祥鳳 | バカ日記第5番「四方山山人録」

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 瑞鳳と同じく、軍縮条約による空母建造トン数制限枠を超えて、いつでも空母に改装できる前提で建造された高速タンカー剣崎(つるぎざき)級の1番艦剣崎。それを空母化したものが祥鳳である。

 

 

 デジタル彩色。


 瑞鳳の前身である高速タンカー高崎と同じく、進水時にはタンカーだったが艤装中に洋上で潜水艦へ補給する潜水母艦に変更され、両船ともしばらく未完成のまま横須賀に係留されていたが、皇紀2599(S14/1939)年1月にまず潜水母艦剣崎として竣工、軍務へ就く。なお、空母化は未完成だった瑞鳳が先に行ってしまったので、空母としての竣工は瑞鳳より遅い。最新式のディーゼルエンジンを装備した日本軍初の船だったそうだが、故障が頻発してせっかくの最高速が出ず問題となった。年内から翌年にかけて同じく潜水母艦大鯨(たいげい)と共に主に南方で潜水艦部隊の補佐を行い、錬度向上、潜水艦乗員の休息に大いに貢献した。特に剣崎は格納庫も広く中で武道大会や体育大会を行い、部屋も広く快適で「剣崎ホテル」と呼ばれ喜ばれた。

 

 

 潜水母艦剣崎。

 

 


 だが、建造から1年と10か月ほどで、剣崎は空母へ改装されることになった。皇00(S15/40)年11月、空母への改装工事着手。不調続きだったディーゼルエンジンをまるごと艦本式蒸気タービンへ取り替えたが、この工事に1年近くかかり、正式に改装が終わり空母祥鳳として竣工したのは皇02(S17/42)年の1月の末だった。

 

 


 既に前年の12月6日に真珠湾が発生、対米戦が勃発しており、祥鳳は内地で訓練にいそしんだ。余談だが、空母鳳翔との混同、翔鳳との誤記により郵便物の誤配に悩まされたという。

 初任務はラバウルへの零戦運搬だった。2月に再びラバウル方面へ出撃、米空母とニアミスしたが海戦には至らなかった。

 

 


 4月、艦戦を九六式から零戦へ更新するため横須賀へ入る。4月18日、空母から陸爆であるB-25を16機も飛ばして東京や名古屋などを奇襲空爆した「ドーリットル空襲」が勃発。被害軽微だったがいきなりの帝都空襲に日本軍の衝撃は大きく、日本や台湾にいる海軍艦艇が軒並み出張って米機動艦隊を探したが会敵しなかった。

 

 


 5月、祥鳳は米豪分断作戦であるポートモレスビー攻略部隊の直掩としてMO攻略部隊に所属。アメリカとしても反抗作戦である「蛙飛び作戦」のための「ジャンプ地」として、ポートモレスビーは重要だった。しかも日本軍の暗号を解読し「最新鋭空母」祥鳳(名前を龍鶴と誤認)の存在を掴んでいた。複雑な日本艦隊の動きを把握して「各個撃破」できる態勢を整えたものの、派遣できる空母はヨークタウンとレキシントンのみだった。

 一方日本軍も前衛部隊随伴空母が最新とはいえ小型の祥鳳1隻では心もとなく、南雲機動部隊より当初は加賀、後に二航戦(蒼龍、飛龍)の派遣を要請。海軍は諸事情を鑑み、五航戦(翔鶴、瑞鶴)の派遣を決定する。これは一航戦、二航戦に比べると錬度未熟だった五航戦の錬度向上の意味もあった。

 トラックでの作戦会議で五航戦は祥鳳を麾下に組み入れ空母3隻の集中運用を提案したが、前衛部隊より輸送艦隊の護衛がいなくなると申し込まれ却下。それならば、高速を活かし遊撃行動をとる旨提案したが「輸送部隊を安心させるため」に常に輸送船団の視界内にいることが求められた。輸送船団の速度は10ノット以下であった。

 これには第六戦隊司令官もさすがに不安を覚えたという。その不安は的中する。

 日本軍攻略部隊は5月3日にフロリダ諸島(ツラギ島他)を占領。直ちに基地建設に着手。翌日にはヨークタウンがツラギを空襲。日米とも哨戒機が空母を互いに発見しており、海戦の準備を行う。

 5月7日早朝、米偵察機が日本軍の「空母2、重巡4」を発見、直ちに攻撃部隊が向かったが軽巡2(天龍、龍田)駆逐艦2の誤認だった。米軍は攻撃しなかったが、その場にとどまった。その後、哨戒に出ていたB-17重爆が近くで「小型空母1」を発見。空中待機していた攻撃隊はそちらへ向かう。

 同日、後方の翔鶴、瑞鶴攻撃隊も米駆逐艦1とタンカー1を空母と誤認、一斉に攻撃機を飛ばし、両船を沈めたのちも米空母を探して数時間を無駄にした。

 一方祥鳳も重巡偵察機が米空母を発見しており攻撃隊の発進準備にかかったが、艦隊直掩戦闘機の収容に時間がかかり、攻撃隊発進前に米軍が襲来する。祥鳳を中心に重巡4(青葉、衣笠、古鷹、加古)駆逐艦1(漣)が輪形陣をとり、対空戦闘用意した。

 0900ころ米空母2隻より飛び立った攻撃機約90が襲来。直掩零戦3、九六式艦戦3では如何ともしがたく、祥鳳は集中攻撃を受ける。

 

 

 米軍撮影。

 

 

 凄まじい集中攻撃。

 

 

 

 祥鳳は短時間で直撃弾13、魚雷命中7で大火災が発生、大型空母や戦艦でも助からないほどの攻撃を一身に受けた。0931には総員退艦命令が出たが、0935には艦首から沈んでしまった。まさに「あっ」という間で、多くの乗員が逃げる間もなく持ち場についたまま艦と共に沈み戦死した。
 
 米軍による、日本軍空母撃沈第1号であった。日本にとっては、空母喪失第1号である。

 米軍も日本軍の空母を本格的に攻撃するのが初めてで、加減が分からなかったようである。小型空母1隻に過剰な攻撃をしている間があったら、日本軍の巡洋艦や補給部隊を叩くべきであったと報告がされている。結果として祥鳳は補給部隊を間接的に護った。

 米軍の追撃を恐れて残存部隊は浮遊物をできるだけ投げ入れていったん海域を離れ、3時間後にまた戻ってきて祥鳳生存者を救出した。

 連絡を受けた後方の五航戦は攻撃隊を呼び戻し、米空母に対し薄暮攻撃を仕掛けたがレーダーにより迎撃された。翌日、日米の機動艦隊が純粋に航空戦だけの史上初の海戦を行った。日本側は翔鶴大破、瑞鶴は無傷も飛行隊大損失。米側はレキシントン沈没、ヨークタウン中破であった。

 この珊瑚海海戦で日本軍はポートモレスビー方面から撤退し、米豪遮断はかなわず作戦失敗した。五航戦は損耗激しくミッドウェーに参加できず、日本軍は一航戦(赤城、加賀)と二航戦(蒼龍、飛龍)を一気に失った。

 祥鳳は、空母になってからわずか3か月ほどで沈没した。