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バカ日記第5番「四方山山人録」

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 皇紀2590(S5/1930)年のロンドン軍縮条約により、日本は戦艦(主力艦)や空母の保有トン数制限がかけられた。主力空母を何とか蒼龍、飛龍まで建造した日本だったが、そこで保有枠を使い切った。そのため、いつでも空母へ改造できる条約対象外の艦を建造する。それが高速給油艦(後に潜水母艦)高崎(後の空母瑞鳳)、高速給油艦(後に潜水母艦)剣先(つるぎさき)(後の空母祥鳳)、そしてこの潜水母艦大鯨(たいげい)後の空母龍鳳である。

 

 


 大鯨はさまざまな試験的要素を含んだ大型艦で、このクラスの艦として日本軍で初めて全体を電気溶接で建造し、また主機は大型ディーゼルエンジンを4機備えていた。計算では最大速度20ノットを予定した。当初の設計より後の空母化を想定しており、船体が大きく機関にも余裕があり、潜水母艦としても優秀な設計だった。

 

 

 潜水母艦、大鯨。


 ところがどっこい、大規模な電気溶接工法は当時の日本ではまだ技術的に至難であり、不足する溶接工の養成を同時に進めたというありさまで、現在では主流のブロック工法で溶接していったはよいが、大きくなるにつれ船体に歪みが生じ、解消のためいったん船体を切断してリベットで繋ぎなおした。そのため工事が遅れたが、なんと昭和天皇に浸水日を伝えてしまっていたため工期を伸ばすわけにもゆかず吶喊。

 皇93(S8/33)年11月16日なんとか進水。擬装が続けられ、擬装ドック内でも歪みの解消が充分ではなく、同じ場所を再切断して繋ぎなおした。翌年3月31日にいちおう竣工したものの、擬装は未完成で引き続き工事が行われ、11月20日に事実上の竣工。それでも細部の工事が翌年の春まで呉で行われた。

 大型ディーゼルエンジンは不調が続き、設計の半分も馬力が出なかった。また皇95(S10/35)年の第四艦隊事件にまきこまれた。大鯨は重巡足柄、軽巡川内と共に「アメリカ戦艦役」を担っていたところ、台風の波浪で船体中央外板に大きな皺が寄り亀裂が発生するという被害を受けた。これにより電気溶接工法の信頼が損なわれた。

 その修理や、機関の改良工事などで大鯨の就役は遅れに遅れ皇98(S13/38)年9月5日にようやく第一潜水戦隊へ編入。その後しばらくは潜水母艦として活躍した。皇01(S16/41)年11月、真珠湾の際には潜水艦隊旗艦を伊8号潜水艦へ譲り、対英米戦勃発後の12月10日、大鯨はいよいよ空母へ改装するために横須賀へ入る。

 まず信頼性の低い主機の大型ディーゼルエンジンをすべて廃止し、陽炎型駆逐艦と同じ蒸気タービンへ全換装。4月18日のドーリットル空襲ではなんとB-25の落とした爆弾が大鯨に命中、船体に大穴が空いて修理に4か月を要した。5月上旬には珊瑚海海戦で大破した翔鶴が修理のため母港である横須賀に来たが、大鯨の改修で手いっぱいのため呉へ回された。11月28日、空母として改装完了。30日に大鯨改め、龍鳳と命名された。

 12月上旬、さっそく同じく初任務の、客船新田丸から空母改装された冲鷹といっしょに護衛艦を伴ってトラックへ航空機輸送任務に就く。運んだのは、陸軍の九九式双発軽爆撃機だった。ところが、冲鷹が機関不調により出発が延期され、12月11日龍鳳のみ護衛の駆逐艦時雨と共に出発した。さらにところが、12日に八丈島沖で龍鳳は待ち伏せていた米潜ドラムの雷撃を受け、右舷中央に魚雷1本命中。航行可能だがトラックまではとても行けなくなったため、出たばかりの横須賀へ引き返した。遅れて出発した冲鷹隊は無事にトラックへ到着した。龍鳳が運ぶ予定だった航空機は、後に瑞鶴が運搬した。龍鳳は修理に4か月かかった。

 

 

 横須賀へ戻る途中だそうである。


 翌皇03(S18/43)年、修理を終えた龍鳳は翔鶴や凰翔と訓練を行い、ミッドウェー後の新生航空戦隊の確立に努めた。6月、増える一方の米潜水艦を航空機で撃退するべくトラックへ航空機輸送。しかし、先行した飛鷹が三宅島沖でその潜水艦に雷撃され小破、軽巡五十鈴に曳航されて日本へ戻り、飛鷹の分の航空機も一部積んだ龍鳳は無事にトラックへ到着した。龍鳳の航空隊は一時的に陸上基地へ配備され航空戦を行ったが、1か月半で半数を失い、解散してそのまま陸上基地に編入されてしまった。戦う航空隊を失った龍鳳は航空機輸送任務を続けて行い、前線で米軍と戦う機会はなかった。
 
 翌皇04(S19/44)年、瑞鳳と共にサイパン・グアム方面へ航空機を輸送し、4月8日に呉へ戻った。その後、あ号作戦(マリアナ沖海戦)へ参加。いよいよ初の実戦となった。

 日本軍が全航空戦力をかき集めて渾身の大攻勢に打って出たマリアナであったが、既にパラオ空襲の際にマリアナ作戦の概要を記した超機密書類がアメリカに奪われていた(海軍乙事件)うえ、米軍には零戦を凌駕するF6Fヘルキャット艦戦やVT信管付の対空弾、高性能レーダーが装備されていた。

 6月19日、日本軍は艦隊を大きく3つに分け、それぞれ空母群を中心に護衛や補助艦隊を配置。甲部隊に最新鋭装甲空母大鳳、歴戦の翔鶴、瑞鶴。乙部隊に客船改装ながら充実した艦載機数を誇った隼鷹、飛鷹、そしてこの龍鳳、丙部隊に水上機母艦及び高速輸送船改装の千歳、千代田、瑞鳳が配置された。日本軍に残った機動部隊参加可能空母9隻が、全てそろっていた。

 日本軍は第1次から6次に分けて寸断無く攻撃隊を発進、米機動艦隊を襲撃したものの、対空レーダーにより早期発見され、F6Fと充実した対空兵器によって1次では半分、2次では2/3を失う大打撃を受けた。特に最新鋭の艦爆彗星と艦攻天山はほぼ全滅し、旧式の九九艦爆、九七艦攻のほうが生き残る。これは、新型のほうが性能が悪いのではもちろんなく、パイロットの錬度不足、生産性の悪化による性能の劣化に尽きる。

 日本軍はたった1日で、全航空隊の半数以上を失う大敗北を喫する。くわえて発艦作業中の大鳳、翔鶴が米潜水艦の雷撃を受け、両艦とも航空機燃料のガソリン庫が損傷し燃料漏れを起こして、午後に漏れて充満したガソリンに引火し大爆発、夕刻までに沈没する。

 翌20日、洋上補給のためにタンカー部隊と集結していたところを米軍が200機もの攻撃隊で急襲。大混乱に陥る。タンカー2隻と空母飛鷹が撃沈され、空母瑞鶴、隼鷹、千代田も爆撃により損傷した。米軍は20機が撃墜され、80機が薄暮攻撃による夜間着陸の失敗で自損した。小澤艦隊は残存勢力を結集し米軍を追撃したが、小型艦艇の燃料が尽きかけたため作戦を中止。米軍も21日夜まで日本軍を追撃したが発見できずに引き返した。

 これにより日本軍機動部隊は航空隊が壊滅し、空母としての仕事ができなくなる。後は航空機をひたすら輸送するか、囮として敵を引き付けるしかなかった。龍鳳は、最初で最後の機動部隊実戦参加だった。

 龍鳳は若干の損傷があったのみで航行は可能だった。10月のレイテで生き残っていた空母4隻(瑞鶴、瑞鳳、千歳、千代田)も沈み、機動艦隊壊滅後の11月7日、同年8月に竣工したばかりの空母雲龍より第一機動艦隊旗艦を引き継ぐが、15日には第三機動艦隊と共に機動艦隊そのものが解散。日本海軍最後の機動艦隊旗艦となった。

 12月下旬、フィリピンへ特攻兵器桜花ほか陸上兵器、軍需物資や人員を輸送していた雲龍が米潜レッドフィッシュによって撃沈され、同じく桜花を運ぶ予定だった龍鳳はフィリピンから台湾へ目的地が変更となった。同時に大規模輸送船弾「ヒ87船団」の一員としてタンカー9隻、駆逐艦4隻、海防艦4隻の護衛を伴って龍鳳は12月31日に門司港を出発した。しかし皇05(S20/45)年1月3日に大規模な台湾空襲。輸送船団は空襲を避けてあちこちに移動しながら避難した。龍鳳は命令により7日に基隆へ入港し、船団から離れた。船団は最後に目的地の高雄へ向かう途中に空襲や潜水艦の雷撃を受け、大損害を受けた。

 11日、駆逐艦磯風と海防艦御蔵が基隆まで逃れてきた。そのまま龍鳳護衛となり、日本へ向かうタモ35船団の護衛を兼ねて12日に基隆を出発。17日に無事日本へ到着し、龍鳳は船団と別れて呉へ入った。

 龍鳳は呉で練習空母となったが、動かす油も飛ばす艦載機も無かった。3月19日に呉空襲に遭い、ロケット弾と爆撃を受けて中破。甲板へ衝撃で50mにわたって亀裂が生じた。その後、同じく呉に係留されていた他の大型艦(天城、葛城、榛名、伊勢、日向、利根、青葉、大淀)と共に浮き砲台となった。大和や矢矧らも沈んだ沖縄特攻の後、乗組員は艦の修理を細々と行いながら農園作業に従事した。

 

 

 呉で空襲を受けた龍鳳。

 

 

 同じく、係留のまま放置される。

 

 7月24日及び28日の呉軍港空襲で対空戦闘を行い、伊勢、日向、榛名、天城、利根、大淀などの艦船と異なり大破着底はしなかった。

 そのまま終戦を迎えたが中破したままのためか復員船として使われず、昭和21(1946)年4月2日より呉で解体開始。9月25日に完了して、その身は戦後日本の復興資材となった。
 

 客船改装大鷹型空母3番艦、冲鷹(ちゅうよう)。サンズイの「」ではなく、ニスイの「」なのがちょっとややこしい。元の客船としては、新田丸級客船の1番船、新田丸である。客船としてはネームシップだったが、その分長く客船や輸送船の仕事をしており、空母に改装されたのは一番最後だったため、空母としては3番艦となるのもちょっとややこしい。

 

 


 客船:新田丸→八幡丸→春日丸の順
 空母:大鷹(春日丸)→雲鷹(八幡丸)→冲鷹(新田丸)の順

 

 

 新田丸。

 

 

 新田丸、八幡丸、春日丸の頭文字をとり、N.Y.Kラインと呼ばれた。

 

 

 戦前から船舶擬人化。


 皇紀2600(S15/1940)年、客船新田丸として竣工。サンフランシスコ航路に就航したが、日米関係悪化により航路廃止。翌皇01(S16/41)年にはさっそく海軍に徴用され、輸送船として活躍した。上海から横須賀経由で海軍の陸戦隊(現在で云う海兵隊)をウェーク島へ輸送し、帰りは米軍捕虜1000名ほどを本土へ運んだ。

 翌皇02(S17/42)年、空母へ改装されるべく呉へ入港。8月には海軍に買収され、既に作業は始まっていたが本格的に改装が進む。8月20日、新田丸より冲鷹に改名。改装中の改名であり、先の大鷹、雲鷹と異なり特設空母ではなく最初から軍艦として空母だった。11月25日、空母改装完了。大鷹、雲鷹の運用実績から甲板が10m延長され、対空機銃も強化された。

 それでも、カタパルト未実用化や低速度で、姉たちと同じく艦隊運用はできずに航空機輸送任務に集中することになる。この点、大鷹型より小さな護衛空母に蒸気カタパルトを装備し、大型の艦載機を発艦させたアメリカの護衛空母とは雲泥の差があった。しかも、アメリカはその護衛空母を何十隻もそろえ、主力空母に匹敵する戦闘力を発揮した。

 12月4日、さっそく航空機輸送任務により潜水母艦大鯨(たいげい)より空母化された龍鳳と護衛駆逐艦でトラックへ向かう。輸送したのは、陸軍の九九式双発軽爆23機だった。甲板に露天繋止し飛行部隊の陸軍兵230人を乗せて出港したが、なんと機関不調で出港延期。龍鳳隊のみ出発するものの、今度は龍鳳が八丈島沖で米潜ドラムに雷撃され、右舷中央に1発命中、あわてて横須賀に引き返した。遅れて出発した冲鷹隊は無事にトラックへ到着する。日本へ戻り、翌皇03(S18/43)年の正月早々にもトラックへ航空機輸送。


 この年、聯合艦隊に大きな戦いはなかったが、作戦で出撃しては会敵せずを繰り返しており、何もしていなかったわけではない。また別作戦で大規模な航空戦が行われ、空母部隊は航空隊を引っこ抜かれて損耗し、戦力を減らし続けた。トラックでは燃料の備蓄が底をつきかける事態となり、空母もドラム缶を積んでタンカー代わりを務める始末。その中で、大鷹型はひたすら航空機を輸送し、作戦の根幹を支える重要な任務を黙々とこなした。

 2月にはカビエン、ラバウル方面へ航空機を輸送し、4月には陸軍の三式戦飛燕を再びラバウルへ輸送。米潜タニーに襲われるも魚雷早爆で助かった。6月、横須賀へ戻る。6月10日、出港するも共に行動していた飛鷹が米潜トリガーに雷撃され航行不能となり、軽巡五十鈴に曳航され横須賀へ戻る。16日、戦艦2(金剛、榛名)、空母3(龍鳳、大鷹、冲鷹)、重巡2(熊野、鈴屋)、軽巡1(五十鈴)、駆逐艦他多数の大艦隊でトラックへ向け再度出発。途中で暗号解読で待ち伏せていた米潜スピアーフィッシュに襲われるも魚雷命中せず。

 

 

 陸軍機輸送後、トラック諸島にて。冲鷹の写真は、この1枚のみっぽい。


 いったん日本へ戻り、小澤機動艦隊に随伴してトラックへ陸軍兵や重火器を輸送。空母4(翔鶴、瑞鶴、瑞鳳、冲鷹)、重巡3(利根、筑摩、最上)、軽巡2(大淀、阿賀野)、駆逐艦その他艦艇多数という、けっこうな規模の艦隊だったが、お決まりの暗号解読による米潜待ち伏せでトラック諸島近海で米潜ティノサに雷撃されるも、艦隊は魚雷を回避し被害なくトラックへ到着した。

 日本へ戻って9月7日に大鷹と冲鷹は駆逐艦3隻に護衛され、横須賀を出発、再びトラックへ向かう。11日にトラック到着、21日、駆逐艦島風の護衛によりトラック出発。しかし、またまた暗号解読により米潜に待ち伏せされる。日本の暗号はいったいどうなっとるんだと思うが、これが現実である。父島沖で悪天候の中、米潜カリブラの放った魚雷6本の内数本が大鷹右舷に命中するも、幸運なことに1本しか起爆せず沈没を免れた。しかし機関と舵の呼称により航行不能となった。島風の爆雷と悪天候でカリブラは大鷹を見失い、そのまま脱出する。大鷹は冲鷹に曳航され、26日、応援に駆け付けた駆逐艦漣、白露と共に横須賀へ帰りついた。

 11月、ブーゲンビル島沖航空戦で消耗した航空隊を補充するために瑞鳳がトラックより内地に帰投し、11月16日空母3(瑞鳳、雲鷹、冲鷹)と護衛の駆逐艦多数で横須賀出発。21日にトラック到着した。航空機を下ろし、30日にその空母3隻に加え修理のため本土回航を命じられた重巡麻耶、護衛の駆逐艦5隻が日本へ向けて出発した。

 空母3隻には、ソロモン・ニューギニアよりの移動陸軍兵や機材、民間人、それに米軍捕虜41名も分乗していた。

 案の定、トラック港湾部長発、護衛艦隊司令部宛暗号電文が傍受解読され、複数の米潜水艦が輸送艦隊襲撃を命じられた。

 12月3日深夜、悪天候の中、艦隊は単縦陣(麻耶、瑞鳳、冲鷹、雲鷹)で進み、護衛艦は周囲に配置されていたようだが、余りの嵐で互いの位置もよく分からなかった。0000ころ、レーダーで艦隊を把握した米戦セイルフィッシュは悪天候にも関わらず艦隊へ向けて魚雷4本を発射。うち1本が冲鷹に命中。「前部兵員室ニ火災発生」した。

 艦隊は冲鷹と護衛の浦風を残し、急ぎ退避。セイルフィッシュは浮上して落伍した冲鷹を確認すると0450第2撃発射、魚雷1本が機関室に命中し多数の死者を出した。セイルフィッシュは浮上したまま冲鷹の右舷1500メートルを航行、再び潜航して0840艦尾発射管より第3撃発射、冲鷹の艦橋付近へ命中した。

 浦風の爆雷によりセイルフィッシュは退避。冲鷹は0847に3撃目の命中で一気に沈没した。浦風や救助に駆け付けた漣により160名ほど救助されたが、残りの乗組員や便乗者は総員戦死。一航戦の熟練整備員や機械工が多数戦死し、その後の航空機整備に支障を与えたという。また運搬中の米軍捕虜21名中20名が戦死した。

 12月9日、日本軍の潜水艦ではとうてい攻撃できない悪天候下での襲撃だったため、軍令部により護衛及び対潜水艦に関わる研究会が開かれ、米軍の潜水艦攻撃は

 1)水中音発射
 2)レーダー発射
 3)聴音魚雷

 のいずれかである可能性が指摘された。なんにせよ、日本軍の技術ではどれも不可能な攻撃であった。

 有事の際には戦時徴用されることを条件に建造の一部を助成する制度である「優秀船舶建造助成施設」補助金をもって日本郵船により建造された2隻の豪華客船、橿原丸(かしはらまる)と出雲丸(いずもまる)。いざ建造決定の段になって海軍が補助率を8割から6割にし、また世界情勢が危うくなってきてどうせ作っても資金回収前に徴用されるんじゃないかという不安もあって、実は日本郵船では乗り気ではなかったようだが、同社がとらないとライバル会社がどうせとるので、メンツのために日本郵船で建造したようである。

 その不安も的中、出雲丸は皇紀2599(昭和14/1939)年に11月末に川崎重工神戸造船所で浸水、それから1年をかけて客船に艤装している最中の翌年10月に空母への改装が決定。さらに翌年1月、海軍が同じく建造途中だった橿原丸と、この出雲丸を買収。再びドック入りし、空母への大改装が本格的に始まる。6月24日に浸水、ドックを出る。出雲丸が出た後のドックでは、直ちに空母大鳳の建造が始まった。その年の暮れ、12月8日に真珠湾。日本はアメリカを含めイギリス、オランダと戦争状態に入る。

 翌皇02(S17/42)年7月31日竣工。建造途中から空母になった隼鷹よりむしろ遅かった。特設空母となることなく、ただちに軍艦籍に入り空母飛鷹となる。隼鷹型の艦橋と煙突が一体化した設計は、日本で初めて採用されたものだった。排煙による気流の乱れを考慮し、煙突が外側に傾いていた。(もっとも、まっすぐでも大して気流が乱れないことが判明し、大鳳や信濃は同じく艦橋と一体型だが煙突はまっすぐになった。)

 

 

 写真は同型の隼鷹。


 既に珊瑚海海戦とミッドウェーは終わっており、日本軍は空母祥鳳のほか、主力空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)を一気に失っていた。飛鷹は先に竣工した姉妹艦隼鷹、古参の龍驤と共に新生二航戦を編成したが、新参の二隻は訓練が先で実戦へは出られなかった。また、龍驤は新生一航戦(翔鶴、瑞鶴、瑞鳳)にあって瑞鳳が錬度不足ということで代わりに臨時編入され、8月7日の第二次ソロモン海海戦で撃沈されてしまう。

 10月、護衛の駆逐艦を従えて二航戦はトラックへ到着。元客船の2隻は例にもれず速力不足で、結局艦隊配備できなかった大鷹型よりはましだったが、最大26ノット程度では航空機発艦に必要な甲板風速15m/sを得るのに苦労した。

 飛鷹と隼鷹の初任務は、高速戦艦金剛、榛名によるヘンダーソン飛行場艦砲射撃の上空警戒・掩護であった。第一次艦砲射撃は成功したが、米機動部隊排除を目論んだその後の南太平洋海戦において、10月20日、飛鷹は機関故障(電気室火災)をおこし戦う前から戦線離脱、同海戦とその後の第三次ソロモン海海戦へ参加できなかった。12月5日にトラックを出発、11日に呉到着。修理に入る。

 翌皇03(S18/43)年、海軍では大きな海戦はなかったが、遊んでいたのではなく、聯合艦隊が作戦行動で出撃しては会敵せずを繰り返し、トラック泊地の油が枯渇し始めたため、空母にすらドラム缶を積んで運ぶ仕儀となった。また航空隊が基地航空隊への補充として空戦に駆り出され、損耗を繰り返し補充が追いつかず、疲弊した。航空隊の戦力は、終戦まで南太平洋海戦以前の規模をついに取り戻せなかった。

 飛鷹にあっては同年6月10日、護衛の駆逐艦2隻と横須賀を出発したが、三宅島沖にて暗号解読により待ち伏せていた米潜水艦トリガーの雷撃を受け、4本が命中するも、幸運にも爆発したのは1本だけだった。しかし飛鷹は航行不能となり、救援に駆けつけた軽巡五十鈴に曳航されて横須賀へ戻った。

 11月、修理が終わり現場復帰、航空機輸送任務に就く。マニラ、シンガポールを経て12月22日にトラック着。航空機を下ろし、航空隊も一部ラバウル転用のため下ろした。27日トラック出発、サイパンを経由し翌04(S19/44)年1月2日、呉へ到着した。

 

 

 消火訓練中。ネットで検索した限り、飛鷹の写真はこれしかなかった。


 5月11日、戦艦武蔵、護衛の駆逐艦らと共に空母6隻(隼鷹、飛鷹、龍鳳、千歳、千代田、瑞鳳)が日本を出発。16日にタウイタウイで翔鶴、瑞鶴、大鳳と合流。ここに小澤機動艦隊の空母9隻が全てそろった。

 マリアナ沖海戦の勃発である。飛鷹にとっては、初陣であった。

 6月19日、飛鷹は第二航空戦隊、空母飛鷹、隼鷹、龍鳳、戦艦長門、重巡最上、他駆逐艦8隻他補助艦艇で小澤機動艦隊乙部隊を編成。空母翔鶴、瑞鶴、大鳳主体の甲部隊、千歳、千代田、瑞雲主体の丙部隊と共に第1次~6次にわたる米軍へのアウトレンジ攻撃を行った。

 その結果は大惨敗。機密文書が米軍に奪われるという海軍乙事件により作戦要綱を知っていた米軍は既に日本軍に勝る兵力を集めており、空母はおろか駆逐艦にすら対空レーダーを備え、日本軍航空隊は丸見え。しかも零戦を遥かに凌駕する艦戦F6Fヘルキャットが配備されていた。さらに、VT信管付対空弾により、効果的に迎撃。日本軍航空隊は総数で半数以上を失ったうえ、米軍へほとんど被害を与えられず大敗北だった。ここに、南太平洋海戦以降立て直せなかった空母航空隊は事実上壊滅。日本軍の空母は乗せる飛行機、まともに戦える航空隊が無くなった。

 さらに、航空機発艦中の大鳳、翔鶴が相次いで潜水艦に襲われ、数発魚雷名中。航空燃料が漏れてそれへ引火し大爆発。その日のうちに2隻とも沈んでしまう。飛鷹は距離10海里で大鳳の爆発炎上、沈没を目撃した。

 翌20日には、洋上補給で甲乙前衛、補給艦隊集結していたところを200機もの米軍大編隊に逆襲される。ここでも日本軍はいち早くレーダーで接近を察知したものの、タンカー部隊を置いて自分たちだけ退避する。これは、聯合艦隊に補給部隊を指揮命令する権限が無かったためで、最後まで海軍の深刻な問題として補給路構築を破綻せしめた。

 しかし退避したといってもたちまち追いつかれ、艦隊は迎撃機を上げる間もなく空襲を受ける。戦闘詳報によると、飛鷹は爆弾命中で炎上した隼鷹を追撃しようとした米雷撃機6機を長門が至近からの主砲斉射で4機を撃墜、2機があわてて退避したところ、その2機がコースを変えて回避運動中の飛鷹へ接近、飛鷹は1機を対空砲で撃墜したが1機の魚雷命中、右舷機械室がやられ、連動して左舷機械室も停止、航行不能となる。

 そこへ急降下爆撃の爆弾が艦橋後部へ命中、指揮所要員多数死亡のうえ、さらに魚雷が命中した。

 空襲が終わった後、消火活動中の飛鷹を長門が曳航準備していたところ、潜水艦と思わしき魚雷2本命中、前後のエレベーターが煙突の高さ以上までぶっ飛び、そのままエレベータ孔に落ちて大炎上した。長門が第4主砲からワイヤーを流して引っ張ったが、微速前進したとたんにワイヤーが切れてしまった。飛鷹は肝心な時に消火ポンプが故障して鎮火は絶望的となり、軍艦旗降下、総員退艦。1930ころ、飛鷹は左舷へ傾斜し艦首を突き上げるようにして沈没した。

 マリアナ沖海戦で日本軍は空母3隻を失い、なにより航空隊の壊滅により、空母は囮と輸送くらいにしか使えなくなる。

 生き残った空母6隻のうち、まともに動ける4隻(瑞鶴、瑞雲、千歳、千代田)はレイテへ参加し、飛ばす艦載機の無い囮部隊としてハルゼー艦隊を引き付けつつも、空母は全滅、栄光と挫折の機動部隊はここに壊滅した。

 

 有事の際は海軍が徴収することを条件とした補助金「優秀船舶建造助成施設」により、東京オリンピックを見据えて建造された豪華客船、新田丸、八幡丸、春日丸。その3隻とも、太平洋戦線の勃発によって空母に改造されたのだった。


 客船としては新田丸級だったが、短期間ながら新田丸と八幡丸は客船として就航し、最後に建造中だった春日丸がそのまま空母に改造されて、一番早く特設空母春日丸(後に空母大鷹(たいよう))になったため、空母としては大鷹級となる。それが特設空母八幡丸、後の空母雲鷹(うんよう)である。

 

 

 デジタル彩色。


 皇紀2600(昭和15/1940)年の記念すべき年、豪華客船八幡丸として竣工。シアトルへ一往復したのち、サンフランシスコ航路で活躍。翌皇01(S16/41)年、真珠湾も迫った11月22日、海軍は八幡丸を徴用。空母へ改装されることになる。翌皇02(S17/42)年5月31日改装終了。特設航空母艦八幡丸となる。

 

 

 新田丸旧客船。

 

 

 新田丸、八幡丸、春日丸三姉妹のキャンペーンポスター。

 頭文字をとってN.Y.K.ラインと呼ばれた。

 

 


 しかし、元は客船だったため船体強度と機関の関係で速度が20-22ノットと、空母としては格別に遅く、とても機動部隊として作戦行動ができるものではなかったうえ、日本軍は最後まで蒸気カタパルトを実用化できなかったため、大型化する艦載機の発艦にも支障をきたし、空母としてまともに運用できずに、ほとんどの生涯を航空機輸送任務に費やした。その点、カタパルトの運用によりこの大鷹級より小さな空母を護衛空母として集中運用し、時に大和を含めた栗田艦隊と死闘を演じた米軍と大差ができた。たとえ艦載機が20機しかいなくとも、10隻集まれば200機の航空機が襲ってくる。米軍の底力、侮るなかれ。

 同年7月、初任務として護衛の駆逐艦潮、漣を伴い、さっそく航空機輸送任務でサイパンを経てウルシー環礁へ向かう。8月31日、特設空母春日丸と共にそれぞれ軍艦・空母大鷹、雲鷹となる。しかし、その後も航空戦は行えず、ひたすら航空機輸送任務に就く。速度が20ノット程度とはいえ、輸送船としては超高速なうえに航空機を満載できる空母は輸送任務にも最適だった。大鷹級は、最前線の航空戦力の根幹を担う最重要任務を黙々とこなした。
 
 8月にガ島攻防戦が始まると、基地航空隊の航空機需要は高まる一方で、雲鷹も海軍基地へ零戦を運ぶほか、陸軍の一式戦隼も輸送するようになる。しかし、日本軍の輸送部隊は暗号解読により待ち伏せした米潜水艦により、常に狙われていた。

 翌皇03(S18/43)年も、雲鷹は大鷹、冲鷹(ちゅうよう:元新田丸)と共にひたすら航空機を輸送する。時には聯合艦隊の移動にくっついてトラックやマーシャル、ギルバート諸島などに航空機を運び続ける。その間、潜水艦にひたすら襲われ続けるも、運が良かったのか時には不発、目測誤りで艦底通過、他の艦に命中するなどして雲鷹は無事だった。

 11月、瑞鳳、雲鷹、冲鷹がろ号作戦で消耗した航空機を補充するため護衛の駆逐艦と共にトラックへ出発。11月末に到着。30日に日本へ向けて出発したが、12月4日に冲鷹が米潜水艦セイルフィッシュの雷撃で沈没した。

 12月15日、アメリカの護衛空母のように輸送船団を専用に護衛する海上護衛総司令部が設立、日本版の護衛空母として大鷹、雲鷹、海鷹(かいよう:元貨物船あるぜんちな丸)、神鷹(しんよう:元ドイツ客船シャルンホルスト)が配備された。
 
 翌皇04(S18/44)年、雲鷹はまだ聯合艦隊麾下で輸送任務を続けていた。正月明け早々、1月4日に瑞鳳、ほか護衛駆逐艦と共にトラックへ向けて出発。9日トラックへ到着。18日日本へ向けて出発。しかしサイパン沖で米潜水艦3隻に襲われる。潜水艦ハダックの魚雷が3本、雲鷹に命中。機関は無事だったが速度4ノットに低下、瑞鳳隊と別れ、雲鷹はサイパンへ逃れた。サイパンへ工作艦明石から排水ポンプと修理要員が届き、応急修理の後2月2日に日本へ向け出発。なにせ雲鷹が遅いので護衛隊も入れ代わり立ち代わりだった。重巡高雄で曳航する案も悪天候で断念、その間に米潜水艦の執拗な攻撃を受けたがすべて排除し、7日の夜になんとか東京湾へ入り横須賀へ向かった。

 

 

 横須賀へ向かう途中、伊豆諸島沖での航空写真。波浪で艦首を喪失しているという。


 8月、やっと修理の終わった雲鷹は呉へ回航、海上護衛部隊に編入。大規模輸送船団の護衛任務に就く。搭載機は九七式艦攻10機をメインに、補助で複葉機の九三式中間練習機6機であった。それらを駆使して潜水艦を監視しつつ、船団護衛を行う。しかし8月18日、ヒ71船団を護衛していた大鷹がフィリピンで米潜水艦により撃沈される。

 8月24日、ヒ73船団の護衛で日本を出発。9月5日、無事にシンガポールへ到着。9月11日、台湾へ向けてヒ74船団が出発。16日、ルソン島沖でたまたま米潜水艦2隻が海面へ不時着した米機動部隊艦載機のパイロット救出作戦を行っていた。夜になって船団旗艦である練巡香椎より敵潜発見の報を受けるも襲撃はなかった。しかし17日深夜、いきなり潜水艦バーブが襲いかかる。

 まず雲鷹の右舷やや後方を航行中の軍用タンカーあづさ丸が機関室とポンプ室に1本ずつ被雷、爆発、炎上して轟沈。雲鷹が舵を切り、回避運動へ入る。そこへ反転したバーブの艦尾発射管より発射された魚雷が接近、艦中央部と後部に1本ずつ命中した。炎上はしなかったが浸水が止まらず、艦尾沈下が激しくなり夜が明けた0730総員退艦開始。0752軍艦旗降下。そのたった3分後の0755雲鷹は沈没した。乗員と輸送要員1750名中、推定900名が戦死した。

 雲鷹戦闘詳報では、もっと海防艦を増やして潜水艦掃討部隊をつくること、輸送船の速度で進む空母は格好の獲物であるが航空機の哨戒はぜひとも必要なので基地航空隊を増やし護衛空母は廃止すること、護衛したとしても高速を活かし後方をジグザグで進むこと、空母が輸送船と同じ速度で進むのは絶対に不可、などが提言されている。

 
 

 客船を有事の際に空母化することは、既に大正時代イギリスからヒントを得ていた。軍縮条約により空母の保有制限がかけられていた日本は、他の艦種(高速タンカー、潜水母艦)の軍艦を空母化することに加え、民間の客船をいつでも空母に改装できる前提で補助金を出し、造らせている。

 古くは皇紀2589(S4/1929)年から翌年にかけて秩父丸(鎌倉丸)、浅間丸、龍田丸を建造。これらは空母化も検討されたが輸送船等になる。続いて皇98(S13/1938)から翌年にかけ、あるぜんちな丸とぶらじる丸が完成。あるぜんちな丸が空母海鷹(かいよう)となる。さらに東京オリンピックに向けて新田丸、八幡丸、春日丸が完成。これらは大鷹(たいよう)型空母となる。

 そして対米戦勃発寸前の皇01(S16/41)年1月、長崎は戦艦武蔵の横で建造中だった豪華客船、橿原丸(かしはらまる)は海軍に買収され、翌皇02(S17/42)年5月3日特設空母(まだ軍艦ではない)隼鷹(じゅんよう)として竣工する。島型艦橋と煙突が一体化した形状を日本軍で初めて採用した空母だった。煙突は外へ向けて角度が付けられた。

 

 

 艦橋と一体化した煙突形状がよく分かる。


 ただちに第四航空戦隊(龍驤、祥鳳)へ編入されたが、祥鳳は同年5月7日の珊瑚海海戦で撃沈された。訓練期間は短く、5月19日に広島湾の那沙美水道最狭部で大和とすれがった際に、大型船及び軍艦優先のため停船して進路を譲るべきところをそのまますれ違って大和に乗船していた宇垣聯合艦隊参謀長に「無謀で危険だし礼儀を知らん!(意訳)」と隼鷹艦長が叱責されたという。

 

 

 艦橋を背後から写す。対空機銃が写っている。傾いているのは、傾斜試験中のため。らしい。

 

 

 同じく、傾斜試験中。


 隼鷹(と同型の飛鷹)は客船だったため、大鷹型ほどではないにしても空母にしては鈍足で、最大で25ノットほどだった。しかし割と船体が大きく、搭載機数は二航戦の蒼龍、飛龍に匹敵し、使い勝手が良かった。

 5月末、再び2隻となった四航戦は他重巡、駆逐艦と共にアリューシャン方面作戦へ参加、ミッドウェーと同時に北方を攻略した。6月3日よりダッチハーバーを空襲したが天候不良や兵力小規模により戦果微小だった。6月5日ミッドウェーで大敗北。主力空母4隻を失う。知らせを受けた北方軍は第3次攻撃の後撤退を決意。しかし天候不良のため隼鷹所属の艦爆1機が行方不明となり、また激しい迎撃のため龍驤所属の零戦1機がアクタン島湿地帯へ不時着、後に米軍に鹵獲されるアクタン・ゼロ事件が起きた。(詳細は龍驤の項を参照されたい)

 6月下旬、日本軍は北方よりの米機動部隊襲来に備えて北方海域を警備したが、逆に展開する米潜水艦によって駆逐艦2隻沈没、2隻大破という結果となり警備どころではなく撤退した。

 7月14日、隼鷹は軍艦籍となり正式に空母となる。7月31日には同型艦の空母飛鷹(元客船出雲丸)が竣工した。飛鷹、隼鷹、龍驤で新生二航戦を編成。8月7日、米軍がガダルカナル及びフロリダ諸島へ上陸。12月の日本軍撤退まで日米の悲惨な消耗戦となるガ島攻防戦が始まる。新生一航戦は翔鶴、瑞鶴、瑞鳳で編成されたが瑞鳳が錬度不足とされ龍驤が臨時に一航戦へ加わる。8月24日、第2次ソロモン海海戦で龍驤沈没。

 10月、戦艦金剛と榛名によるヘンダーソン基地夜間艦砲射撃で飛行場が使えない間に、日本はガ島陸上勢力で総攻撃をかける。それへ合わせ海軍は残存空母5隻、一航戦(翔鶴、瑞鶴、瑞鳳)二航戦(隼鷹、飛鷹)を集め、米機動部隊に航空決戦を挑む。南太平洋海戦である。

 ところが10月20日移動中に飛鷹の機関室で火災が発生、しかも消火ポンプ故障により火災が収まらず落伍、トラックへ戻る。戦う前から空母1隻が脱落した。空母は前進部隊(二航戦)と本隊(一航戦)に分かれ、他艦船と共に索敵を行いつつ敵を警戒。10月26日、暁闇にまぎれ両軍の索敵機が多数飛び立ち、ほぼ同時刻に互いを発見する。日本軍の攻撃隊はレーダー迎撃で多大な犠牲を払いつつも米空母2隻(ホーネット、エンタープライズ)へ損害を与えた。一方日本側も米攻撃機により瑞鳳が小破ながら甲板後部をやられ発着艦不能となり早々に離脱、瑞鶴は無傷だったが翔鶴が直撃弾多数で大破、大炎上する。

 第1次攻撃隊を収容した隼鷹は3隻とは別に前進部隊にいたが本隊が瑞鳳、翔鶴落伍のため瑞鶴と合流するべく護衛の駆逐艦黒潮、早潮を引き連れて移動。飛行隊の被害甚大であったが、敵空母は2隻とも炎上中で好機と残存艦と残存機をもって追撃開始。同日1113、隼鷹より第2次攻撃隊発進。1115瑞鶴からも第3次攻撃隊が発進したが、損耗激しく零戦5、艦爆2、艦攻6(爆弾装備)という少なさだった。

 1313隼鷹隊が炎上するホーネットを発見、硝煙で煙る中、攻撃開始。ホーネットは重巡ノーザンプトンに曳航されていたが、索を切ってノーザンプトンは脱出、魚雷を全て回避した。しかし、索を切られたホーネットに魚雷1本命中。傾斜する。数十分後には瑞鶴隊がホーネットを発見、攻撃開始。直撃弾1、至近弾多数でさらに傾斜。ホーネット艦長は総員退艦を命じた。1335、隼鷹は攻撃の手を緩めず、隼鷹隊第3次攻撃を敢行。漂流中のホーネット発見後エンタープライズを探したが発見できなかったのでそのままホーネットを爆撃した。直撃弾1によりさらに炎上。攻撃機が引き上げたのち、米軍はホーネットを雷撃処分しようとしたが、2隻の駆逐艦より魚雷を計9本命中させたもののホーネットはびくともしなかった。そのうち日本軍索敵機に見つかり、駆逐艦は急いで離脱。代わりにやってきた重巡愛宕、駆逐艦秋雲、巻雲ら日本軍水上部隊がホーネットを砲雷撃で沈めた。既に翌日の深夜、0135であった。中破したエンタープライズは撤退した。

 この海戦で、なんと一時的に太平洋に展開する米空母がゼロとなった。が、日本も無地だった瑞鶴が飛行隊損耗激しく内地へ帰還し、トラックに残った空母は隼鷹1隻だけだった。

 11月、日本軍は戦艦比叡、霧島を中核とする水上打撃部隊で第2次ヘンダーソン飛行場夜間射撃を敢行するべく水上部隊を前進させる。11月12日より第3次ソロモン海海戦が発生。詳細は比叡、霧島の項を参照願いたいが、米軍も最新鋭戦艦サウスダコタ、ワシントンを繰り出し、日米の戦艦、重巡、軽巡、駆逐艦による二夜にわたる夜戦水上戦という凄惨な戦いが起き、両軍の艦艇が狭い海域に多数沈没した。

 隼鷹は12日の夜戦で傷ついた比叡と護衛の駆逐艦隊を米軍基地航空隊の空襲より掩護するため、13日に零戦を派遣したが南太平洋海戦での損耗が激しく、飛ばせたのは数機であった。護衛のF4Fワイルドキャットを伴って次々に飛来する米基地攻撃隊を防ぎきれるはずもなく、比叡は空襲を受け航行不能となり、雷撃処分される。13日の夜戦では霧島も米戦艦との砲戦で撃沈され、第2次ヘンダーソン飛行場砲撃作戦は中止、日本軍補給部隊も空襲により大打撃を受け第3次ソロモン海海戦は敗北、ガ島をめぐる決定的な戦いで負けたことにより、ガ島奪還は絶望的となる。隼鷹は18日にトラックへ戻る。
 
 皇03(S18/43)年、機動部隊は航空機等輸送を行いつつ、トラックを出撃しては会敵せずを繰り返し、トラック基地の燃料が枯渇する。瑞鳳を含め隼鷹も輸送作戦に従事する。空母は、専用船ではないが輸送艦並みの輸送力を持ちつつ速度が輸送艦よりはるかに速いので輸送任務に向いていた。
 
 11月5日、暗号解読により米潜水艦の待ち伏せを受けた艦隊は豊後水道付近で潜水艦ハリパッドの奇襲を受け、隼鷹艦尾に1本命中、機関まで浸水し傾斜、直進不能となる。隼鷹は翌日重巡利根に曳航され、修理のため呉へ入る。この年、海軍に大きな戦いは無いものの、度重なる基地航空隊の航空戦へ空母の飛行隊が派遣されて消耗し、機動部隊の戦力は確実に落ちて回復しなかった。
 
 皇04(S19/44)年、2月に隼鷹は戦線復帰。既に機動部隊司令官は南雲中将より小澤中将へ変わっていた。5月、訓練空母となっていた鳳翔や輸送専用となっていた大鷹級を除く機動部隊全空母9隻がタウイタウイに集結。3隻ずつ護衛艦を従え甲(大鳳、翔鶴、瑞鶴)乙(飛鷹、隼鷹、龍鳳)丙(千歳、千代田、瑞鳳)部隊に分かれた。6月19日、マリアナ沖海戦が勃発。

 日本軍はミッドウェーの反省で水上部隊を空母群の護衛として前衛に出し、後方の空母群よりアウトレンジ攻撃を繰り出したが、パラオ空襲の際に重要作戦要綱が米軍の手に渡るという海軍乙事件が発生しており、米軍は日本の水上部隊を無視、同じくアウトレンジ戦法で直接日本の空母部隊を襲撃したうえ、日本軍の駆逐艦が少ないことをいいことに潜水艦を海域にたっぷりと潜ませた。また護衛駆逐艦を日本軍の3倍配置し、日本軍の潜水艦狩りを行った。

 既に米軍にはレーダーのほか、VT信管付の対空弾が配備され、護衛の戦闘機も零戦の倍の馬力のエンジンを積み防弾も機銃も速度も遥かに零戦を凌駕したF6Fヘルキャットが日本軍の攻撃隊を待ち受けていた。第1次~第6次まで繰り出された日本軍の攻撃隊は、敵の激しい迎撃と錬度不足により、総数で半数以下を失う大打撃を被った。特に最新鋭の彗星爆撃機と天山攻撃機はほとんど全滅した。
 
 また甲部隊の大鳳と翔鶴が潜水艦の雷撃で沈没、翌20日には給油のため集結していた艦隊へ200機もの米軍機が襲いかかった。艦隊はあわてて散会したが、命令の無いタンカー部隊が取り残された。この襲撃で飛鷹が撃沈され、隼鷹も艦橋と一体化した煙突に被弾、その破片や至近弾6発の影響で甲板が使用不可となり上空退避させた飛行隊を収容できなくなる。艦尾の空き部屋に飛行科が「帳簿外の」石油缶を積みこんでおり、それへ引火し火災が発生するハプニングも起きた。

 この際、被弾直後にTBFアベンジャー雷撃機6が隼鷹めがけて魚雷発射コースに入ったが、それを認めた長門がなんと攻撃隊めがけて主砲発射、衝撃で6機中4機を撃ち落とし、2機が命からがら退避した。

 「マリアナの七面鳥撃ち」と米軍に揶揄された大敗北で、日本機動部隊は飛行隊が事実上壊滅。飛ばす飛行機の無い空母達が惨憺たる様相を呈することになる。

 

 

 マリアナで破壊された煙突が分かる。死者53名を数えた。

 

 

 同じく、マリアナより撤退中の写真。煙突が無い。


 7月、隼鷹は煙突等の修理を行い、同年10月のレイテ沖海戦には参加しなかった。その代わり、駆逐艦へ給油するため八丈島へ向かった。10月25日、エンガノ岬沖海戦で囮任務の空母4隻(瑞鶴、瑞鳳、千歳、千代田)喪失。他、戦艦武蔵を筆頭に艦船多数喪失で、レイテは大敗北。聯合艦隊は壊滅した。

 以降、生き残った空母は飛行隊が存在しないまま、ひたすら輸送作戦へ従事する。

 11月3日、護衛の軽巡木曽、駆逐艦夕月、卯月、秋風と輸送作戦中の隼鷹は台湾からブルネイに向かう途中潜水艦ピンタドに雷撃されるも、隼鷹ではなく秋風に命中、秋風は轟沈、総員戦死する。11月6日ブルネイ到着。レイテ後にブルネイへ入っていた満身創痍の戦艦大和、長門、金剛、榛名ら第一遊撃部隊と合流。輸送していた大和の46センチ砲弾を補給する。8日未明、第一遊撃部隊は日本へ向けて出発。その途中、台湾沖で金剛が米潜水艦に撃沈される。隼鷹部隊はその後を追っていたがマニラへ寄港。木曽がマニラへ残り、西村艦隊の生き残り駆逐艦時雨と合流して12日にマニラ出発。15日潜水艦バーブの攻撃を受けたが艦隊無事。16日本土到着。部隊は解散し各母港へ向かった。

 11月下旬、再びマニラへ向けて出発。護衛は駆逐艦涼月、冬月、槙だった。緊急物資上陸後、武蔵の生存者200名が日本へ戻るため隼鷹に乗りこんだ。シンガポールで合流した榛名と共に台湾へ寄った後、12月6日に台湾出発。12月9日、佐世保へあと少しというところの長崎県沖で嵐の中、米潜水艦3隻(シーデビル、レッドフィッシュ、プライス)に襲われる。魚雷3本が隼鷹へ迫る中、槙が被害最小限を狙いながら魚雷へ突進、1本を艦首にうけた。しかし2本が隼鷹の艦首と右舷中央部に命中。艦首は10mほども艦底亡失し、右舷側の罐室が満水するほど浸水、傾斜した。航行は可能だったが、涼月はそのまま隼鷹が転覆するのではないかと思った。また武蔵乗員は「また沈没するのか」と慌てふためいた。隼鷹はなんとか佐世保へ帰投。槙も艦首を失ったものの沈没を免れ、長崎へ帰投した。

 

 

 魚雷を受けた痕。


 12月、船体修理は終わったが、機関室は直されなかった。また、既に動かす燃料も無かった。

 

 

 皇05(S20/45)年1月の様子。

 

 

 デジタル彩色。

 

 

 同じく3月。手前に潜水艦(波201型)が写っている。


 翌皇05(S20/45)年4月、大和他沖縄特攻。同じく、修理した隼鷹も特攻作戦に使う計画もあったが、機関を修理されることなく隼鷹は係留され続けた。マストから甲板へ四方にワイヤーを張り、マットや樹木でカモフラージュした。それが功を奏し、終戦まで一度も空襲されなかった。

 

 

 終戦後の隼鷹。

 

 

 

 

 米軍が撮影。

 

 

 同じく米軍撮影。

 

 

 

 終戦後、隼鷹は鳳翔、葛城、龍鳳と共に生き残った数少ない空母だったが、片軸推進のままで外洋航海できず、引揚船には使われなかった。翌年、そのまま佐世保で解体され、昭和22(1947)年8月1日、解体終了した。

 

 

 解体のためにドックへ入る隼鷹。

 

 

 

 

 

 甲板が解体された様子。

 

 

 

 瑞鳳と同じく、軍縮条約による空母建造トン数制限枠を超えて、いつでも空母に改装できる前提で建造された高速タンカー剣崎(つるぎざき)級の1番艦剣崎。それを空母化したものが祥鳳である。

 

 

 デジタル彩色。


 瑞鳳の前身である高速タンカー高崎と同じく、進水時にはタンカーだったが艤装中に洋上で潜水艦へ補給する潜水母艦に変更され、両船ともしばらく未完成のまま横須賀に係留されていたが、皇紀2599(S14/1939)年1月にまず潜水母艦剣崎として竣工、軍務へ就く。なお、空母化は未完成だった瑞鳳が先に行ってしまったので、空母としての竣工は瑞鳳より遅い。最新式のディーゼルエンジンを装備した日本軍初の船だったそうだが、故障が頻発してせっかくの最高速が出ず問題となった。年内から翌年にかけて同じく潜水母艦大鯨(たいげい)と共に主に南方で潜水艦部隊の補佐を行い、錬度向上、潜水艦乗員の休息に大いに貢献した。特に剣崎は格納庫も広く中で武道大会や体育大会を行い、部屋も広く快適で「剣崎ホテル」と呼ばれ喜ばれた。

 

 

 潜水母艦剣崎。

 

 


 だが、建造から1年と10か月ほどで、剣崎は空母へ改装されることになった。皇00(S15/40)年11月、空母への改装工事着手。不調続きだったディーゼルエンジンをまるごと艦本式蒸気タービンへ取り替えたが、この工事に1年近くかかり、正式に改装が終わり空母祥鳳として竣工したのは皇02(S17/42)年の1月の末だった。

 

 


 既に前年の12月6日に真珠湾が発生、対米戦が勃発しており、祥鳳は内地で訓練にいそしんだ。余談だが、空母鳳翔との混同、翔鳳との誤記により郵便物の誤配に悩まされたという。

 初任務はラバウルへの零戦運搬だった。2月に再びラバウル方面へ出撃、米空母とニアミスしたが海戦には至らなかった。

 

 


 4月、艦戦を九六式から零戦へ更新するため横須賀へ入る。4月18日、空母から陸爆であるB-25を16機も飛ばして東京や名古屋などを奇襲空爆した「ドーリットル空襲」が勃発。被害軽微だったがいきなりの帝都空襲に日本軍の衝撃は大きく、日本や台湾にいる海軍艦艇が軒並み出張って米機動艦隊を探したが会敵しなかった。

 

 


 5月、祥鳳は米豪分断作戦であるポートモレスビー攻略部隊の直掩としてMO攻略部隊に所属。アメリカとしても反抗作戦である「蛙飛び作戦」のための「ジャンプ地」として、ポートモレスビーは重要だった。しかも日本軍の暗号を解読し「最新鋭空母」祥鳳(名前を龍鶴と誤認)の存在を掴んでいた。複雑な日本艦隊の動きを把握して「各個撃破」できる態勢を整えたものの、派遣できる空母はヨークタウンとレキシントンのみだった。

 一方日本軍も前衛部隊随伴空母が最新とはいえ小型の祥鳳1隻では心もとなく、南雲機動部隊より当初は加賀、後に二航戦(蒼龍、飛龍)の派遣を要請。海軍は諸事情を鑑み、五航戦(翔鶴、瑞鶴)の派遣を決定する。これは一航戦、二航戦に比べると錬度未熟だった五航戦の錬度向上の意味もあった。

 トラックでの作戦会議で五航戦は祥鳳を麾下に組み入れ空母3隻の集中運用を提案したが、前衛部隊より輸送艦隊の護衛がいなくなると申し込まれ却下。それならば、高速を活かし遊撃行動をとる旨提案したが「輸送部隊を安心させるため」に常に輸送船団の視界内にいることが求められた。輸送船団の速度は10ノット以下であった。

 これには第六戦隊司令官もさすがに不安を覚えたという。その不安は的中する。

 日本軍攻略部隊は5月3日にフロリダ諸島(ツラギ島他)を占領。直ちに基地建設に着手。翌日にはヨークタウンがツラギを空襲。日米とも哨戒機が空母を互いに発見しており、海戦の準備を行う。

 5月7日早朝、米偵察機が日本軍の「空母2、重巡4」を発見、直ちに攻撃部隊が向かったが軽巡2(天龍、龍田)駆逐艦2の誤認だった。米軍は攻撃しなかったが、その場にとどまった。その後、哨戒に出ていたB-17重爆が近くで「小型空母1」を発見。空中待機していた攻撃隊はそちらへ向かう。

 同日、後方の翔鶴、瑞鶴攻撃隊も米駆逐艦1とタンカー1を空母と誤認、一斉に攻撃機を飛ばし、両船を沈めたのちも米空母を探して数時間を無駄にした。

 一方祥鳳も重巡偵察機が米空母を発見しており攻撃隊の発進準備にかかったが、艦隊直掩戦闘機の収容に時間がかかり、攻撃隊発進前に米軍が襲来する。祥鳳を中心に重巡4(青葉、衣笠、古鷹、加古)駆逐艦1(漣)が輪形陣をとり、対空戦闘用意した。

 0900ころ米空母2隻より飛び立った攻撃機約90が襲来。直掩零戦3、九六式艦戦3では如何ともしがたく、祥鳳は集中攻撃を受ける。

 

 

 米軍撮影。

 

 

 凄まじい集中攻撃。

 

 

 

 祥鳳は短時間で直撃弾13、魚雷命中7で大火災が発生、大型空母や戦艦でも助からないほどの攻撃を一身に受けた。0931には総員退艦命令が出たが、0935には艦首から沈んでしまった。まさに「あっ」という間で、多くの乗員が逃げる間もなく持ち場についたまま艦と共に沈み戦死した。
 
 米軍による、日本軍空母撃沈第1号であった。日本にとっては、空母喪失第1号である。

 米軍も日本軍の空母を本格的に攻撃するのが初めてで、加減が分からなかったようである。小型空母1隻に過剰な攻撃をしている間があったら、日本軍の巡洋艦や補給部隊を叩くべきであったと報告がされている。結果として祥鳳は補給部隊を間接的に護った。

 米軍の追撃を恐れて残存部隊は浮遊物をできるだけ投げ入れていったん海域を離れ、3時間後にまた戻ってきて祥鳳生存者を救出した。

 連絡を受けた後方の五航戦は攻撃隊を呼び戻し、米空母に対し薄暮攻撃を仕掛けたがレーダーにより迎撃された。翌日、日米の機動艦隊が純粋に航空戦だけの史上初の海戦を行った。日本側は翔鶴大破、瑞鶴は無傷も飛行隊大損失。米側はレキシントン沈没、ヨークタウン中破であった。

 この珊瑚海海戦で日本軍はポートモレスビー方面から撤退し、米豪遮断はかなわず作戦失敗した。五航戦は損耗激しくミッドウェーに参加できず、日本軍は一航戦(赤城、加賀)と二航戦(蒼龍、飛龍)を一気に失った。

 祥鳳は、空母になってからわずか3か月ほどで沈没した。

 

 翔鶴型空母2番艦、瑞鶴は大和などと同じくマル3計画によって誕生した大型空母であり、艦種球型形状(バルバス・バウ)や機関など、設計も大和に通じるものがあった。もちろん改装ではなく、日本軍初の改装ではない最初から空母設計の本格的大型空母であった。

 機関に関しては、罐数こそ大和型12基に翔鶴型8基と少なかったが、ボイラー出力馬力はむしろ大和を超え、最高速度は34ノットに及んだ。艦体のわりに滑走路がちょっと短く狭いという評もあったが、赤城や加賀が戦艦の艦体を無理やり空母にしたため滑走路がやたらと広いだけであり、主力空母として世界に誇る大きさと能力を備えていた。甲板装甲こそなかったが、舷側は重巡の砲撃や450kg魚雷の直撃に耐えられるよう設計され、機関部も装甲に鎧われまさに日本空母の代表に相応しい空母であった。

 また、通常2番艦は1番艦の公試や実戦での経験を踏まえ、機関砲の数や位置、その他細かい装備の有無など多少の改良が施され、微妙に外観の異なる場合が多いが、瑞鶴は竣工を予定より3か月も早め突貫工事で翔鶴とあまり時期を違わず竣工し、見た目がほとんど同じだった。当の飛行隊搭乗員ですら、空の上から見分けがつかず誤着艦しかける事例もあったという。

 

 

 竣工直後の瑞鶴。


 皇紀2601(昭和16/1941)年9月25日、神戸の川崎造船所で竣工。1番艦からわずか2か月近く後であった。おかげで、結果として瑞鶴は真珠湾に間に合った。翔鶴と共に他護衛駆逐艦を従え第五航空戦隊(五航戦)を編成。12月6日の真珠湾では主に地上攻撃を担当した。理由は錬度不足であったが、この時期の他国空母と比べてもけして飛行隊の錬度が劣っていたわけではなくむしろ飛行時間では教官クラスだった。一航戦の錬度が凄すぎた。

 

 

 真珠湾にて発艦する零戦。

 

 

 真珠湾へ向かう南雲機動部隊。瑞鶴より後方を見る。赤城(前)と加賀(後ろ)。 


 真珠湾奇襲はありえないほどの大成功だったが、米空母を取り逃がし、沈めた戦艦はWW1時代の旧式で、なおかつ基地破壊も油槽所や工場を逃し結果として不完全だった。真珠湾の帰りに分隊しウェーク島攻撃を補佐する案もあったが、それは二航戦(蒼龍、飛龍他)が下命した。

 翌皇02(S17/42)年1月5日呉を出港し、ラバウル攻略戦を補佐し、聯合国軍陸上基地を空襲する。

 3月には再び一航戦、二航戦と合流。南雲機動部隊としてインド洋方面攻略戦へ参加。4月上旬、セイロン島沖海戦。イギリス東洋艦隊の撃破に貢献。4月14日に艦隊と別れ台湾にいたころ米軍の帝都奇襲「ドーリットル空襲」に接し、米艦隊を探して急ぎ硫黄島方面へ出撃するも会敵しなかった。この時、近隣で動ける日本軍空母は全て出て米奇襲艦隊を探したが、どの艦も発見できなかった。

 5月、ポートモレスビー方面攻略部隊に米機動部隊の圧力が加わり、展開していた中型空母祥鳳1隻では護衛しきれなくなり、南雲機動部隊へ増援要請、攻略方面軍が二航戦派遣を希望するも五航戦派遣が決定する。これは五航戦の錬度向上の意味もあったという。5月上旬にはポートモレスビーへ展開。MO機動部隊となる。当初は祥鳳も五航戦麾下にする案が提案されたが、先行する攻略部隊の護衛空母がいなくなるため方面軍により却下された。それが裏目に出る。珊瑚海海戦である。

 

 

 珊瑚海海戦の様子。


 5月7日、米駆逐艦に護衛されたタンカーを空母と誤認、翔鶴と瑞鶴より攻撃隊がいっせいに飛び立つ。タンカーと駆逐艦を沈めたのちも「いるはずの米機動部隊」を探し回って何時間も無駄にしてしまった。しかもその隙に先行中のMO攻略本隊が米空母レキシントンとヨークタウンの攻撃を受け、奮戦空しく多勢に無勢、祥鳳が撃沈される。日本軍空母喪失第1号であった。

 祥鳳を失った重巡4と駆逐艦の主力と合流し、攻撃隊を収容した五航戦は薄暮攻撃を敢行したがレーダーにより把握され迎撃されて失敗。翌5月8日、いよいよ互いの主力空母同士が狭い海域で互いの艦載機のみによる世界初の航空攻撃戦を行う。

 位置は互いに知れており、早朝より双方攻撃隊発艦、途中で互いにすれ違うも無視して攻撃を行った。翔鶴隊はレキシントンへ殺到、直撃弾2魚雷命中2を与えて航行不能せしめた。レキシントンは救助活動中に気化ガソリンが大爆発し大炎上、総員撤退後、自軍により雷撃処分された。瑞鶴隊はヨークタウンを襲い直撃弾を与えるも魚雷命中が無く至近弾による浸水で燃料が漏れ、ヨークタウンは撤退を余儀なくされる。しばらく戦線復帰不可能と思われたが、米軍は3日で応急修理を終え、ミッドウェーに参加させるという底力を見せた。

 

 

 直撃弾2、魚雷2をくらった後、気化ガソリンが大爆発するレキシントン。

 

 

 火災は納まらず、総員退艦の後雷撃処分。


 いっぽう日本軍も米攻撃隊に襲われたが、瑞鶴はちょうど近くにスコールがありその下へ隠れることに成功。翔鶴と大きく離れてしまった。護衛の重巡や駆逐艦はどちらにつけばいいのか命令が無く、右往左往するという始末。米空母2隻の攻撃隊は翔鶴へ殺到した。翔鶴は命中弾3を受け、ガソリン庫を突き破って大爆発、水平線の向こうから黒煙と火柱が上がり、瑞鶴では翔鶴がやられたと思ったという。

 しかしミッドウェーと異なり格納庫がカラだったため、それ以上の爆発が無く機関も無事、翔鶴は燃えながらも大和を超える馬力による最大出力を発揮して戦場を離脱する。しかし第2波攻撃も翔鶴を襲い、爆弾1発命中するも鎮火に成功し助かった。MO攻略は中止となり、日本軍は海域より撤退した。

 2隻は日本へ戻り、翔鶴は修理に3か月、瑞鶴は無傷だったが飛行隊喪失多数で実戦復帰は繰り延べとなって、ミッドウェー攻略への参加が見送られた。

 これが運命の分かれ道、6月5日、南雲機動部隊はミッドウェーで大敗、主力空母4隻が一気に沈んだ。

 衝撃は大きく、この時点で大型主力空母は五航戦の2隻だけ、あとは改装空母と条約にひっかかった小型空母、鳳翔のみだった。日本軍は急ぎ機動艦隊の立て直しに入る。ミッドウェーの勝利により、いよいよ米軍が本格的に反攻を開始、フィリピン奪還を目指し、まずガダルカナルへ上陸する。

 

 

 デジタル彩色。


 瑞鳳がまだ出渠整備中で、急ぎ新生二航戦(飛鷹、隼鷹、龍驤)より龍驤を引っこ抜いて新生一航戦(翔鶴、瑞鶴、瑞鳳)へ合流させ、臨時一航戦とし、8月より始まったガ島攻防戦へ投入、第2次ソロモン海海戦が始まる。

 第1次ソロモン海海戦で日本軍は勝利したが、その後うまい手を打てずいたずらに時がすぎ、米軍は日本軍が放棄したヘンダーソン飛行場を完成させて運用を始めた。この基地より飛び立つ米軍の空襲で日本軍の補給船団がいいように沈められ、ガ島に取り残された日本軍は援軍も補給も無く「餓島」という状況で地獄の戦闘を強いられた。

 陸軍は海軍へ基地の沈黙と補給部隊の援護、米艦隊の撃滅を矢のように催促。海軍も受けざるを得ず、ここに日米の半年にもおよぶ悲惨な消耗戦が始まった。日本軍はこの小さな島の攻防戦で、陸軍も海軍も回復不能のダメージを受ける。

 ここで龍驤とその護衛を囮とし、その間に翔鶴、瑞鶴が米軌道艦隊もしくはヘンダーソン基地を叩くという、後世からするとかなり無理のある作戦に出る。結果は大空振り。8月24日の第二次ソロモン海海戦において龍驤は見事に米艦載機を引き付けて沈没したが、翔鶴、瑞鶴の航空隊は第1次攻撃は空母エンタープライズ、サラトガに軽微な損害を与えたのみ、第2次攻撃隊は米空母を発見できなかった。米軍は基地航空隊がガ島輸送船団を撃滅し輸送を阻止、勝利した。

 

 


 10月25日、延び延びになっていたガ島総攻撃がようやく開始されるに伴い、機動艦隊も南下を始める。日米ともあらん限りの空母を備え、珊瑚海の再現、南太平洋海戦が勃発。日本軍は空母5隻をそろえたが飛鷹が機関故障で戦う前に離脱。翔鶴、瑞鶴、瑞鳳、隼鷹の4隻他高速戦艦4を含む護衛隊。対する米軍は空母ホーネット、エンタープライズの2隻他護衛部隊という陣容だった。

 日米とも互いに狭い海域で互いを視認せず、互いの航空戦力のみで海戦が行われた。早朝より索敵機が互いを発見、攻撃隊が発進する。上空で日米の攻撃隊がすれ違って無視しあい、互いの空母を攻撃しに向かったのである。

 日本軍攻撃隊は0655エンタープライズがスコール下にあったためホーネットへ殺到、直撃弾3、至近弾1を与えた。さらに魚雷も1発命中させ機関停止、航行不能せしめたものの、レーダーを駆使した効果的な迎撃により大損害を受けた。

 

 

 九九艦爆の攻撃を受けるホーネット。

 

 第2次攻撃隊が0815ころエンタープライズ及び漂流中のホーネットを発見、無傷のエンタープライズへ攻撃開始する。直撃弾2を与え、火のついたガソリンが流れ出し大火災発生せしめる。しかしここから米空母の頑丈さが発揮され、なかなか沈まない。戦艦サウスダコタも小破させた。結局ホーネットは漂流中に1530ころ隼鷹の第3次攻撃で直撃弾4をくらい傾斜するも、それでも沈まなかった。夜になり米軍の自沈攻撃でも沈まず、米軍が撤退したのちにホーネットを発見した日本軍の水上追撃部隊の攻撃でもなかなか沈まなかったが、魚雷を何発もくらい翌0135ようやく沈んだ。エンタープライズは撤退した。
 

 

 エンタープライズは至近弾により燃料が漏れ撤退。


 一方日本軍にあっては、既に0540索敵中のドーントレス2機が瑞鳳を発見、警戒の零戦にも気づかれていないのを良いことにいきなり急降下を仕掛け、甲板後方に直撃弾1発を命中させた。火災が発生し、大事には至らなかったが発着艦不能となり早々に瑞鳳離脱。

 瑞鶴はこの時、発艦のため風上へ向かって全速力で突き進み、翔鶴から20kmも離れてしまった。そのため、結果的にまたも翔鶴に米艦載機部隊の攻撃が集中する。翔鶴にレーダーが装備されておりミッドウェーよりは効果的な迎撃ができたが、翔鶴は再び直撃弾をくらって大火災。撤退する。瑞鶴は無傷だった。それぞれ「被害担当艦」「幸運艦」などと呼ばれた。

 なにより、レーダーによる米軍の迎撃が凄まじく、瑞鶴も航空隊の損耗が著しかった。またこの後に陸上基地への派遣によるさらなる損耗とマリアナでの壊滅的被害によって、日本軍はここで失った航空隊の損害をけっきょく最後まで回復できなかった。

 その後、なんと太平洋に展開する米空母は一時的にゼロとなり、日本軍は隼鷹1隻と基地航空隊で水上部隊を援護しつつ、戦艦比叡、霧島による第2回ヘンダーソン基地夜間艦砲射撃を実施。しかし米軍も大和型に匹敵する最新鋭戦艦を派遣し、11月12-15日ガチ夜戦タコ殴り海戦である第3次ソロモン海海戦が発生した。この一連の海戦で比叡と霧島ほか駆逐艦、重巡多数が沈み、米軍も軽巡、駆逐艦が多数沈んだため、海域は「鉄底海峡」と呼ばれた。

 11月、機動部隊司令が南雲中将より小澤中将へ交代し、真珠湾以来の栄光と挫折の南雲機動部隊は、小澤艦隊となる。

 12月、消耗した航空隊の再編を行い、最新鋭攻撃機天山の発着試験も行った。12月12日、物資輸送任務の空母龍鳳が雷撃を受けて中破、呉へ引き返してきたため、代わりに瑞鶴が龍鳳が輸送予定だった物資を乗せて31日の大みそかにトラックへ向けて出発した。翌皇03(S18/43)年1月7日、戦艦陸奥他の艦艇と共にトラックを発ち、14日呉へ帰還。18日には慌ただしく再び陸奥他軽巡、駆逐艦らとトラックへ向けて出発。トラックでは陸上基地へ航空隊を派遣する。立て続けに起こる航空戦で損耗率がうなぎ上りに上がり、せっかく立て直した航空隊がまた使えなくなる。5月、再び呉へ戻り、修理を終えた翔鶴と合流する。しかし、両艦とも航空隊は錬度著しく低く、上層部は作戦に不安を覚えたという。

 このころ、日本の石油備蓄は既に枯渇してきており、聯合艦隊が動くたびに燃料は減る一方であった。にも関わらず、5月から10月にかけて北方や南洋諸島へ出撃しては会敵せずを繰り返し、いよいよ枯渇度合いが酷くなってきた。特にトラック泊地の備蓄燃料は底をつき作戦の遂行に支障をきたし始めた。タンカーのほか、空母にすらドラム缶を積んで燃料輸送した。

 皇04(S19/04)年、機動部隊は訓練を開始。下がりに下がって回復せぬ錬度を少しでも上げようと努力する。3月下旬のパラオ空襲で日本軍機密文書が米軍の手に渡る「海軍乙事件」が発生しており、アメリカ軍は日本軍の大規模航空撃滅戦要綱を既に把握していた。

 6月19日、海軍は空母9隻をそろえ、他に護衛の戦艦5、重巡11、軽巡艦2、駆逐艦20という大陣容でマリアナ、パラオ沖で米軍との決戦に挑んだが、対する米軍は空母15、戦艦7、重巡8、軽巡12、駆逐艦67という日本軍に倍する超大陣容であった。しかも、日本軍はほとんど全員をそろえたが米軍は太平洋方面軍に過ぎない。特に駆逐艦の差は歴然で、日本軍は米潜水艦に主力空母2隻を沈められ、逆に日本軍潜水艦部隊は被害甚大であった。

 19日から20日にかけ、日本軍は空母を3隻ずつ3部隊に分け、第1次から第6次まで随時発艦、米軍へアウトレンジ攻撃を行ったものの、結果は惨憺たるものであった。なにより機密情報漏洩に加え、米軍の優れたレーダー網による攻撃隊の事前把握、最新の対空兵器(VT信管付対空弾)、零戦を凌駕する戦闘機F6Fヘルキャットによる迎撃と、日本軍の攻撃隊は第1次攻撃隊で2/3以上、第2次攻撃隊は3/4以上を失い、総数で半数以上を失うという壊滅的被害を受けた。特に最新鋭の彗星艦爆と天山艦攻は搭乗員の練度不足もあり、ほぼ全滅した。

 いっぽう、最新鋭の装甲空母大鳳と翔鶴が19日に敵航空機ではなく潜水艦の雷撃によって撃沈され、20日には給油で艦隊が集結したところを100機近くの米軍機に襲われた。空母飛鷹が魚雷を受けて沈没。タンカーも2隻やられた。瑞鶴は直撃弾1、至近弾6を受けて小破、火災が発生した。他、隼鷹が中破、龍鳳、千代田が小破。戦艦榛名と重巡麻耶なども小破した。潜水艦は21隻中8隻が撃破された。航空機の損害は基地航空隊と合わせて両日で470機を超えた。

 

 

 マリアナにて空襲を回避する。


 一方米軍は空母2、戦艦2、重巡1が小破。航空機は40機ほどが日本軍により撃墜、90機ほどが夜間攻撃による不時着失敗などの事故で喪失だった。

 日本軍は「マリアナの七面鳥撃ち」などと米軍に揶揄されるほどの大惨敗による飛行隊壊滅により機動部隊として作戦遂行不可能となり、マリアナ方面は制空権、制海権とも米軍の手に落ちた。

 7月、呉へ入り、ガソリン庫の強化、艦内不燃対策、迷彩塗装など細かな改修を受ける。瑞鶴は瑞鳳、千歳、千代田の4隻で三航戦を編成。一航戦は最新鋭空母、雲龍と天城で再編された。9月には戦意高揚映画「雷撃隊出動」の撮影に協力している。

 

 

 映画でのワンシーン。


 10月、いよいよフィリピンへ迫った米軍を逆に撃滅すべく捷号作戦発動。一連のレイテ沖海戦が勃発する。いまもって史上最大の海戦と呼ばれ、日米とも艦隊をフィリピンへ結集させた。

 三航戦は小澤艦隊として参戦するが、航空隊がマリアナで壊滅的被害を被っており、この短期間で回復できるはずもなく飛ぶ飛行機のほとんどいない機動艦隊であった。とうぜん、任務は敵機動部隊を引き付ける囮だった。

 小澤艦隊が米機動部隊を引き付け、その間に戦艦大和、武蔵を主力とする栗田艦隊がレイテ島北部よりシブヤン海を抜けてレイテ湾へ侵入、同時に戦艦扶桑、山城を主力とする西村艦隊、重巡那智、足柄を主力とする志摩艦隊が合流し遊撃部隊としてスリガオ海峡を抜けてレイテ湾へ突入、合わせてレイテ湾へ集結した米軍の大輸送部隊及び水上部隊を撃滅するという、空前絶後の大作戦であった。

 その主力及び遊撃の水上部隊がどうなったかは、過去記事の戦艦を参照いただきたい。

 小澤機動艦隊は空母4(瑞鶴、瑞鳳、千歳、千代田)戦艦2(伊勢、日向)軽巡3(大淀、五十鈴、多摩)駆逐艦6(秋月、初月、霜月、若月、桑、槙)という陣容で10月20日、レイテ島北部へ接近、航空隊は錬度不足により陸上基地へ避難させられる機もいた。24日1130、4空母から出撃したのは、護衛の零戦を含めたったの32機であった。戦果はなく、撃墜や陸上基地へ避難により戻ったのはたったの3機であった。既に同日のシブヤン海の戦いで栗田艦隊は戦艦武蔵を失い、被害大きく反転して陣形を立て直しにはいっており、ハルゼー提督はこの小規模攻撃を受けた小澤艦隊こそ日本軍の主力と判断、北上を開始した。

 従って、囮としての小澤艦隊は、この時点で見事にその役割を果たすこととなった。

 24日の夜(25日未明)には栗田艦隊の反転を知らぬ西村艦隊が単独でスリガオ海峡へ突入、壊滅する。

 25日、エンガノ岬沖を北上する小澤艦隊に米艦載機接近。0815米軍機の空襲開始。小澤中将は全軍宛に「敵艦上機約80機来襲我と交戦中。地点ヘンニ13」という最重要電を打ったが、自軍以外に届かなかった。従って栗田艦隊はハルゼー艦隊の動向を知らずに、レイテ湾突入の機会を逸する。その意味で小澤艦隊の囮任務は失敗である。

 このとき、直掩の零戦は空母4隻でたったの18機であり、100機に近い攻撃機を相手に奮戦も空しく艦隊は野ざらしで攻撃されるに等しい有様であった。

 0835瑞鳳被弾、0837瑞鶴が甲板中央部に被弾1、また左舷に被雷1、発着艦及び通信不能となり速度22ノットへ低下。0850駆逐艦秋月が突如大爆発して轟沈(原因諸説あり)。0937直撃弾多数で千歳沈没。軽巡多摩も被雷し航行不能、大傾斜。

 

 

 米軍撮影。左舷に傾斜する瑞鶴。


 瑞鶴では大淀に通信依頼し、引き続き米軍誘因成功を打電するも栗田艦隊には届かず。その後、瑞鶴では指揮が取れず大淀へ旗艦変更準備を進めているうちに米軍第2次攻撃が始まり大淀が離れる。

 第2次攻撃では瑞鶴に特段被害はなかったが、千代田が多数被弾し落伍。1054小澤中将が大淀艦載短艇にて将旗を大淀へ移し、全艦へ旗艦変更の通達。このさい、瑞鶴では乗員が「瑞鶴を見捨てるのか!」「それでも司令官か!」と、大騒ぎしたというが、通信設備をやられて指揮が取れないのではどうしようもない。

 1100ころハルゼー提督がハワイ総司令部よりレイテへ戻るよう命令されエンガノ岬沖を離れるも、ミッチャー中将麾下の空母部隊とデュポーズ小将麾下の巡洋艦水上部隊を残し、小澤艦隊を追撃させた。

 1300ころ第3次攻撃始まる。攻撃は瑞鶴へ集中、左舷へ4本、右舷へ2本魚雷名中、直撃弾4~6発他至近弾多数で大火災発生、左へ傾斜が一気に進み、艦内火災も「手がつけられない状態」となる。対空火器も爆撃でふきとぶか艦内電気不通で操作不能となり、唯一残って射撃を続けていた右舷高角砲も砲身が焼けて使用不能となり、傾斜の増大で旋回も不能、沈黙した。

 

 

 空襲を回避する瑞鶴と瑞鳳。

 

 

 中央が瑞鶴。右上に瑞鳳。手前は秋月型駆逐艦(資料によっては若月とも)

 

 

 魚雷をくらい炎上する瑞鶴。迷彩塗装されていたことが分かる。


 1327総員甲板上がれ命令、1355ころ軍艦旗降下、万歳三唱、総員退艦。米軍の攻撃は既に終わっており、この際の高名な写真が残っている。1414-20ころ、瑞鶴は左舷から沈没した。瑞鶴沈没からほどなくして、1526瑞鳳も沈没。落伍していた千代田と他の艦も追撃の米水上部隊の砲撃で沈められ、小澤艦隊の空母4隻は全滅した。

 

 

 軍艦旗降下。かなり傾斜し沈没寸前であるのが分かる。


 小澤艦隊は航空戦艦伊勢と日向が後部甲板にずらりと並べた対空兵器のおかげか生き残り、残存艦を結集してシンガポールへ撤退した。残ったのは伊勢、日向、大淀、若月、霜月、桑、槙の7隻だった。

 栗田艦隊はサマール沖海戦を経てついに突入を断念。これも撤退する。

 捷号作戦は失敗に終わり、フィリピンは米軍へ制空権、制海権を奪われたことにより補給が途絶え餓島をはるかに上回る悲劇に襲われた。聯合艦隊は残存艦数及び燃料不足により壊滅。機動部隊もまともに動ける空母がほとんどなく、なにより航空隊が壊滅したことにより、ここに終焉を迎えた。

 瑞鶴は真珠湾へ参戦した6隻の主力空母最後の生き残りであった。瑞鶴の沈没は、まさに日本軍機動部隊の最期を象徴するものといえよう。

 小型空母である大鷹(たいよう)型空母は、連合国の基準に照らすと、低速小型ながら輸送船団を護衛する「護衛空母」になる。しかし日本軍は最後まで発艦用蒸気カタパルトを実用化できなかったため、大鷹より小さな米カサブランカ級空母が見事に護衛任務を果たし、時には数にもの言わせ栗田艦隊を相手に互角に戦った実力があったのに比べ、大鷹級は数も少なく大戦中期には大型の艦載機を発艦させることができずに輸送任務が主になってしまった。

 その後、遅ればせながら旧型航空機を使い米軍のように大規模輸送船団の護衛任務につくが、優れた対潜哨戒機の実用も間に合わず、米潜水艦部隊によって壊滅的被害を受け、大鷹型も雷撃で次々に撃沈されてしまったのだった。

 大鷹型空母1番艦大鷹は、改装空母である。軍縮条約の余波を受けた艦の1つで、大鷹は客船として建造された。つまり、民間の船だった。皇紀2600(昭和15/1940)年開催の東京オリンピックにむけ、政府の「優秀船舶建造助成施設」補助金を使用し、日本郵船で建造された新田丸級客船の3番船、春日丸だった。この補助金は有事の際に優先的に戦時徴用され、戦争に使用されることが助成の条件だった。これにより、客船、貨物船、タンカーが多数建造され、太平洋戦線の勃発により随時徴用された。

 

 

 新田丸級客船。

 

 

 新田丸のN、八幡丸のY、春日丸のKでN.Y.Kラインと呼ばれた。ポスターはなんとキャンペーンガールならぬ、客船擬人化(!)3姉妹。当時から擬人化!!

 

 

 客船3姉妹は、空母3姉妹となる。

 

 春日丸は皇紀2600(昭和15/1940)年に長崎の三菱造船所で起工され、既に建造中に徴用され、空母へ改装された。従って、先に客船として働いていた新田丸、八幡丸と違い、空母となったのは3隻中最も早い。客船としては3番船だが、特設空母としてはネームシップとなった。戦艦武蔵が進水し、艤装岸壁に曳航された際に、春日丸が武蔵を隠した。

 

 

 春日丸進水。


 皇01(S16/41)年9月5日、特設航空母艦春日丸として竣工。当初、翔鶴と共に五航戦を編成したが、翔鶴に着いて行けるはずもなく、すぐに龍驤他駆逐艦と三航戦を編成する。しかし、あまりに低速(最大で23ノット程度)小型だったため実戦には参加できず、龍驤のみ南方作戦へ参加。龍驤は1隻で八面六臂の活躍を見せる。春日丸はパラオへ九六式艦戦13機を輸送。初の航空機輸送任務であった。

 翌皇02(S17/42)年、2月よりトラックへの零戦輸送任務に従事。マーシャルやソロモンへも零戦を運ぶ。4月にはルオット島、クェゼリンへ零戦輸送。5月3日、ガトー級潜水艦のネームシップ、潜水艦ガトーに魚雷を食らうも不発。ヤルートやブーゲンビルにも向かい、5月15日、横須賀へ戻る。

 ミッドウェーの後、8月には米軍がガダルカナルへ上陸。半年にも及ぶガ島攻防戦が始まる。トラックへ向かう大和を護衛し、その後別行動で輸送も行ってラバウルへ向かった。

 ラバウルへ向かう途中に、春日丸より大鷹へ改名されている。ただ改名されたのではなく、艦種が特設空母より正式に軍艦である航空母艦となって艦首に菊の御門がついた。ラバウル泊地に停泊した唯一の日本空母となった。8月から9月にかけて、ひたすら航空機と人員その他の輸送で南方を駆けずり回り、地味ながら大変に重要な任務をこなした。

 9月28日、タンバー級潜水艦トラウトの魚雷を2発受け、トラックで工作艦明石の応急修理を受けた。10月4日、航空機を収容し呉へ向かう。14日に到着。ガソリンタンク破損により航空燃料が漏れて気化し、6月のマリアナ沖海戦で沈んだ大鳳の二の舞いになる寸前であったという。修理の後11月には航空機を乗せてガダルカナル方面へ出発。ガ島攻防戦の激化により損耗は酷くなる一方で、大鷹型空母3隻……大鷹、雲鷹(うんよう)、冲鷹(ちゅうよう)は、ひたすら航空機を輸送した。
 
 翌皇03(S18/43)年も大鷹型は延々と航空機を輸送する。このころには海軍機だけではなく陸軍機も輸送。4月にトラックへ三式戦飛燕を輸送する。同時に米潜水艦も出現率を高めており、作戦中にたびたび攻撃される。

 9月21日、大鷹型3隻は護衛駆逐艦と共にトラックから日本へ向かう途中小笠原沖で暗号解読により待ち伏せていた米潜水艦カリブラに雷撃される。大鷹に3本命中、1本爆発し機関停止、スクリューと舵破損、航行不能。しかし駆逐艦島風の反撃と悪天候によりカリブラはとどめを刺せずに離脱。大鷹は冲鷹に曳航されて横須賀へ入った。

 

 

 横須賀沖で修理を待つ大鷹。なんと、大鷹の写真はこれしか無いっぽい。

 

 11月15日、海軍は船団護衛専門である「海上護衛総司令部」を設置。大鷹型3隻にドイツ客船シャルンホルスト改装空母神鷹(しんよう)を加えた4隻を配置した。ちなみにシャルンホルストは主力空母を次々に失った日本軍が同盟国ドイツへ空母グラーフ・ツェッペリンの売却を持ちかけたが戦況悪化により日本まで回航不可能として、代わりに同じく戦争勃発でドイツに帰れず神戸にいたシャルンホルストを売却したものである。

 翌皇04(S19/44)年、いよいよ戦争末期に突入。大鷹は船団護衛へ本格的に取り組むこととなる。対潜哨戒用九七式艦攻12機を搭載し、門司とシンガポールを結ぶ大規模輸送船団であるヒ船団の護衛に着く。5月から6月にかけてマニラ、シンガポールを経由し日本へ無事に戻る。ただし、5月14日に駆逐艦雷が潜水艦ボーンフィッシュの攻撃により沈没した。

 修理の後、8月8日、大鷹型3隻、駆逐艦、海防艦らとともに最大規模の輸送船団ヒ71船団の護衛に着く。最大規模というのは、物資のほかルソン島配備の陸軍兵37,600人を輸送するためである。

 これだけの大規模輸送を米軍が見逃すはずもなく、船団は潜水艦3隻に追跡される。

 8月18日、輸送船1隻が魚雷を受け損傷し引き返す。船団はそのままフィリピン近海へ入る。大鷹は九七式艦攻を上げて哨戒し、その間、潜水艦はなりを潜めたが日没とともに航空機を収容する。夜間は大鷹の格納庫より移動式の電探を甲板へ手動で出し、使用していたという。

 しかし2225ころ、ルソン島沖で潜水艦ラッシャーが闇夜に紛れ船団に接近、レーダーで捕捉しつつ魚雷2本発射、船団最後尾航行中の大鷹へ1本命中する。艦底部ガソリン庫が引火し、大鷹は300メートルもの火柱を上げ大爆発、火災が発生し弾薬庫にも火が回ってさらに爆発、2240ころ、一気に沈没してしまった。

 闇の中、いきなりの大鷹沈没に船団は大いに慌てふためき、タンカーや輸送船が四方八方へてんでバラバラに逃げ散ってしまった。進行方向へ向かって右側に潜水艦、左側に浅瀬で身動きが取れなかったものの、潜水艦の合間を縫って脱出した。米潜水艦群はレーダーを駆使して各個撃破に入り、朝まで大鷹含め沈没7隻、損傷艦3隻の大損害を受けた。特に輸送中の陸軍兵は被害甚大で、民間人乗客や船員も含め死者8,000人に及んだ。
 

 日本海軍の誇る機動部隊の中でも、開戦前の予算・資材も最盛期だったころに建造され、大きさ、出力とも最大規模を誇り、ミッドウェー後も日本を代表する空母の中の空母といえる空母こそ、この翔鶴型空母の翔鶴、瑞鶴であろう。

 軍縮条約終了後に大和型戦艦と共にマル三計画において設計・建造されたため当初から大型かつ強力な艦として誕生する。技術的にも共通する部分があり、艦首は大和型と同じくバルバス・バウ構造(先端が丸くなっているやつ)となっており、波切に効果的であった。また機関も大和型と同じ罐を備え、罐数こそ少なかった(大和型12基、翔鶴型8基)が蒸気タービン出力はむしろ大和型を超えていた。従って最大34ノットの高速を発揮できたうえ、艦主要部は巡洋艦の砲撃にも耐えられる装甲を施し、水密区画も450kg魚雷に耐えられるように設計されていた。しかし、飛行甲板に装甲は無かった。

 横須賀海軍工廠において戦艦陸奥と同じ船台で建造され、皇紀2601(昭和16/1941)年8月8日竣工。当初、第一航空戦隊(一航戦)となる予定だったが諸事情で第五航空戦隊(五航戦)旗艦となる。

 その年の12月6日、9月に竣工した瑞鶴と共に真珠湾へ参加する。一航戦、二航戦に比べると流石に錬度未熟と考えられるが、攻撃隊は奮戦、真珠湾奇襲は見事成功裏に終わった。ただし、撃破した艦船は戦艦を含めて旧式が多かったこと、本命の米機動部隊を逃したこと、五航戦は主に基地攻撃を担当したが、機械工場や油槽破壊を逃したことで、物理的には中途半端に終わってしまった。真珠湾からの帰投途中にウェーク島攻略戦の補佐を行う計画もあったが、それは二航戦(蒼龍、飛龍他)が下命された。

 

 

 竣工したばかりの翔鶴。

 

 

 進水直前の艦首記念撮影。

 

 

 進水直後。

 

  

 デジタル彩色。

 

 

 真珠湾へ向かう翔鶴甲板上の飛行隊。

 

 翌皇02(S17/42)年は、ほぼ上半期の半年を南雲機動部隊のほか空母と共にインド洋方面への出撃で過ごした。トラック島泊地を起点に縦横無尽に暴れまわり、機動部隊は連戦連勝。特に一航戦の活躍甚だしく、疲労と規律のゆるみがじわりと蔓延する。赤城などは、英軍爆撃機の編隊による攻撃を実際に爆弾が降ってくるまでまったく気が付かなかったという有様だった。

 さて同時に1月よりポートモレスビー攻略を行っていた陸軍は、米軍の基地航空隊と機動部隊に難儀し海軍へ航空支援を強く要請。海軍では既にミッドウェー攻略を練っていたが、この海域へ派遣されている空母が小型の祥鳳1隻のみであり、さすがに無理があると考え、当初加賀を派遣しようするも3月にパラオで座礁し損傷した艦底の修理が間に合わず、現地部隊は二航戦の派遣を希望するもけっきょく五航戦の派遣が決定。また、五航戦にとってよい実戦訓練にもなると考えていたという。

 4月、多数の駆逐艦他を従えた五航戦はMO機動部隊を編成、米航空戦力のため延期となっていたポートモレスビー攻略戦に備え南下する。しかし米軍も日本軍の暗号を解読しており、戦力を集結する。米艦隊は重巡、駆逐艦のほかは空母レキシントンとヨークタウンを珊瑚海へ派遣した。ここに、「双方の艦を視認せず純粋に航空戦力のみで戦った世界初の海戦」である珊瑚海海戦が勃発する。

 5月1日MO機動部隊(翔鶴、瑞鶴ほか駆逐艦4)がトラックを出撃。珊瑚海へ迫る。5月7日、珊瑚海にて翔鶴索敵機が米駆逐艦の護衛するタンカーを空母と誤認、攻撃隊がいっせいに発進してしまう。両船を沈めた後も「いるはず」の幻の空母を数時間も探し回った。その間にMO攻略主隊(重巡4、祥鳳他)が、「本物の」米機動部隊より飛来した艦載機の攻撃を受け、祥鳳が沈没。日本軍空母喪失第1号だった。

 その後、タンカー攻撃部隊を収容し、情報をもとに西進、「本物の」米機動部隊へ迫った。夕刻に近かったが薄暮攻撃を決意、攻撃隊発進。しかしその攻撃隊は米軍レーダーにとらえられており、F4Fワイルドキャット迎撃隊に待ち伏せされ大損害を出したうえ、混乱した翔鶴攻撃機の1機がよりにもよって敵の米空母に着艦しかけるという、とんでもないアクシデントも起きた。米側でも警戒戦闘機含め誰も気づかず、着艦体制に入ってから気づき、甲板では「日本兵の斬りこみに備え!」が叫ばれた。爆弾があったら絶好の攻撃機会だったが、残念ながら帰投途中であったため爆弾はなかった。日本機もあわてて退避し、命からがら逃げ帰った。

 翌5月8日、祥鳳を失った攻略主体(重巡4、駆逐艦1)が合流。今度は日米の機動部隊が正面からぶつかった。0600より索敵を行っていた翔鶴索敵機が米機動艦隊を発見、燃料切れを覚悟で誘導、墜落する。戦死した搭乗員3名は二階級特進・金鵄勲章授与された。翔鶴攻撃隊31機が主にレキシントンへ、瑞鶴攻撃隊38機が主にヨークタウンへ殺到した。

 レキシントンは翔鶴攻撃隊により魚雷2発と直撃弾2発を受け、浸水のうえガソリン庫から航空燃料が漏れて気化し大爆発。大火災のまま爆発を続けながら漂流し、生存者救出の後、同日1915~1950ころ雷撃処分された。

 

 

 気化ガソリンが大爆発したレキシントン。

 

 

 生存者救出の後、雷撃処分された。


 ヨークタウンは瑞鶴攻撃隊の魚雷8~9発を全て回避したものの、直撃弾1発至近弾3発を受け燃料漏れを起こし、蒸気管も破損して速力低下、退避した。トンガタプ島へ到着した時には燃料が底をつき、動けなくなる寸前だった。イギリス軍より燃料補給を受けたが悪質で、なんとか真珠湾へ帰りついた。真珠湾では応急ながら不眠不休の復旧作業が行われ、なんと3日で戦線復帰した。

 そして同時刻、米艦載機も日本軍へ襲いかかる。途中で日米の攻撃隊が互いを視認したが無視して互いの母艦を攻撃しに向かった。瑞鶴がちょうどスコールへ隠れたため、翔鶴へ群がった。瑞鶴と翔鶴は大きく離れてしまい、護衛の重巡、駆逐艦らはどちらへ着けばよいのか命令が無く右往左往した。翔鶴はドーントレス急降下爆撃機2機による直撃弾2発をくらい、ガソリン庫を突き破って大爆発を起こした。瑞鶴からは水平線の向こうより火柱と黒煙がふきあがるのが見え、翔鶴が撃沈されたと思ったという。爆弾を直撃させたヨークタウン攻撃隊も、翔鶴撃沈を報告するほどだった。

 

 

 爆撃を受ける翔鶴。


 しかしミッドウェーと違い格納庫は空だったため、それ以上の爆発はなく、装甲の厚かった機関も健在だった。翔鶴は燃えながらも最大船速を発揮、追撃の魚雷を全てかわし、一目散に退避する。

 その45分後、今度はレキシントン攻撃隊に発見された翔鶴へ第2次攻撃が始まる。嵐の中だった。またも魚雷はかわしたが再び450kg爆弾1発が命中、さらに火災が発生する。レキシントン隊も、翔鶴沈没確実と報告した。翔鶴は2度沈んだ。

 しかし翔鶴は沈まなかった。なんと夜には火災が納まり、戦場から脱出に成功した。山本司令長官は逃げたヨークタウンの追撃を命じたが米軍も全力で退避しており、発見できなかった。

 日本へ戻った翔鶴は母港横須賀のドックが満杯だったため呉へ回航され、しかも日曜に到着したため翌日まで泊地で待たされた。呉軍港に初めて到着した大破艦ということで見学者が殺到したという。修理には3か月かかると見込まれた。小破のうえハワイで修理中だったサラトガの物資や航空隊を使えたとはいえ、3日で修理しミッドウェーに間に合わせたヨークタウンとは大違いの暢気さといえよう。瑞鶴もパイロットの戦死者多数ですぐの戦線復帰は不可能であった。

 

 

 大破した翔鶴甲板。


 また大火災のうえ消火成功は「格納庫内に搭載艦載機が無かったこと」が最大の要因と分析されたが、その訓話が出されたのはミッドウェー出撃の前日であり南雲機動部隊に戦訓を活かせなかった。

 6月5日-7日、ミッドウェーにて南雲機動部隊惨敗。主力空母4隻喪失。衝撃が走った。翔鶴と瑞鶴はこの時点で唯一残った主力2隻であり、必然、日本軍機動部隊の主軸となった。戦術も改められ、空母を攻撃の主力とし水上部隊は空母の補佐(協力)と位置付けられた。搭載機数も改められ、小型空母は戦闘機中心に艦隊や攻撃隊直掩、主力空母は攻撃隊を増やして、まず敵空母の甲板を破壊することを第一目標とした。しかし、あまり部隊全体へ徹底する時間も無く、第二次ソロモン海海戦が始まってしまう。

 ミッドウェーで大勝利した米軍は、いよいよ本格的な逆襲に転じる。8月7日、突如としてガダルカナル及びフロリダ諸島へ上陸した。日本軍は建設中だった飛行場を奪われ、逆に完成されてしまう。しかも増援や補給部隊がその基地航空隊に沈められまくって、島へ取り残された陸軍は弾無し食料無し薬無しの「餓島」という状況で飛行場奪還の夜間突撃を繰り返し、機関銃と戦車によって全滅を繰り返した。

 かくして、この小さな島をめぐる日米艦隊の半年にも及ぶ一大攻防戦が始まる。米軍上陸の後さっそく8月8日に行われた第一次ソロモン海海戦は重巡主体による水上戦で、日本軍が勝利したがうまい次の手を打てず、そのまま何事もなく終わって、飛行場は完成されてしまう。

 8月24日、翔鶴、瑞鶴本体のほか龍驤主体の支隊を分岐させそれを囮としその隙に本体は米空母部隊(サラトガ、エンタープライズ)やヘンダーソン飛行場を攻撃する第二次ソロモン海海戦が行われた。

 翔鶴、瑞鶴の攻撃隊が米空母を攻撃、エンタープライズへ直撃弾2発至近弾3発を浴びせたが、1時間で復旧されたうえ、攻撃隊はレーダーで探知されて迎撃をうけ、損害が大きかった。しかも、龍驤隊が囮の任務通りに襲撃され、龍驤が撃沈される。輸送船団も空襲を受けて輸送船2隻が沈没、船団が低速のため大型空母では護衛しきれず、作戦は失敗に終わった。

 10月、日本軍はガ島に対し陸海の総攻撃を開始。空母4隻(翔鶴、瑞鶴、瑞鳳、隼鷹の5隻の予定だったが飛鷹が機関故障で撤退)ほか重巡、軽巡、駆逐艦隊で出撃。南太平洋海戦が勃発する。珊瑚海に続き、米機動部隊とのアウトレンジ決戦だった。

 10月25日、南下した日本軍へ空母ホーネット、ヨークタウンを擁する米艦隊も迫る。珊瑚海と同じくほぼ同時に互いの索敵機が互いを発見し、互いの攻撃隊が上空で互いを視認しつつも無視して互いの攻撃目標へ向かった。

 この際、索敵任務中だったドーントレス2機が艦にも警戒の零戦にも気づかれていないのをよいことに、いきなり瑞鳳へ急降下爆撃を仕掛けた。瑞鳳は甲板後方に直撃弾1発を受け、中破。格納庫が空っぽだったために被害はそれで済んだが発着艦ができなくなり、早々に退避する。発進した瑞鳳の攻撃隊は翔鶴へ移って戦った。

 この時も瑞鶴は発艦のために風上へ向かって全速力で突き進み、翔鶴から20kmも離れてしまって、結果的にうまく逃げた格好となった。珊瑚海と同じく、米軍の攻撃は翔鶴へ集中する。

 

 

 南太平洋海戦時、翔鶴攻撃隊。


 翔鶴は急旋回したが急降下爆撃によって甲板後部へ450kg爆弾4発の直撃を受ける。しかしここでも格納庫は空だったうえ航空燃料への引火も起こらず、自動消火装置や消火訓練の成果もあって致命傷にならなかった。また翔鶴にもレーダー(21号電探)が装備されており、効果的に迎撃できたのもよかった。

 

 

 攻撃を受ける翔鶴。


 一方、日本軍の攻撃隊はホーネットを大破後追撃部隊によって撃沈、エンタープライズを大破航行不能にせしめるも、レーダーを駆使した激しい迎撃にあい大半が未帰還となる大損害を受けた。

 

  

 九九式艦爆の攻撃を受けるホーネット。

 

 

 至近弾を受けるエンタープライズ。

 
 翔鶴は二度目の大破撤退、瑞鶴はまたも無傷と云うことで、それぞれ「被害担当艦」「幸運艦」などと呼ばれた。

 

 

 またも大破した翔鶴。


 11月、機動部隊司令が南雲中将より小澤中将へ交代。真珠湾以来の栄光と挫折の南雲機動部隊は、小澤艦隊となる。
 
 この戦闘の後、なんと太平洋に展開する米軍の空母は一時的にゼロとなった。日本軍も主力空母が傷ついたがいまが好機と二度目のヘンダーソン飛行場夜間射撃部隊を派遣。さらに空母隼鷹を援護に出した。しかし米軍も大和型に匹敵する最新鋭戦艦ワシントン、サウスダコタを派遣、夜間レーダー射撃を駆使し霧島と比叡他を撃退する。基地航空隊も活躍し、第三次ソロモン海海戦も米軍の勝利に終わる。日本軍は2日にわたる夜戦における駆逐艦綾波、夕立の獅子奮迅の活躍で米巡洋艦・駆逐艦を多数撃沈し、一帯の海域は両軍の艦船が多く沈む「鉄底海峡」と呼ばれた。

 同年12月末、ついに日本軍はガ島より撤退した。

 翌皇03(S18/43)年、機動部隊は出陣するも米軍と会敵しなかった。しかし航空隊は基地航空隊へ派遣され空戦で消耗を重ね、錬度は上がらなかった。

 翌皇04(S19/44)年、負け戦の続く日本の敗色が濃厚となってくる。3月には飛行甲板へ装甲を施した装甲空母大鳳が竣工、さっそく一航戦へ配属される。

 6月、米軍がついにサイパンへ接近。このころには、米軍の優れたガトー級及びガトー改級潜水艦が300隻以上も北はアリューシャンから南はインドネシアまでウヨウヨと潜伏し、日本軍輸送部隊や本来潜水艦を狩るはずの駆逐艦を沈めまくっていた。日本軍の艦隊決戦用の大型駆逐艦は、お世辞にも対潜能力が良くなかったことが露呈された。駆逐艦自体がそうなのだから、駆逐艦に護衛された大型艦船も次々に潜水艦の餌食となった。

 また日本軍は、パラオ空襲に際し脱出した二式大挺が不時着し機密文書を米軍に奪われるという「海軍乙事件」においてマリアナの作戦要綱が(またも)米軍に知られていた。

 6月19日、日本軍は空母9隻を擁し、3隻ずつ甲部隊「翔鶴、瑞鶴、大鳳」乙部隊「飛鷹、隼鷹、龍鳳」丙部隊「千歳、千代田、瑞鳳」にわかれ、ほか戦艦5、重巡11、軽巡2、駆逐艦20で進撃。早朝から夕暮れ近くまで第1次から第6次までアウトレンジ大空襲を米軍へお見舞いした。マリアナ沖海戦である。

 片や結集した米軍は空母15、戦艦7、重巡8、軽巡12、駆逐艦67(!)であった。
 
 護衛の駆逐艦が元より少なかったうえ、頼みのグアム基地航空隊が先に米軍にやられ制空権を奪われる。攻撃隊もレーダーに捕捉され、零戦を遥かにしのぐ大出力高装甲重武装のF6FヘルキャットやVT信管装備の最新式対空兵器のおかげで、第1次攻撃隊は2/3、第2次攻撃隊も3/4以上が撃墜され、総体でも半数以上の攻撃部隊が落とされたうえ米軍被害は軽微という壊滅に近い大損害を受けた。特に最新鋭の天山艦上攻撃機、彗星艦上爆撃機は出撃機がほぼ全滅した。米軍に「マリアナの七面鳥撃ち」と呼ばれる屈辱的大敗北であった。

 さらに、第1次攻撃隊発進中の最新鋭装甲空母大鳳が0810潜水艦アルバコアの雷撃を受け、艦首付近に1本命中、損害軽微だったため戦闘続行したが、まことに運の悪いことに航空燃料が漏れて艦内に気化充満。接近した作業員が気絶するほどのガソリン臭のなか懸命の換気作業もむなしく1432大爆発を起こした。甲板装甲が仇となり爆圧が甲板を突き抜けずに艦底へ抜け機関を破壊、航行停止したのちも小爆発が続き、消火活動や救助活動も捗らず、1623沈没した。

 いっぽう翔鶴も第2次攻撃隊発進中1120、なんと1000mまで接近した潜水艦カヴァラの発射した魚雷6本中3~4本が右舷に命中する。注水で傾斜復旧するも艦内電気不通となりエレベーターが途中で止まって前部甲板に孔が開いたままスクリュー3軸推進していたが、やがて隔壁が破れる音と共に煙突から水蒸気が噴出、浸水によりボイラーがやられた。艦首部への被雷により艦首沈下し、しかも、こちらも航空燃料が漏れて気化充満、やがて大爆発する。懸命の消火作業も空しく猛煙を噴き上げながら1400ころ沈下していた艦首より沈みはじめた。甲板の上に避難していた生存者は坂になった甲板を滑り落ち、燃え盛る前部エレベーター孔へ次々に落ちて落命した。まさに、蓋のあいた地獄の釜だった。

 翌20日、補給部隊のタンカーと空母飛鷹も撃沈され、日本軍は大敗北を喫したうえ、空母3隻喪失と航空隊壊滅的大損害により、機動部隊のまともな運用が不可能となる。


 

 軍縮条約の余波は、まだまだ留まるところを知らない。

 空母の保有制限を蒼龍と飛龍で使い切ったところで日本軍、秘策に出る。つまり、いつでも空母へ改装できる別種の船をせっせと造るのである。それは高速給油艦だったり客船だったりしているわけだが、まず高速給油艦高崎と剣埼を予算化した。

 高崎級は高速というだけあって、給油艦(タンカー)のわりに大出力でめったやたらに足が速かった。そりゃいつでも空母に出来る身なのだから、足も速くなろうというもの。

 しかし高崎の建造中に条約脱退し、そのまま謎の高速タンカーを造る必要が無くなった。よって、より空母へ改装しやすい潜水母艦へ艦種変更となった。潜水母艦は潜水艦の母艦という意味で、外洋の所定の場所で作戦中の潜水艦と合流し、燃料弾薬、水食糧等を補給する船である。潜水艦が横付けできる機構を備えており、また格納庫を備えるので、タンカーより空母へ改装しやすいのだろう。

 ところがすぐさま、空母へ計画変更。一気に空母となって皇紀2600(昭和15/1945)年、瑞鳳と名を変えて竣工した。満載排水量は14,000トン。中の小ていどの小型空母だった。翌年には第三航空戦隊(三航戦)へ配属、鳳翔他護衛艦と編隊を組む。

 

 


 同年12月の真珠湾の際は、後方の水上部隊護衛の任務を受け、戦艦らとともに対潜哨戒しながら小笠原付近まで出張ったところで奇襲大成功の報を受け帰還した。

 翌02(S17/42)年2月、フィリピンへ零戦を輸送、その後も瀬戸内海で訓練に勤しんだ。4月、米軍決死のドゥーリットル隊東京空襲に際し、慌てて哨戒任務へ出るも敵を発見できなかった。5月、珊瑚海海戦が勃発。姉妹艦の空母祥鳳が撃沈される。日本軍空母喪失第1号だった。6月、ミッドウェー。主力空母4隻が一気に失われた。

 ミッドウェーでは、瑞鳳は鳳翔と共に後方水上部隊の護衛任務に就いていた。敵基地航空隊及び米空母艦載機の追撃を受ける危険があったが、瑞鳳・鳳翔の艦載機は護衛任務ということで元より少なく、しかも鳳翔は旧式艦載機で瑞鳳は敵艦と会うこともなかろうとなんと魚雷を積んでいなかった。仕方も無く艦攻へ爆弾を積んで待機したが、会敵しなかった。

 8月、アメリカ軍がガダルカナルへ上陸し、ガ島攻防戦が勃発。第二次ソロモン海海戦で囮となった龍驤が沈んだ。瑞鳳は作戦へ参加しつつ日本とトラック泊地を往復し、航空機輸送任務に従事した。この際、重巡熊野の偵察機が瑞鳳を「国籍不明空母」と報告し、まっすぐトラックへ向かってくるので泊地では一瞬緊張が走るハプニングがあった。

 10月、南太平洋海戦へ参加。これは珊瑚海と同じく、日米の機動部隊同士の衝突となった。

 時系列とこれまでの記事で登場した艦で云うと、戦艦金剛、榛名によるヘンダーソン飛行場砲撃と、霧島、比叡による第二次砲撃の間に当たる。

 ガ島攻防戦では日本軍が建設途中だった飛行場を米海兵隊に奪われ、日本軍が残していった食料や物資に加え米軍が実用化していたブルドーザーという「新兵器」により逆に米軍基地として完成されてしまい、ガ島への援軍補給物資が完成されたヘンダーソン基地航空隊によりバガスカ沈められて重大な脅威となる始末。日本軍は奪い返そうと夜間突撃を繰り返すも機関銃と戦車で撃退され、総攻撃は全滅失敗の連続。戦艦金剛、榛名による夜間艦砲射撃は一定の効果を上げ、飛行場は一時沈黙した。(それも「ブルドーザー」で1か月そこらで復旧されてしまうのだが。)

 龍驤を失い基地空襲も不発に終わった第二次ソロモン海海戦の後、日本軍は空母飛鷹、隼鷹、瑞鳳、翔鶴、瑞鶴の5隻を投入。しかし飛鷹が火災と機関故障で日本へ帰還。4隻で米空母群と戦うことになった。10月23日、度重なるガ島部隊の飛行場総攻撃延期に影響されながらも南下を続けていた機動部隊は25日攻撃命令により隼鷹の飛行隊がヘンダーソン基地を空襲した。26日未明より索敵を繰り返し、日米ほぼ同時に互いを発見した。米軍は空母2隻(ホーネット、エンタープライズ)を派遣していた。
 
 互いの攻撃隊が上空ですれ違う互いを視認するほどの近距離であったが、一部交戦があったものの互いにそ知らぬふりをしてやり過ごした。

 0540、索敵中のドーントレス2機が襲来に気づかない瑞鳳へいきなり急降下をかけた。直掩の零戦も気づいていなかった。直撃を食らったが幸いにも甲板後方で格納庫は空だったため、ミッドウェーの二の舞にはならなかった。しかし発着艦ができなくなり戦線を離脱する。

 瑞鳳攻撃隊は瑞鶴へ移り、米空母攻撃へ引き続き参加。空母ホーネットを爆撃で大破せしめる。ホーネットは追撃した日本軍水上部隊が雷撃で撃沈した。

 

 

 九九式艦爆の爆撃を受けるホーネット。

 

 エンタープライズは至近弾で艦体中央部が陥没し浸水して傾斜し発着艦不能となる。日本軍は米主力空母2隻を撃退したが、このころより敵対空砲や戦闘機の迎撃が激しく、味方の損害も著しく大きくなった。

 

 

 至近弾を受けるエンタープライズ。


 この南太平洋海戦で日本軍が勝利したことにより、なんと太平洋に展開する米軍の空母は一時的にゼロとなり、基地航空隊はあるが航空戦力の脅威が減退したとして、危険ではあるが第二次砲撃が決行された。アメリカは大和級に匹敵する最新鋭戦艦2隻(ワシントン、サウスダコタ)を投入し、霧島、比叡隊との深夜のガチタコ殴り海戦が起きた。またエンタープライズも応急修理のみで戦線復帰する。

 翌皇03(S17/43)年、修理を終えた瑞鳳は戦線復帰する。1月にはトラックへ着任し、3月に隼鷹と共に再びガダルカナルへ向かい、陸軍の大規模補給輸送作戦の上空直掩任務に就くが敵航空隊の規模も大きく、護りきれずに補給部隊が壊滅し作戦は失敗した。

 5月にはまた日本へ戻り修理と甲板延長、航空隊の再編を行った。訓練を終え7月にトラックへ戻る。9月から10月にかけて米機動部隊の出現情報をもとにトラックから艦隊が出張っては空振りで会敵せずまた戻る作戦が続き、トラック基地の燃料備蓄が底をつきかけたうえ、瑞鳳の航空隊はまたもガ島上陸作戦の援護で消耗したため、11月から12月にかけて輸送任務に就きトラックと日本を5往復する。この際、僚艦の小型空母沖鷹が米潜水艦に撃沈された。

 そして皇04(S19/44)年、歴史はマリアナとレイテを迎える。2月、瑞鳳は空母千代田、千歳と三航戦を編成。また3月から空母龍鳳と共にグアム、サイパン方面への輸送作戦に就く。5月、戦艦武蔵、二航戦(飛鷹、隼鷹、龍鳳)と三航戦(千歳、千代田、瑞鳳)が他駆逐艦と合流。タウイタウイ泊地へ向かう。しかしタウイタウイは既に米潜水艦出現の多発地帯と化しており、既に駆逐艦が多数撃沈されており、迂闊に訓練もできない危険海域と化していた。

 6月、前衛部隊としてマリアナ沖海戦へ参加。日本軍は鳳翔や大鷹型小型空母以外の残存空母を集め、甲部隊(大鳳、翔鶴、瑞鶴)乙部隊(飛鷹、隼鷹、龍鳳)丙部隊(千歳、千代田、瑞鳳)の9隻を投入。戦艦も5隻(金剛、榛名、長門、大和、武蔵)を投入している。しかし米軌道艦隊の空母数は15、戦艦も最新のアイオワ級4隻を含む7隻であった。しかも、マリアナ沖海戦はパラオ空襲の際に司令官の乗った二式大挺が遭難する事件で作戦概要を記した機密文書が米軍にわたっており、日本軍の作戦は(またも)筒抜けだった。(海軍乙事件という)

 6月18日、ミッドウェーの轍を踏むまいと40機もの索敵機を三段階に分けて出し、1500ころ米機動艦隊発見。すかさず第一次攻撃隊発進。しかし、小澤艦隊司令の命令で前衛部隊の第一次攻撃は中止になった。このまま進めば時間的に夜間攻撃になることを危惧したためという。仕方も無く途中で爆弾を捨てて帰投したが、練度未熟のため着艦事故が多発。前衛部隊は暗澹たる空気に支配された。

 6月19日早朝、今度こそ攻撃隊発進。しかし、0840ころ後方の主力部隊(翔鶴、大鳳他)の第一次攻撃隊をよりによって米艦載機と誤認し、対空射撃を行い数機撃ち落とすという失態を演じる。さらに米軍には次世代機であるF6Fヘルキャット戦闘機が配備されており、この零戦をも軽々と撃ち落とす2000馬力級の最新戦闘機とVT信管付対空弾の威力もあって、最新鋭レーダーによって早々に発見された日本軍のアウトレンジ攻撃隊は第1次~第6次攻撃隊の全てが半数以下を失うという壊滅的被害を受け、特に最新鋭の天山艦上攻撃機と彗星艦上爆撃機は全滅に等しい被害を受けた。また、甲部隊では米潜水艦の攻撃で最新鋭の装甲空母大鳳と翔鶴が撃沈された。

 6月20日、最悪なことに補給のため残る全空母他護衛艦と補給艦が集結した地点を米軍に発見され、夕刻に急襲される。米軍でも夜間攻撃になるのを覚悟の出撃で、米機216機中20機が撃墜、その4倍の80機が夜間着艦失敗で失われた。

 機動部隊では迎撃機を上げると共に攻撃機も空中退避させた。艦隊もあわてて海域を離脱したが、補給部隊に連絡するのを忘れ(?)タンカー部隊は置き去りになった。しかし空襲により空母飛鷹が沈没、隼鷹、龍鳳が損傷、前衛部隊では千代田、戦艦榛名、重巡摩耶が損害を受けた。退避機も半数以上被害を受けた。タンカーも2隻が空襲で航行不能になり撃沈処分された。

 「マリアナの七面鳥撃ち」と呼ばれた日本軍航空機部隊の大惨敗により、機動部隊はまともな艦載機とパイロットを失い、組織的な行動ができなくなった。

 それを受け、アメリカ軍がついにフィリピン上陸を開始する。日本軍はほとんど本土待機していた戦艦扶桑、山城をも引っ張り出して巨大水上部隊を編成し、乾坤一擲の大作戦を立て、米軍へ決戦を挑む。捷号作戦である。

 この際、艦載機とまともに戦えるパイロットがほとんど失われ囮にしか使えなくなった小澤機動部隊はまさにハルゼー提督率いる米機動艦隊をおびき出す役割を与えられ、エンガノ岬沖まで南下する。小澤艦隊が敵機動部隊を引き付けている間、栗田艦隊、西村艦隊、志摩艦隊がレイテ湾を挟撃し、米上陸部隊を壊滅せしめるのである。

 小澤艦隊は空母4(瑞鶴、瑞鳳、千歳、千代田)戦艦2(伊勢、日向)軽巡3(大淀、五十鈴、多摩)駆逐艦6(秋月、初月、霜月、若月、桑、槙)という陣容であった。艦載機は合計で100機ほどいたが、錬度未熟のため一部を陸上基地へ退避させている。

 既に10月23日、栗田艦隊がパラワン水道で米潜水艦部隊の執拗な攻撃にさらされ重巡愛宕、高雄、麻耶を失っていた。

 翌24日、シブヤン海で武蔵が激闘9時間の末、撃沈される。栗田艦隊は一時反転し、艦隊再編を余儀なくされる。しかし、ハルゼー提督率いる米機動部隊の空襲がぴたりとやむ。ハルゼー提督は小澤艦隊を発見し、空母4隻を有するその艦隊こそが日本軍の主力と誤認し北上を開始したのである。

 24日1158小澤艦隊は基地攻撃隊と協力し米艦隊を空襲したがあまり効果はなかった。この空襲によりハルゼー提督は北上を決意した。

 24日深夜、状況を掴めぬ西村艦隊が単独でスリガオ海峡へ突入。壊滅する。それを受け、志摩艦隊は突入を断念。反転する。

 明けて10月25日、小澤艦隊は囮任務のため反転しエンガノ岬沖を北上。ハルゼー艦隊を引き付ける。その打電は栗田艦隊に届かなかった。0815ついに米機動主力艦隊の空襲が始まる。第1次攻撃隊は180機だった。まさにハルゼー艦隊が小澤艦隊に誘引された確証たる「敵艦上機約80機来襲我と交戦中。地点ヘンニ13」はしかし、やはり自軍以外のどの部隊にも届かなかった。

 猛烈な空襲に直掩18機の零戦ではどうにもならず、艦隊はいいように攻撃される。

 0835瑞鳳被弾、0837瑞鶴被雷、通信不能。0850駆逐艦秋月が突如大爆発して轟沈(原因諸説あり)。0937直撃弾多数で千歳沈没。軽巡多摩も被雷し航行不能、大傾斜。

 

 

 エンガノ岬沖で被弾した瑞鳳。米軍撮影。

 

 


 第1次攻撃の後、通信途絶した瑞鶴から旗艦を軽巡大淀に移す最中に第2次攻撃隊襲来。1000ころ無傷だった千代田に直撃弾、大火災。多摩は復活し生存者救出しつつ落伍。退避する。1054空襲の合間をぬってようやく小澤中将ほか艦隊司令部が大淀へ移乗。このさい、「瑞鶴を見捨てるのか」「それでも司令官か」と乗員が大騒ぎしたというが、通信途絶した状況で指揮をとれるはずもなく、仕方のないことである。

 しかし1000過ぎ、ハルゼー提督がハワイの太平洋艦隊司令ニミッツ提督より「いまどこで何をしているのだ、いますぐ戻れ」という意味の電報を受け取り、激怒しつつも1100ころにはレイテへ戻ってしまった。しかしミッチャー中将麾下の空母部隊とデュポーズ小将麾下の巡洋艦水上部隊を残し、小澤艦隊を追撃させた。

 

 傾斜する瑞鶴と手前は秋月型駆逐艦、右上が瑞鳳っぽいとのこと。米軍撮影。


 1258第3次空襲。100機襲来。先日に武蔵を沈めておきながら、どんだけ飛行機がいるんだという感じだが、瑞鶴と瑞鳳に攻撃集中。瑞鶴は7本の魚雷と直撃弾4発、多数の至近弾を受け1414ついに沈没。

 瑞鳳も魚雷2本と直撃弾4、至近弾多数で傾斜炎上、主機関全停止。被雷により艦体が切断され大浸水し、1510総員退艦、1526沈没した。駆逐艦桑、戦艦伊勢が生存者救助に当たった。

 

 

 

 

 デジタル彩色。迷彩塗装されていたことがよく分かる。識別のため甲板後部に「づほ」と書かれている。「づゐほう」の略。

 

 

 沈没直前の瑞鳳。前部甲板がもう波間に沈みかけているのが分かる。


 第4次空襲の後、水上部隊に補足され、千代田、初月、多摩が砲雷により撃沈された。残ったのは伊勢、日向、大淀、若月、霜月、桑、槙の7隻だった。

 空母4隻を失いつつも小澤艦隊は米機動部隊誘引に成功したかに見えたが、その連絡は栗田艦隊に届かず、栗田艦隊が一時退避している間に大惨敗したうえ、ハルゼー艦隊主力は早々に引き上げて再び南下したのであまり効果はなかった。

 栗田艦隊は進撃を諦めなかったが、サマール沖海戦を経て、事ここに到り、ついにレイテ湾突入を断念、反転し北上した。作戦は失敗し、多数の艦を失い、または傷つき、動かす油も無く、聯合艦隊は壊滅。日本海軍は組織的な戦闘の継続が不可能となった。

 あとは翌05(S20/45)年の4月に大和の沖縄特攻を最後に、各艦浮遊砲台としてささやかな抵抗をするのみであった。

 

 


 瑞鳳の写真がかなり少ないのに驚きました。