私のブログが通報されているというので該当の記事を見たが、なぜゼレンスキーの番組の感想が通報対象になるのか、私にも分からない。

 ビッグモーターについては報道により様々な不正が明らかになっているが、中でも驚きは査定で買い取った車に後日クレームを付け、多額の賠償や返金を求めるその手口である。曲がりなりにも法治国家でこのような行為の横行を許せば、対価交換を前提とする資本主義社会のありように深刻な傷跡を残すと考えられる。

 民法562条以下は契約不適合責任における完全履行請求権、代金減額請求権、損害賠償請求権および解除権について定めているが、隠れたる瑕疵においては権利を行使できるのは買主が瑕疵の存在につき善意かつ無過失の場合だけである(通説)。ケース・バイ・ケースで判断する必要があるが、指定工場や検査機器を備えた業者が引き渡し後数か月経過して賠償請求するなど常軌を逸している。挙げられた事例からはビッグモーターは「過失あり(買主の責めに帰すべき事由)」といえ、そもそも解除などできる立場にない。

 が、報道にあるような脅迫的売買の事例は、口伝えで末端ユーザーにも「クルマの常識」として浸透しているように見える。

 

 諸外国と比べ日本の自動車事情で奇妙な点はどこを見回しても黒と白のクルマしかなく、多くは箱型で、良くコーティングされて使用感があまりないことである。ガラスには保護フィルム、ハンドルにはハンドルカバーが掛けられているが、これは売却の際にイチャモンを付けられることを恐れているかのようにも見える。駐車の際のサンシェードも常識だ。

 こういった方々は運転はあまり上手くなく、高速道路で延々と追越車線を走り続けるなどは典型である。加減速のタイミングもおかしく、少し上り坂があるとすぐ減速する。逆にやたらと速度を上げることもあり、こういったドライバーには道路標識の速度表示など無きがごときである。どちらも一定の速度で左右にふらつかずに走るという当たり前のことができない。

 

 見かける例があまりに多いので「トヨタ製のクルマはまっすぐ走らない」と偏見さえ感じてしまうほどである。雨天時でも晴天時と同じ速度、車間距離で走行するドライバーもいるが偏差値低いんだろうと思わせる。


 私も聞いたことがあるが、業者によっては運転やクルマの購入についてもあれこれ口を出す例がある。

1.エンジンブレーキはエンジンが故障するからしない方が良い。
2.急ハンドルは車体が歪んで査定が安くなる。
3.コーティングをしないとクルマが錆びる。
4.エンジンはなるべく廻さない。
5.赤色や青色はすぐ色落ちする。


 他にもあるだろうが、これはどこかの社会主義国の工業製品だろうか?

 色に個性がないことも買取対策だろうか、日本以外の国、例えばヨーロッパやアメリカではクルマは道具でガンガン使い倒すもので、多少色がくすんでいたりキズがあっても平気だが、ユーザーは好きな色やオプションを選択して個性を楽しんでいる。車種も走行性の良いセダンやハッチバックなどで、平均速度もずっと高い。

 箱型のクルマが多いことについては、物理法則から重心は上がり抵抗が大きくなって燃費が悪化し、加えてサスペンションストロークの小さいクルマは乗り心地も悪いが、中だけはやたらと広く、10歳の子供が立って着替えができる高さが標準のようである。そのせいで車重も重いのだが、今の子供はドライブを楽しむよりも後席でスマホやDVDに嵩じることの方が好きなようである。

 が、台風などでこの種軽自動車が軒並み横倒しになっているのを見ると、「これは欠陥車だろう」と思えるし、JNCAPでのその手のクルマの側突映像を見てもほぼ100%横倒しで、いくら技術が進歩しても物理法則には逆らえないことが伺える。操安性も良くないし、安い車だとピッチングやローリングで頭が小刻みに揺れて気持ち悪いのだが、まともでないのが標準なので我が国ではこれが自動車なのだろう。操縦性が悪いから運転はますます萎縮的、腫れ物に触るかのようになっていく。

 これらは必ずしもビッグモーターや販売業者の責任ではないが、少し状況を俯瞰すると日本の自動車ユーザーとは、これら業者にとっては都合の良いセールスバンク(クルマ保管人)でしかなく、業者は買う側よりも売る側に都合の良いクルマを押しつけ、過走行の車は海外に売りつけ、展示品のようにユーザーが自費で手入れした低走行の車を右から左に廻すだけの「ビジネス」にしか見えないことがある。

 これはユーザーに対する侮辱であるのみならず、生命や財産をも脅かすものである。スキルの低い運転者は事故で犠牲になる確率が高いし、売却した車の担保責任まで追及されては財産も危うくなる。欺瞞や搾取から逃れる唯一の方法はクルマを降りることである。

 昭和時代の著名な自動車評論家、徳大寺有恒氏は「クルマで利殖を考えるのは間違い」と喝破していた。当時はバブルで資産家が投機目的でフェラーリやポルシェを購入し、値上がりするまで保管しておくことが流行っていた。バブル崩壊でそれらの多くは二束三文で売却されたが、フェラーリを始め数十台のクルマを乗り継いだ氏にはクルマで儲けるという発想自体がなかった。

 「機械は使えば減るもの、乗らなくてどうする」が氏の持論であったが、ピカピカの黒いC-HRなどに乗る若い人などを見ると、クルマが哀れに見えてくるのと同時にこの国の自動車文化の底の浅さ、貧寒さに後ろ寒い思いがする。


(補記)
 私自身はどうかというと、最初のクルマはドイツ車で、その後20年近くドイツ車を乗り継いでいたことから、ドイツの自動車工業にはそれなりの尊敬を払っていたし、事実、かつてのドイツ車の操安性の性能は高かった。初心者向けには素直な操縦性の絶対に破綻しないクルマが望ましいが、エーラ・レシエンやニュルブルクリンクで鍛えたクルマは私の操縦技術を軽く上回り、絶対の安心感を与えてくれるものでもあった。

 「自動車が10キロメートルを走行することで、その自動車の全性能が試されない場面は絶対にない」とは、VWのピエヒ博士の金言であるが、彼の作った車は雨の日でも風の日でもその言葉通りの能力を示した。ありきたりな走行でも完全にテストして絶対に安全な工業製品を提供する義務がメーカーにあることを示した言葉は真実だが、同様の言葉は水野和敏など日本の一流エンジニアにも聞かれるものである。

 現在はどうかというと、上のようなドイツ車信仰はとうに消え、国産車で十分と考えている。ごく少数だが国産でもきちんと作られたクルマはあり、技術も格段に進歩していることから一部のクルマはドイツ車に引けを取らない。あるいは上回るクルマさえある。信頼性はどちらもほぼ同じで、維持費やリコール対策は国産の方がずっと使い勝手が良い。見栄以外で外車に乗る理由はなくなっている。

 ドイツ車が劣化したことには、ドイツの教育が2000年以降の改革で変化したことも大きい。アメリカ流の即戦力主義が大学にも導入され、エンジニアの知的教養や水準がそれ以前よりも低下したこともある。改革後のエンジニアが開発の主力になっており、新技術の導入には熱心だが、地道で費用の掛かる開発は軽視されている。現在主力のフルパネルの電制ハイブリッドやEVなど10年後には廃車の山を築くのではないか。

※ あと、リーマン危機がある。買い替えを促すため低年式車に課税するという政策はドイツが始めたことで、これは高品質、高耐久性という従来のドイツ車品質に背理していたことがある。この政策は車齢13年以上のクルマについては我が国でも導入されているがハイブリッド車は除外されている。

 「クルマは下駄」というのが今の私の考え方であるが、最近の様子を見るとその下駄にすら適さないようなクルマが溢れていることには危機感を感じる。最大の問題である地球環境問題に立ち向かっているとも言い難く、一部で実験室レベルの成果はあるが、全体がこれ(ミニバン、箱軽、SUV)ではどうしようもない。評価できるクルマがないことから、最近はクルマに対する興味を半ば失いつつあるというのが本当のところである。だいたい下手くそが引き起こした渋滞でノロノロ運転を強いられるなら何に乗っていても同じである。

 

 クルマやクルマ業界について書くことは苦手である。面白い文章になるはずがなく、また、少数の例外を除き、面白い文章に出会った試しがないこともある。