先日の覚え書きでは「どうする家康」と高松城水攻めについて書いたが、実は見ていた番組は源平合戦で戦国末期について書いた前回とは異なる内容だった。前回の内容は壇ノ浦の戦いを眺めつつ、つらつらと思い浮かんだことである。



 NHKの歴史探偵は以前の歴史秘話ヒストリアの後番組だが、番組の作り方などは似ているものの、ヒストリアより冗長な場面が多く中身が薄いように感じる。エピソード44は「壇ノ浦の戦い」で、例によって日大理工学部のAIシミュレーションで「分析」を試みていたが、パラメータの設定の仕方に疑問を感じた。

※ ゲストが登場するとマーチが鳴って(三回は演奏される)時間稼ぎするなど、ネタもブラタモリやNHKスペシャルの使い回しが多い。ヒストリアと比べるとかなり低予算に感じる。

 シミュレーションでは両軍の船隊は戦闘隊形まで組んで突入し、源氏方が突撃隊形で突破を試みていたが、①こと小早船時代の戦いでこういう戦い方がそもそも可能なのかということ。


まるで銀河英雄伝説みたいな両軍の戦闘陣形

 もう一つは②平家軍に押された義経が漕ぎ手を射るよう命じたことで平家船が戦闘不能になったというものだが、無線機も拡声器もない洋上で、どうやって大将の命令を他の兵船に伝えたのか。

 最後は漕手を射られた平家軍は潮流で田野浦の岸辺に流され、そこで範頼軍にとどめを刺されるというものだが、番組ではこれが義経の計算という話だが、緒戦は平家が潮流に乗って戦いを有利に運ぶなど、③潮流の流れが両軍の戦いに組み込まれている。これは当時の軍事常識なのかということ。


番組の新発見、関門海峡のコリオリ還流が平家軍を田野浦に引き寄せた

 番組は私も訪れたしまなみ海道の村上水軍を取材して、彼らが潮の流れを熟知していたことを伝えたが、単に潮の流れを知るだけでは複数の船から成る船団がまとまった編隊行動を取ることはできない。操船の経験は船頭ごとにまちまちで、複雑な隊形を指示しうる通信手段も装置もないことがある。

 ①艦隊運動というものが創始されたのは帆船時代からで、風向計(ウェザーゲージ)が船に取り付けられてからのことである。帆船は風向きに依存し、風上(ウィンドワード)では船を自在に動かすことができ、高速での突進が可能であるが、風下(リーワード)ではほとんど動けず、防御するか退却するしかできない。


番組にも登場した能島水軍博物館の潮流体験


 風向きはどの船に対しても一定であることから、司令官は風向計を見て各艦に戦術を指令する。いちばん大きな旗を掲げている船が旗艦で、命令はこれも高いマストに掲げた信号旗や手旗信号で伝達する。艦長は風向計が風上を指すのを見て、すわ突撃(ジェネラル・チェイス)かと旗艦からの命令を待つのである。

 

それっぽい場面のある動画

 

※ 風向きに対するスタンスは国ごとに異なる。イギリス海軍は常に風上に立つことを戦闘教義としていたが、フランス海軍は風下にある場合の防御戦術と避退能力を重視していた。また、艦隊戦術はイギリスとフランスでは発達したが、スペインやオランダは一騎当千の武将同士の戦いで個人的勇気を重視していた。こちらの方が歴史的にはより長く一般的である。

 こんな運動は人力で移動する小早船や安宅船にはできない。艦隊運動以前に漕ぎ手が疲れ果ててしまい、隊形を形成する前に行動不能になってしまう。風向きに相当するものは壇ノ浦では潮の流れであるが、これは単に潮流に乗るだけで、③源平時代には潮流を利用した戦闘法はなかったと考えて差し支えない。


復元された小早船、白服が武者と見れば当時の現実に近い

 平家物語や吾妻鏡では緒戦で平家が潮流に乗り、三隊に分かれて源氏と戦闘したことは書かれているが、この場合は流れに乗った平家がほとんど動けない源氏軍に対して有利に戦ったことはある、が、弓矢以外に飛び道具(大砲や魚雷)のなかった当時では決着は船に乗り込んでの白兵戦で、それで水夫や船頭が殺されて操船不能になったことが書かれている。番組でも紹介された和田義盛の遠矢も書かれているが、流されてきた船を射ったとは書かれていない。ただ射返されているので矢の届く範囲に両軍がいたことは確かだろう。

 

 これらの船の操船要員は案外多く、小早船では乗員の三分の二が船頭や太鼓持ち、漕ぎ手などである。兵を射るより漕ぎ手を射る方がはるかに容易で命中率も高い。運動方程式から漕ぎ手の三分の一も射られれば他船に同行することはできなくなり、半数ではほとんど動けなくなる。

テレビでは漕ぎ手は一人だけだがこれは合成

 義経は吾妻鏡では若年時代は京付近に出没して山賊まがいのことをしていたという記述もあるので(この場合、義経は平泉には行っておらず藤原秀衡の庇護もなかったことになる。後の平泉入りは源氏内部の内紛を奇貨とした秀衡の政略という見方もできる)、非戦闘員を射殺するような戦い方は彼と彼の郎党には抵抗がなかったのかもしれない。が、物語では水夫の死亡は船に乗り込んだ武士に斬り殺されたことになっている。②義経がやっていたというだけで、他の源氏の武者は倣わなかったかもしれない。死因が弓矢でも刀剣でも凶器に違いはないが、八〇〇年前のお話である。

義経物では外されたことのない非戦闘員殺害は義経記(200年後)の記述

※ 矢にいちいち名前を書き入れたり、返し矢を申し出たりしていることから見て、弓矢による殺害の方が斬殺より高級な殺し方と評価されていたであろうことは分かる。名前入り弓矢で平民を殺戮することは後に下手人が分かることから恥じる意識があったのかもしれない。

 思うにこれは義経の策略などではなく、戦いを続けているうちに平家も源氏も関門海峡のコリオリ乱流に流されて、範頼軍の待ち受ける岸辺近くまで来てしまったというのが本当ではないだろうか。漕ぎ手が無事でいようがいまいが潮流に乗り、戦場は移動していたのである。そもそも義経が漕ぎ手を射るよう命じた所で、それを伝える手段がない。平家物語も吾妻鑑もそんなことは書いていない。番組の引用も都合の良い部分だけを抜き出した印象で文脈に沿っていない。

文脈無視のご都合主義引用

 総じて見ると「歴史探偵」のAIシミュレーションは、①取れるはずもない戦闘陣形、②伝わるはずもない総司令官の命令、③当時の戦術常識と乖離、と、かなりものすごい代物であることが分かる。AIが計算したからといって信用するのはいくらNHKでもあざとすぎる話だろう。

 

 何が悪いのかといえば、シミュレーションの基にした資料採否がご都合主義で定見がないことが挙げられる。入力するデータを間違えていれば、いくらAIでもちゃんとしたシミュレーションはできない。

 壇ノ浦の戦いは平家が五〇〇、源氏が八〇〇の兵船で戦っており、兵力差は当初から明らかだった。戦術の発達した帆船時代では劣勢の艦隊が戦術を駆使して優勢な敵を打ち破った事例があるが、それでもたいがいは数が多い方が勝つのである。勝敗は初より明らかだったが、緒戦で潮流を利用したことと艦隊運動に無知な源氏方の狼狽も相まって結果的には全滅したものの、平家方の各武将の奮戦もあって善戦はした。そう総括されるべきものではなかっただろうか。
 

 昨日にワグネルのプリゴジン氏が墜死したが、反乱以降のワグネルは当局に睨まれた精算中の会社状態で、彼の死がロシア社会に影響を及ぼすことはあまりないと思われる。プーチンがこれから彼のビジネスを解体し、新しい手駒に学校給食やアフリカ鉱山など利権を分け与えることになるだろう。

 戦争については動きが予想される。ワグナー軍団は今や存在しないが、プリゴジンの死の直前にロシア側からメディア発信の動きが見られたことがある。多くはウクライナの反転攻勢の限界や、ロシアに有利な和平を勧奨する内容で、発信者は西側の人間だが、水面下ではかなりのテコ入れがあったように見える。

※ 戦争に行き詰まり、補給不足で苦しんでいるのは、現在ではウクライナよりむしろロシアに見えることもある。

 プリゴジンの盟友で、先の反乱では軟禁された状態でワグネルに投降を呼びかけていたスロビキン元帥(陸軍将軍)はウクライナ方面軍の副司令官と航空総軍司令官を正式に解任された。一連の動きから、プリゴジン抹殺をピークにプーチンは戦争体制の刷新や戦略の見直しを考えているようだ。イーロン・マスクとも接触し、残存兵力を結集した乾坤一擲の決戦を企図している。ザポリージャでウクライナ軍主力を各戦線から結集したロシア軍全軍で叩き、キーウまで正攻法で進軍する計略だろう。

※ マスクは当初はスターリンクを提供してウクライナに味方する態度を取っていたが半年ほどで変節し、現在はプーチンに負け、暗殺を恐れるロシア寄りの態度を取っている。6月の反転攻勢でロシアとの交戦地域に入った途端にスターリンクが切れるなど、彼の気まぐれは多くの人命を危険に晒し、戦局に影響を及ぼすものになっている。が、バイデンとCIAのバーンズにも負けたマスクは国家反逆罪を恐れてロシアへの関与は否定している。

 バフムト戦線は整理されるかもしれない。元々この都市はプリゴジンが固執しなければ戦略的意味の乏しいものだった。今では独り歩きし、バフムトの名は両国でこの戦争を象徴するものになっているが、プリゴジンが死ねば固執する意味はあまりなく、プーチンは塩鉱山などに興味はない。

 ウクライナについては、戦術企図が今だに見にくいのは同国の秘密主義と司令部が1対1の戦いに躊躇していることがある。砲撃戦のようなものはより優れた砲と熟練した砲手がいれば、戦術を駆使して有利に立ち回ることができる。

※ ウクライナの火砲はロシアのそれより軽量で機動力に優れている。また命中率もドローンを駆使した弾着観測でロシアに勝っている。

 が、塹壕に突撃しての白兵戦はそういった技術力の優位、戦術の優位、兵士の熟練度の優位が発揮される場面が少なく、戦いは兵士の個人的優劣と数の勝負である。塹壕に残っている敵兵が攻撃するウクライナ軍より明らかに少ないと確信しなければ指揮官は攻撃命令を出さないだろう。熟達した指揮官ほどそうである。

 反転攻勢の遅さから欧米の識者には「早くやれ」という声があるが、一度突撃命令を出したら、結果は戦いが終わるまで分からない。白兵戦は軍事専門家としては投機に近い戦闘方法である。

 

 が、この焦燥感は西側だけでなく、ロシアも感じていることである。そしてロシアの指導者はザルジニーやシルスキーより明らかに軍事的知識に乏しい。兵力がほぼ同じなら会戦して一挙に決着を付ければ良いという誘惑にはウクライナよりも動じやすい。国力はロシアが有利である。失敗しても次があると考えても不思議ではない。

 ワグネルについては、これはロシアのロスジェネで本質的に反政府・反体制的な集団である。平均年齢も高く、日本なら安倍晋三のシンパやネトウヨに見られたような傾向があり、「ウクライナはナチス」などプロパガンダを無批判に受け容れているところも同じだが、ネットの中でしか暴れられないアベガーと異なり、武器を取って婦女を強姦し、老人や子供を殺して褒賞され、愛国心を主張しているところが異なる。

※ ワグネルがある世代・階層においては自己実現の場ということには注意すべきである。命知らずで勇敢な彼らは、故国では勇気も知恵も才能もあっても誰も評価してくれなかったためにワグネルをやっているのである。いびつで嗜虐的で、道理や情理に基づく説得が通じないのも、原因といえば就職氷河期の運の悪さくらいで、彼らには何の落ち度もなかったことに原因がある。これは彼らをそういう境遇に追い込んだプーチンには怒りを向けるべき相手を彼らが知ったらどうなるかということで、恐怖を感じることである。

※ 戦争の初期には民家に押し入って冷蔵庫やテレビを強奪する若いロシア兵が話題になったが、ワグネルについてはそういう話を聞かない。むしろ居酒屋での金払いの良さやサブカルにのめり込むマニアックな面が報じられ、勧誘広告は親孝行など、これは彼らの動機が世代レベルで異なることを示している。ロシアの若年兵は戦車をウクライナに売り飛ばすなど物質的な欠乏、富への渇望が欲望の多くを占めているが、ワグネル兵の動機にはそういう部分もないわけではないが、もっと抽象的、概念的なものである。

 

※ そういった理由から、彼らを既存の軍隊に組み入れることはほとんど不可能であると考える。


 過去30年に渡るソ連崩壊とプーチンの失政によって生じた幅広い年齢層のいびつな集団をプリゴジンは良く束ねていたと思うが、当初はロシア軍に組み入れようと目論んでいだプーチンも彼らの本質を知るにつけ、勧誘は諦めたというのが本当のようである。ワグネルの今後は静かに解体し、元の不平屋やネットウヨクに戻るものと思われる。
 

※ 英国国防省(25日)はワグネルの過剰な行動性や並外れた大胆さ、結果への意欲と極度の残忍性はプリゴジン自身の個性が反映されたものとしているが、私は異なる考えを取る。むしろ境遇に似た所のあるプリゴジン自身が彼らの影響を受けて人柄を変えたのである。

 

 

 なお、プーチンによるプリゴジンへの弔辞は、この人物の人柄や人生を的確に表現したものであり、この人物にしては例外的に聞く者の心情を揺さぶるものとして、先の安倍元首相に対するそれよりも情理に富むものであったことは、彼らの間にある複雑な関係を表象するものとして、留意しておいて良い点である。

 

 コンサル会社のデロイトトーマツが再生計画書を起案し、事業譲渡による再生が決まったことが報じられているが、今までこの会社が請け負った再建物件はまだまともな会社で、ビッグモーターのような「スジ悪」案件はなかったと思われるから、キラキラ会社の内部では誰にババを引かせるかで足の引っ張り合いの最中だろう。この案件を手掛けたコンサルに昇進の芽はない。退職金の計算を始めることをお勧めする。

 有名コンサル会社がのたのたしている間にビッグモーターでは売れ筋中古車の転売が進んでいる。過去に同じく中古車販売を手掛けて逮捕されたホリエモン氏によると、中古車にはどんな車でも闇市で捌くことのできる「中古の豊洲」なる市場があり、販売よりよほど儲かるという話だが、数は限られるだろうし、高値の付くクルマは多くないだろうから、これはヨタ話として聞き流した方が良いだろう。そんなものがあるなら誰も販売店などやっていないからだ。

 消えているのが普通車であることから、これは輸出ルートと思われる。ウクライナ戦争が始まって以降のロシアの輸入台数の増加は日本だけでもビッグモーターの一つや二つは軽く上回る。が、再建の基となる重要な資産であることから、あまり大がかりにやってはデロイトも債権者も黙っていないだろう。

※ 売却代金をネコババということで横領罪が成立する可能性はある。

 これを防ぐ手段はあり、倒産法の否認権の行使が有効な手段だが、キラキラも銀行も申し立ててはいない。キラキラは顧客相手にできないだろうし、銀行や保険は自分らの不祥事もあるので出足が鈍く、始めた時にはクルマは外国でもはや手遅れだろう。これは売買代金を押さえるしかないが、給料やら支払いで使ってしまったと言われたら手出しのしようがない。

※ クルマ自体は輸送中かロシア向けの埠頭にまだあると思われる。ロシアという国は我々日本人がこの国に興味を持つ以上に我々のことを知っているし、弱みにつけこんでオイシイ提案を持ちかけるのは、すでに北方領土や漁業問題でおなじみの彼らの常套手段である。大使館のエージェントが六本木に出向いて話をするだけなのだから、この程度のことは彼らにとってはマクドナルド前である。

 肝心の販売はといえば、閉業状態でほとんど動いていないように見える。ホームページは閉鎖され、店でクルマを買うこともできないようだ。不祥事はとどまるところを知らず、先日は愛媛で都市計画法違反のあざとい物件が問題になったばかりだ。顧客トラブルも次から次へと報告されている。

 私の見方ではデロイトはまだ正式な受任を決めていないと思う。計画書は出すそうだが、実行した所で残っているのは会社の抜け殻で、軽自動車や設備をバラして売るくらいしかしようのないものになる。それじゃ一月分の経費も賄えない。書いた人間も浮かばれない。受任してもデメリットの方が大きいので、ある程度調べた後に正式に拒否するのではないか。

 報道で見て気になったのは開店前の福島店で話題となった口コミ欄、この会社に限らず中身はあるあるで、このステマは自動車販売でも旅行サイトでも相当に煩わしいものである。ウソ文章を見抜く特徴はないかと思ったが、見た様子では悪い評判を先に見た方が本当のことが分かりそうである。これについては私も経験あるのでどこかで書いておきたい。
 

 先ほどは違う話を書いてしまったが、今回書こうと思ったのは別の話だった。NHKオンデマンドで歴史番組を見ながら思ったこと。

 「どうする家康」でも、これまでは悪しざまに書かれることが多かった武田勝頼や穴山梅雪がかなり見直されたように、それまでの歴史解釈、通説といったものの盲点に光を当てる傾向があり、大河ドラマはその良い表現場になっている。

 穴山については私も前から疑問に思っており、勝頼最後の城の新府城は穴山の領地韮崎にある。城跡を見ると思うが、これだけの壮大な城郭を作るのに、わざわざ史書や小説で「裏切り者」、悪性格と名指しされている梅雪の領地なんか選ぶだろうか。大河ドラマは美化しすぎにしても、現地を見て、言うほど悪人ではなかったのではないかとは思っていた。

 こういうのは資料の乏しい中では「何を信じるか」であり、何を妥当と判断するかである。証拠は後になって出てくるかもしれず、それまでは「そういう考え方もある」と留保しておくことになる。土偶が植物の精霊崇拝の道具だったという説があるように。そしてこの解釈はその時代の雰囲気や一般に流布している考えに影響を受ける。例えば段々人格者になっていく織田信長とか。かつては悪の化身だった。

 考え方を柔軟に切り替える必要があるということだけども、番組を見ていて思ったのは高松城水攻めで羽柴秀吉は城主の清水宗治を切腹させて開場させ、明智を討ちにすぐに引き返すのだけど、この「城主を切腹させて開城」という方式は秀吉以外は誰かやっていたのかということ。

 清水宗治が腹を切ったところで城や立て籠もっている城兵、毛利軍や秀吉軍には何の変化もなく、物理的ダメージは生じていない。指揮官を失ったことで防御力が低下した可能性はあるが、そもそも勝ち目のない状況で、城にはもっと有能な将士がいたかもしれない。なぜ腹を切ることが戦闘終了の証になるのか。

 調べると、秀吉の主君の信長も武田信玄もそんな開城の仕方はしていない。戦後賠償という概念は我が国は明治までなかったらしく、当事者(城主)の引き渡しが和睦条件である。討死や逃亡などで城主がいない場合は重臣やその家族、または敗残兵が引き渡しの対象となり、信玄は志賀城の戦いで、信長は有岡城で城兵を連行しているが、いずれにしろ、対象者(城主、家臣、兵卒)が前もって自害して終戦という話は聞いたことがない。

 これはたぶん「引き渡し」の変形物ではないだろうか。戦国時代も末期になり、戦いの規模が拡大していた時代では巨額の資金を表象する手段にどこでも苦労していた。信玄は甲州金、信長は茶器などで現代でいう数兆円単位の金額を表現しようとした形跡があるが、血讐の一種でより古い時代から行われている「引き渡し」は当時では賠償よりも武士に通有する手段であったに違いない。

※ 城主ないし領主の遺体を引き渡したらどうかという場合もあるが、これは以前から戦闘終了として認められる例はあったかもしれない。鎌倉時代の藤原泰衡や越前朝倉氏の朝倉義景があるが、義景の場合は死後に一族が殺害されており、また武田勝頼も死後に一族が処刑されている。両者とも逃亡しており、引き渡し時に交渉可能な状態(国主の最高高権)であるかも評価基準かもしれない。

 引き渡された城主をどうするかは受け取った者の自由になる。殺しても奴隷にしても良いし、上杉謙信みたいに寛恕して再利用しても良い。信長や信玄は本拠地まで連行して自害させたり処刑したりする例が多いが、この場合でも賠償物の利用価値を考慮する時間は十分に取られていた。

※ 引き渡しと賠償の併用というモデルはローマ法や古ゲルマン法では見られるが、我が国ではなかったと思われる。この場合は賠償の半分を当事者(後継の領主ないし家臣)が支払い、残りの半分が引き渡しというものになる。

 子供も例外ではなく、捕縛した浅井長政の子、万福丸を信長はアッサリと殺している。年が若く経験がなく利用価値に乏しいという判断だろう。関ケ原では秀頼の子が同じく斬罪になっている。子孫を絶やすためという説が通説だが、浅井の娘は出家もせずに生かされているし、秀頼の娘も同様である。女性は子を産み、政略の道具として利用価値がある。万福丸の処刑の判断には、信長には自己の所有となった「モノ」としての判断があった可能性はある。

 信長の家人だった秀吉は主人のそういった深謀遠慮はあまり考えず、敗残者は連れてきて処刑という場面しか知らなかったかもしれない。彼は武士ではなかったし、どうせ殺すなら先にやってしまえという考えだったかもしれない。その点光秀はもう少し当時の常識に近い。

 この点は秀吉も考えた形跡はあり、清水宗治は殺しても良かったが、もう少し利用価値のある相手、九州征伐で秀吉相手に叶わずとも巧妙に立ち向かった薩摩の島津氏については領地の一部を没収しただけで義久以下島津四兄弟は助命され、後の島津氏は秀吉の家臣として朝鮮出兵で活躍している。領主の義久を始め、家臣重臣の誰も傷つけられることはなかった。

 

 これが本当なら、秀吉という人物は中世日本で初めて戦後賠償という考えを創始した人物になる。万福丸や諏訪頼重は信長や信玄に引き取られた後、戦いを表象するモノとして殺されたが、秀吉はヒトには手を付けず、領地だけで紛争を終わらせたことがある。こういう切り口で歴史を見ると、また違った風景が見えてくる。

 もっとも、秀吉も徹底していたとは言い難い。後の小田原征伐では、彼はは高松城式に北条氏政を自害させて莫大な経費を用いた討伐戦争を手打ちとしたが、息子の氏直は領地を没収された後に赦されて大名となり、北条宗家は幕末まで存続する。高松式と九州式の折衷のような解決法だが、戦いをどう終わらせるかについては、信長のような下地のないこの人物は、彼なりに創意工夫を凝らして、いろいろ考えたのかもしれない。

 同じような疑問は他にもある。機会があったら書き留めておきたい。

 

 この「覚え書き」ブログは私の個人サイトからのアクセスが全体の5割で最も多いのだけど、何でこんなものを書いているかというと、サイトで連載していた「インタビュー」をまとめるのが面倒くさいからである。

 自分で言うのもどうかと思うが、あれはネットの編集記事のダイアログや紹介記事よりも読みやすいと思う。そうでないのもあるが、そういう風に編集しているからで、説明の詳細さと読みやすさの二者択一を迫られた場合、私は後者を取ることとした。

 これはどういうことかというと、本来なら3行くらいの内容を数言あるいは一文にまとめるという意味である。結局のところ、何を残して何を落とすかで、表現の性質上、落とされる内容のほうが多い。

 これは普通の食事をどろどろに溶かして病人向け流動食を作る作業に近いかもしれない。栄養価は維持しなければならないが、味は二の次となる。カロリーメイトみたいに美味しい方が良いとは思っているが、最優先事項ではない。

 それもそろそろくたびれてきたというのが本当で、元のサイトは見ての通り小説サイトなのだけれども、今では後悔しているが、その小説は完全なオリジナルではなかったことがある。二次創作ではないが、元にした版権者であるバンダイビジュアルという会社がどうにもみっともなく情けなく、最近の作品には全く興味が持てないことがある。だいたい少女革命ウテナのマネではないか。

 その前もロクなものがなく、レビューを途中で打ち切った例さえある。書いておいて「書かなければ良かった」で結語としたものもあり、素直に楽しめる作品がないことが問題である。何が悪いのだろうか、そこで距離を置きたいことがある。

 私個人はこれはカードや広告の裏にシャカシャカと書いてあとは放置みたいなものと考えている。それでも不特定多数に公開する文章なので、断り書きはしているものの、真実性の要件くらいは満たしておかなくてはならない。そもそも私に針小棒大なサヨク的志向や体質はないし、そのくらいは大丈夫だろう。

 サヨクといえば、その筋では有名な1958という人で、たぶん共産党の分派だと思うけれども、調査コメントが普通の人には調べられないレベルでやたらと詳細だが、舌鋒は悪口雑言込みで過激という人がいる。いわゆる煽動家という奴だ。私に言わせればコートにマシンガンを隠したギャングみたいなもので、こういうのには注意している。その点ウヨクは抜身の匕首で襲いかかってくるからまだ扱いやすい。

 昔の話だが、維新のウヨクを相手にしていたつもりが、いつの間にかサヨクにすり替わっていたことがあった。分かってはいたが、付き合いで少しは応戦した。

 私はサルトルやカミュを読んでいる人間を偉いとは思わないし、鶴見俊輔が偉いとは少しも思わない。鶴見のアメリカ哲学はパースの下りを読んで「なるほど」と膝を叩いたけれども、それは個人的感想や敬意であって、共通教養ではない。内田樹など人に押し付けるものではない。

 私は何かを知っている人間よりも、人と違うものを持っている人間に興味がある。それを見抜ける目を養いたいとは思っているが、ありきたりの迎合者になるつもりはない。

 理想をいうなら、言い分が正しければ、彼が東大を出ているから偉いではなく、彼の学歴や出自に関係なく、純粋に正しいことを言っているから偉いと言える人間になりたいと思っている。これは意外と難しい。理由を書くと長くなるのでこの辺で止めておく。

 経営再建大手のデロイトトーマツがビッグモーターの再建をアドバイスという報道があったが、こんな会社、名前だけですぐに消えるのではないか。世界的コンサルが名乗りを挙げたことで営業譲渡など、以前に提示した2案に近い内容も取り沙汰されているが、新設合併を本気で行う気があったのなら、銀行団は手を引かないと思う。

 同社には300億の預貯金があったとされるが、先に90億を返済したこともあり、すぐに資金繰りに行き詰まることは明らかだ。店舗は開店休業状態であることから、経営権の放棄に応じない兼重にデロイトは人員整理や店舗の売却など勧めているようだ。が、実は同社には言うほどの資産はない。

 中古車の在庫は3万台ほどで、買取り販売が機能していない現在では全部売っても大した金額にはならない。土地はほとんどが定期借地権で残り10~20年くらいの価値しかない。店舗には収去義務があり、これは不動産評価をさらに押し下げる。加えて人件費は平均500万でも年間で300億掛かる。税金や水道光熱費など他の費用もあり、災厄が従業員に降り掛かるのは時間の問題だ。

 直近まで実は黒字だったとか、平均給与が1,100万円だったとか、売り上げが5,600億あるとか悠長なことを言っていられる事情ではないと思うが。

 会社自体のポテンシャルも低い。ハイブリッドやEV、外国車を扱える従業員はおらず、その設備もないようだ。販売の主力は高年式で右から左に回せば売れる軽自動車で特別なノウハウもない。ブランドはないに等しく、社内風土は険悪で、こんな会社の社屋と従業員を引き継ぐような物好きがいるとも思えない。改革には投資が必要で、タダでももらいたくないというのがデロイトに打診された他の自動車販売業の本音だろう。

※ 高年式と低年式・・・クルマ業界では製造後0~5年の新しい車を高年式、7年以上の古い車を低年式と呼ぶ。私もよく間違える。

 

※ 新古車・・・製造方式がJITでない軽自動車に良く見られる販売方法。製造後0~3年の新しいクルマで登録のみし、前ユーザーの履歴のないもの。製造工場のストックヤードに野ざらしになっているクルマを年末に業者が買い叩いて商品化する。販売ノルマで見かけ上の販売台数を増やすためディーラーから横流しされる例もある。廉価であることが前提で、高価格化し普通乗用車化が進んだ昨今の軽自動車市場ではやがて消えていく販売方法と思われる。ビッグモーターでは扱っていない。

 

※ 整備記録簿・・・法令ではクルマに備え付けが義務付けられている整備履歴を記載した書類。概して低年式車ほど枚数が多く、きちんと記録簿の取られたクルマは良質車として評価される。車検における提出書類の一つだが書式は厳格でなく、整備士資格のない一般ユーザーが記載しても受理される。提出しない場合は後整備として検査後に備置が求められるが車検は通すことができ、備置しなくても罰則はない。ビッグモーターでは全展示車から撤去され、顧客は販売されている車の整備歴を知ることができないものになっているが、これは中古車販売店では普通のことである。が、全ての販売店がそのような扱いをしているわけではない。

 

※ 再建しないなら一刻も早く倒産手続に移行すべきである。刑事にしろ民事にしろ処分が遅れればオーナー親子が財産隠しに走ることは火を見るより明らかだからだ。迅速な否認権の行使と破産財団の確立が望まれる。

 デロイトには顧客を告発するようなカードは切れない。会社はすでに沈没船で、従業員は腹を括った方が良いと思うが、無能なリーダーというのは得てして状況判断も見切りも悪いものである。

 

 ロシア軍のゲンナジー・ジドコ上級大将の訃報が伝えられたが、57歳の氏はドボルニコフの後任のウクライナ方面軍総司令官で、昨年の戦いでは中央管区軍のラピン将軍と共同して北東部でロシア軍の崩壊を防ぐことで手腕を示した。北東部の戦いは全般としては負け戦で、ジドコは敗戦の責任者として西部管区軍のジュラヴリョフの首を差し出したが、すぐ後にラピン共々解任されて表舞台からは退いたことがある。死因は長期の闘病によるものとされるが、あのロシアなのでいちいちいかがわしい。

※ ここでジドコとラピンが解任されたことで、先に解任されたドヴォルニコフとチャイコと共に侵攻当初のロシア4管区軍の4人の上級大将(ドヴォルニコフは元帥)は全員解任されたことになる。

※ ロシアの大将以上の階級はやや複雑で、上級大将のほか、元帥(陸軍将軍)とロシア連邦元帥がある。上級大将と元帥(陸軍将軍)は階級章が同じであり、英語ではColonel general(上級大将)、General of the army(陸軍将軍)と呼称が異なるが、これは先任順で元帥(陸軍将軍)は上級大将の上位バージョンと考えられる。Marshall(ロシア連邦元帥)はイーゴリ・セルゲーエフ(2006年没)を最後に以降は任命されていない。


 この戦いが始まって以降、私は英国情報部とウクライナ参謀本部の日報を読むのが日課になってしまっているが、ここ1ヶ月ほどはストレスの溜まる展開が続いている。戦況は進まず、ロシア陣地は強固で、人口数百人の小さな村を奪回したのしないのとやられても全体地図では戦線はほとんど動かず、頼みの欧米兵器も戦術も地雷原の前に効果ないように見えるからだ。

 私ですらそうなのだから、あのチャラチャラした欧米の識者や政治家、日本の何某たちはもっとそうで、やれ、「ウクライナの戦力は枯渇した」だの、「F-16は来年まで来ない」だの、「クリミアはとても無理」、「メリトポリもダメだろう」といった論調が見られるようになり、占領を規定事実とする「政治的解決」がもっともらしく語られるようになっている。

※ 38度線のようなものが解決策として言われることがあるが、朝鮮戦争と異なりアメリカはウクライナには派兵していない。1953年の休戦協定に署名したのは金日成(北朝鮮)、彭徳懐(中国)、クラーク(アメリカ)で、韓国の李承晩は署名を拒否している。

 が、これらの見方は全てウクライナ側から見た、欧米のニュースに偏った一面的なものといえるかもしれない。ウクライナが苦戦しているのを見て、相方のロシア軍やロシアの国力を必要以上に過大評価するような見方である。戦車や航空機を十分に供給できないのはロシアも同じである。

 ウクライナでは女性兵士が前線に立つ姿が見られるようになっているが、彼女らはほぼ間違いなく昨年までは普通の市民である。音楽家だったり、ブティックの経営者だったり、あるいは普通の大学生など色々だ。昨年志願して訓練を終えて出てきたのが今ごろと見れば不自然でもないが、男尊女卑のロシアや一部の識者どもには「戦力の枯渇」に見えるようだ。

※ 女性兵士はおろか一般の勧誘さえうまく行っていないのがロシアの実情である。予備兵力はむしろウクライナの方が潤沢に持っている。その上で女性が戦場に進出し、予備兵力のベースは二倍になっている。

 占領地についても、こと5月以降はロシア軍が占領したり再奪回した街は一つもないことに留意されたい。村落を奪回しているのはいつもウクライナ側で、ロシアはバフムト以降はどの戦区、どの都市でも占領地を失うばかりで増えることがなかったことが忘れられている。

 戦力の選択と集中という考えから見れば、ウクライナは複数の戦線に部隊を展開しているが、本来は一ヶ所を集中して攻撃すべきである。分散して攻撃しなければいけないのは地形の都合上、一点集中では糧秣拠点と補給線を維持できないことがある。が、どの戦線でもロシアは兵力の優位を生かした攻勢作戦には出ていない。

 クビャンスクが挙げられるが、ここのロシア部隊は寄せ集めで、兵器も新旧各式で気化爆弾まで使って都市に迫ってはいるものの、主力部隊でもないウクライナの一支隊に苦戦して進めない有様である。もっと不思議なのはマリンカとアウディウカで、ドネツク近郊のこの二村落は一年以上、カディロフ兵団を含む十倍する軍勢で攻め立てても陥落の気配さえない。200人の守備隊に1万人のカディロフ軍が敗走させられた事例さえあった。

 地雷についても、ウクライナ側の被害ばかりが取り沙汰されるが、これがロシア軍の作戦行動を縛っていることについてはほとんど言及がない。最近ロシアは地雷除去部隊を創設して自ら設置した地雷の除去を始めている。ウクライナは前から取り組んでいるが、これは仮に突破口を見つけたとしても、ロシア軍が現在以上に迅速に行動できないことを示している。

 

※ 地図を作っていない上に情報を部隊内で共有もしていないため、作戦行動中に地雷原に嵌って爆破されるロシア戦車が続出している実情がある。

 

 クビャンスクのウクライナ軍は明らかに弱く、本国から近く、大軍を集中できるこの場所で攻勢を掛ければリマン、ハリコフとキーウへの最短コースを取れるはずだが、やりたくでもできないことがある。「緩慢」な両軍の動きにはこういった事情を掛け合わせて考える必要がある。

 戦いが進んだ結果、南部ザポリージャの要塞線も含め、ロシア軍は明らかに弱体化している。砲撃戦でウクライナが優位に立っていることは前回でも述べたが、破壊された武器の補充がなければ、これはロシア軍には損害率の増大を意味する。6月以降ウクライナ軍が破壊した火砲は5,200基だが、補充が十分でなければ、ロシア砲兵隊の損害率は当初の2倍を超えている可能性がある。

※ 部隊の規模も縮小しており、4管区軍の指揮官は今や中将クラスである。

 火砲と同時に装甲兵員輸送車やトラックの喪失も同率で増えていることがあるが、兵員移送キャリアの損失が当初から多いことはロシア軍が構築した要塞線が広大すぎ、塹壕陣地を散兵線でしか維持できないことがある。ここに来て戦車や戦闘ヘリの喪失も増えており、ウクライナ部隊が近接し、散兵では要塞を維持できなくなっていることが伺える。

※ 航空機はアウトレンジ攻撃が基本だが、陣地に近接した敵を攻撃するには地対空ミサイルの射程内に踏み込んで攻撃する必要があるため損害が増えることが予想されていた。

 トクマク要塞については、ウクライナ軍は国道18号線を軸にしたメリトポリへの道とマラ・トクマチカを起点としたトクマクへの回廊でボクサーが左右に拳を降り出すように交互に攻撃を続けている。HIMARSで司令部への攻撃も行い、要塞は徐々に能力を減じつつある。

 ロシア軍の兵力が戦線の一正面を支えるのにすら不十分なことは、この戦争のグランド・デザインがそもそも誤っていたことがある。戦争を始めるにあたり、プーチンはスターリンやナチスドイツがしていた戦いをイメージしたかもしれない。これらは百万規模だったが、現在の戦いは戦線は独ソ戦より長いが、展開している部隊は数十万で、ウクライナも予備兵力はまだ潤沢にあることがある。

※ 今も昔も戦争の要諦は①正しい戦略、②指揮の統一(目標の明確さも含む)、③適切な拠点、④連絡線(補給、通信)の確保である。

 識者が危惧することは、ウクライナに入れ込みすぎたロシア軍が同地で壊滅し、現代軍隊の体をなさなくなり、一時ワグネルに首都まで迫られたこともあり、ロシア国家の存立そのものが危うくなることがある。イラクにアフガニスタン、そしてリビア、残虐な独裁者が国民を殺し続けているシリアを除けば、欧米諸国が好ましくない政権を倒した結果にはロクなものがなかった。

※ IS(元イラクの公務員)はアメリカ軍が作ったものだし、アフガニスタンでも高等教育を受け英語を話せる人材の大半を雇用していたのはアメリカ企業や機関だった。独裁政権を倒しても、復興に必要な人材を自国の都合で根こそぎ奪ってしまっては地域の発展は望めないし、貧困や搾取から逃れることもできなくなる。侵攻を決定した彼らに長期的なビジョンのなかったことは明白である。

 が、これらの結果には彼ら自身の認識不足、資源の不足、謙虚さのない傲慢な統治態度も少なからずあっただろう。ダボス会議では花形であった彼らは一時代前の同様の危機に直面した過去の政治家と比べても資質に欠け、無能であり、歴史から学ぶこと少なく、凡庸で寛容と創造性に欠けていたことがあり、停戦云々を論じるなら、ソ連崩壊以降の30年がどんな時代であったかという反省なしには論ずることはできないものになっている。

 

※ どうしてこういう欠陥人間が政府の要職や国連職員、あるいは大学の教授をしているかについては、各々の国の教育に重大な欠陥があるということかもしれない。プーチンが欧米社会に呪詛じみた感情を持っているのも、このあたりに原因があるように思われる。

 

 当然といえば当然、案の定メインバンクに融資継続を拒絶されたビッグモーターだが、ついでに破産申立もしてもらい、さっさと整理するのが世のため人のためのように思える。



 STV(北海道のテレビ局)では、ハズレ車を掴まされたユーザーの怒りのコメントが報道されていたが、こういった件はむしろ平易といえ、納品書もあるのだから、債務不履行で修繕なり代金減額などの交渉をすればどうにかなるだろう。

 買い取りについては、民商法というのは「悪い売主」を成敗することには熱心で、この分野は判例も学説もそれなりの蓄積があるが、ビッグモーターみたいな「悪い買主」は想定しておらず、学者さんもそろそろいつまでも泣き寝入り被害者の「かよわい買主」スキームから離れた方が良いように思える。

 というより、いろいろ書いてある民法なる法律が、多種多様で権利義務も各々異なる諸々の現実事象にコロラリーとして適用できるという考え自体が妄想で、法学部で勉強すると案外成り立ってしまうということが、永い時間を掛けて洗脳された実体のない思い込みであることに、そろそろ気づくべきである。

 この件で問題なのは、法の条規が抜け穴だらけであることを良いことに、国家社会や保険制度、取引業者やユーザーに不利益を転嫁することに悪意のある事業者については、時間稼ぎで他の誰かの責任を問うことなく、もっともらしい抗弁など認めず、相応の責任を取らせるべきということである。

※ いわゆる「サヨク」の議論の弱いところがこれである。

 早ければ早いほどよい。そのために我々は国会議員を選んでいるのだし、それがかの会社に対して特に不利な法を制定して施行したとしても、それが大したこととは思えないことがある。

 

※ 中古車売買に問題が多いことはずいぶん前から議論されてきたのだから、宅建業法と同じく自動車取引法といった法律を作れということは言える。

 と、このように書いたのは、自動車売買の場合、頼りになるのが民法と標準約款しかなく、いわゆる識者が字目の細目に拘泥して、やれ刑事責任を問えるの問えないのと、時間ばかり浪費して問題を有耶無耶にする我が国の悪癖がこの件でも頭をもたげてきていることがある。

 ひどいのになると、「会社の名前を変えて半年もすれば忘れる」とか、「銀行はその方向に誘導すべき」といった訳知り顔の評者までいる。倒産法の第一義は経営者ではなく従業員の雇用の救済だが、自ら不正に手を染めた従業員にこの特権は認められない。これは会社再編や倒産法の問題ではない。

※ いちばん懸念されるのが救済措置を取ることでビッグモーター的な手法が業界全体に拡散し、業界がますます悪化することである。

 この事件は実を言うと被害者らしい被害者はいない。ビッグモーターの経営は悪辣だが、水俣病のような公害を引き起こしたわけでもない。中古の自動車売買にはずいぶん前から問題が指摘されていた。自動車自体の性能向上もあり、また、長くても10年ほどで買い替えるという売買の性質から、割に合わないものとして紛争解決が放棄されてきた分野でもある。

 それゆえ、他の問題より全体の問題点が俯瞰した形で見えることがある。民法や刑法の議論をそのまま当て嵌めることは適当でない。これらはいったん捨象して、自動車産業の現況や社会科学の分野など踏まえながら、非典型の問題として捉えるよう心がけることを勧めたい。

(追記)
 いちばん上に書いてある通り、このブログは「覚え書き」で、書いた本人も責任を持つつもりはないし、後で見れば行き過ぎ、間違いは当然あるものと思っている。なので「書き捨て」、思いつくまま手短に書くようにしている。そもそも見てもらうつもりならAmebaブログなど選ばない。書いているのは他人はどうでも良く、自分の考えをまとめるためである。

 ウクライナ戦争では厭戦論が聞かれるようになっているが、これは全地球的に異常なこの暑さのせいもあるかもしれない。もっともウクライナの首都キーウは北緯50度で、これは札幌よりも北で我々が感じているほどには彼らは暑くない。

 もっとも戦場が我々の地域ほどに暑ければ、現在のようなペースで戦いが続いていたかどうかには疑問の余地がある。戦線が膠着して少し涼しくなった所でクレムリンは総反撃を指令しているが、邪魔になるのが彼らが仕掛けた地雷である。地雷除去路も作らず、地図もなくデタラメに設置した大量の地雷は始末のしようがなく、今さらながら除去部隊を作って作業を始めている様子である。

 プーチンは自爆ドローンの大量生産を指令したが、ウクライナはもう少し進んだ認識をこの兵器に対して持っている。ドローンによる体当たり戦法は元より弥縫的な作戦で、重い爆弾を積んだドローンは一度飛び立つと電池容量の制限から出撃は片道コッキリで帰還できないことがある。

 我々はエアコンの効いた机上で彼らが撮影したドローン映像を視聴しているが、実はこれを撮るのは大変な作業である。ドローン操作兵は敵のすぐ間近まで進出し、塹壕や廃屋に隠れてドローンを操縦し、作戦が終了したらすぐに引き揚げる。その場にいては周囲にいる敵兵に目視で見つけられて殺されてしまうからだ。

※ 多くの場合ドローンの飛行距離は4~5キロである。操縦自体は軍用なので相当長距離でもできる。

 夜間の移動ではヘッドライトさえ点けない。暗視ゴーグルがあるとはいえ、深夜に未舗装の道を時速80キロで疾走することには技術的な困難もある。付近で砲弾が炸裂したら運転手は一瞬にして視界を失い、車はもんどり打って路上から放り出される。車もハイラックスやミニバンで、我々が路上で見るものと大差ないものである。

 ロシア製のドローンは性能仕様についてはウクライナ製と大差ないか、やや劣る程度である。ウクライナ戦争はドローン戦争とも呼ばれるが、戦い自体は以前の塹壕戦に兵器が一つ付け加えられただけにすぎず、ドローンは兵士を戦場のリスクから解放する魔法の兵器ではない。

 自爆ドローンについては増産を指示したプーチンと異なり、ウクライナの技術者はこの戦法を浪費的と見做している。もう少し性能の良い爆弾を積み、攻撃して帰還できるようなユニットが望ましく、この一年で弾薬も様々な種類が開発されている。初期の鹵獲した迫撃砲弾や手榴弾の転用といったものではなく、限定的ながら装甲車も破壊できる弾薬も開発されている。

 最近注目された舟艇型ドローンについては炸薬も数百キロと大量に積むことができ、概して非装甲の現代艦船相手なら一隻で中大破させうる威力を持っている。モーターボート型が報道されたが、真打ちは海上で見つけにくい半潜水型である。航続距離は約千キロで、これはルーマニア国境から黒海を廻り込んでロシア黒海艦隊の根拠地ノヴォロシスクを攻撃できる距離である。潜水艦まで攻撃できればロシアの黒海での制海権は消滅するだろう。

※ ロシア護衛艦はドローンの接近を迎え撃つことのできる艦砲や銃座を備えているが、潜水艦にそういう装備は普通はないことがある。接敵したら40ノットに増速し、50m潜水して追尾できるだけでもかなりの脅威になる。

 長距離型のドローンはモスクワ攻撃にも用いられたが、これは低速の巡航ミサイルというべきもので、性能は本家ミサイルに遠く及ばず、数も少なくモスクワ市民向けのテロ攻撃にしか使い道がないようである。私としては戦略的に意味がないから止めた方が良いと思うが、ウクライナの政治家の考えは違うらしい。

※ むしろ士気高揚の策と見るべきで、軍事的効果は絶無に近いものである。

 そんな使い方よりは、もう少し地味な暗殺ドローンを使い、工作員をモスクワに潜入させてゾロトフやパトリシェフなどプーチン以外の取り巻きを爆殺した方が良い。プーチンよりは難易度が低いとはいえ、彼らにもそれなりの警護があるはずだが、難易度が高ければ国会議員などもっと格下の相手でも十分である。プーチンはスターリンではないし、ジューコフのように国民に人気のある将軍でもない。ブラック企業のようなロシアに揺さぶりを掛ける方法は色々ある。

 

※ ゲラシモフとショイグがいるが、連中は軍人なのでプーチン同様難易度は高いと思われる。

 

 私のブログが通報されているというので該当の記事を見たが、なぜゼレンスキーの番組の感想が通報対象になるのか、私にも分からない。

 ビッグモーターについては報道により様々な不正が明らかになっているが、中でも驚きは査定で買い取った車に後日クレームを付け、多額の賠償や返金を求めるその手口である。曲がりなりにも法治国家でこのような行為の横行を許せば、対価交換を前提とする資本主義社会のありように深刻な傷跡を残すと考えられる。

 民法562条以下は契約不適合責任における完全履行請求権、代金減額請求権、損害賠償請求権および解除権について定めているが、隠れたる瑕疵においては権利を行使できるのは買主が瑕疵の存在につき善意かつ無過失の場合だけである(通説)。ケース・バイ・ケースで判断する必要があるが、指定工場や検査機器を備えた業者が引き渡し後数か月経過して賠償請求するなど常軌を逸している。挙げられた事例からはビッグモーターは「過失あり(買主の責めに帰すべき事由)」といえ、そもそも解除などできる立場にない。

 が、報道にあるような脅迫的売買の事例は、口伝えで末端ユーザーにも「クルマの常識」として浸透しているように見える。

 

 諸外国と比べ日本の自動車事情で奇妙な点はどこを見回しても黒と白のクルマしかなく、多くは箱型で、良くコーティングされて使用感があまりないことである。ガラスには保護フィルム、ハンドルにはハンドルカバーが掛けられているが、これは売却の際にイチャモンを付けられることを恐れているかのようにも見える。駐車の際のサンシェードも常識だ。

 こういった方々は運転はあまり上手くなく、高速道路で延々と追越車線を走り続けるなどは典型である。加減速のタイミングもおかしく、少し上り坂があるとすぐ減速する。逆にやたらと速度を上げることもあり、こういったドライバーには道路標識の速度表示など無きがごときである。どちらも一定の速度で左右にふらつかずに走るという当たり前のことができない。

 

 見かける例があまりに多いので「トヨタ製のクルマはまっすぐ走らない」と偏見さえ感じてしまうほどである。雨天時でも晴天時と同じ速度、車間距離で走行するドライバーもいるが偏差値低いんだろうと思わせる。


 私も聞いたことがあるが、業者によっては運転やクルマの購入についてもあれこれ口を出す例がある。

1.エンジンブレーキはエンジンが故障するからしない方が良い。
2.急ハンドルは車体が歪んで査定が安くなる。
3.コーティングをしないとクルマが錆びる。
4.エンジンはなるべく廻さない。
5.赤色や青色はすぐ色落ちする。


 他にもあるだろうが、これはどこかの社会主義国の工業製品だろうか?

 色に個性がないことも買取対策だろうか、日本以外の国、例えばヨーロッパやアメリカではクルマは道具でガンガン使い倒すもので、多少色がくすんでいたりキズがあっても平気だが、ユーザーは好きな色やオプションを選択して個性を楽しんでいる。車種も走行性の良いセダンやハッチバックなどで、平均速度もずっと高い。

 箱型のクルマが多いことについては、物理法則から重心は上がり抵抗が大きくなって燃費が悪化し、加えてサスペンションストロークの小さいクルマは乗り心地も悪いが、中だけはやたらと広く、10歳の子供が立って着替えができる高さが標準のようである。そのせいで車重も重いのだが、今の子供はドライブを楽しむよりも後席でスマホやDVDに嵩じることの方が好きなようである。

 が、台風などでこの種軽自動車が軒並み横倒しになっているのを見ると、「これは欠陥車だろう」と思えるし、JNCAPでのその手のクルマの側突映像を見てもほぼ100%横倒しで、いくら技術が進歩しても物理法則には逆らえないことが伺える。操安性も良くないし、安い車だとピッチングやローリングで頭が小刻みに揺れて気持ち悪いのだが、まともでないのが標準なので我が国ではこれが自動車なのだろう。操縦性が悪いから運転はますます萎縮的、腫れ物に触るかのようになっていく。

 これらは必ずしもビッグモーターや販売業者の責任ではないが、少し状況を俯瞰すると日本の自動車ユーザーとは、これら業者にとっては都合の良いセールスバンク(クルマ保管人)でしかなく、業者は買う側よりも売る側に都合の良いクルマを押しつけ、過走行の車は海外に売りつけ、展示品のようにユーザーが自費で手入れした低走行の車を右から左に廻すだけの「ビジネス」にしか見えないことがある。

 これはユーザーに対する侮辱であるのみならず、生命や財産をも脅かすものである。スキルの低い運転者は事故で犠牲になる確率が高いし、売却した車の担保責任まで追及されては財産も危うくなる。欺瞞や搾取から逃れる唯一の方法はクルマを降りることである。

 昭和時代の著名な自動車評論家、徳大寺有恒氏は「クルマで利殖を考えるのは間違い」と喝破していた。当時はバブルで資産家が投機目的でフェラーリやポルシェを購入し、値上がりするまで保管しておくことが流行っていた。バブル崩壊でそれらの多くは二束三文で売却されたが、フェラーリを始め数十台のクルマを乗り継いだ氏にはクルマで儲けるという発想自体がなかった。

 「機械は使えば減るもの、乗らなくてどうする」が氏の持論であったが、ピカピカの黒いC-HRなどに乗る若い人などを見ると、クルマが哀れに見えてくるのと同時にこの国の自動車文化の底の浅さ、貧寒さに後ろ寒い思いがする。


(補記)
 私自身はどうかというと、最初のクルマはドイツ車で、その後20年近くドイツ車を乗り継いでいたことから、ドイツの自動車工業にはそれなりの尊敬を払っていたし、事実、かつてのドイツ車の操安性の性能は高かった。初心者向けには素直な操縦性の絶対に破綻しないクルマが望ましいが、エーラ・レシエンやニュルブルクリンクで鍛えたクルマは私の操縦技術を軽く上回り、絶対の安心感を与えてくれるものでもあった。

 「自動車が10キロメートルを走行することで、その自動車の全性能が試されない場面は絶対にない」とは、VWのピエヒ博士の金言であるが、彼の作った車は雨の日でも風の日でもその言葉通りの能力を示した。ありきたりな走行でも完全にテストして絶対に安全な工業製品を提供する義務がメーカーにあることを示した言葉は真実だが、同様の言葉は水野和敏など日本の一流エンジニアにも聞かれるものである。

 現在はどうかというと、上のようなドイツ車信仰はとうに消え、国産車で十分と考えている。ごく少数だが国産でもきちんと作られたクルマはあり、技術も格段に進歩していることから一部のクルマはドイツ車に引けを取らない。あるいは上回るクルマさえある。信頼性はどちらもほぼ同じで、維持費やリコール対策は国産の方がずっと使い勝手が良い。見栄以外で外車に乗る理由はなくなっている。

 ドイツ車が劣化したことには、ドイツの教育が2000年以降の改革で変化したことも大きい。アメリカ流の即戦力主義が大学にも導入され、エンジニアの知的教養や水準がそれ以前よりも低下したこともある。改革後のエンジニアが開発の主力になっており、新技術の導入には熱心だが、地道で費用の掛かる開発は軽視されている。現在主力のフルパネルの電制ハイブリッドやEVなど10年後には廃車の山を築くのではないか。

※ あと、リーマン危機がある。買い替えを促すため低年式車に課税するという政策はドイツが始めたことで、これは高品質、高耐久性という従来のドイツ車品質に背理していたことがある。この政策は車齢13年以上のクルマについては我が国でも導入されているがハイブリッド車は除外されている。

 「クルマは下駄」というのが今の私の考え方であるが、最近の様子を見るとその下駄にすら適さないようなクルマが溢れていることには危機感を感じる。最大の問題である地球環境問題に立ち向かっているとも言い難く、一部で実験室レベルの成果はあるが、全体がこれ(ミニバン、箱軽、SUV)ではどうしようもない。評価できるクルマがないことから、最近はクルマに対する興味を半ば失いつつあるというのが本当のところである。だいたい下手くそが引き起こした渋滞でノロノロ運転を強いられるなら何に乗っていても同じである。

 

 クルマやクルマ業界について書くことは苦手である。面白い文章になるはずがなく、また、少数の例外を除き、面白い文章に出会った試しがないこともある。