日産元会長のカルロス・ゴーン氏が2019年末に引田天功ばりの脱出マジックでレバノンに逃亡したことは今はもう古い話になりつつあるが、そのゴーン氏がレバノンの裁判所で日産の元役員相手に10億ドルの損害賠償請求を起こしたといいう話はちょうどフランスで彼の二回目の逮捕状が請求されたこともあって、新聞を「少し」賑わせた。
実際に執行するとすれば管轄の問題とか相互の保証があるかといった話になるが、それ以前の問題として彼が訴えた役員ども、多くはゴーン氏の子飼いである、に、彼はそんなに報酬をやっていたのか。聞けば請求額の半分は損害賠償で残りの半分は慰謝料という話だが、半分の5億ドル(700億円)という金額さえ彼の20年間の役員報酬(200億円)を大きく超える。
日産の報酬体系は社外含む9人の役員全員につき株主総会で一括して報酬案を提示し、それを報酬委員会で分配するというもので、認められた報酬の大半が実はゴーン氏の報酬だったことから、仮に請求が認められたとしても彼らには支払能力がない。彼も分かっているはずだが、どうしてこんな訴えを起こしたのだろうか?
二回目の逮捕状というのはRNBV(ルノーと日産の合同会社)からムナ・セペリというルノーの副社長だったイラン人の女性弁護士に2012年から数年に掛けて50万ユーロの不透明な報酬が支払われていた件で、同社の報酬委員会の役員はゴーン、ケリー、セペリの三名のみでRNBVは同じオランダのNMBV同様、ルノー・日産・三菱の会長だったゴーン氏の報酬支払機関だったことから、会長以外で唯一人報酬を受領していたセペリ氏が浮いていたということはあった。どうやらフランスは三社を股に掛けたゴーン氏の報酬スキームを完全に違法と見ることに決めたらしい。
※ ルノーのシュバイツァー前会長が日産に提示したゴーン氏の報酬額は20億円だったが、実際にその金額が役員報酬として計上されたことはない。報酬は最大でも10億円を超えたことはなく、そこで迂回しての報酬スキームが必要になった。提示された金額がどういう根拠で決められたのかは特に分かっていない。
※ 20億円というのは一定の上限で、日産のほかはGM、VWの会長がほぼ同額である。ゴーン氏がルノー副社長(実質的には社長)と日産社長を兼任していたことを見れば、あながち不当に高額とはいえない。
※ 一つの仮説として、日産は執行役員を含む日本人役員と外国人役員とで異なる報酬体系を敷いていたが、「日本人は外国人の半分」という内規があったのかもしれない。税務申告上の問題とおしなべて給与の低い邦人同級社員との均衡を考慮したものと思われる。そうなると元社長の西川氏は9億円で現トヨタ社長と同額であり、国際基準から見て妥当と言える金額になる。
※ 報酬(額ではなく差別)は西川氏がクーデターを起こした主要な動機であり、また日産社員の多くの賛同を得られた理由の一つとされている。
同時期のEUではイラン核問題があり、経済制裁を含む議論が行われていたことから、イラン市場に並々ならぬコミットメントを示していたゴーン氏が政治工作を指示した可能性はある。もちろん賄賂で、たぶんもっと大きな利権をEU委員会の委員に約束するものだったはずだが、彼は商人で宗教家や聖人君子ではない。セペリを捕らえて吐かせれば済む話だが、今のところ彼女は指名手配されてない。10年前の話で今ごろになって逮捕状というのも政治の臭いがする。
※ トヨタは中東で圧倒的な信頼とシェアを誇るが、その秘密は現地人ディーラーを育成した独特の販売システムにある。ジャミール商事を中核とした販売網は他メーカーを寄せ付けず、ゴーン氏が会社の内部紛争(兄弟ケンカ)でトヨタの販売権を失ったスヘイル・バフワン社に目を付け、同社の経営再建を含むコミットメントを行った背景には同社をジャミール同様の現地の事情に通じた中東ディストリビューターに育てる狙いがあったと考えられる。
フランス政府とルノー・日産の関係は前者が後者を植民地ないし金づるという見方で一貫していたことは否定しようがなく、そもそも親子会社というのが合法的なそれだし、つい最近もルノーが日産との関係を整理したばかりだ。ゴーン氏の地位は日産に派遣された植民地総督というべきものだったが、おそらく長すぎるウクライナ支援でカネが足りなくなったのだろう。
※ 非難すべきことではない、責任ある立場の人間は感情論に流される前にまずコミットメントすることの利益を考えるべきである。
もっとも、このアピールはあまり成功しているとは言い難い。私はゴーン氏の行いは経営判断原則の範囲内で犯罪には該らないと考えているけれども、逮捕にまで至ったのは当時が安倍・菅政権だったからである。現在の岸田政権は前政権とは距離を置いており、アベノミクスの諸政策は現在実現している「アベ世界(円安)」も含め現在見直しの最中である。
※ 誰も言わないのだが、今のこの世界が安倍首相が理想としていた世界である。
ゴーン氏の逮捕でいちばん安堵したのは実は財務省と言われる。国交省の方がありそうだが、噂レベルの話として彼は逮捕されなければそのまま財務省に行き、世界的にも特異な日本の軽自動車規格の見直しを訴えるつもりだったとされる。安堵するくらいだから外堀はかなり埋まっていたのだろう。日産の現行デイズ、三菱ミラージュは設計のかなりの程度で「グローバル軽」の要件を満たすクルマであり、当時その種のクルマを計画中のものも含め最も擁していたのは日産自動車だった。トヨタは完全に出遅れていた。
※ トヨタは世襲の会長がいろいろおかしな経営を行い、会社の利益を損ねているが太鼓持ちばかりで問題にする人間は少ない。
もっとも楽器ケースに収まり、3年半前に日本を逃れたゴーン氏もその後コロナウイルスの流行があり、ウクライナで戦争が始まるとは全く予期していなかっただろう。そのせいで腹心ケリーの裁判は遅れに遅れ、現在のケリーは控訴して帰国中だが、アメリカ政府に彼を日本の裁判所に戻す考えはないようだ。
※ 裁判はともかく、司法制度の運用に問題が多かった。なお、コロナの流行はゴーン氏の公判前整理手続にも影響を及ぼした。
彼をプライベート機で脱出させた元特殊部隊員テイラーは息子共々刑務所に収監されたが、現在の彼は刑期を終えて出所し、ゴーン氏に追加報酬の支払いを請求している。トルコで逮捕されたプライベート機のパイロットとMMGジェットの関係者も菅首相が失脚した直後に釈放されている。最終的に彼の逮捕を了承した安倍元首相は昨年に凶弾に倒れてこの世にない。日産以外でゴーン氏のからくりを最も良く知る人物だった三菱の益子元会長もだいぶ前に死去している。
※ テイラーは罪状を見れば執行猶予を付けて良い案件であった。捜査にも協力的で、それを実刑に処したことには外国人に対するダブルスタンダードの批判がある。
彼が10年掛かりで足場を作り、会長も務めたルノー・ロシア(アフトバス)は見ての通りの状況で、ルノーは事業をロシア政府に売却して完全に撤退したが、皮肉なことにルノーの本国であるEUでのトレンドは彼が先鞭を付けた電気自動車だった。日産リーフは当時はトヨタのミライ同様、頭のおかしい人間の乗るクルマだったが、事件のあおりを受け、今のもあまり進歩してない。少なくともテスラと比べたら。そして日産はゴーン氏の亡霊が去った後、内田社長とアライアンス推進派の役員の間で、また内紛の気配がある。
※ ゴーン後の日産再建に尽力し、評判も良かったアシュタニ・グプタ氏の解任は内田社長の策謀とされる。内田氏より次期社長の声望も高かった関執行役員は日本電産に移籍しているがそこでも解任され、現在は鴻海に雇われている。
一連の状況にいちばん落胆を感じているのは当のゴーン氏かもしれない。プライベート機から引きずり降ろされた直後に検察官が彼に提示したのは軽微な有価証券虚偽記載の罪状だった。検察のストーリーでは彼が認めることで事件は懲役2年程度の執行猶予付きの軽微な案件で済むはずだったが、彼が抵抗したことでより重罪が積み上がることになった。会社法違反であれば役員の地位を失うことから彼が抵抗したのも無理ないが、その後の顛末を見るとむしろ処罰を受けた方が良かったのではと思えるところもある。おそらく彼もそう思っているだろう。
※ 彼の行動はイェーリング的には正しいが、後を知ったらおそらく違う判断をしただろう。現に米国では彼はケリー共々アッサリと罪を認め、10億円(ケリーは1億円)の課徴金を支払う司法取引に応じている。が、日本では15億円の保釈保証金をドブに捨てても、1億円以上の経費を特殊部隊員に支払い、裁判に出たくないと逃亡している。
※ 細君を裸にして携帯電話を取り上げるとか、娘マヤを尾行して嫌がらせをするとか、鍵屋を呼んで社宅に踏み込んだり、ブラジルのオフィスに検事と日産社員が乗り込んで家探しといった、日本司法によるデュー・プロセス違反の諸々の所行が違う価値観を持つ彼の怒りを買ったことは想像に難くない。そういう愚かなマネさえしなければ彼は今も日本にいただろう。
巨額の請求はその後の日産の経営判断に対して彼が現した怒りなのかもしれない。確かに彼は植民地総督だし、日本とフランスの利害が対立する時は躊躇いなく後者を取った。それは多くの傍証がある。が、裁判で彼が指弾されたリーマン危機の前後では外貨で報酬を受け取っていた彼はほとんど無報酬だったのであり、知己のジュファリに保証金を出してもらってようやく給与を換金できたような状況だった。経営者として日産を立て直したことも本当であり、総じて見るならば功績の方が多い。ゴーン氏なかりせば日産は存続しても「大きなダイハツ」くらいの会社だったはずであり、そういう彼の目から見れば、彼を追った経営陣のその後の判断はいちいち許せないものがあったに違いない。
※ ゴーン後に両者の経営陣が行ったことは先ずゴーン路線の否定からだったが、そのため中東の市場を失い、ロシアを失い、現地メーカーに押された中国は撤退を続け、アフリカは手つかずで電気自動車は周回遅れと良いことは全くない。彼が育成しようとしたバフワンも今やレッド・ノーティスの犯罪者である。なお、現在の日産リーフ、アリア、ルーテシアはゴーン時代に基礎設計のなされたクルマである。
ゴーン氏の事件については以前にいろいろ調べたが、今思えばウクライナ危機に繋がる内容が多くあったように思えてならない。オリガルヒとオフショア取引についてもこの件で予習済だったし、傍目から横領と見えるほど巨額の金を欲し、本人は高級レストランに通うくらいでそれほど奢侈な人物ではないにも関わらず、ベルサイユ宮殿で結婚式を挙げたり、巨大ヨットを買ったりといった行動はロシアの実情を知ると複眼的に理解できる。惜しむらくは当時の私も視点がそこで止まっており、彼の背後にあるものを見通せなかったことである。
2016年の賢島サミットはそれまではG8だった先進国からロシアが抜け、当時の安倍首相が7カ国の首脳を接待したものになったが、同年にプーチンも招待され、安倍氏の故郷山口で温泉も含む手厚い接待を受けた。賢島同様、湯本温泉にも堅固な道路が作られ、G7首脳に勝るとも決して劣らない待遇だったが、実を言うと彼がG8から遠ざけられる原因になったクリミア併合やチェチェン、シリアでの残虐行為については、我が国ではほとんど報道されなかったと言って良い。
※ そのためゴーン氏の行動原理も我が国では意味不明なものになっている。
このことを考慮していれば事件に対する理解も違ったものになっただろうと思う。安倍氏も菅氏もプーチン流の手法を使いこなす和製オリガルヒと言って良い政治家だった。ゴーン氏もオリガルヒであり、この事件は単純な背任などではなく、共にロシアの歓心を買うオリガルヒ同士の場外対決という見方もできたはずである。
※ ゴーン氏のロシアでの活動はプーチンからアフトバスの経営権を奪取することであり、その後のプーチンの逆襲で経営権をオリガルヒに引き渡したことがある。その後のゴーン氏はロシアとは距離を取っており、執拗とも言える捜査と明らかな政権の意向の背後にあるものは、当時の私も気になっていたことだった。が、事件はプーチンの裏切り者に対する私的制裁と考えると辻褄の合う話が多いようには感じる。
というわけで、ロシアとウクライナ戦争について、私がいちばん考えを聞きたい人物はカルロス・ゴーン氏である。事件がなければ彼はヨーロッパ経済界の総帥としてプーチンと対峙したはずだし、その時に複雑な内面を持つこの人物がどのような行動を取ったか、または取るべきと考えたか、それも興味深いが、まずは以前の話を少し聞きたい。
(追記)高額報酬について
上記の文章だと私が10億円とかウン億円といった超高額報酬をまるで肯定しているかのような書き方だが、別に私はこの制度を支持してはいない。過大だと考えていることは当然で、この種の報酬額には相場があり、その相場の話をしているにすぎない。ただ、内訳には差異があり、例えばGMは警護費用や社用ジェットの経費を報酬に含んでいるが、日産にはそういう細かい区分けがなく、知る手段もないことはある。VWについては調べていないので良く分からない。
平均的な労働者の生涯賃金を大きく超える年俸が生活費に使われるということはまずない。多くは親族の経営する事業に再投資され、利潤が利潤を呼ぶ仕組みになっている。ゴーン氏には妻と3人の子女がいるが、末娘のマヤを除いては全員事業家である。彼の姉もブラジル商工会議所の理事で、やはり大豆ビジネスの経営者である。
この仕組みは旧ソ連圏になるとより顕著になり、多くは公務員としての肩書きを有し、見た目の給与もそれなりだが、国営事業を通じ、親族の経営する事業に国家予算が流れる仕組みになっている。さらにオフショア企業に資産を移すことで税金さえ掛からない。
このことは本質的にアンフェアである。彼らの経営する事業に従事する従業員の多くは兼業が禁止され、全精力を業務に用いることが求められている。したがって彼らの財産は増やす手段がなく、加えて最近は低金利である。いつの時代に作られたのかは知らないが、これは階級上昇の階段を遮断し、少数の企業家と大多数の労働者という構図で社会に断絶を生むものである。
第二次大戦が終結した時に植民地は解体され、前大戦でも残っていた貴族社会は根本的な変革を余儀なくされた。大戦を戦ったのは彼ら貴族ではなく、貧窮階層出身の大勢の若い兵士であり、彼らがいなければナチスを倒すことも戦争を終わらせることもできなかったからだ。死線をくぐり抜けた彼らに従来の制度化された差別を押し付けることはできないものになっていた。資本家がもし彼らの権利を否定したなら、彼らは銃剣を以てその政府を倒しただろう。
ウクライナでの戦争では、戦いを通じてロシアの不正で不公平な社会のあり方が白日の下に晒されている。勝つにせよ負けるにせよ、ロシアが現在のままでいることはないだろうし、それはこの戦争を間近で見ている我々にも言えることである。