先ほどは違う話を書いてしまったが、今回書こうと思ったのは別の話だった。NHKオンデマンドで歴史番組を見ながら思ったこと。

 「どうする家康」でも、これまでは悪しざまに書かれることが多かった武田勝頼や穴山梅雪がかなり見直されたように、それまでの歴史解釈、通説といったものの盲点に光を当てる傾向があり、大河ドラマはその良い表現場になっている。

 穴山については私も前から疑問に思っており、勝頼最後の城の新府城は穴山の領地韮崎にある。城跡を見ると思うが、これだけの壮大な城郭を作るのに、わざわざ史書や小説で「裏切り者」、悪性格と名指しされている梅雪の領地なんか選ぶだろうか。大河ドラマは美化しすぎにしても、現地を見て、言うほど悪人ではなかったのではないかとは思っていた。

 こういうのは資料の乏しい中では「何を信じるか」であり、何を妥当と判断するかである。証拠は後になって出てくるかもしれず、それまでは「そういう考え方もある」と留保しておくことになる。土偶が植物の精霊崇拝の道具だったという説があるように。そしてこの解釈はその時代の雰囲気や一般に流布している考えに影響を受ける。例えば段々人格者になっていく織田信長とか。かつては悪の化身だった。

 考え方を柔軟に切り替える必要があるということだけども、番組を見ていて思ったのは高松城水攻めで羽柴秀吉は城主の清水宗治を切腹させて開場させ、明智を討ちにすぐに引き返すのだけど、この「城主を切腹させて開城」という方式は秀吉以外は誰かやっていたのかということ。

 清水宗治が腹を切ったところで城や立て籠もっている城兵、毛利軍や秀吉軍には何の変化もなく、物理的ダメージは生じていない。指揮官を失ったことで防御力が低下した可能性はあるが、そもそも勝ち目のない状況で、城にはもっと有能な将士がいたかもしれない。なぜ腹を切ることが戦闘終了の証になるのか。

 調べると、秀吉の主君の信長も武田信玄もそんな開城の仕方はしていない。戦後賠償という概念は我が国は明治までなかったらしく、当事者(城主)の引き渡しが和睦条件である。討死や逃亡などで城主がいない場合は重臣やその家族、または敗残兵が引き渡しの対象となり、信玄は志賀城の戦いで、信長は有岡城で城兵を連行しているが、いずれにしろ、対象者(城主、家臣、兵卒)が前もって自害して終戦という話は聞いたことがない。

 これはたぶん「引き渡し」の変形物ではないだろうか。戦国時代も末期になり、戦いの規模が拡大していた時代では巨額の資金を表象する手段にどこでも苦労していた。信玄は甲州金、信長は茶器などで現代でいう数兆円単位の金額を表現しようとした形跡があるが、血讐の一種でより古い時代から行われている「引き渡し」は当時では賠償よりも武士に通有する手段であったに違いない。

※ 城主ないし領主の遺体を引き渡したらどうかという場合もあるが、これは以前から戦闘終了として認められる例はあったかもしれない。鎌倉時代の藤原泰衡や越前朝倉氏の朝倉義景があるが、義景の場合は死後に一族が殺害されており、また武田勝頼も死後に一族が処刑されている。両者とも逃亡しており、引き渡し時に交渉可能な状態(国主の最高高権)であるかも評価基準かもしれない。

 引き渡された城主をどうするかは受け取った者の自由になる。殺しても奴隷にしても良いし、上杉謙信みたいに寛恕して再利用しても良い。信長や信玄は本拠地まで連行して自害させたり処刑したりする例が多いが、この場合でも賠償物の利用価値を考慮する時間は十分に取られていた。

※ 引き渡しと賠償の併用というモデルはローマ法や古ゲルマン法では見られるが、我が国ではなかったと思われる。この場合は賠償の半分を当事者(後継の領主ないし家臣)が支払い、残りの半分が引き渡しというものになる。

 子供も例外ではなく、捕縛した浅井長政の子、万福丸を信長はアッサリと殺している。年が若く経験がなく利用価値に乏しいという判断だろう。関ケ原では秀頼の子が同じく斬罪になっている。子孫を絶やすためという説が通説だが、浅井の娘は出家もせずに生かされているし、秀頼の娘も同様である。女性は子を産み、政略の道具として利用価値がある。万福丸の処刑の判断には、信長には自己の所有となった「モノ」としての判断があった可能性はある。

 信長の家人だった秀吉は主人のそういった深謀遠慮はあまり考えず、敗残者は連れてきて処刑という場面しか知らなかったかもしれない。彼は武士ではなかったし、どうせ殺すなら先にやってしまえという考えだったかもしれない。その点光秀はもう少し当時の常識に近い。

 この点は秀吉も考えた形跡はあり、清水宗治は殺しても良かったが、もう少し利用価値のある相手、九州征伐で秀吉相手に叶わずとも巧妙に立ち向かった薩摩の島津氏については領地の一部を没収しただけで義久以下島津四兄弟は助命され、後の島津氏は秀吉の家臣として朝鮮出兵で活躍している。領主の義久を始め、家臣重臣の誰も傷つけられることはなかった。

 

 これが本当なら、秀吉という人物は中世日本で初めて戦後賠償という考えを創始した人物になる。万福丸や諏訪頼重は信長や信玄に引き取られた後、戦いを表象するモノとして殺されたが、秀吉はヒトには手を付けず、領地だけで紛争を終わらせたことがある。こういう切り口で歴史を見ると、また違った風景が見えてくる。

 もっとも、秀吉も徹底していたとは言い難い。後の小田原征伐では、彼はは高松城式に北条氏政を自害させて莫大な経費を用いた討伐戦争を手打ちとしたが、息子の氏直は領地を没収された後に赦されて大名となり、北条宗家は幕末まで存続する。高松式と九州式の折衷のような解決法だが、戦いをどう終わらせるかについては、信長のような下地のないこの人物は、彼なりに創意工夫を凝らして、いろいろ考えたのかもしれない。

 同じような疑問は他にもある。機会があったら書き留めておきたい。