陸奥 | バカ日記第5番「四方山山人録」

バカ日記第5番「四方山山人録」

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 長門に続き、「八八艦隊計画」に基づき建造された長門型戦艦2番艦である。この計画は、主力艦では「建造年数8年以内の戦艦8隻巡洋戦艦8隻」というもので、長門、陸奥に続いて巡洋戦艦天城、赤城、戦艦加賀、土佐の船体が既に完成していた。その後も天城型巡洋戦艦高雄、愛宕、戦艦紀伊型が計画されていた。

 しかしこの計画に脅威を抱いた欧米各国が建艦競争に歯止めをかけるべくワシントン海軍軍縮条約を定め、日本も列強の求めに応じ軍縮条約を批准した。この中に、「未完成艦は廃艦とする」ことが定められており、船体のみだった天城と赤城は空母へ改装され、加賀と土佐は標的艦として処分されることとなった。

 はずだったが、関東大震災の影響で天城が修復不能の破損を負い、代わりに処分予定だった加賀が空母へ改装された。こうして第一航空戦隊……一航戦の空母赤城、加賀がそろい踏みすることとなる。

 さて陸奥である。陸奥も未だ艤装中で未完成だったため、欧米各国が廃艦を要求してきた。しかし日本は「ほとんどできている」として猛烈に抵抗。未完成状態のまま「完成品」として海軍へ引き渡してしまった。だいたい、85%ほどの完成度であったという。

 

 

 デジタル彩色。これは船体のみ。


 さすがに英米が抗議。英2隻、米2隻の廃艦予定の戦艦の保有が認められた。陸奥1隻をゴネて、英米に2隻ずつ最新鋭戦艦の保有を認めさせてしまったのだから、良かったのかどうか。それは分からない。

 そんなわけで陸奥は皇紀2581(大正10/1921)年、竣工した。思えば最初からケチがついていた。

 

  


 軍縮条約が生きている間、各国は戦艦の建造を禁じられたため、長門と陸奥はしばらくの間、世界でも有数の戦艦だった。40センチ級の主砲を持つ巨大戦艦が長門と陸奥を含めて世界に7隻あるとし、「ビッグセブン」と呼ばれた。

 扶桑型や伊勢型に比べ、かなりバランスの良かった長門型にも欠点が無いわけではなく、第1煙突が艦橋に近すぎて排煙、廃熱に問題があり、カバーをかぶせたがあまり効果はなく、第一次改装でグイッとS字にひん曲げて少しでも排煙を艦橋より遠くした。これはまずまず効果があったという。その後、第二次改装で機関を改良し煙突は1本化された。

 

 

 第1次改装。S字煙突。

 

 

 第2次改装。煙突が1本化されているのが分かる。


 また、船首部の波切が悪く、波しぶきで砲塔の光学照準装置が曇るという問題が発生していた。長門に先立って改装中の陸奥がついでに船首部の形状を改良したが、結果として効果が無かったので長門の同様の船首部改良は行われなかった。従って、厳密に見ると長門と陸奥の船首部は形状が(若干)異なる。上の1次改装、2次改装の写真で比較していただくと、真横から見て、鼻っ面の角度が異なるのが分かると思う。

 

 

 戦艦陸奥記念館の艦首部。実物。


 太平洋戦線が始まると空母随伴できる金剛型は酷使されたが、速度が遅いうえに貧乏な日本軍により秘匿された他の戦艦と同じく、陸奥も待機の日々となった。

 皇01(S16/41)年12月の真珠湾では機動部隊が攻撃失敗し、米機動部隊の反撃を受けた時を想定して救助部隊として長門、伊勢、日向、扶桑、山城らと共に小笠原付近まで進出していたが、奇襲大成功の報を受け日本へ戻った。

 

 


 その際、陸奥はいきなり舵が故障して1人艦隊から落伍するアクシデントがおきた。幸い15分後には復旧し隊列へ戻ったが、宇垣聯合艦隊参謀長は「そんなところを敵潜水艦が発見したら絶好の攻撃機会だ(意訳)」として危惧した。

 本格的な参戦は翌皇02(S17/42)年6月のミッドウェーだった。大和、長門ともに第一戦隊を編成したが空母部隊の遥か後方で移動中に空母4隻が全滅してしまった。陸奥は救助された赤城乗務員を回収し、日本へ帰投した。

 同年8月、一連のガ島攻防戦へ参加するためトラック泊地へ進出。第2次ソロモン海海戦へ参加したが会敵しなかった。

 

 


 その後、大和と共にトラックで待機が続き、南太平洋海戦、第3次ソロモン海海戦にも不参加。「燃料タンク」「艦隊旅館」などと呼ばれたという。これは作戦が重巡と空母主体の高速戦であり、足の遅い陸奥や大和は随伴できなかったためである。戦意昂揚としていた陸奥乗組員は落胆し、見ていて気の毒なほどであった。

 

 


 翌皇03(S18/43)年1月、陸奥は日本本土へ回航され、2月には横須賀から呉へ移り、瀬戸内海の柱島泊地で待機となる。

 5月、アッツ島攻防戦が始まり陸奥は戦闘準備を整えたが出撃しなかった。5月29日アッツ島守備隊玉砕全滅。

 そして運命の6月8日、陸奥は突如としてその生涯を終える。

 

 


 その日は朝から霧雨が降り、雨が止んだのちも霧が立ちこめ、視界が悪かった。同じく柱島泊地には戦艦長門、扶桑、重巡最上、軽巡大淀、龍田のほか、駆逐艦が数隻いた。

 陸奥は1300より長門へ旗艦ブイを譲るために、朝よりその係留ブイ変更準備をしていた。長門は陸奥に代わって係留するために陸奥右前方で停泊していた。

 三好陸奥艦長は前日に扶桑艦長に着任した海軍兵学校の同期である鶴岡大佐を扶桑へ訪ねており、午前中は扶桑で歓談して正午前には陸奥へ戻った。この時、戻る時間がもう少し遅かったら、艦長の運命も変わっていただろう。

 陸奥は昼食が終わり休憩時間であった。

 1210頃。

 長門や扶桑の目の前で、陸奥の第3砲塔付近より突如として白煙が吹き上がり、たちまち大轟音と共に大爆発を起こした。

 その際、360トンある第3砲塔が、艦橋の高さまで吹き飛ばされたのを見た目撃者もいたという。

 陸奥は煙突の後ろの、爆発した第3砲塔のあたりで真っ二つに折れ、艦首部は横倒しになって轟沈。艦尾部はスクリューを天に向けて浮かんだ。

 長門は敵潜水艦による攻撃と判断してすぐさま現場を離脱。その後、救助艇を出した。扶桑や最上からも救助艇が出て、呉鎮守府は対潜戦闘開始で駆逐艦が出撃した。

 陸奥の艦尾部は午後5時ころまで浮かんでいて、救助が行われた。

 陸奥より1000m(後の扶桑艦長の回想では2000m)の距離にいた扶桑から「陸奥爆沈ス。一二一五」の緊急電が出されたが、その後、当然のごとく厳重なる箝口令が敷かれ、付近の航行も厳禁となった。

 しかし、翌日には周辺の島々に重油が流れ着き、兵士の遺体や備部品等も続々と流れ着いた。漁民や島民にも呉鎮守府の憲兵隊から厳重な箝口令が発せられたし、間違って陸奥の備品を拾って所持していようものなら、とんでもないことになった。夜になると、兵士の遺体を荼毘に付す光が島々に見られたという。(吉村昭のルポ小説「陸奥爆沈」に詳しい。)

 乗員1474名中、生存者は353名だった。発見された遺体には強烈な爆風でぶっ飛んだままの、両手両足を前に出した姿勢で亡くなっている者も多く、ほとんどは水死ではなく爆死であった。

 陸奥爆沈は一切の情報が秘匿され、死んだ兵士にも給金が出ていたほどだった。生き残りは南方の最前線へ送られて、ほとんど戦死した。

 それでも、陸奥爆沈はまことしやかにささやかれ、たまたま鎮守府へ用事があって出かけていたために助かった者などは、転任先で「君は幽霊ではないのか」などと云われるケースもあったという。

 さて、爆沈原因である。

 呉ではさっそく査問委員会が発足し、事故原因の調査が行われた。

 瀬戸内海には到る所に対潜防御用の網が設置されており、流石に柱島泊地の奥まで敵潜水艦が侵入するとは考えにくく、原因は火薬庫・弾薬庫の爆発事故と断定された。
 
 日本軍ではなくとも、弾薬や火薬が満載してある軍艦の爆破事故というのは恐ろしいもので、内部より木っ端微塵となってしまう。日本軍でも明治時代から多数の事故による沈没事故があり、有名どころでは日本海海戦の旗艦三笠が2回も火薬庫爆発事故で大破着底している。沈んでいないのは、2回とも不幸中の幸いで港に停泊中の事故だったためだ。

 しかし、1回目の事故はよりによって日露戦争直後で、東郷元帥が上陸中におきた。公式には原因不明だが、当時、艦内は戦勝気分もあって著しく規律が緩んでおり、信号用のアルコールへ火をつけて臭いを飛ばしてこっそり飲むのが流行っていたという。ここからは伝聞や作家吉村昭の想像もあるが、火薬庫番の兵士たちがその夜もこっそり信号用アルコールで勤務時間中に「酒盛り」し、酔っぱらって火のついたアルコール入り洗面器をひっくり返して引火した。なにせみな酔っているし重大な軍機違反である。消火もままならず火薬庫で火災が起き……。

 陸奥は、まず対空三式弾の劣化による自然発火が疑われた。三式弾はいわゆる榴散弾で、焼夷弾子を主砲弾に詰めこんだ構造により非常に取り扱いが難しい弾だった。一時、嫌疑が晴れるまで他の艦艇よりいっせいに三式弾が下ろされたほどだった。

 しかし、爆発時に発生した煙が主砲発射火薬が燃焼したものと同じという証言があったうえ、陸奥砲塔内部を再現までして行われた自然発火実験の結果、三式弾が劣化により発火することはないことが証明され、三式弾の疑いは晴れた。

 そうなると、しかし原因が分からない。査問委員会も原因不明で終わってしまった。

 ここからは、吉村昭等の推測による。

 この爆発事故の寸前、陸奥艦内では兵員同士で窃盗事件が多発しており、挙動の不審だった某兵に嫌疑がかけられ、まさに窃盗事件の査問委員会が行われる直前であったという。その某兵は元より鬱状態にあり、自殺を兼ねて砲塔内弾薬庫へ放火した……という説である。

 真偽のほどは、現在も分からない。火薬庫、弾薬庫は厳重な管理下にあり、鍵も何重にもなっていて、常に歩哨が立っているため、放火など不可能なはずなのだが、前例として火薬庫勤務の経験がある兵士による放火・爆沈事件が海軍にあり、けして不可能ではないことが立証されている。

 その某兵は、爆沈事件後、行方不明のままである。

 陸奥は戦中や戦後すぐに引き揚げが検討されたが、潮流が速く視界も悪いため潜水士が危険であり、実行できなかったが、昭和45(1970)年の大規模な引き揚げ作業で複数の遺骨を含む様々なものが引き揚げされた。その際の写真は、ネットに大量にあるので参照されたい。

 

 

 第4砲塔の引き揚げ。

 

 

 

 

 主砲鉄鋼弾。

 

 

 

 

 

 


 船体の75%が引き揚げされたところで作業は終了し、現在も爆沈地点には船首部が艦橋も含めて120mほど残っている。

 平成19年(2007年)第六管区海上保安部におてマルチビーム探測が行われ、海底の陸奥の様子が3D画像で公開された。

 

 


 戦後、戦車や戦艦などは全て融かされて再利用されており、それも落ち着いたころに引き揚げられた陸奥は、戦前の貴重な鉄材であった。具体には、戦後の製鉄の手法で溶鉱炉の耐火レンガに炉の摩耗状況を調べる目的でコバルト60が使用されており、それが鉄製品へ(もちろん人体に何の影響も及ぼさないレベルで)微量に残っている。陸奥はそのコバルト60を含まない貴重な鉄として、日本各地の研究所、原子力発電所、医療機関における放射能測定において環境放射能遮蔽材などに用いられ「陸奥鉄」の名で重宝されている。