先日の覚え書きでは「どうする家康」と高松城水攻めについて書いたが、実は見ていた番組は源平合戦で戦国末期について書いた前回とは異なる内容だった。前回の内容は壇ノ浦の戦いを眺めつつ、つらつらと思い浮かんだことである。
NHKの歴史探偵は以前の歴史秘話ヒストリアの後番組だが、番組の作り方などは似ているものの、ヒストリアより冗長な場面が多く中身が薄いように感じる。エピソード44は「壇ノ浦の戦い」で、例によって日大理工学部のAIシミュレーションで「分析」を試みていたが、パラメータの設定の仕方に疑問を感じた。
※ ゲストが登場するとマーチが鳴って(三回は演奏される)時間稼ぎするなど、ネタもブラタモリやNHKスペシャルの使い回しが多い。ヒストリアと比べるとかなり低予算に感じる。
シミュレーションでは両軍の船隊は戦闘隊形まで組んで突入し、源氏方が突撃隊形で突破を試みていたが、①こと小早船時代の戦いでこういう戦い方がそもそも可能なのかということ。
まるで銀河英雄伝説みたいな両軍の戦闘陣形
もう一つは②平家軍に押された義経が漕ぎ手を射るよう命じたことで平家船が戦闘不能になったというものだが、無線機も拡声器もない洋上で、どうやって大将の命令を他の兵船に伝えたのか。
最後は漕手を射られた平家軍は潮流で田野浦の岸辺に流され、そこで範頼軍にとどめを刺されるというものだが、番組ではこれが義経の計算という話だが、緒戦は平家が潮流に乗って戦いを有利に運ぶなど、③潮流の流れが両軍の戦いに組み込まれている。これは当時の軍事常識なのかということ。
番組の新発見、関門海峡のコリオリ還流が平家軍を田野浦に引き寄せた
番組は私も訪れたしまなみ海道の村上水軍を取材して、彼らが潮の流れを熟知していたことを伝えたが、単に潮の流れを知るだけでは複数の船から成る船団がまとまった編隊行動を取ることはできない。操船の経験は船頭ごとにまちまちで、複雑な隊形を指示しうる通信手段も装置もないことがある。
①艦隊運動というものが創始されたのは帆船時代からで、風向計(ウェザーゲージ)が船に取り付けられてからのことである。帆船は風向きに依存し、風上(ウィンドワード)では船を自在に動かすことができ、高速での突進が可能であるが、風下(リーワード)ではほとんど動けず、防御するか退却するしかできない。
番組にも登場した能島水軍博物館の潮流体験
風向きはどの船に対しても一定であることから、司令官は風向計を見て各艦に戦術を指令する。いちばん大きな旗を掲げている船が旗艦で、命令はこれも高いマストに掲げた信号旗や手旗信号で伝達する。艦長は風向計が風上を指すのを見て、すわ突撃(ジェネラル・チェイス)かと旗艦からの命令を待つのである。
それっぽい場面のある動画
※ 風向きに対するスタンスは国ごとに異なる。イギリス海軍は常に風上に立つことを戦闘教義としていたが、フランス海軍は風下にある場合の防御戦術と避退能力を重視していた。また、艦隊戦術はイギリスとフランスでは発達したが、スペインやオランダは一騎当千の武将同士の戦いで個人的勇気を重視していた。こちらの方が歴史的にはより長く一般的である。
こんな運動は人力で移動する小早船や安宅船にはできない。艦隊運動以前に漕ぎ手が疲れ果ててしまい、隊形を形成する前に行動不能になってしまう。風向きに相当するものは壇ノ浦では潮の流れであるが、これは単に潮流に乗るだけで、③源平時代には潮流を利用した戦闘法はなかったと考えて差し支えない。
復元された小早船、白服が武者と見れば当時の現実に近い
平家物語や吾妻鏡では緒戦で平家が潮流に乗り、三隊に分かれて源氏と戦闘したことは書かれているが、この場合は流れに乗った平家がほとんど動けない源氏軍に対して有利に戦ったことはある、が、弓矢以外に飛び道具(大砲や魚雷)のなかった当時では決着は船に乗り込んでの白兵戦で、それで水夫や船頭が殺されて操船不能になったことが書かれている。番組でも紹介された和田義盛の遠矢も書かれているが、流されてきた船を射ったとは書かれていない。ただ射返されているので矢の届く範囲に両軍がいたことは確かだろう。
これらの船の操船要員は案外多く、小早船では乗員の三分の二が船頭や太鼓持ち、漕ぎ手などである。兵を射るより漕ぎ手を射る方がはるかに容易で命中率も高い。運動方程式から漕ぎ手の三分の一も射られれば他船に同行することはできなくなり、半数ではほとんど動けなくなる。
テレビでは漕ぎ手は一人だけだがこれは合成
義経は吾妻鏡では若年時代は京付近に出没して山賊まがいのことをしていたという記述もあるので(この場合、義経は平泉には行っておらず藤原秀衡の庇護もなかったことになる。後の平泉入りは源氏内部の内紛を奇貨とした秀衡の政略という見方もできる)、非戦闘員を射殺するような戦い方は彼と彼の郎党には抵抗がなかったのかもしれない。が、物語では水夫の死亡は船に乗り込んだ武士に斬り殺されたことになっている。②義経がやっていたというだけで、他の源氏の武者は倣わなかったかもしれない。死因が弓矢でも刀剣でも凶器に違いはないが、八〇〇年前のお話である。
義経物では外されたことのない非戦闘員殺害は義経記(200年後)の記述
※ 矢にいちいち名前を書き入れたり、返し矢を申し出たりしていることから見て、弓矢による殺害の方が斬殺より高級な殺し方と評価されていたであろうことは分かる。名前入り弓矢で平民を殺戮することは後に下手人が分かることから恥じる意識があったのかもしれない。
思うにこれは義経の策略などではなく、戦いを続けているうちに平家も源氏も関門海峡のコリオリ乱流に流されて、範頼軍の待ち受ける岸辺近くまで来てしまったというのが本当ではないだろうか。漕ぎ手が無事でいようがいまいが潮流に乗り、戦場は移動していたのである。そもそも義経が漕ぎ手を射るよう命じた所で、それを伝える手段がない。平家物語も吾妻鑑もそんなことは書いていない。番組の引用も都合の良い部分だけを抜き出した印象で文脈に沿っていない。
文脈無視のご都合主義引用
総じて見ると「歴史探偵」のAIシミュレーションは、①取れるはずもない戦闘陣形、②伝わるはずもない総司令官の命令、③当時の戦術常識と乖離、と、かなりものすごい代物であることが分かる。AIが計算したからといって信用するのはいくらNHKでもあざとすぎる話だろう。
何が悪いのかといえば、シミュレーションの基にした資料採否がご都合主義で定見がないことが挙げられる。入力するデータを間違えていれば、いくらAIでもちゃんとしたシミュレーションはできない。
壇ノ浦の戦いは平家が五〇〇、源氏が八〇〇の兵船で戦っており、兵力差は当初から明らかだった。戦術の発達した帆船時代では劣勢の艦隊が戦術を駆使して優勢な敵を打ち破った事例があるが、それでもたいがいは数が多い方が勝つのである。勝敗は初より明らかだったが、緒戦で潮流を利用したことと艦隊運動に無知な源氏方の狼狽も相まって結果的には全滅したものの、平家方の各武将の奮戦もあって善戦はした。そう総括されるべきものではなかっただろうか。