龍驤 | バカ日記第5番「四方山山人録」

バカ日記第5番「四方山山人録」

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 日本で4番目の空母として誕生した龍驤。中国語由来の名前が難しい。変換できないので、コピペするのが手っ取り早い。意味は、「龍が空に上ぼる如く威勢がよい」ことだそうである。
 
 改装ではなく、最初から空母設計された(ハーミーズ、鳳翔に続く世界で3番目の)艦であるが、設計段階では軍縮条約の基準により巡洋艦並の排水量しかなかった。が、途中で条約の規制が無くなり、それならばと格納庫をドカンと大型にしたため、正面から見ると逆三角形∇みたいな、異様な艦に仕上がった。これは龍驤の最大の特徴と言えるだろう。

 

 

 正面から。船体幅からはみ出んばかりの格納庫。というか、はみ出てる。


 八八艦隊計画を頓挫せしめた軍縮条約は、日本のみ空母の総排水量を80,000トンと定めてきた。赤城と加賀の改装でその大半を使い果たした日本は予定していた空母翔鶴(後の翔鶴型空母とは別の艦)を計画廃止。排水量の制限のなかった10,000トン以下の艦としてこの空母龍驤を計画した。

 

 

 ひっくり返りそうで返らない。


 竣工は皇紀2593(昭和8/1933)年。しかし、翌年に「友鶴事件」という、日本海軍の艦船全体にかかる設計段階からの復元性不足が露呈し、ただでさえ∇の龍驤は最新の艦にもかかわらず、すかさず改装してバルジを増設等し、復元性の回復に努めた。

 

 

 後ろから。舷側がやたらと低いのが分かる。

 

 

 鳳翔(下)と比較するとその舷側の低さが分かる。波切れも悪かったという。


 さらに翌年9月26日、龍驤は「第四艦隊事件」にまきこまれる。これは演習に参加するべく函館港を出港した第四艦隊(重巡6軽巡7駆逐艦20以上空母2その他補助艦艇多数:艦名略)が岩手沖で台風に遭遇したもので、当時はレーダーも人工衛星もないし、台風の規模を見誤ったうえ既に荒天域に突入しており、目測での全艦回頭も衝突の危険があった。また荒天の中を進むもよい訓練だということで台風突入したらあまりの大シケで大遭難した、とんでもない事件である。

 駆逐艦2隻が艦橋付近より船体破断という大損害を受け、他にも駆逐艦3隻が艦橋大破、鳳翔は甲板破損、龍驤は艦橋破損のうえ甲板後方の扉がぶっ飛んでザブザブ浸水して格納庫が水浸しになり、重巡等3隻は船体が歪んでシワが寄る、リベットがゆるむなどの被害を受けた。その他駆逐艦多数が波浪で損傷した。

 特に船体が千切れた初雪は千切れた先に電信室があり重要軍事機密があったため、漂流して他国へ流れ着いたら大問題となる可能性があった。従って漂流していた艦首部を発見した重巡那智が曳航を試みたが高波で断念。艦首部には未だ24人がいたというが、やむなく生存者の確認をとれぬまま砲撃して沈めた。

 またこの事件では最新式の電気溶接が裂けたため、やはり溶接はだめだリベット打ちに限るとなり、後の大和や武蔵などの超大型艦も主要部は何百万本もリベット打ちされることになり、建造時間の大幅な遅延につながったという影響も出た。

 龍驤はさらに改修をうけ、竣工から3年後の皇96(S11/36)年にようやく落ち着いた。と、思ったら同年、上海事変勃発。空母鳳翔と加賀が参加し(日本空母初の実戦参加)、龍驤は参加しなかったが翌年には第二次上海事変から支那事変へ発展。鳳翔、加賀と共にこれへ龍驤も参加し初陣となった。主力は搭載機数がダントツの加賀だったが、龍驤はやたらと訓練の厳しいことで高名で、活躍した。

 

 

 デジタル彩色。まさに「箱」が動いている。

 

 


 皇01(S16/41)年になると改装空母春日丸(後の大鷹)他護衛の駆逐艦と共に第四航空戦隊(四航戦)を編成。一航戦、二航戦、五航戦の大型空母6隻からなる南雲機動部隊とは別に、独自で活動する。真珠湾の際は、四航戦は南方へ出陣し陸軍の南下占領作戦を補佐した。しかし、春日丸はまだ改装途中で速度があまりに遅く、実戦参加は無理とされ、なんと空母は龍驤1隻でジャワ島、スマトラ島、インドネシア方面、フィリピン方面、シンガポールなどを縦横無尽に駆けずり回り、陸軍の輸送船団を護衛し、または聯合国軍の要塞や防衛部隊を空爆、あるいは敵の輸送船や空母、巡洋艦、その他艦船を破壊して大活躍した。ある時は飛行機を出すまでもないとして、オランダ軍の哨戒艇を龍驤自ら追撃して高射砲の水平射撃で撃沈する(!)という離れ業まで披露した。

 

 


 小型で小回りが利く船体に同型空母の1.5倍もの搭載機を持つ龍驤は非常に使い勝手がよく、通商破壊戦に最適で、聯合国軍からも煙たがられた。大型空母群が真珠湾からセイロン沖まで南雲機動部隊として活躍している裏で、龍驤は通商路遮断という地味ながらも非常に重要な後方支援を行っていた。

 

 


 さて皇02(S17/42)年6月のミッドウェーで主力空母4隻が撃沈され、南雲機動部隊は壊滅、日本軍快進撃の大きなターニングポイントとなったことはご承知のとおりだが、その裏でこの龍驤も、とんでもない事件を起こし結果として日本軍へ深刻なダメージを与えた。

 それが「アクタン・ゼロ」事件である。

 同年5月、作戦に先んじて四航戦へ改装空母隼鷹が編入された。ミッドウェー攻略と同時に日本軍は北方へも軍を進め、アリューシャン列島攻略戦を同時進行する。6月3日、2隻の空母から飛び立った攻撃隊がダッチハーバー基地を空襲。大きな戦果はなかった。翌日、第二次攻撃。一部敵戦闘機と交戦したが天候不良で帰還。さらに翌日の6月5日に第三次攻撃が行われたが、この時は米軍も激しく対空砲火とP-40戦闘機で迎撃した。

 このさい、古賀一等飛行兵曹(20)の操縦する零戦21型が対空機銃掃射の被弾により油圧系統が故障、油漏れを起こし、エンジン停止でアクタン島の湿地帯へ不時着した。しかし車輪主軸がぬかるみにひっかかって抵抗のためひっくり返り、仰向けとなって滑って停止した。古賀一飛曹は頸椎損傷か頭部挫傷のため死亡した。

 

 

 

 

 

 

 米軍に発見された古賀機。


 当時最高機密だった零戦の鹵獲を恐れ、日本軍は敵地不時着した場合の破壊を命じていたが、僚機は古賀の生死確認ができず破壊にまでは至らなかった。また、古賀が生存していた際の救出のための潜水艦も、ずっと古賀を探していたが米駆逐艦に発見され追い払われた。

 1か月後、米哨戒機がほとんど無傷の古賀機を発見。回収、修理し、幾度となくテスト飛行が行われ、零戦の性能、弱点が全て白日の下にさらされた。元より中国戦線、真珠湾、珊瑚海、そして鹵獲時にはミッドウェーも終わり、米軍は零戦の詳細な研究・分析成果を出していたが、このアクタン・ゼロ(もしくはコガのゼロ)はその研究・分析がなんら間違っていなかったことを立証し、対零戦戦法の早期確立に貢献した。

 

 

 

 

 米軍にてテストされる古賀機。


 すなわち、零戦と戦うには低空での格闘戦に持ちこまれないこと、後ろを取られたら急降下・急上昇で脱出すること、常に2機で対戦し一撃離脱で戦うこと……などである。零戦と米戦闘機のキルレシオはたちまち逆転し、それまで無敵だった零戦は苦境に立たされた。米軍の分析力をもってすればこうなるのは時間の問題であったろうが、アクタン・ゼロによりそれが早いうちに立証されてしまったのはやはり大きい。

 P-38戦闘機などは、あまりの低空低速における運動性の悪さに、零戦や隼にいいように食われて「ペロハチ」(ペロリと食えるP-38)などと呼ばれて日本軍パイロットからバカにされていたが、高度高速一撃離脱戦法をとられてからは手も足も出なくなり、手のひらぐるりで「双胴の悪魔」などと呼ばれて恐れられた。

 

 

 米陸軍P-38ライトニング戦闘機。

 

 

 現存機も多い。


 なお、上陸部隊は6月6日にアッツ島、6月7日にキスカ島を上陸占領した。特に守備隊はなく、容易に占領できた。しかし、ミッドウェー攻略作戦中止により、アリューシャン攻略作戦も中止となった。

 さて四航戦はその後空母瑞鳳をくわえ、さらに第五艦隊として他重巡、駆逐艦と共に北方警備にあたったが、米機動部隊は現れず代わりに潜水艦がウヨウヨ出現しだし、日本軍の対潜哨戒の弱さが露呈。米潜水艦の雷撃で駆逐艦2隻沈没、2隻大破の大損害を受け、哨戒警備どころではなく艦隊は日本へ戻る。

 

 


 ミッドウェー後、日本軍は機動部隊を再編した。一航戦に翔鶴、瑞鶴、瑞鳳の3隻、二航戦に龍驤、飛鷹、隼鷹の3隻が加わって計6隻の空母他駆逐艦隊で新生南雲機動部隊とした。

 同年8月4日、日本軍が米豪遮断のために占領していたガダルカナル島へアメリカ軍が上陸。この時から、日本軍の地獄のガ島攻防戦が始まる。8日に発生した第一次ソロモン海海戦で日本軍は勝利し米軍が一時撤退したにも関わらず、日本軍は次の手を打てずに時間がすぎ、逆にガ島へ残された米海兵隊が遺棄された日本軍の機材を使ってヘンダーソン飛行場を完成させる始末。

 日本軍は25日ごろに大規模な奪還作戦を開始すべく陸軍増援部隊や他の艦船もガ島へ向け終結したが、20日ころにはもう米空母3隻(エンタープライズ、サラトガ、ワスプ)他が集結した。一航戦のうち瑞鳳がドックから出たばかりで、代わりに龍驤が臨時に一航戦となった。

 

 


 23日、陸軍の上陸部隊輸送船が米飛行艇に発見される。25日の上陸予定日、龍驤は別行動でヘンダーソン飛行場を攻撃し、敵機動部隊を引き付け、その隙に翔鶴、瑞鶴が艦載機のいなくなった敵機動部隊を叩くという囮作戦が発動。主力空母4隻喪失によりただでさえ貴重な空母を囮に使うとは、後世からするとびっくりである。

 

 


 24日、護衛の重巡利根、駆逐艦天津風、時津風を引き連れた龍驤は飛行場を爆撃したがあまり効果はなく、そのうち敵哨戒機に発見された。陸上基地からのB-17爆撃機の空襲は命中弾が無かったが、サラトガとエンタープライズ(ワスプは補給のため撤退)を飛び立った攻撃機が襲来。対英米戦開戦以降、南方をちょろちょろしていた目障りな小型空母をこの機会に沈めようと、執拗な攻撃が始まった。龍驤は零戦を上げて迎撃し、懸命に回避したが多勢に無勢、甲板と艦橋に被弾、士官多数戦死のうえ炎上した。さらに1400過ぎに魚雷1本命中した。

 龍驤は大火災を起こし傾斜20°に達し航行不能となった。1640ころ、練達乗組員によるダメコンで火災は収まったが機関全滅となり復旧不可能と判断。利根や駆逐艦による曳航も試みられたが傾斜がひどく無理だった。1730龍驤の雷撃処分が決定するも、生存者救出の後1800ごろ龍驤は艦尾よりガダルカナルの海へ沈んだ。降りる場所を失った龍驤の艦載機は陸上基地へ降り、そのまま基地航空隊へ編入された。

 さて龍驤らが空襲を受けていたころ、作戦通り翔鶴、瑞鶴の攻撃隊が艦載機の飛び立ったエンタープライズとサラトガを襲ったが、残念ながらエンタープライズを中破せしめるに終わった。ヘンダーソン飛行場の被害も軽く、翌日には無傷のサラトガと基地航空隊により日本軍上陸部隊が襲撃され、補給艦や輸送船が沈没し上陸断念。作戦は失敗した。

 日本軍の空母喪失は6隻目、米軍は入れ替わるように空母の大量生産に入る。WW2を通しての日本軍空母は主力空母から小型空母まで24隻で、戦艦12隻の倍であり帝国海軍は空母こそ主力と云ってもよいくらいだが、米軍は結果として主力空母だけで30隻以上、護衛空母に到っては数えきれない。Wikipediaの一覧を数えようと思ったが止めた。70隻以上は竣工しており、逆算すると1週間に1隻、米国のどこかの造船所で日本で云うと大鷹クラスの小型空母が竣工している。まさに週刊空母。戦争は数である。1隻に20機ほどしか載せられなくても、10隻集まったら200機の艦載機が飛び立つ。それを動かす油と人員育成、米国の底力はこういうところで如実に分かる。

 

 この後、12月の撤退まで日本軍はガ島攻防戦にかかりっきりとなり、上陸に失敗して海の藻屑となった兵士や物資はもとより撃沈された戦艦、空母、艦載機、戦車、輸送船、などなど、陸海軍とも膨大な人材と資材を消費しただけに終わった。