げられていた。

 さらに、いよいよミッドウェー基地航空隊の空襲が始まった。艦隊は回避と直掩の零戦を上げる作業と帰ってきた第一次攻撃隊の収納でてんやわんやとなり、米艦隊へ攻撃隊を発進させる余裕が全くなかった。

 

 

 米軍撮影。回避運動を行う蒼龍。


 第一次攻撃隊の収納は、遅くても0650ごろまでかかった。0700すぎ、第二波空襲として敵機動部隊より飛び立った攻撃隊が、順次南雲機動部隊へ襲いかかった。最初に攻撃を開始したのはTBDデバステーター雷撃機隊で、いっせいに海面へ降りて雷撃体制に入った。空母群もいっせいに回避運動へ入り、零戦隊が迎撃のためこちらもいっせいに低下した。デバステーター部隊は次々に撃墜され、半数が魚雷発射前に叩き落され、魚雷発射した機も零戦にほとんど撃ち落とされた。また発射された魚雷は全て回避された。が、艦隊上空はがら空きとなった。

 

 

 米軍撮影。

 

 そこへ突っこんできたのが40機近いSBDドーントレス急降下爆撃機隊である。対空砲火をくぐり抜け、隊長機の指示ミスと連携失敗で30機前後が加賀へ向かった。赤城へは3~4機、蒼龍へは数機が突入した。飛龍のみ、3隻とは反対方向に転舵し魚雷回避運動を行ったので艦隊から離れるかっこうとなり、難を逃れた。0725から0730にかけて、3隻へ次々に爆弾が命中した。

 蒼龍では3か所のエレベータ付近へ1000ポンド爆弾がそれぞれ1発ずつ計3発命中。甲板や格納庫内隔壁を突き破り、庫内で爆発。爆弾、魚雷、燃料満載の第二次攻撃用の九九艦爆が続々と誘爆した。日本軍の空母格納庫は密閉式で、爆発が抜けずに爆風と火炎が体内を駆けずり回り、甲板を下から突き上げつつさらに爆発を繰り返し、大炎上した。加賀と同じく火災の勢いで機関員が脱出不可能となったうえ、主蒸気管が破壊されて0740には機関停止。0745には早くも総員退艦が命令された。

 その後、海面を漂流する生存者を救出しつつ、1430ころ火災が収まったとのことで駆逐艦が横付けされる。1500ころ駆逐艦磯風が艦内に残る生存者を救出。その後再び爆発があり救出を断念。1615ころ、日没とともに(現地時間は1915)蒼龍は艦尾より沈没したが、磯風が雷撃処分したという説もある。火災により脱出できなかった機関員300人ほどが、そのまま全滅した。

 唯一残った飛龍は水上部隊到達まで渾身の反撃を試み、再び空母ヨークタウンを航行不能せしめるも多勢に無勢、逆襲を食らって翌日沈没。山本聯合艦隊司令長官はミッドウェー基地砲撃のために先行させた最上型重巡4隻を呼び戻し、作戦の中止を決定した。ちなみに反転した4隻のうち最上と三隈が対潜哨戒運動の失敗で衝突し三隈が中破、速度低下したところを空襲されて三隈は沈没した。

 大惨敗である。