この「覚え書き」ブログは私の個人サイトからのアクセスが全体の5割で最も多いのだけど、何でこんなものを書いているかというと、サイトで連載していた「インタビュー」をまとめるのが面倒くさいからである。

 自分で言うのもどうかと思うが、あれはネットの編集記事のダイアログや紹介記事よりも読みやすいと思う。そうでないのもあるが、そういう風に編集しているからで、説明の詳細さと読みやすさの二者択一を迫られた場合、私は後者を取ることとした。

 これはどういうことかというと、本来なら3行くらいの内容を数言あるいは一文にまとめるという意味である。結局のところ、何を残して何を落とすかで、表現の性質上、落とされる内容のほうが多い。

 これは普通の食事をどろどろに溶かして病人向け流動食を作る作業に近いかもしれない。栄養価は維持しなければならないが、味は二の次となる。カロリーメイトみたいに美味しい方が良いとは思っているが、最優先事項ではない。

 それもそろそろくたびれてきたというのが本当で、元のサイトは見ての通り小説サイトなのだけれども、今では後悔しているが、その小説は完全なオリジナルではなかったことがある。二次創作ではないが、元にした版権者であるバンダイビジュアルという会社がどうにもみっともなく情けなく、最近の作品には全く興味が持てないことがある。だいたい少女革命ウテナのマネではないか。

 その前もロクなものがなく、レビューを途中で打ち切った例さえある。書いておいて「書かなければ良かった」で結語としたものもあり、素直に楽しめる作品がないことが問題である。何が悪いのだろうか、そこで距離を置きたいことがある。

 私個人はこれはカードや広告の裏にシャカシャカと書いてあとは放置みたいなものと考えている。それでも不特定多数に公開する文章なので、断り書きはしているものの、真実性の要件くらいは満たしておかなくてはならない。そもそも私に針小棒大なサヨク的志向や体質はないし、そのくらいは大丈夫だろう。

 サヨクといえば、その筋では有名な1958という人で、たぶん共産党の分派だと思うけれども、調査コメントが普通の人には調べられないレベルでやたらと詳細だが、舌鋒は悪口雑言込みで過激という人がいる。いわゆる煽動家という奴だ。私に言わせればコートにマシンガンを隠したギャングみたいなもので、こういうのには注意している。その点ウヨクは抜身の匕首で襲いかかってくるからまだ扱いやすい。

 昔の話だが、維新のウヨクを相手にしていたつもりが、いつの間にかサヨクにすり替わっていたことがあった。分かってはいたが、付き合いで少しは応戦した。

 私はサルトルやカミュを読んでいる人間を偉いとは思わないし、鶴見俊輔が偉いとは少しも思わない。鶴見のアメリカ哲学はパースの下りを読んで「なるほど」と膝を叩いたけれども、それは個人的感想や敬意であって、共通教養ではない。内田樹など人に押し付けるものではない。

 私は何かを知っている人間よりも、人と違うものを持っている人間に興味がある。それを見抜ける目を養いたいとは思っているが、ありきたりの迎合者になるつもりはない。

 理想をいうなら、言い分が正しければ、彼が東大を出ているから偉いではなく、彼の学歴や出自に関係なく、純粋に正しいことを言っているから偉いと言える人間になりたいと思っている。これは意外と難しい。理由を書くと長くなるのでこの辺で止めておく。